月に降る雨と懺悔





「月は江を照らし、松風が吹いている」
 朗とした声が、耳に届いた。
 雨脚が強くなったわけではないのに、最前までよりも、雨の音が鼓膜をきつく叩く。その中を、通りの良い声が言った。
 はじめからずっとそうだったが、彼の声音が決して責めるようではないことに、慎司は改めて気づく。何もかもの所業を分かっていながら、彼は変わらなかった。
「この永夜の清らかな宵の景色は何のためにあるのか」
 以前残した言葉を、また奏は口にした。
「どういう意味か知ってるかい」
 問われた言葉に、慎司は力無く笑んだ。嘲弄ではなくて。
 ――月の光と、かわと、風。雨はなく。
 ゆっくりと息を吸う。
「知っています」
 穏やかに言葉を返す。厳かに。意味も無く、雨にまぎれて涙が流れていく。嘔吐して苦しいからだ。それだけだ。
「ただそれは、あるがままにそこにあるということ」
 月も江も風も、それらの作り出す佳景も、なにもかもが、ただそこにあるもの。何者でも何物でも。誰のためでもなく、誰ものためでもあり。
 何者であっても。
 ただ、あるだけのもの。
 何かの意義なんて、何かを成そうなんて、おこがましいことだ。
 月は姿を変え、川は流れ、すべては同じままにとどまらない。それを引きとめようとするのは、あまりにも、愚かしいことだ。
 静かにそこにある世界。鎮まり、移り変わり行く世界。新しく生まれ、死んでいく。繰り返し、繰り返し。
 再び奏が問うた。
「綾都は」
 つかの間、舞い風が辺りを揺らす。翔り去るものが、空気を、髪を、衣服を乱す。重く濡れた草木をざわめかせて、逃げていく。
 相手を視界におさめ、慎司は身を伸ばして向き直る。手をあげて、掌を己の胸に向ける。
 抑える。
「ここにいます」
 ――まだ、しつこく、動き続ける心の臓。
「ぼくが、食べました」
 雪は絶えても、まだ夜は冷えた。花冷えの季節に、屍体の衰えは遅かった。それでも、血の巡らない体は朽ちていく。あるべき姿を失っていく。
 耐えられなかった。
 呼吸を止めた肉体は、灯火を消したように精彩を失う。心の臓が止まった生き物が、ただの物に成る。腐臭をさせながら朽ちていく。
 認められなかった。
 だって、生きていたのに。笑っていたのに。怒っていたのに。意志があって感情があって、そこにいたのに。壊れていく。
 許せなかった。
 眠っているだけなのに。それだけなのに。そのはずなのに。
 血の巡らない、色を無くした唇に歯を立てれば、硬直から解けた柔らかい肉は思うよりも簡単に裂けた。食い千切る意志を持ったなら人の歯は十分な凶器だ。あまりにも容易く、それが余計に悲しく、そういったひとつひとつが、精神こころを弛緩させた。澱んだ血の一滴も、骨すら砕いてすべて。
 奏は、表情を変えずただ聴いていた。責めず、詰らず、罵らず、逃げもせず。慰めもせず。わずかに哀しみのこもった声を出す。
「肉を手に入れたところで、同じものにはなれないのに」
 いくら肉の塊を飲み込んでも、ひとつであることはできないのに。
 それを租借して、飲み込んだところで、事実は消えないのに。糧になって体の一部になって、臓腑が吸い上げても、彼は戻ってこないのに。
「知っています」
 失われたものを取り返すことはできないのに。
 あの声も言葉も微笑みも、気遣ってくれた思いすら、遠くなるだけなのに。汚濁させてしまうだけなのに。
 肉の内に、思いは、どこにもないのに。
 痛感した。何もかもが抜け落ちていくのを感じていた。壊れていくのを感じていた。
 だからこそ、無関係の人間を襲い続けた。
 死を、否定して。眠りの領域を侵して。取り込もうとして。分かっていたから、自棄になった。何もかもを恨み、何もかも巻き込んでしまいたかった。
 闇を拡大させるように。
 ――床が延べられたままの部屋。彼がいたときを保とうとして。意味も無いのに。
 綾都、ぼくが持っているものならば、何であっても君にあげたのに。
 どうしてこのあかりだけは、誰の自由にもならないのだろう。
「わかって、いました」
 多分、本当は正気だった。
 ずっと正気だった。ただ、悲しかっただけで、自分が何をしているのか、知っていた。
 よく、分かっていた。
 ただひたすら悲しかった。



「あなたたちは何者なのですか」
 出会った頃と変わらず、知性の潜む目は、奏を見ている。
 今までとは逆に問いを向けられて、奏はくすりと笑いを落とす。
「何も持たない、ただの旅人だけど」
「町の人間が駆けつけてくるだろうと言った。ぼくはこの家と道と町を知っているから、誰よりも早くこの家に戻れた。でも、どうして、余所者であるあなたが、誰よりも早くここに来ることができたのです」
「少しばかり、普通より足が速いのは、確かだな」
「呼吸も乱さずに、ですか」
 姿を見せたとき、彼は少しも焦った風でもなく、苦しそうな息をする様子でもなく、空気を乱さず雨の中にまぎれていた。駆けて来たのではなく、空間を割って現れたかのように。
 まるで、はじめからそこにいたかのように。
 首に巻かれた包帯も、雨に打たれて塗れている。なのに血が滲む様子もなく、彼は少しの痛みも見せない。
「気のせいじゃないかな。あんたは、動転していたようだし」
「ぼくは、あなたを殺しました」
 はぐらかすのを許さず、慎司は続ける。
「ぼくは確かに、あなたの首を狙って、祖父の脇差を刺したんです。暗かったけれど、手ごたえはあった。家に戻ったとき、確かにぼくの手は、血で真っ赤だった。あなたに血まみれで捕まれた手の跡が残っていた」
「血の量の割りに、たいした傷じゃないと言われたけど」
「そんなはずありません。ぼくはこれでも、武術を叩き込まれています。だいたいの予想はつきます」
「ただの予想だろう」
「もし、急所を外したのだとしても、数日のうちに、そんなに動き回れるはずがありません」
 相手は、そうかい、とつぶやいて、何も答えなかった。それ以上は、余計な言葉を挟まなかった。 
「あなたたちは何者なのですか」
 言葉は、ゆるやかに空気を渡る。
 月は、空高く遠い。薄く覆う雲に隠れて、仄かな明かりを地面に投げている。触れるように降る雨が、その姿をさらに滲ませる。さわさわと耳をなでるような音で、静かに、静かに濡らしていく。
 問いかけに、束の間表情を消し去ったそのひとは、そうしていると端整な顔立ちを思い出させる。いつもは、懐こい表情に、言葉に誤魔化されている。ただびととは思えないような、冴えた容貌だった。
「さあ、何かな」
 そして彼は笑う。前髪から雫を落としながら、人の姿をした何者かは、いつも通りに、人のような笑みを見せた。
「それはあんたが決めればいい」
 穏やかに、ゆるやかに。
「俺たちは、財産も住むところも、自分自身とお互い以外には何も持たないただの旅人だ。あんたにとって何者かは、あんたが決めれば良い」
 謎かけのように。はぐらかすように。
 楽しそうに一つ息をついて、彼は続ける。
「弾劾するかい」
「いいえ」
 睫毛の上に雨が降る。重く瞬いて、慎司はにじむような笑みと共に言った。
「ぼくも、もう人ではありませんから」
 人のようではない存在に、人から外れたことを指摘される不可思議さが、おかしくも楽しく滑稽だ。けれど、不快ではない。ただ無責任な正論を、正義を突きつけられ、偽善に溺れられるよりは、余程心地が良かった。
 密かに揺らぐ月の光と共に、雨露が落ちている。雫が地面を、屋根を叩き、風が草木を揺らす音にまぎれて、人の声が聞こえてきた。少ない数ではない。そして、囁くような声でもない。
 夜、人は出歩かない。瓦斯灯が、皓皓と夜を照らし出すようになっても、まだ深い闇は残っている。押しのけられ、さらに濃く、強く蟠っている。この山の中のように。
 この、人の心のように。そうして人々は、怒りの声を発しながら登ってくる。道すがら数を増やして、追いついてきた。
「行ってください」
 慎司は、急に少しだけ眉を強くして、奏に言った。
「あんたは」
「ぼくのことは、どうとでもなります」
「俺たちのことだって、どうとでもなる」
「でも、あなたたちがここにいるのを見られるのは、良いことではないはずです。ぼくのことは気にしないでください」
 権力と金がある。
 だが人の怒りと恐怖は、それを上回ったとき、どうなるか分からない。
「あんたひとりなら、連れて逃げることくらい簡単だ」
「ぼくを助けるのですか。ぼくは人を食らったのに、命も何もかも奪い尽くしたのに、ぼくのような者を助けるというのですか」
「それが綾都の願いだろう」
 ――――たったひとりになっても、生きて。
「いいえ」
 けれども慎司は、確とした態度で首を横に振った。清々とした笑みを浮かべて、言った。
「ぼくも、あなたたちのように生きたかった」
 財産も家も、名もいらない。ただ、綾都と生きていければそれで良かった。たとえ己が何者であろうとも。
 何もいらない。何も何も、何も。
 願った。綾都もきっと、同じように願っていた。
 だからきっと彼は、自分がいなくなった後、慎司が生きていけるようにと願ってくれたはずだ。だけどそれが願いでしかないことも、分かっていたはずだ。逆に彼自身だったら、どうするかも。だから、強要しようとはしなかった。何も約束をしなかった。
「行ってください。人の記憶に残るのは、あまり良いことではないのでしょう」
 慎司の言葉に、奏は、聞こえていたのかと、少し困ったように笑った。
 外から、門を打ち叩く音が響いている。


 奏が踵を返し、薄雨の向こうに消えていくのを見送って、慎司は外の松明や人の怒号を気にもかけず、ひたひたと音を鳴らして歩き出した。
 霧のようだとは言え、ずっと雨の中に立っていたせいで、着ている物や髪が濡れて重い。庭から上がり、広々とした廊下を歩くところに、水の跡が残っている。
 外はけたたましいのに、門と塀を隔てた屋敷の内は、せきとして重い。光の届かないところばかりだ。闇が息を潜めている。
 慎司は倉へ行き、西洋灯ランプのための石油を入れた一斗缶を引きずり出した。油を滴らせながら、また屋敷の中を歩いていく。独りでいるには、あまりにも広い。そして目に付く部屋に向かって、順番に、念入りにぶちまける。
 綾都が寝ていた部屋にも。祖父の部屋、祖母の部屋、両親や綾都の両親が住まった部屋。食事をした部屋、遊んだ庭、美しい草木が咲き誇った庭にも。むせ返るような油の臭いが、しめやかな空気の中に満ちていく。花の香は雨に閉じ込められ、重みを持った油の臭いに蓋をされる。
 そして慎司は、自分の部屋に戻ってきた。部屋に満ちた油彩の臭いと石油の臭いが混じって、部屋の中で重く淀んでいる。燐寸マッチを擦り、西洋灯に火をつけた。暗い室内を、日中のような明かりが照らす。色とりどりの絵画を。祖父母が亡くなってから、この部屋でひたすら絵を描いた。描きあげたたくさんの絵と、画材と、絵画の勉強のためにかき集めた本が積み上げてある。貴重で、大事な書物だった。祖父母が生きていた間は、こういったものに気づかれ、取り上げられるのをひどく恐れたものだ。今はそれすら遠い。
 慎司はまるで何かの儀式のようにランプを持ち上げ、たくさんの絵の上に落とした。硝子ガラスの割れる鋭い音が響き、炎が噴き出した。火の舌は、絵を舐めあげていく。
「鬼の所業を繰り返して、綾都のところに行けるわけもないのにね。清らかな者の元に行ける道理もあるわけないのに。死んでからでさえ、引き離される羽目になるのに」
 だけど悔やんでいない。死した人に、謝罪の気持ちも、哀れだという思いもない。
 このまま朽ちれば、自分はどうなるのだろう。どこに行くのだろう。鬼は死んだらどうなるのだろう。
 塵になって、消えるのだろうか。どこへ行くことも出来ずに。
 目を延べて庭を見る。雨に霞む花が見える。
 季節が戻ったような錯覚に陥らせる、雪柳。枝の上に、空の欠片が降り積もったかのようだ。重たげに枝を揺らしている。溶ける事なく。消えることなく。
 彼が笑んでそこに佇んでいた頃を、錯覚させる。
「綾都。ぼくに嫌われようとして懸命だったけど」
 雨がなでるように降っている。だけど大した妨げにはならないだろう。
「嫌いになるわけ、ないんだよ」
 炎は、油にまみれた床を本を舐め広がっていく。
「ごめんね」
 ぼくのために一生懸命になってくれたのに。


江月照松風吹こうげつてらししょうふうふく 永夜清宵何所為えいやせいしょうなんのしょいぞ
 月の光はあえかなり、雨のとばりは、幽冥への扉。
 そこにただある風景。
 美しい風景。
 ぼくの目に映る世界を彩るものすべて。
 何のためかなんて。


 それはただ、君のためだけだったのに。




上田秋成「雨月物語」青頭巾

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