序章



 そもそもの始まりがいつだったのかと問えば、いつの時代にも、いつの日にも、誰であれ、きっと同じ日を答えるだろう。わたし自身も、そうだ。
 数百年前の、宮中での乱。
 宴が設けられているその日、東の有力武将、飛田家が突然公衆の面前で帝を討った。同時に皇居を占拠し、皇族を次々に討ち果たして行った。飛田家の暴挙はそれにとどまらず、国々に散っていた皇族を傍系の者にいたるまで皆殺しにしようとした。
 しかしながらそれも時代の流れであったのか、それだけの暴挙を行ったにもかかわらず、彼らを止めることの出来るものは、すでにそのときいなかった。皇家の力が衰え貴族や武家が力を持ち始めていた為に、そして自身も皇家の血を引き、有力な貴族であり私軍を持つことの出来る者など、そして、冷酷無比で恐れられる飛田家にあえて反論を唱えようとする者などいなかったのだ。
 同時に、多くの家々が、これ幸いとばかりに各自の利益の為にのみ、行動した。飛田を止めることはなかったが、己の利を求めることだけはした。だから、飛田の天下にはならなかったが、戦の世が到来した。
 そんな中に興された神宮家の初代は、帝の庶子だった。皇族の皆殺しを謀る飛田に小さな武家であった母の家を潰され、そのために起った。後に数々の助けを得、他家と肩を並べるだけに至るが、尚も執拗に飛田家に狙われ続けていたため、すでに両家の間の険悪さは伝統になりつつある。だが、誰もが飛田家の名を畏怖を込めて呼ぶならば、神宮家は、特に民が親しみを込めて名を呼ぶ家だった。
 乱が起きた日から、戦乱の世が耐えた事はない。一時期、あまり長いとは言えない時間だけ、飛田でも神宮でもない家が世を掌握したが、長くは続かなかった。
 いまこの時も、ここではない場所で、戦が起きている事だろう。



 だけども、わたしたち自身の道が別たれたのは一体いつからだったかと考えると、それはすんなりと答えとして出てはこない。
 わたしたちが生まれた日だったのか。それとも、父が、各々の母が、恋に落ちた日だったのか。
 それとも、小さな日々の間であったのか。わたしたちの行動が、小さな言葉が、何かを巻き起こしていったのだろうか。――きっと、何であれ、その積み重ねなのだろうが。
 後から悔やむ時に、明確な原因が、それが起きた日が、分からないのは悔しい。あまりにも、思いあたるものが多すぎて、何を責めれば良いのか分からなくなる。責めずにはいられないから、原因を探すが、あまりにも虚しくて、いつも行き止まる。
 ただ、はっきりとした形で表れ始めたのは、その戦が終わった日だった。



 それは冬だった。
 弾む息が白い。熱が白い色となって一層寒さを強調している様は、唇の端から体温が漏れていくようだった。
 視界ですら、数々の色彩が白い色に埋もれている。その中で、神宮家の赤い揃えの鎧は、遠くから見ると血の染みを落としたように見えるかもしれない。
 国の西南部に位置する神宮家は、比較的温暖で、人が行き来するのを妨げるほどの雪は積もらないが、山間部ともなれば話は別だった。他国との国境になる山を越え、更に強行軍で軍を進める。北東へと進む彼らの行く手には、どんどん深くなる雪が、大きな敵となって立ちふさがっていた。
 それでも前へ進む足を緩めるわけに行かないのは、戦場となっている場所がさらにこの国を越えた場所であり、すでに、もう彼らの行軍は無駄になるのではないかと思われるほど、援軍は遅れをとってしまったからだった。
 神宮家と国境を隣する石川家の領地、そのさらに向こう側に神宮家と同盟を結ぶ本條の家がある。その向こうには、飛田家が。その飛田の急襲を受け、用意の整わない本條家は窮地にあり、神宮へ援軍を要請してきた。間に挟んだ石川家は飛田にも神宮にも組しようとはしなかったが、どちらかというと飛田家寄りの国で、何度同盟を申し出ても聞き入れられることはなかった。問答無用で、無理矢理行軍することも出来ないことではなかったが、行く先々で戦闘をしたいわけではない。なるべく穏便にすませたかった神宮家は、まずはその国を通る許可を貰うための交渉で立ち往生し、話が済むのに思った以上の時間を要した。それこそ、飛田の息のかかった作戦なのではと思わせるほどに。
 ようやく目的の本條家の領内へと続く山間部の道へと足を踏み入れた神宮の軍は、近づく戦場への緊張と、同時に間に合うかもしれないことへの安堵に包まれながら、降り続く雪の中、更に道を行く歩みを速めている。
 白い息を噛み締めるようにして、寒さと疲れを堪えていた流紅りくは、常に、自分と並んで馬を進める人の方を気にしていた。
「なんとか間に合いそうですね。兄上」
 甲冑の音と、人と馬が雪を踏みしめる音だけが聞こえる中、流紅の声は疲労を感じさせない明るさで相手の耳に届く。綺麗な姿勢で馬上にいた紅巴くれはは異母弟の方へ顔を向けると、彼も疲れを隠した顔で、微笑んだ。
「そうだね」
 微笑む唇からも、白い息が漏れている。その唇が、色を無くして青い。さらに、もともと色の白い肌の色が、あまりよくないことに流紅は気づいていた。
「少し休みますか?」
 何度も言いたくて言いたくて、ずっと我慢していた言葉を、流紅はとうとう口にした。
 休む間が無いことなど、重々承知だ。兄が決して望まないし、言うことを聞かないだろうことも分かっていたが、あえて言わないわけにはいかなかった。
「大丈夫だよ」
 案の定、返ってきた言葉は、予想通りのものだった。
 しかしながら、手綱を握る手が震えている。表情は変わらず穏やかで、そのくせ逆らえない強さがあったが、流紅にはもう限界だった。そんな兄を見ているのが。
「しかし戦場間近だというのに、長の行軍で皆疲れているし、どうせこのまま行ったって存分に戦えない。ここで休んだ方がいいと思います」
 うん、と紅巴が相槌を打つ。それから、「でも」と続けて流紅を見て、言葉が止まった。しっかりと相手を見ていた茶色の瞳が閉じられて、いつもは決して顰められることの無い眉が寄せられる。
 まさか、と思って流紅は慌てて手を出したが、間に合わなかった。紅巴の体は彼の手を掠めて、反対側へと傾いていた。一瞬、流紅の耳から音が消えて、思考が静止した。
「兄上……!」
 自分が声を上げたのにも気がつかず、次に聞こえたのは、雪が物を受け止めた音だった。衝撃の音は雪が吸収して、こもったものになった。降り積もったばかりの白い粉が宙に舞う。
 流紅の声に、皆が彼らを見た。紅巴の乗っていた馬が足を止め、流紅が馬を飛び降りたため、彼らを行軍の中ほどにして歩を進めていた神宮の軍は、唐突に歩みを止める。援軍の御大将が落馬、副将が尋常でない声を上げて馬を下りれば、当然誰もが足を止めた。周りにいた家臣たちが駆け寄ってくる。
 雪にまみれて身を起こした紅巴を、流紅が慌てて助け起こした。鎧の肩が、息をするために大きく上下している。座るのを支えるためにそばにいると、紅巴が咳き込みながら呼吸をするたびにゼエゼエと音がするのが分かる。
 だから、雪道での行軍に兄を連れてくるのは、不安だったのだ。
「兄上、やはり休もう」
 駆け寄った兵が差し出す水を受け取り、それを紅巴が飲むのを助けながら言う流紅の口調は、むしろ哀願するようだった。けれどもそんな弟に、紅巴は変わらない静かな目を向けた。
 水の入った竹の筒を口元からはずし、何度か息をついてから、紅巴は穏やかな声で言った。
「先に行くんだ」
「行かない」
 考えるまでもなく即断で却下した弟に、紅巴は小さく笑う。
「ぼくがこの調子では、無理をして戦場についても、役にはたてないだろうし。そもそもぼくは戦では役立たずだ」
「しかし兄上、次期当主が先頭に立たなくては。ここまで無理をして来た意味がない。それに神宮領内でもない場所に、兄上を残していくことなどできるわけない」
 本当は、ただの援軍として行く戦に、ふたりとも連れだって来る必要は無かった。実際流紅は自分だけで戦に来るつもりだった。兄は体が弱く、戦向きではない。それは二人ともよくわかっていることだった。
 だが流紅が陣頭に立てば、神宮の将に余計な誤解を与えることになる。――紅巴はそれで構わないと言うだろうが、流紅には容認できない問題だ。
「少しの兵を残してくれれば、それでいいよ。それに軍を分ければ、もしかしたら飛田の不意をつけるかもしれないだろう?」
 紅巴は、「作戦」という形をとって、弟を言い聞かせようとした。流紅が紅巴のことを「次期当主」と言うならば、次期当主としての言葉を口にするしかない、とでも言うように。
 そんな相手を、流紅は歯を噛み締めて悔しげに見つめ返した。強情なのはお互い様だといつも思っているが、それでもこの人の強情さには敵わない。いつもいつも、にこにこと穏やかなくせに、強い。そのくせ、人前ではいつも流紅の後ろに下がろうとする。兄のくせに、自分が側室の子だからと言って。
 大きくため息をついてから、流紅は近くにいた家臣に兄を預けてから、立ち上がる。顔を上げて、様子を伺っていた臣たちの方へ声を強くして言った。
 ――たとえ自軍の兵にであれ、弱さを見せることは許されなのだ。分かっている。
「武藤の兵を残し、軍を二つに分けるよう、大将の命だ。我々は先陣としてこのまま行軍を続ける」
 朗々と響きのいい彼の声に、乱れかけた隊に再び緊張感が宿る。突然足が止まったことに、何事かと駆けつけていた先鋒と後続の兵が、慌てて伝令のために駆けていく。残れと命じられた兵が隊を離れ、少しの間、空気があわただしくなった。
 その様子を横目に、自分を見上げている相手を睨みながら、流紅は駄々をこねるように言っていた。
「兄上、わたしを怒らせたからね。無事に帰ったら覚悟はいいですか」
「ああ」
 笑む表情は変わらないくせに、彼の口から漏れる息は、細く短く早い。
 それに対して、兄に対する苛立ちと、彼を置いていく自分を責めながら、流紅は再び馬に乗る。
「まったく、こんな真冬に戦をしようなんて、飛田の正気を疑う」
 悪態をつきながら、馬首を戦場へと向けた。



 山頂、たどり着いた足元、山の裾野に浅い川の流れが見える。ぽつぽつと低い山々に囲まれた場所だった。雪原を、川の水を蹴散らして兵が入り乱れる戦場が、上から見るとよく見えた。飛田家の黒い揃えの鎧は、紙の上に垂らした墨のようだった。じわじわと広がりながら、神宮の軍がいる山を背に奮戦する本條家を追い詰めていくのが分かる。とっくに本條の側の陣幕は蹴倒されてしまっているようだ。
 未だ戦が終わっていないのを確認して安堵したのも束の間、戦況は、はっきりと思わしくない。劣勢なのは知っていたし、だからこそ大急ぎで駆けつけてきたのだったが、眼下に広がる戦陣は、間に合わなかったのだと言っても大差ないようなものだった。
 山の方へと追いやられていく現状は、戦っている本條家にも分かっているはずだ。じりじりと追い詰められ、しかも氷のように冷たい川の水に足を浸しながらする戦など、兵の士気が下がる一方だろう。
 広がる光景を見ながら、流紅は気難しく眉根を寄せた。
「このまま降りると、本條家の後ろに出るな。後続についたところで意味もないが、回りこむ時間もないか」
 陣を分けて、とりあえず先陣が援軍に付いてまず本條の隊を助けて時間を稼ぎ、もう一隊が山を回りこんで飛田の後ろに出ることもできるが。
 ――今更、か。
 つぶやく彼に、従ってきていた臣の一人が声をかける。
「兄君でしたら、このまま援軍に行かれることはありますまい」
 顔を向ければ、当人は目をそらして下の戦場を見た。
 卑下している言葉にもとれるが、そうではないだろう。彼は、確か兄贔屓の人間だったか。
 高台から見ていると、明らかに、飛田家の優勢が分かる。今更援軍として参戦したとして、本條家が盛り返せる可能性など、ほとんどない。冷静に判断して、本條家がそれだけの力量を持っているとは思えなかった。
 兄は、自分は戦場では役に立たずだと言っていた。確かに、刀をもって戦うための技術はともかく、体力のない彼は先頭に立って戦をすることには向いていないかもしれない。しかしながら、彼は陣営で指示を与えることのできる冷静な判断力を持っていた。彼なら、臣の言ったとおりに、もしかしたらここで引き返すことも考えるかもしれない。自分たちがここまで来た苦労など、負け戦に参戦して無駄に兵力を失うよりずっといい。
「ここまで駆けつけて来て、旗色を見て引き返すなど、神宮の家名を汚すぞ」
 別の臣が、何も言わない流紅の変わりに声を荒げて言った。
 流紅には、自分を軽く見る言葉も、庇う言葉も今は特に意味を持たない。むしろこんなところに来てまで、お家問題を引きずる臣下に呆れるところだ。それよりも、彼が気がかりなのは、残してきた兄のことだったが。
 どうするかでもめている人間を他所に、眼下の状況と、周りに目をやっていた流紅は、誰よりも早く異変に気がついた。
「見つかってしまったようだな」
 流紅の声に、将たちの声が止まった。すばやく、彼の目線を追って首を巡らして入る。
 近く、神宮の軍がいるのとは別の小さな山から、細い一筋の煙が上がっていた。雪に乱される視界の中で、それはあまり効果的な合図とは思えなかったが、気取られたくないのならば有効だろう。間違いなく、狼煙だ。
 飛田側か本條側かは判断できない。だがどちらが出した合図にせよ、合図がこうして神宮の目にも見える形でされた以上、どちらにも知られたと見た方がいいだろう。
「このままおめおめと帰れば、それこそ神宮は不義理者の集団だと、謗られるだろうな。他の同盟国への印象も良くない。どちらにせよ、本條家が崩れるのは好ましくないだろう。出来る限りの手助けをして、飛田家への防波堤になってもらわなければ困る」
 決断を口にする流紅の声は、揺るぎない。紛れもなく、参戦の表明だった。戦場を見る顔は、軽く笑みを浮かべている。
「ついてきたくなければついてこなくていい。わたしは行くぞ」
 先程までぐずぐずと討論していた将を揶揄するように言って、いたずらな顔で笑うと、流紅は馬の腹を蹴った。慌てたように、進軍の号令と法螺貝の音が響き渡る。一丸となって神宮の軍は山を駆け下りていた。



 空気を切り裂くような合図の音を聞き、自分たちの陣の後方から駆け下りてくる一団を見て、本條の陣には瞬間、戦慄が走った。しかしながら、飛田とは違う揃いの鎧と、桜の紋、そして率いて来る将を認めて、歓声のような鬨の聲があがる。
 若干十七歳ながら、神宮家の次男は戦場において、それだけの活気を与える活躍をしてきていた。
 前線にいるのはあくまで本條の兵というのに変わりはなかったが、後押しがあるのとないのではまったく違う。
 にわかに、本條の陣が活気付く。冷たい川の上に、山添に追いやられていた本條の軍が、じりじりと飛田の軍を押し戻し始めた。
 その矢先だった。



「本條の首をとったぞ!」
 流紅のいた位置からさほど遠くない本條家の本陣で、誰かが大声を上げるのが、喧騒の上に響き渡った。そんな場合でないのに、誰もが手を止める。一瞬の間をおいて、降り続ける雪をも天に押し返すような声が沸きあがった。
 先刻とは比べ物にならないほどの、ときの聲。
 遠目に、大きな弓を象った旗印が倒れるのが見える。



 やはり、間に合わなかった。
 口中舌打ちしてから、流紅は声を張り上げた。
「伝令! 即刻引き上げる!」
 まだ、何が起きたかははっきりしない。本條家の誰か、多分当主が討たれたのだろうが、まだ跡継ぎの子息や血族がいる。彼らがいる限り、当主の首をとったところで、盛り返すことが出来ないわけではないだろうが。
 悠長にしていられる余裕は、神宮家にもない。本條家が崩れれば、神宮家は、人助けの戦などしている場合ではなくなる。飛田家に対して、防波堤の役割をしていた本條家が飛田の手に落ちれば、間にはどっちつかずの石川家が残るのみ。いつ、刃を向けてくるとも限らない。流紅たちが国を離れている間に、本国を急襲してくる可能性は、はじめからあったのだから。
 活気付いた飛田家に矛先を向けられる前に、離脱するのが何より得策だった。
 国に帰れば、ここまで駆けつけて参戦を渋った将に、何かと粗探しをされるだろうなと思ったが、それならそれで構わなかった。それで皆が素直に、軽率な弟より慎重な兄が跡目を継いだ方が良いと思ってくれればいい。
「誰ぞ兄上のところへ知らせに走れ!」
 退却の合図の貝の音に負けじと叫ぶ。



 もし、あといくらか早くたどり着ければ、状況も変わったかもしれない。
 本條家がこの戦に敗退したことで、神宮家の状況は、昨日までと比べ物にならないほど追い詰められたものになったのだった。