第一章





 神宮家の居城は、小高い山の上にある。山は春になれば綺麗な桜の色に染まり、桜の木に囲まれた城を城下町から臨む風景は、国の絶景のひとつに数えられるほどのものだった。その本拠地を桜花という。土地の気候は温暖で、人々も暖かい。
 襖を開け放した城内を渡る風はやわらかく、その麗らかな陽気に包まれながら、現神宮家当主は、上座に座して庭を眺めていた。彼のいる謁見の間から城をとりまく桜は見えないが、桜花の城内にも、其処ここに桜が植えられている。彼の視線の先で風に揺れている桜の木は、陽だまりの回廊の上に花びらを舞わせている。
「それで、父上はどうしてわたしをわざわざ同席させているんです?」
 脇息に頬杖をついて黙り込んでいる父に、紅巴は穏やかな声で言う。問われた方は束の間怪訝そうな顔をしてから、傍らの息子に問い返した。
「言っていなかったか」
 その様子は、思わぬことを言われて驚いたようでもあり、春の陽気と桜に心を奪われてぼんやりしていただけのようでもある。
「聞いていませんよ」
「言ったつもりだったが、お前がそう言うならそうだろうな。わしよりお前の記憶の方が信用できる」
 まったく無責任なことを言いながら、神宮家の当主はにんまりと笑う。
 彼らは、先刻まで一人の若者に対面していた。これと言った理由も聞かされないまま、突然父に呼ばれて同席していた紅巴は、対面中も、若者が去った後もいつになったら種あかしをしてくれるのかと思っていたが、どうやら忘れていただけだったらしい。当の面会相手が帰ってしばらく、ぼんやりとしていたから何かあるのかと思っていたが、ただ本当にぼんやりしていただけみたいだな、と考えると、自分の父親ながら子供じみていてほほえましいと思ってしまう。
「あれは、武藤家配下の、富岡の地の一部をおさめている山村家の孫で、名を泰明やすあきという。父親を幼くして亡くし、祖父に育てられた。その祖父が、とうとう死期も間近で隠居したいというので、あの孫に領地を譲ったばかりだ。本来なら、領地を継いだからといって、桜花くんだりまで足を運んで、神宮のご当主に対面する必要もないし、それが出来る身分でもない。当の、武藤家なら話は別だがな」
 所々、あまりほめられたものではない言葉が混ざっていたが、今更、神宮家当主の遠慮のない物言いを責める者はいない。さっぱりとした性格の彼の口から出る言葉は、少しばかり問題があっても、相手に嫌味に聞こえないのが不思議だった。
尊芳たかみちの時には、大騒ぎで歓迎する、と約束しておられましたしね」
 紅巴が、父に対する、というよりは、いたずらな子供に対するような表情で微笑みながら言った。
 武藤家とは、神宮家にはなくてはならない重臣の家だ。身一つからのし上がった初代を助けたのが、武藤家の祖先になる。尊芳は、二十代半ばの嫡男だ。
「そうだ、なんなら観桜宴で派手にやってもいい。ともかくそんな小さな家なんだが、当人はまだ若い上、頼りの爺さんが頼りにならない状態だし、多少萎縮しているところがあるようだし、武藤としては元気付けてやらねばと思ったらしくて、会ってやってくれと言ってきてな。ちょうど桜花は今お祭り騒ぎで気分転換にもなる。武藤が言うには、うちの息子たちと同年代で跡目を継ぐことになるから、お互い励みになるやもしれぬから、とな」
 臣下の末席にまで細やかな気を使う武藤家の配慮に感嘆しながら、紅巴はさすがに父に対して少しあきれてしまう。
「当人に会う前に、言ってくだされば良いものを」
 励ましあおうにも、当人はすでにこの場にいない。
「だから、忘れていた」
 言い訳もないあっけらかんとした声には、反省も悪気もなかった。それで相手の言葉を封じると、彼はにんまり笑いながら続けた。
「それでお前はいい加減に、跡目を継ごうという気にはならんのか?」
 突然出てきた言葉ではあったが、この数年持ち上がっている問題でもあった。側室の子であり長男である紅巴と、正室の子であり次男である流紅と。どちらを跡目に据えるのか、家臣の間でもめている。あくまで、家臣の間でだったが。しかしこの行方を興味もって見ているのは、神宮の領内の人間だけではなかった。特に、先日の戦の後では。
「わたしよりも、流紅の方がふさわしいでしょう。わたしは体も強くないし、人臣を掌握する力量などありません」
「謙遜だな。流紅にしてみれば、自分は兄ほど冷静に物事を見れないし、頭も良くないというぞ」
「わたしは多少物事を頭に詰め込んでいるだけで、それが役に立つのなら補佐としてです。人の上に立つのに必要なのは、そんなものではない」
 穏やかながらも決して譲らない紅巴の言葉に、父はやれやれと肩を持ち上げて、大仰にため息をついた。
「なぜそのように、ふたりとも当主の座を嫌がるのだ。父を助けるのだと思って、引き受けてくれればよいものを」
 嘆くような口調もわざとらしい。けれども木の床を見つめ、再び大きく息を吐いてから、再度紅巴に眼差しを注ぐ彼は、一変してなだめるような声で言った。
「お互い、相手の権利を奪う、自由を奪う、居場所を奪う、責任を負わせると考えるな。お前たちは当主を継がずとも、神宮の人間であることには変わりないのだ。どこまで行こうと、同じ問題は追ってくる。どうせお前たちだって、どちらが当主を継ごうと、相手を独りにしてほったらかしておくつもりはないのだろうが」
 同じではないか、と父は言う。
「父が命ある間に、跡を継いでくれ。その方が、お前たちにすんなりと跡を渡せるし、霞みたいな命であれ、お前たちを助けることも出来る。それに父は楽隠居の気分を味わいたい」
「楽隠居ですか」
 突然またもとの調子に戻った父に、紅巴は小さくふきだした。
「そう、普段は子どもたちにあれこれさせて、気に入らないことだけ口出しする。いやな爺だろう。やってみたかったんだ」
 四十に満たない歳のくせに、彼はひどく年寄りめいたことを言う。
 数年前の戦の折にうけた傷がもとで足が悪く、体力も落ちて無理の利かない体になってしまったのが原因だろうが、当の本人には、それを思わせるような暗さがない。むしろ体を壊したことで、それを口実に楽隠居して悠々自適に暮らしてもいいのでは、ということに気がついてしまった様子だった。本人はとてもそれを楽しんでいる節がある。
「跡を任せて安心できる子どもがいるってのは、恵まれたことだよなあ」
 しみじみと彼は言う。
 楽しげな父に、少しうつむいて笑みを落としながら紅巴は、父が歳の割りに老成していると思うべきなのか、逆に子どもっぽいと思うべきなのか、いつもながら考えてしまう。そこへ、彼らの居る部屋へ近づいてくる足音があった。
 開け放した部屋の入り口へ姿を見せると、姿をみせた人物は部屋の人々に向かってにっこり笑った。一旦回廊に腰を落としてから、部屋の中の人物に向かって声をかける。
「兄上、もう用事は終わった?」
「おいおい、お前は、当主を差し置いて兄に声をかけるのか?」
 笑いながら父が手招きすると、流紅はすぐに立ち上がって足早に部屋の中へ入ってくる。父親の正面になる位置に座った。それを待ってから、神宮の当主は頬杖のままにやにやしながら言った。
「流紅は昔から、父よりも兄の方が大好きだな」
「父上は、たまに桃巳ももみよりも子どもだから」
 三歳年下の妹をあげて、流紅は笑う。
「父上の用事が終わったのなら、今度はわたしが兄上と用事があるのだけど」
 悪気はなく、楽しげな声で追い討ちをかけられて、さすがに鷹揚な父親も少し落ち込んだようだった。少し唇を尖らせて文句を言う。
「なんだ、父と少しの会話を楽しもうという気もないのか? 下の息子は親不孝だな」
「わたしに意地悪なのは父上の方だ。今日はわたしの方が先に兄上と約束があったのに、父上が急に兄上を呼び出すから、外に出かけるのが遅くなった」
「せっかくの花見日和だというのに、出かけることすらできんくらい忙しいわしにそんなことを言うとは、どっちが意地悪だ」
「父上こそ、わたしをのけものにしたじゃないか」
 父親と同じように唇を尖らせて、流紅はすねたように言った。山村家の嫡男との面会に、紅巴だけを呼んだことを言っているようだった。
「お前がいると、騒々しくて格好がつかんからだ。紅巴の方が、落ち着いて見えるから対外的に見栄えが良い」
「ほら、ひどいのはどっちだよ」
 流紅がつぶやくと、神宮の当主は、楽しげに笑った。人の悪いその笑みを見て、流紅はわざとらしく大きく息を吐いた。聞こえよがしに、紅巴に向かって言う。
「兄上、用事が終わったんだったら、行こう。父上の愚痴に付き合っていたら日が暮れてしまう」
 しかしながら、それに応えたのはやはり、父親の方だった。
「ええ、ええ、終わりましたよ。何をするのか知らんが、どうぞ父上を差し置いて、兄と一緒に遊んでらっしゃいませ」
 人の行動を引っ掻き回すのが楽しくてしかたない、というような人ではあるが、先ほどから妙に茶々を入れるのは、父親として少し寂しいのも、楽しげな流紅を見て自分が遊びの輪に入れないのがつまらないのもあるのだろう。
「いじけるな、父上。大人気ない」
 今度は流紅もとりあわず、さっさと立ち上がる。それを見て紅巴は、苦笑とも微笑ともつかない表情で父親に対して頭を下げる。
「それでは、失礼します」
 言われた相手は、律儀な紅巴に対し、はいはい、と鷹揚な応答を返す。
 歩き出した二人をつまらなそうに見送っていたが、先を歩いていた流紅が襖の敷居のあたりに差し掛かった頃、ふいに彼は声をあげた。
「そういえば、明日、二人に話がある」
 振り返る、流紅の表情は一変して厳しかった。苦笑しながら神宮の当主は言う。
「心配しなくても、宴の後だ」
「それは」
「あと、それとな」
 何かを言いさした流紅の声にかぶせるようにして、父は強引に続けた。とにかく我が道を譲らない彼は、再びにんまりとした笑みを浮かべながら、まったく関係のないことを口にする。
「何をするのか知らんが、土産を所望する」
 先ほどの言葉で一瞬にして緊張した息子たち二人の肩から、ふたたび一瞬にして力が抜ける。
 神宮の当主は、とにかく相手を自分の流れに巻き込むのが得意だった。のらりくらりと相手を煙に巻いたり、突然関係のないことを口にしたりして相手を困惑させながら、自分の言いたいことは言ってしまうし、やりたいこともやってしまう。何かと言えば「怪我したときに実は頭も打ったかな」などとつぶやいて相手を呆れさせ、同時に、心証を害したかと不安にさせるという姑息なことも、喜んでやるような人だった。
 そんな相手がさっさと話を変えてしまったのだから、流紅が何を言ったとしても、彼は絶対に明日になるまで口を割ったりはしないだろう。息子たち二人が、跡目を押し付けたがる父に対し、なかなか首を縦に振らない理由はそこにもあった。実際、これだけうまく立ち回っている父が健在なのに、跡目というのもばかばかしい気がしてしまうからだ。
 計算尽くなのか、ただ単にそういう性格なのかは、よく分からなかったが。
「はいはい」
 半ば呆れた応えは、流紅から。
「ついでに、なるべく誰にも会わずに移動しろ。わしはしばらく花見がしたい」
「努力はします」
 微笑交じりの返答は、紅巴から。
 脇息に頬杖をついて、反対の手をひらひらと振る神宮の当主の見送りを背に、彼らは謁見の間を後にした。



「父上が言ってたの、いったい何の話かな」
 回廊を降り、花弁を降らせる桜の下を歩きながら、難しい顔をして流紅がつぶやいた。気難しげな表情をして考え込む弟に、紅巴は小さく笑う。
「流紅の縁談じゃないのか?」
 その話になると、流紅は不機嫌そうな顔になった。跡取り問題と同時に、家臣の間で近頃取り沙汰されている問題だった。
「わたしよりも、兄上の方が先でしょう」
「ぼくはもう、妻を娶るつもりはないよ」
 花びらを舞わせる風の元を追うようにして、桜の木を見上げながら紅巴は穏やかな表情で言う。
 十九歳になる紅巴には、流紅と同じ歳に娶った妻がいた。政略結婚で神宮に来た他国の姫君で、美人とは言えなかったが、しとやかで控えめで、物静かな紅巴と並ぶと誰の目にもかわいらしい夫婦に映った。
 しかしその妻が神宮へ来てようやく半年経った頃、彼女の自国が他国に攻められ窮地に立たされてしまった。神宮に入った第一報は、篭城をしたというものであり、援軍を整えていざ出陣を、というときに、城が落ちた、という第二報が入った。城主やその家族の消息は知れず、落ち延びたか討たれたかは定かでなかった。そんな状態のところへ援軍を送るほど、さすがの神宮家もお人よしではいられなかった。
 紅巴の花嫁はまだ十五歳の少女だった。普段おとなしかった彼女も、この時は必死になって泣きながら、紅巴に「国に帰らせてくれ」と哀願した。「兵を出してくれ」とは決して言わなかった。状況が分からないほど愚かな女ではなかったから、神宮家にいれば自分は安全で、たとえ家族が城主の地位を追い落とされても、彼女自身がいれば、神宮の名をもってではあっても家を再興することもできると、分かっていたはずだ。それなのに、すでに敵国になったも同然の国に帰りたいと泣いた。
 紅巴も彼女を哀れみはしたが、決して父に、兵を出そうとは言わなかった。そして、国に帰りたがっている彼女を止める事も出来なかった。目立たないよう護衛を幾人かつけて、国に帰してやるのが精一杯だった。本来なら、後々の大義名分の為に彼女を神宮家の内に抑えておかなければならないのは、分かっていたことだったが。
 結局彼女は、そのまま国で討たれて死んだ。
 彼女を手放したことで、跡継ぎ問題に関する紅巴の旗色は一時期悪くなったものだった。紅巴自身、自分が手配したことではない、目を離した隙にいなくなっていたのだ、という体裁をとってはいたが。
「それは、兄上の気持ちも分からないではないけど」
 まるで、切り札のようにそのことを持ち出してきた兄に、流紅は不機嫌そうな呟きを落とす。
 哀れな姫君の身に起こった事を思うだけでも、ここ近年の神宮家を取り巻く状況は、とても悪い。先日、冬の日の戦から、また更に転落の一途をたどりつつあるのは事実だった。それもあって、神宮家の家中はここのところ落ち着かない。
「それなら、桃巳の縁談かもしれないな」
 唇に穏やかな笑みを浮かべて、紅巴が言う。流紅はますます不機嫌な顔になって紅巴を恨めしそうに見た。
「桃巳を他所にいかせるくらいなら、わたしが嫁をもらう。まだ桃巳は十四だよ。……なんだか兄上、意地が悪い」
「桜のせいかな。神宮の血筋は、春になると惚けてしまうそうだから」
 むくれている流紅に、紅巴はくすくす笑いながら言う。すぐにむくれたり、それが素直に感情としてあらわれたり、そしてそのことで人に悪印象を抱かせないところは、流紅のほうが父親に似ている。
「流紅の方こそ、忘れているものだと思っていたよ。あんな約束」
「そんなの、忘れるわけないよ」
 ふいに得意げに、流紅が明るい声を出した。
 ――冬の日、戦の時に言った「覚悟はいいですか」の言葉。雪がとけ、日差しが暖かくなり始め、梅の花が咲く頃になっても何も言わなかったから、すっかり忘れていたと思っていたのだが。
 桜が咲き始めると、一年のうちで一番桜花城の城下町が騒がしくなる。流紅が、その市を見に行こう、と言い出したのはつい先日のことだ。
「体を壊してた人にすぐ何か文句を言うほど、わたしだって人でなしじゃないからね」
「冗談に流さないで、春になるのを待ってるのも人が悪いと思うけどね」
「兄上、絶対父上の口の悪さがうつってる」
「そうかな」
 二人で声を上げて笑う。その向かう方、ゆるやかな坂になっている道の先に、桜花の城の門があった。城の門とは、その城を持つ家の力を示す意味と、そこに来る人間を威圧する意味もあって、豪華で立派なものだ。桜花の城の場合は比較的無骨な印象のない楼門になっているが、戦の時には見張りが立ち、弓の射手が立つ場所になるから、やはり自然と大きなものになっていた。
 その門の下、二人の門番と、一人の少年が何やら話し込んでいた。談笑をしている様子で、さらに彼らがいるのは門の内だから、何か問題があった風ではないが。
「あれは、山村家の」
 落ちた紅巴のつぶやきを耳に拾って、流紅が一旦紅巴を見、それから門のほうへ目を眇めた。
「もしかして、さっきまで兄上たちが会ってたのは、その山村家の人?」
「父上が言うには、富岡の領地をおさめている山村家の嫡男で、最近跡目を継いだとかで。今十八で、わたしたちと歳が近いから、武藤の薦めで会うことにしたのだとか」
「ふうん。そっか。ちょうどいい」
 いたずらな顔でにんまり笑うと、流紅の顔は、やはり父に良く似ていると紅巴は思う。一体何を思いついたのかとは、考えるまでもなく予想がついた。突然小走りに門の方へ向かった流紅を止めもせずに見送る紅巴は、彼自身二人に比べれば比較的常識人である自覚はあったが、やはり神宮の人間だった。誰もに知られる、気さくでいたずら好きな神宮家の気性は、初代から受け継いだものなのだろう。
 駆けてくる流紅に気がついて、何か起きたのかとのんびり彼を見た山村家の嫡男は、その後ろから歩いてくる紅巴を見つけてあからさまに動揺したようだった。目を大きく見開き、反動のように後ろへ飛び退る。大慌てで膝をついて頭を下げたところに、流紅がたどり着いた。
「おう、ご苦労さん」
 流紅が気さくに声をかけると、泰明の動揺を苦笑して見ていた門番は、慣れた様子で立ったまま礼を返した。
「若君たち、どこかへお出かけですか」
「城下での市は今日までだから、行っておこうと思ってな。誰かが探してたら、夕方までには戻ると言っておいてくれ」
「承知いたしました」
 頭を下げる門番を満足そうに見て、流紅は今度は門番の横で小さくなっている若武者の方へ目を向けた。
「それで、そこのお前は、わたしたちと一緒に来い」
 言葉は高圧的だが、楽しげに笑う表情がそれを裏切っている。門番たちが顔を見合わせて苦笑しながらその様子を見ているのは、彼もまた流紅のそんなところに慣れているからだろう。言われた当の本人は当然そんなわけにもいかず、あまりにも気さくな流紅と門番のやり取りに、伏せた顔の下で動転しているところだろう。今声をかけられているのが自分なのだと気がつかず、一体何が起きているのかすらわかっていない。
 山村家の新しい当主は、神宮の当主が言っていた通り、本来なら桜花まで来て簡単に当主に目通りできる身分ではない。先程まで当主に面会していたことですら、これ以上ない緊張を強いられただろうに、唐突にしかも門の近くなどで、その嫡男に声をかけられて、動転せずにいられるわけがなかった。
「泰明殿」
 追いついた紅巴が笑いながら助け舟を出して、彼はようやく流紅の言う「おまえ」が自分を指すのだと気がついたようだった。
「は、はいっ」
 地面に膝をついたまま、彼はますます頭を深く下げた。
「流紅が構ってほしいから、一緒に城下まで行ってほしいそうだよ。どうせ下に降りるんだろう? 少しつきあってやってくれないか」
「は、はあ。あの」
「なんだ」
 動揺しながら何か言いたげな泰明の先を促すように流紅が声をかける。どう見ても、相手が慌てているのを楽しんでいるようにしか見えない。
「あの、お二人だけで行かれるのですか?」
 頭を下げたまま、地面に向かって大きな声で泰明が言う。それに対して、流紅が大きな声で笑った。
「だから、お前を一緒に連れて行くっていってるじゃないか。ちなみにいつもは二人でいくぞ。よそはどうか知らないがうちでは珍しいことじゃないから。どうでもいいが、その格好疲れるだろう。さっさと立て」
 ぽんぽんと言われて、泰明は、流紅が言葉を切るたびに「はあ」とつぶやいていた。本当に、わけが分かっていないのだろう。最後に、立て、と言われて、流紅の言葉が終わったのに気がつき、威勢良く「はい」と返事をしたものの、立つ気配がない。
 さすがに気の毒になって、紅巴は身をかがめて泰明に声をかける。
「土の上だというのに、そんな姿勢でいては折角の直垂が汚れてしまう。別にぼくたちに気をつかう必要はないから、立ちなさい」
 思いがけず近い位置から声をかけられ、泰明はつられた様にようやく顔を上げた。それから、わざわざ屈みこんでいる紅巴に気がつき、大慌てで立ち上がる。
「この後、何か予定が?」
「いえ、特には何も」
「桜花には昨日着いたと言ってたね。もう市は見てまわったの?」
「いえ、ご当主にお会いする用意がありましたので。武藤様のお屋敷にご厄介になっておりますし、そうそう出歩いてご迷惑をおかけするわけには」
「なんだ、武藤は外に出てみろって言わなかったのか?」
 穏やかに問いかけていた紅巴に対する応えを聞いて、流紅が口を挟む。意外そうな声音に、直立不動の姿勢でいた山村家の若者は、慌てて彼のほうを向いた。
「いえ。気晴らしに外に出てみてはと言われたのですが」
「そうか、それじゃ一緒に見て回ろう」
 流紅のようにきっぱりと強くは言わないが、紅巴の言葉は穏やかで強引ではなく、それだからこそ押しが強い。
 身近な人間でさえ振り切れないものを、萎縮しきった泰明が断れるものではなかった。向けられる微笑に向かって、気がつけば頷いている。苦笑気味の門番たちの視線に見送られながら、満足気に大股で歩き出した流紅と、それに並んで行く紅巴の後ろを慌てて追いかける。
 国の絶景のひとつに数えられる桜の山の中、整えられた道を歩いていく。この道を登る時に見る桜花の城は、桜の霞の向こうに栄えて、とても美しいものだった。桜花城はどこか神社めいた造りをしている上、朱塗りの柱と黒い瓦と白い壁に彩られ、先ほど後にした楼門も、赤い色を主張に造られている。鮮やかではあるが決して派手でないのは、もう一つの絶景に知られる飛田家の白蛇城が女性的なのに比べて、どこか無骨に見えるからかもしれない。桜花の城は、桜と城と、抜けるような空の対比が、美しい彩りを持っていた。
「わたしは、富岡には行ったことがないな。どういうところなんだ?」
 前を向いたまま流紅が言う。未だ現状が飲み込めずにいた泰明は、慌てて応えた。
「田畑ばかりで、何もないところです。老人と子供と寺しかありません」
 それは深くとれば、戦で人手を取られて何もない、と言っているようなものだったが。
「そうか」
 当然、泰明はそんな意味を込めて言ったわけではなく、流紅は気がつかなかったのかもしれなかった。慌てるあまりそんなことしか言えなかった泰明に、楽しげに続ける。
「ともかく、そんな言葉遣いはするな。普段ならまだいいが、今日は桜花の住民じゃない人間も多いんだから、お忍びがお忍びでなくなる」
「無理です」
 後ろを歩きながら、訴えるように前を行く人物に言い返すが。
「無理なわけがあるか」
「それなら、なんとお呼びすればいいのです」
「なんとでも好きに呼べばいい。おい、でも、お前でも構わないぞ」
「それこそ無理です」
「そんなに、堅く考えなくていいのに」
 くすくすと笑いながら言ったのは紅巴だった。
「泰明殿は、どうやら思ったより豪胆なようだから、大丈夫だろう。動転してるくせに、それだけ流紅に言い返せたら、立派なものだ。下に降りたら、とりあえずぼくらは泰明殿の知人ということにしておくから」
 困りきっている自分を見て、少しは流紅をとりなしてくれると思っていたのだろう。それに反して、流紅に便乗するような紅巴の言葉に、泰明は脱力の思いを隠せなかった。
「紅巴様まで……」
「流紅に借りがあるんだ。今日は流紅につきあう約束になっているから、わたしを当てにするのは無理だよ」
 そうこうする間に、配下の武将たちが山中に構える屋敷郡を抜け、桜花の山の裾から広がるようにしてある城下町にたどり着く。
「そうだ。悪いが先に、舞台の方見に行っていいかな。まだ仕上がり見てなかったんだ」
 後ろについて歩く泰明を振り返って見て、流紅が言った。当然、逆らえる立場でもなかったし、そんなこと思いつきもしなかった泰明は、ただ了解の返事を返すが。
「舞台って、明日の宴で使うものですか?」
「そう。もう準備できてるはずなんだけど」
 春の桜花が一年のうちで一番賑わうのは、桜のせいでもあり、それを見に流れの商人などが集まるせいでもあったが、それよりもやはり神宮家のせいだった。神宮家が初代から代々、無類の花見好きの家系だから。結局のところ、集まる人間の目的は桜とは別のところにもあった。
 桜が満開の頃、神宮家はその城下町で大きな宴を設けるのが慣例になっていた。数日間の市が設けられ、その後の神宮家が催す観桜宴を待って人々は散り散りに帰っていく。代々派手好きでお祭り騒ぎの好きな性質のある神宮家の当主のおかげで、その慣わしは途絶えずに今にいたっている。
 宴の席では、皆に少しずつの食べ物と酒が振舞われるため、それを目的に来る人間も多いが、基本的には神宮家のお祭り騒ぎに便乗して騒ぎたい人間が集まるものだった。酔った上での騒ぎは毎年のことで、更に、人が入り乱れることになればそれなりに問題は多発する。勿論、この時期には桜花に入る人間を厳しく取り締まるが、人の多さに捕りもらしがでることもある。神宮の人間を狙う刺客が紛れ込むのも当然珍しいことではなく、あわやということが今までなかったわけではないが、神宮家はこの宴会をやめなかった。戦国の世に呑気なものだと呆れた目で見る他家は多いが、生来陽気な質のある神宮の血筋の人間はまったく気にしていない。
 領民と親しくすることを好む彼らは、この場を多くのことにも利用する。襲名のための場であったり、婚儀の場にしたりもする。そういったものを内々に済ませてしまわずに、大々的にお披露目してしまうのだった。
 だから今年は、跡継ぎ襲名があるのではと、多くの人間が予測しているのだが。
 城から城下へと降りる道を折れ曲がり、町の中央部には向かわずに山の裾添いに歩いていくと、桜の山を背景に設置された屋外の舞台がある。大きなそれと、忙しく立ち働く人たちが見え出したところで、突然泰明が大声を上げた。
 驚いて、前を行く兄弟が振り返ると、泰明は口を丸く開けたまま棒立ちになって、唖然とした顔で何かを見ていた。泰明の視線は彼らの進行方向とは少し外れて、人々の行きかう街中、その道端に注がれている。注がれていると言うよりは、凝視している。
「どうした?」
 怪訝そうな流紅に、はっとした様子で泰明が彼を見る。
「いえいえいえ、何でもありません」
「だから、その言葉はやめろ。なんでもない顔かそれが」
「いえ、本当に、なにも……」
 首を振りながら大慌てで言い指した先、明るい声がそれをさえぎった。
「あら、兄さん」
 その声は、泰明が視線を向けていた方向から聞こえた。泰明が思い切り気まずそうな表情をしたのを確認してから、流紅と紅巴が顔を向けると、人の行きかう道沿いに店を出した即席の茶店が見える。そこに設けられた即席の椅子に、団子を片手にこちらに手を振っている少女がいた。
 それぞれ物問いたげな表情で泰明のほうへ顔を戻した二人を見て、彼はとうとう観念したようだった。二人を置いて少女の方へ、人々を押しのけんばかりの勢いで、大股で歩いていく。
「なにしてるんだ」
 少女の前に、仁王立ちになって言う声は、怒気と呆れが含まれている。泰明の後を追った二人に向けられた背中からは、怒っていいのか呆れていいのか、困っているような気配が感じられた。
「待ってたの」
 それに対して、少女は飄々と応える。
「お屋敷で待ってるはずだろうが」
「だって兄さん、折角武藤様が外に出てみればって言ってくださったのに、出してくれなかったじゃないの」
「それは、お前がいるからだろう。お前ときたら、こんなに人の多いところに出したら何をするか分からないじゃないか。ちょっと目を離したらこの調子だし」
「兄さんが今日お城から戻ったらすぐ家に帰るって言うからじゃない。兄さんが帰ってくるまでに見物しておかないと、全然何も見て回れないじゃないの。せっかく桜花に来たって言うのに」
「それでどうして買い食いをする必要がある。年頃の娘がはしたない」
「年寄りくさいわ。爺様みたいなこと言って」
 悪びれない少女の言葉に、おとなしく成り行きを見ていた流紅が、とうとうふき出した。
「なんだ、もう帰るつもりだったのか?」
 笑い含みの声に、泰明がまた、しまった、という顔をする。
「今日、武藤様のお屋敷に戻ったら、すぐ荷物をまとめて富岡に帰る予定で」
「春の桜花に来ておいて、桜を見ずに帰る馬鹿は、敵の間者とお前くらいだ」
 あきれ返って、流紅が言う。桜花の桜は、神宮家にとっては自慢の一つだ。
 彼らのやり取りで、ようやく少女は泰明の後ろに立っている二人を見つけたようだった。団子を置いて立ち上がる。
「どなた?」
 首を傾けて、兄の後ろに立つ二人を覗きこむ。無駄なことではあったが、泰明が二人から少女を隠そうとするかのように、彼女前に立ちふさがっていたからだった。
「……昔、富岡の方に住んでたことのある人たちで、兄さんの幼い頃の友達なんだ。小さい頃にあの土地を離れたから、お前は覚えてないと思うけど」
「へえ」
 そんな説明を信じたのかどうか、少女は興味深げに二人を見る。
「はじめまして。泰明の妹で、茜子(あかね)と言います。ええと、お久しぶりの方が良かったのかしら?」
 頭を下げて言うその仕草には粗野なところが少しもない。特に声が大きいわけでもなく、背が高いわけでもなく、一見して普通の少女なのに、見るものに強い印象を与える人だった。下級武家の娘だから着ている物も艶やかではないし、どちらかと言えば質素な物を纏っているのに、人に与える印象が鮮麗だった。
「訳あって名乗れないけど、こんにちは。はじめまして、で差し支えないと思うよ」
 紅巴が微笑みながら言うと、少女は活発そうな顔を不服そうにしかめて、彼を見た。
「あら、名乗れないようなお名前なの?」
「うん、そう」
 流紅が、あっさりと返す。
「便宜上名前が必要なら、紅兄弟と呼んでくれ」
 楽しげに続けると、茜子は遠慮も無く言い放った。
「盗賊の名前みたいね。どこぞかの悪党なの?」
「茜子」
 すかさず兄の、諌めるような声が飛んだが、言われた当の流紅は楽しげに声をあげて笑っていた。
「祭りの陽気に誘われて山奥から出てきた盗賊だとでも思ってくれ。ちなみに、捕まりたくないから黙っていてくれるとありがたい」
「いいわ、名前も言えないような人、わたしには関係ないもの」
「明日になったら教えてやる」
「まあいいわ。覚えておいてあげる」
 勝手に話を進める二人に、泰明が頭痛を堪えるように額を押さえて口を挟んだ。
「あの、ふたりとも、わたしは今日帰るつもりなんだけど……」
 流紅に振り回されながらも言い返す時は遠慮なく言い返している泰明は、決して生真面目な性格ではないだろうが、彼は頑なにそう言う。それは偏に、跡目を継いだばかりだからというのもあるだろうが、妹の心配もあるからだろう。慣れない土地に、しかも人のあふれかえる桜花に、田舎から妹を連れて来たのでは心配して当然。しかも、この物怖じしない性格では。
 困りきっている泰明を少し気の毒に思いながら、紅巴も笑いを堪えきれない表情で声をかける。
「たまたま跡目を継いだのが最近だからというのもあるだろうけど、わざわざ宴の前の日に、桜花に足を運んで当主に対面して来いと武藤殿に言われたんだろう? ついでに花見でもして気を紛らわせて来いという配慮じゃないかな」
 何やら話し始めた茜子と流紅を見ていた泰明は、その恨めしそうな視線を紅巴のほうに向ける。口中声に出さず、また「紅巴様まで」とつぶやいたのが見えて、紅巴は笑ってしまう。それに気がついたかどうか、すかさず茜子が勝ち誇った様子で言う。
「ほら御覧なさいよ。わたしは、絶対明日までいるわよ。あしたの宴が楽しみでついてきたんだから」
「誰もついてこいなんて言ってないじゃないか、最初から。勝手についてきたくせに」
「どうせなら、一緒に市を見て回るか?」
 ぶつぶつと言う泰明の後ろを継いで流紅が無責任に言うと、泰明もとうとう声が大きくなった。
「――またそんなっ」
「帰れと言ったって聞きそうにないからな。それなら、娘一人でうろつかせるより、一緒にいたほうが安全だ」
「……舞台のほうは?」
「遠目にでも見たからもういい。わたしたちもそんなに時間があるわけじゃないんだ。立ち話してる暇がもったいないから、市を見て回ろう」
 悪びれず、どうしても妹を屋敷に帰しておきたい泰明の心情など気がつかない様子で流紅が言うと、その横で茜子が勝ち誇った顔をしていた。もう二の句がつげない泰明が何も言わないのを了解ととったのか、流紅がさっさと先に立って歩き出すと、味方を得た茜子がすぐその後について行く。
「元気でいい娘じゃないか」
 疲れきった様子で二人の後ろを追って歩き出した泰明に、紅巴は小さく笑いながら慰めの声をかけた。すると泰明は、再び恨めしそうな顔で紅巴を見上げて言う。
「そう言わないでください。あの性格だから、地元では小さな村の子どもにまで嫁の貰い手の心配されてるんです」
 妙にその言葉に説得力があって紅巴がふき出すと、聞こえていたのだろう、流紅も前で声を上げて笑い出した。振り返った茜子が兄を睨んでも、当の本人はため息をつくばかりだ。
 しかしながら、好奇心旺盛な少女の関心がすぐに違うものに移ってくれたのは嬉しいことだった。だが、ただでさえ雲の上の人間でもある二人の兄弟を道連れにしていると言うのに、目新しいものに次から次へと気をとられて、頻繁にはぐれかける妹のおかげで、やはり桜花の市を見て気がまぎれるどころではない。彼にとっては、賑やかな一行も、桜花の喧騒の中では目立つものではないことが不幸中の幸いだとしか言えなかった。



 屋外に設けられた舞台は、晴天に恵まれ、背景を桜の絶景に彩られ、それだけで豪奢だといえるものだった。但しそれは、贅を凝らしたものではなく、立派過ぎることもなく、威を張るために設けられた宴でないのが分かる。
 舞台の前には、前列の方に神宮家重臣の為に場所が設けられ、その後ろにお祭り騒ぎに参加する為に足を運んだ人たちが座るための場所が設けられている。だが、それは席というにはあまりにも大雑把で、重臣だろうが民だろうが、皆が同じように地面に敷かれた茣蓙に座していた。神宮家から、酒と食べ物が配られてはいるが、集まった人々を目当てに物売りが歩き回り、その場は抜けるような空にまで届くような賑やかさに満ちていた。
 桜吹雪の壇上にはじめに現れたのは現神宮家当主で、それに気がついた人々が言葉を止め、談笑を止め、徐々に静かになる。娘の桃巳に支えられて人々の前に姿を見せた神宮の当主は、普段と大差なくさほど着飾った姿ではないが、娘の方は若草色の小袖をまとい、桜色の背景に栄えて愛らしい姿をしている。
「皆、毎年遠路ご苦労。地元の人間は、毎年、準備と後片付けをご苦労。何はともあれ、よく集まってくれた」
 遠慮のない口調で、彼は言う。頓着ない言葉に、すでに酒の入った人々から笑いが漏れた。
「先の戦のことを聞き知っている者も居ろう。不安ではあるだろうが、我が家には自慢の息子が二人も居ることだし、皆がつつがなく生活できるよう尽力することを約束するゆえ、安心してもらいたい」
 言葉はともかく、真摯さの込められた声でもなかった。それなのに、人々は彼を信じて喝采を叫ぶ。
「もう酒が入っている者もいるようだが、とにかく今日は神宮の桜を称えて、一日楽しんでくれ」
 再び歓声が上がり、神宮の当主はあっさりと壇上から姿を消した。
「ねえ、これだけ? これだけ?」
 膝立ちになろうとして、先程から兄に抑えられている茜子が、誰に言うでもなくつぶやいている。
 流紅たちに気づかれないよう、逆に茜子が流紅たちに気づけないよう、なるべく後ろの方からこっそり見物したかった泰明だったが、当の茜子がそれで満足するわけもなく、そして思わぬところから茜子への援軍が来て、結局彼らはこれ以上ない良い位置に座して観桜宴に参加していた。重臣席の、しかもその中でも一番良い場所だ。
「まさか、これからちょっとした催しがある」
 茜子の問いに答えたのは、泰明とは反対側の、茜子の隣に座っている若者だった。山村家の兄妹が分不相応とも言える場所に居られるのは、この武藤家の嫡男である尊芳(たかみち)の配慮だった。彼の隣には、その父親が座っている。
 これが流紅の仕業なのか、それとも当主同様人の良い武藤家の人間だからなのか、泰明には分からなかったが。
「何があるの?」
「おい、茜子、馴れ馴れしいからやめなさい」
 横から泰明が突付いているが、茜子は気にしていない。これだからなるべくこの妹を隠しておきたかったのだが、当の本人は、兄の後ろに隠れていても、欲しい説明もしてもらえないし口うるさくて仕方がないと言って、ちゃっかりと尊芳の横を陣取っている。耐えることや控えめなことの、武家の女の常識など、彼女にとってはどこ吹く風、というところだった。
 人の良さそうな顔立ちをしている尊芳は、そんな様子を笑いながら茜子に言う。
「先に知ってしまっていいのか?」
「うーん、それも、そうなんですけど……」
 好奇心を抑えきれない様子で考え込み、少女はすぐに隣の尊芳を見上げて別の問いかけをした。
「昨年は何をしたの?」 
「紅巴様と流紅様の二人舞だ」
 答えてから、生真面目そうな武藤家の嫡男は、舞台の方へ顔を向ける。顎に手を当てて、考え込むようにして言った。
「神宮家は特にこういう騒ぎが大好きだが、今まで別に毎年催しものがあったわけじゃない。ただ酒を飲んで飯を食って、桜を見るだけの年もある。だがここ数年、神宮家の周辺は穏やかではないからな。こうして当主や子息が民の前に出てくるというのは、兵や住民を鼓舞する意味もあるんだろうな」
「でも、普通そんなの気にしないものじゃないんですか?」
「そう普通はな。すでに上級武家になって久しい神宮家が、未だに他家から「なりあがり者」だとか「鄙の者」と言われるのは、そのせいだ。もっと大規模な国になればまた違ってくるかもしれないが、執政者として正しいのは、神宮の方だとわたしは思うがな」
 お主に言っても仕様のないことかな、と付け足して、尊芳は言った。その言葉に、茜子は少し憤慨して腕を組んで大きく息を吐く。
「それで、今年は何をやるの?」
 考え深げだった尊芳は、途端に破顔して少女を見る。その横で、少女の兄が力なく肩を落としているが。
「流紅様の剣舞だ」
「次男の方?」
「そう。ご長男の、紅巴様の笛の伴奏つきで」
 尊芳がそう言ったところで、舞台上に長男が姿を見せた。
 後ろでひとつに括った、神宮家特有の茶色の髪を風に遊ばせて現れた人は、手に黒塗りの横笛だけを持って立っていた。他を威圧するような存在感を持たない彼は、見る側に決して鮮烈な印象を与える人ではない。だが、明るい色の瞳には聡明さが宿り、穏やかに人々に笑む表情には決して軟弱なところなどなく、静かながらも不動の意志が見える。蘇芳の色の着物の上に黒い長衣をまとう姿は、武人と言うよりは参謀というほうが似合い、そしてむしろ楽人と言う方が似合った。彼が、舞台上の脇のほうへ置かれた床几しょうぎに座すと、すぐに次男が姿を現した。
 彼のまとう金糸と赤糸を主張にして織られた着物は、簡単な武具のついたものだった。鎧をかたどった飾りがついている。腰に佩いた太刀も豪奢な造りで、どちらも、身に着ける人間を選ぶだろうものだった。衣装負けするか、嫌味になるか。
 茶の髪を後頭部に結い上げ、兄と揃いの明るい色の瞳でしっかりと前を見る彼は、堂々とした存在感を持ってそこにいる。凛とした立ち姿に、誰もが若武者の風格を見た。彼は、集った人々を見渡して、そして武藤家の人間の隣にちょこんと座っている山村家の兄妹を見つけると、唖然として壇上の彼を見上げる茜子に、昨日と何ら変わらない顔で笑った。
 静まり返って彼らを見上げる人々の耳に、細い旋律が届く。それを奏でる当人と同じ様に笛の音は景色を邪魔することなどなく、むしろそこに溶け込むようだった。淡い花びらと共に風に遊び、風は彼らの髪をもてあそび、艶やかな衣服の裾や袖を揺らした。
 流紅が明朗な声で謡いながら腕を持ち上げる。振られる白刃の、切っ先の揺ぎ無さ、瞳の強さ。艶やかで、力強い仕草。
 神宮家の当主が自慢と言った息子たちは、神宮の領民にとっても、自慢の跡継ぎだった。



「おう、ちゃんと来たな」
 楽しげに声をかけられて、尊芳にしきりに酒を勧められて萎縮していた泰明は慌てて顔を上げた。
 拍手喝采で終わった流紅の剣舞の後、末子の桃巳が愛らしく歌を披露し、神宮家の催しは幕を閉じた。後は、飲んで騒いでと、人々は浮かれて賑やかに談笑を始めていた。そんな浮かれ騒ぐ人々の中に頓着なく足を運び、泰明と茜子に声をかけた人物は、艶やかな衣装を纏ったままにこにこ笑いながら立っている。尊芳が慌てて席を勧めて、流紅は素直に彼らの隣に座った。
笑う流紅の表情は昨日と変わりはないが、着ているものが違うだけで、まとう空気まで変わったようだった。
「だましたわね」
 多分、見る側の目が少し変わったからだろう、と茜子は思う。
「だましてなんかない。明日になったら名を教えると言っただろう。神宮流紅という」
 態度がまったく変わらない茜子に対し、晴れやかな笑みで、流紅が言った。
「兄さんと共謀してたのね」
「お前の兄は、わたしたちと親睦を深めたかっただけだ。むしろ、逆かな」
 むくれていた茜子は、悪びれない流紅に対し、怒っているのが馬鹿馬鹿しくなって大きく息を吐いた。あれだけのものを見せられて、何を文句言う気にもなれないのも、本音だった。
「仕方ないわね、態度を改めないとだめかしら」
 どれだけ奔放でも、彼女も武家の人間で、そして神宮家に仕える末端の家の者だ。もともと身分には頓着しない性格だったが、それは上の立場のものに敬意を払わないというわけではない。だけども昨日散々同じ目線で話をして、今もこんなに気さくな相手に、今更そんなことができるかどうか、半分自問の意味を込めて茜子がつぶやく。
「そのままでいろ」
 彼女らしい困惑に、流紅は破顔した。



 喧騒は夜まで続いている。人々は入れ替わり立ち代わり宴のあった場所に来て、篝火に照らされながら騒いでいた。時々、大きな声や歌が、山上にある神宮家の天守にまで聞こえるほどで、城にいる人間の微笑を誘う。祭りの後は城下の人間にも、城内の人間にも現実が待ち構えていたが、今日ばかりは誰も諌める言葉を口にしない。
「わしも派手に剣舞がしたかったなあ」
 窓辺によりかかり、そこから見える桜の木々の隙間から臨む城下をうかがいながら、神宮の当主は呑気に言った。
「流紅ばかり目だって、ずるいよなあ」
「父上は、せっかく桔梗どのが衣装を用意すると言われていたのに、肩がこるからといって面倒くさがって、断ったんじゃないか」
 流紅と桃巳は同母だが、その母親はすでにこの世にない。紅巴の母は、彼と共に離れに住まっているが、桔梗殿とはその母の名前だった。
「作ってもらうのは嬉しいが、服を合わせたりするのが面倒なんだよ」
 自分勝手といえば自分勝手な言い分に、流紅がまだ何か反論しようとして、紅巴は苦笑しながらそれをさえぎった。
「それで父上、話とは」
 ――前日から、宴の後に話があると言われていた。
 宣言通りに自室に兄弟を呼び寄せて置きながら、話をはじめる気配のない父は、そう急がなくても、と表情で不満そうに紅巴を見る。つまらなそうに大きく息を吐くと、それから事も無げに、前置きもなく言いだした。
「石川家から、使者が来た。この際は、体裁としては客人と言うべきか」
 話し出すとなれば、唐突だ。要点だけを相手に与えるその言葉で、兄弟は父がこれから言うであろう言葉が、もう分かってしまった。
 冬の戦で、その領地を通った石川家。神宮の領地に隣接し、戦のときに当主を打たれた本條家との間に位置する。神宮の同盟の呼びかけにもずっと応えず、先日の戦にも我関せずを決め込んでいた国だった。
 悟った瞳で父親を見る彼らに、神宮家の当主は告げた。
「お前たちどちらかの、石川家への遊学を認めるそうだ。要するに、二人のどちらかに、石川家へ人質に行ってもらいたい」
 神宮家をとりまく状況は、あまり良くない。同盟を結ぶ国もあったが、それでも現状として回りは敵ばかりと言っていい。
 冬の日の戦で、本條家は窮地に追いやられたが、まだ飛田がその土地を掌握したわけではない。多少国の境界は曖昧になったものの、本拠の城で子息が踏ん張っている以上、また近いうちに戦が起きるのは目に見えている。その戦にまた神宮家が支援するかどうかは状況次第だが、もしまた援軍を、となった時に、また石川の領土の門前で立ち往生するわけには行かないのだ。そしてそれよりも、以前より飛田家が近くなった今では、なんとしても石川家が完全に敵に回るのは避けたかった。
 普通他国の主君の子息を人質として迎えるのは、戦わずして相手を従わせるために、もしくは服従の意の表れとしてわざわざ差し出させるものだ。あなたの国に決して刃を向けません、という意志の表明だ。たとえ戦を起こさないにしろ、もし人質を送った国が意に添わないことをしたならば、真っ先にその人質が殺される。それは立場の強い国が、より弱い国へ、もしくは戦に負けた国へ要求するものだった。
 しかし今回の場合は、多少付加的な意味がある。
 神宮の側から、あえて人質と言う言葉は使わなかったが、それを申し入れた。相手は人質を受け入れ、その命を握ることで、領内での行軍を黙認する。神宮家に領内で不振な動きをさせないための保険だ。軍が国を離れている間神宮家も石川家の行動が気になるが、同時に石川家のほうも神宮の軍が、援軍に出かける振りをして自国の攻撃に転じてくることを恐れている。それを抑えることが出来る。
 現実としては、神宮の血筋を領内に受け入れることは、簡単なことではないのだが。人々は、飛田家の神宮への憎悪を、周知の事実として知っている。むしろ誇大して皆に知れ渡っている。飛田は、神宮の血筋の者を執拗に狙うと思われている――事実、そうだ。例えばもし、もし桃巳が他国へ嫁いで子を産んだら。その子を殺すためだけに、攻められるかもしれないとすら考える者も多くはない。それほどまでに、戦国を呼んだ乱は人々の中に恐れとして、むしろ伝説のようなものとして刻まれている。
 それでなくても、飛田と諍いを起こし、もし滅ぼされるようなことがあったとしたら。誰もが、当主の子が逃げ伸びて国を再興してくれることを願うだろう。手段を選ばない者たちなのだ、彼らは。同族殺しが伝統とすら言われるほどに。捕らえられれば、たとえ女子供でさえ、殺される。必ず。
 だがこの場合に関しては、多少話も変わってくる。はじめから積極的に神宮家に味方するつもりのない石川家は、もし神宮家が飛田に負けたなら、まっさきにこの人質を差し出せば、飛田に媚びることが出来る。
 もう同盟などと高望みはせず、神宮の子息を勉学の為にそちらの領地へ預けたい、とは、こちらから申し出ていたことだった。今回のことは相手の国にとって、二重の意味の保険だ。――断られることはないだろうと、はじめから踏んでいた。
「ちなみに、こちらから何も言わなかったのもあるが、桃巳との政略結婚はやはりありえないようだな。あくまで、お前たちどちらかが所望だ。どちらが良いとは言っておらなかったから、どちらでも良いということになるが」
 兄弟と同じ、明るい色の瞳を子どもたちに注いで、神宮の当主は言う。
「お前たちの意志を聞きたい。どちらが行く」
 空気が張り詰めたのは、一瞬だった。沈黙はすぐに破られる。
「……父上」
「わたしが行く」
 言いさした紅巴の言葉をふさいで、流紅が強い声を出した。紅巴が諌めるような眼差しを向けるが、気にしない。
「残った方が、跡目だということでしょう。ならば、兄上が行っては意味がない」
 だが、紅巴は小さく息を吐いて言った。
「流紅には向かない」
「どうして!」
「人質になるということは、何も出来ないということだ。もしあの土地で戦が起きても、我々が窮地に陥っても、何の手出しも出来ない。黙って見ていることが流紅にできるか?」
 流紅が言葉に詰まったところで、紅巴は穏やかに続ける。
「臆病者とそしられるのは、ぼくの方でいいんだよ、流紅。お前は誰からも、勇気ある若武者だと称えられているのだから、その事実をあえて損ねる必要はない」
「でも、兄上は体が強くはない。人質にいって慣れぬ環境で体を壊したら、何か問題が起きたとして、脱出の機会があっても生かせないかもしれないじゃないか」
「そんな小さなことを言っていられる状況じゃない」
「小さな問題なんかじゃないでしょう!」
 諌めるような言葉に、流紅が眉を吊り上げて兄を睨んだ。そんなこと、などと言われては。彼にとっては、そんなことでは済まない問題だというのに、本人が軽々しく言う言葉に腹がたった。いつもそうやってこの人は、自分を軽んじる。
 流紅の怒りを同じように感じながらも、父はそんな二人をただ苦笑して見た。険悪になった空気に、変わらない声音で言葉を落とす。
「別に、残った方が跡目だということにはしない。臣たちはそうとるかもしれないが、わしはそうしない。質になったからといって、絶対に帰って来れないわけではない。状況次第でどうにでもなるし、必ず救いの手は出す。わしが、子どもを見捨てるわけがないだろう。そんなことはあちらさんも承知のはずだ。何せうちは神宮家だからな」
 情に厚い、成り上がり者の神宮家だから。
 飄々とした調子で言う彼に、紅巴も苦笑しながら言った。
「本当はもう決めているのでしょう、父上」
 この人は、他人の意見を聞くなどということは、あまりしない人間だ。横暴なわけではないし、勿論自分よりも正しい意見には耳を貸すし、参考としてわざわざ尋ねることもあるが、自分なりの判断に基づいて決定したことはあまり変えない。――そうして彼が決めた物事に、あまり間違いがないのも事実だった。
 ばれたか、と笑ってから、神宮の当主は告げる。
「家臣からは、どちらかというと紅巴を推す声が強かった。わしもどちらかと言えば、紅巴が行った方が良いだろうと思っている」
「父上!」
 流紅が我慢できずに声を荒げたが、相手は片手をあげてそれを制する。
「紅巴なら、他国へ行って学んでくることも多かろう。見てほしい情報も見逃すまい。流紅は大雑把だから、それにはあまり期待できないしな。それにお前たちも分かっていると思うが、石川家にはあまり信が置けないから、やばそうだと思えば、とっとと逃げてくればいい。状況判断は紅巴のほうが秀でているし、適材適所というやつだ」
 あっさりと言われて、流紅の顔から険が消えた。説得されかかってしまった自分に困惑し、さらに自分をからかうような父の言葉に怒っていいのか、どういう態度をとればいいのか分からないという表情だ。
「でも……」
 理詰めで言われてもすぐには納得できない。見捨てないと言われても、父がどれだけそれを望んでいても、実際にできるかと言うと難しい問題だからだ。そして兄の力を信じないわけではないが、もし何かがおきたとき、遠くにあって見守るだけというのはとてもつらい。自分自身がその渦中にあるならなんとかする自信もあるし、難しい状況に兄を放り込んでおくよりは、実際に自分で立ち向かう方が気が楽だった。
 そんな流紅の気持ちは、父も同じだったのかもしれなかった。
「ただ紅巴にも一言言っておくが、絶対にあきらめるな。お前はすぐ自分のことを軽く見る。本当はそれを考えて、流紅に行かせようかとも思ったくらいだ。もう少し余裕があればそうしたんだが、やはり適材適所というには流紅では不安がある」
 はい、と紅巴が静かに頷くのを横目で見ながら、流紅はやはり文句を言わずにいられなかった。
「それならそれで、最初からわたしたちの意見なんて聞かなくていいでしょう」
「どうせお前が文句を言うと分かっていたからな。先に言わせておいたほうが納得するだろうと思っただけだ」
 言いながらからからと声を上げて笑う。
「お前にはお前の力の使い所がある」
 それがどこだとは具体的に言わなかったが、神宮の当主は慰めで人をほめる人ではないから、それは事実なのだろう。
 いつもと変わらない父に対しても、こんな状況でもいつもと変わらず穏やかな紅巴にも、なんだか本当に腹がたってきて、流紅はぶすっとしてつぶやいた。
「本当に父上は意地が悪い」
 彼の意図通り、反論の言葉が言えなくなってしまった。父に対して、卑怯だと思ったし、心配をわかってくれない兄にも腹がたったし、何より説得されてしまいそうな自分が許せない。分かった、と言うことなど、自分自身で許せない。
 木の床を睨みつけて、せいぜい気も荒くため息をつくことくらいしか出来なかった。



「兄さまっ」
 ぱたぱたと軽い足音をさせて、少女が紅巴の胸元に飛び込んできた。気が強くて、見る人に鮮やかな印象を残す少女は、そこにいるだけで花が咲き乱れるように賑やかな存在感がある。それは艶やかな花ではなく、日に向かってまっすぐに伸びた、素朴な力強さのある花だったが。
「本当に明日行ってしまうの? 誰が桃巳に笛を聞かせてくれるの」
 観桜宴から十日と経たない出立の朝、皆で朝餉を食べた後だった。食事の最中もその後皆で話している間も、ずっと拗ねたような顔で黙り込んでいた少女は、自室に引き上げて行ったと思ったら、回廊を歩いていた紅巴のところに身を翻して戻ってきたのだった。とうとう我慢できない様子で、紅巴にぎゅっとしがみついて、泣き声で訴える。
「少しの間だけだよ」
 微笑して、紅巴は少女の髪をなでる。だが桃巳はタダをこねて、そのままで頭を左右に振る。
「ちょっとだっていや。兄さま、今日だってお顔の色が悪いし、流紅みたいに頑丈じゃないから、心配だよ」
「流紅が遊んでくれるよ」
「流紅はがさつだからいや」
 この少女が兄と呼ぶのは紅巴だけで、同母の兄の方の流紅をいつも呼び捨てにする。慕ってついて歩くのは紅巴の方にであって、流紅に対しては喧嘩仲間のような感覚であるようだった。
「他人のことを、ガサツとか言える口か? これが」
 後ろから少女を引き剥がすと、流紅が遠慮なく少女の頬を引っ張った。少女は驚いた顔でそれを振り払うと、肩を怒らせて流紅の方を振り返る。
「流紅の意地悪っ。乱暴者! どうして兄さまが他の国に行くのを止めてくれなかったのっ」
 無邪気な少女は、紅巴の後ろに隠れると、流紅に向かって不満をぶちまける。流紅は、フンと鼻をならしただけだったが、紅巴が少女の頭に手を置いて、優しく言った。
「ぼくが行きたいって言ったんだよ。かわいい桃巳を守るためだから、許してくれないかな」
「みんな、桃巳や流紅や父さまや、神宮のみんなを守るためだって言うけど、桃巳は兄さまに会えないのがいやだもの」
「ぼくも、桃巳に会えないのは寂しいよ」
 慰めるためだけでなく、本心だった。使命感のために、自分が行くとは紅巴自身が言い出したことでも、遠く離れることになる故郷や人々と離れることが寂しくないわけがない。いつもと変わらず穏やかな口調の紅巴だったが、その声からにじみ出るものを感じたのだろう。桃巳は何も言い返さず、ただ後ろから紅巴の顔を覗き込むようにして見上げていた。
「ほら、もう邪魔するな、桃巳。兄上は準備で忙しいんだからな」
 腕を組んだ流紅に、邪険に言われて桃巳は相手を睨みつけた。
「なによ、意地悪っ」
 少女は再び叫ぶと、紅巴を離した。彼女が来たときと同じように、パタパタと音をさせながら、小袖の裾を翻して回廊を駆けていく。
「泰明の、小さな子どもにまで嫁の貰い手を心配されている、って言葉を思い出すよ。武家の女の礼節と貞淑って一体なんだ、って気になる」
 その後姿を見送りながら流紅は苦笑をもらした。彼も紅巴も、神宮の家臣たちも桃巳には甘い。それは彼女の奔放さのせいかもしれないし、逆に彼らが甘いから、彼女がやんちゃに育ったのかもしれない。ただ、桃巳も神宮の血をひく人間だ、というだけなのかもしれないが。
「桃巳はまだ子どもだからね。茜子殿は武家の女らしく、しっかりとした教養があって頭のいい人だと思ったけどな」
「ちょっと口が出すぎだけどね」
 流紅はおどけて少し肩を持ち上げて見せた。それから、笑みをもらした紅巴と一緒に、彼の部屋に向かって歩き出す。紅巴の部屋は西側の離れにあって、当主の側室である母とそこに住んでいる。
「それはそうと兄上、桃巳が言ってたが、顔色が悪い」
「気のせいだよ。日陰だからじゃないかな」
「そうかな」
「みんな、過保護だな。そう心配しなくても、ただ隣の国に行ってくるだけだし、いつもいつも倒れたりしないよ」
 紅巴は、おかしそうに笑った。
 西の離れにもいくつか部屋があり、そのうちひとつを紅巴が使っている。日当たりの良い回廊に立って襖を開けると、部屋の中に光が入った。もともと物のない部屋だったが、ほとんどの荷が運び出されて、今は更にがらんとしていた。
「本当に、手伝いと言っても、してもらうことなんて何もないのに」
「うん、分かってたんだけど」
 部屋に入る兄の背を見ながら、流紅はうつむいてつぶやく。
「なんだ? 流紅も今日は甘えん坊なのか?」
 くすくす笑いながら紅巴が振り向く。だが、いつもなら桃巳と同じようにむくれて言い返す流紅が、神妙な顔で回廊に立ち尽くしたまま、うん、と頷いた。先刻までとはうってかわって、強い瞳で兄を見る。
「どうした?」
 もともと流紅は、紅巴が行くことに反対だった。だからまだ駄々をこねているのかと思ったが、どうやら違う。寂しがっているのとも、違うようだった。どこか思いつめたような、それでいて何かと決別したような顔で言う。
「兄上は、我慢強いし、絶対に弱味を見せないから、無理をしてるんじゃないかと思って」
「ぼくは、何も……」
「本当なら、そろそろ効き目が出てきて、立っていられるはずないんだけど」
 紅巴が眉をひそめる。
 一体何を言っているのか。そう問いたかったのかもしれないし、もうそれは通り越しているのかもしれない。
 ――変調に、彼自身が気づいていないわけがないから。
「そうか」
 つぶやいて笑った顔は、力が抜けていた。途端に全身からも力が抜けて、紅巴は床の上に崩れるように座り込んだ。そのまま仰向けに倒れそうになるところを、急いで部屋に足を踏み入れた流紅が支える。
 流紅にとって、彼がつらそうな姿を見るのは、とても耐え難いことだ。体が強くないくせに、ぎりぎりまで我慢して何事もこなして見せようとして、結局兄が倒れたり倒れそうになったり、具合が悪そうな様子を見るのは少なくないことだった。多分、実際にそういった姿を流紅が目にしているのは、紅巴が体を壊して苦しい思いをしているときの、その半分にも満たないのだろうが。いつもそれを見るたび、思うたび、誰かに乱暴に心臓をつかまれたような気持ちになる。
 ただ、今日だけは。
 自由にならない頬の肉を無理矢理ゆがませて、紅巴は言う。多分、苦笑しているのだろう。
「一服盛ったな」
「茸を」
 いつもなら、悲しい顔で必死に兄を呼び続ける流紅が、今日は決して動揺しなかった。
 静かな目で告げる。
「体が痺れて動けなくなるっていうやつを。昨日賄いの人に頼んで、今朝の兄上の膳にだけ入れてもらった。毒じゃないってなかなか信じてもらえなくて、目の前で焼いて食った」
「昨日見かけなかったのはそのせいか」
「ひどいものじゃないから全然動かせないわけじゃないし、すぐ効果は消えるそうだ。わたしは半日で治ったけど、兄上だったら、一日くらいはかかると思う」
 だけど、目的を果たすには、それで十分だ。――それ以上である必要もない。彼に、危害を加えるなんて、不本意そのものだから。
「こんなときに動けなくなって、みんなの兄上への評価がまた悪くなってしまうかもしれない。だけど、そんなものはここにいればどうにもで出来ることだ。石川にはわたしが行く」
 ――――納得なんて、しなかった。
 理詰めで言われても、感情は理解していなかった。
「流紅」
 紅巴が咎めるような声を出す。
「もう決まったことだ。今更、こんなことをしてもしょうがないだろう。ぼくの都合が悪くなったら、日程を延ばせばいいことだ。こんな、馬鹿なこと……」
「すぐに人を呼んでくるから、大人しくしていてください。父上に言って、すぐにわたしが起てるようにしてもらう」
 相手の言葉の先を封じて、聞く耳がないことを流紅は態度で示していた。その目で、声で、考えた末のことなのだと、告げていた。
 座っているのがやっと、という様子の紅巴はそれでも何かを言おうと口を開いたが、流紅はそれを待たずに彼を床に寝かせる。陽だまりの中の部屋の床は、その日の暖かさに反して冷たく、床に膝をついた布越しの肌にも冴えたものが伝わってくる。感覚の麻痺している紅巴には多分、分からないだろうが。
「流紅」
 襖の前に立って出て行こうとした流紅の背に、紅巴の声が追いすがる。
「兄上、説教なら帰ってから聴くよ」
「違う。流紅、待ちなさい」
 振り返れば、紅巴は動かない体を無理に床の上に起こして座ろうとしているところだった。何があったって言うことを聞かないつもりだったのに、考えるより前に書け戻っていた流紅は、彼を止めようとした。けれども、動かない体を無理に動かそうとして勢いが過ぎたのだろう、振り払うようにしてその手を断って、紅巴は腰に手を伸ばす。
「これを」
 震える手で刀を持とうとして力が入らず、紅巴の頬が悔しげに引きつる。
 紅巴の元服のときに、父からもらった刀だった。名工に打たせたもので、鍔にも飾りが施されており、身を飾り立てることを好まない紅巴が、唯一身に着けている装飾品のようなものだ。
「兄上、それは」
「持っていけ。ぼくだって、お前の身を案じてる。人質と変わらない身で、帯刀は許されないかもしれないけど、他の刀よりこれのほうが役に立つ。それに次期当主はお前だ。家臣のほとんどがそれを望んでいる。必ず無事に帰ってきなさい」
 自分だけ苦しいのだと思うなと、怒っているような声だった。滅多に感情の波を見せない紅巴が、厳しい目で流紅を見上げて、再度刀を引き出そうと手に力を込める。
 それを見て何だか泣きそうになりながら、流紅は彼の手から刀を受け取った。彼を助けてその刀を彼の帯から抜き出し、強く握る。その様子をしっかりと見届けて、確かめてから、紅巴はようやく体の力を抜いた。
「こんなもの、もろともしない強い肉体がほしかった」
 途端に、明るい色をした紅巴の瞳から、涙がこぼれ落ちた。悔しげではなく、どこか悲しそうで、そしてあきらめの混ざったような声だった。
「何が幸に転じるか分からない。これも運命だと言うのなら、お前はお前で、ぼくはぼくで、それに戦っていくしかないんだな。どうかこのことが、この刀が、お前にとって幸運に働くように」
 願うことは、同じだった。



「やりやがったな」
 門前では、準備を整えた一隊がいる。神宮の当主は彼らの様子を眺めながら、近く木の下に座して、同じように紅巴を待っていた。
 その彼の元に姿を現した次男を見ての、第一声はそれだった。浮かべた表情は、苦笑というよりは、いつものような飄々としたものに近い。
 流紅の様子を見て察したのだろう。何を報告するよりも前に言い当てられて、流紅は少し困惑した。――あるいは、ただ当てずっぽうだったのかもしれないが。
「予想してたんですか?」
「まあな」
 やっぱそうか、と付け足して、葉が芽吹きだした桜の木の下で、父は笑う。
「紅巴もそうだが、お前はもっと融通が利かないからな。何かするのではないかと思っていた。そこまでして、自分が石川に行きたいか」
 枝に残った花びらも、地面に落ちた花びらも、風に煽られて宙を舞った。そして刹那強く吹いた風が枝を揺らして音を立てても、流紅の耳が続いた言葉を聞き逃すことはなかった。
「さっさと隠居して、わしが行っても良かったのだがな……」
 思わずというように零れ落ちた言葉は、切実な響きがあった。出来るわけがないことを、つい言葉にしてしまうほど、悲痛な思いが。観桜宴の夜に、紅巴に対して感じた流紅の気持ちは、父も同じだったのだろう。敵陣に一人で彼を放り出すよりは、自分が行く方がまし。
 もしかしたら本当は、彼もやはり、紅巴を一人で行かせることに、まだ疑問があったのかもしれない。
 流紅は手にした刀を握り締めて、頷く。
「兄上は、皆が思っているような意気地のない方ではない。ひとりで行かせて、自分が邪魔になると思えば、何をするか分からないから」
「お前は?」
「わたしは、馬鹿だから」
 微笑して、流紅はつぶやく。自分を卑下しているわけではない、たくさんの思いを、そのひとことに込めて。そして毅然とした顔で神宮の当主を見て言った。
「罰しますか?」
「何を言うか」
 怒ってなどいないのが、その様子を見ても分かる。神宮の血筋は、基本的に感情に素直だ。どこか楽しげに笑う彼の表情に、嘘はないだろう。
「何かするかもしれないと思いながら野放しにしていたわしも悪いからな。まあ神宮の当主としては面目丸つぶれだが、めったにない流紅のわがままだから許してやる。ついでに言うと、こんなこともあろうかと思って、実は石川家にはどちらが行くのかをまだ伝えていない。お前がそれでいいなら、わしは別に構わぬ」
 ただ、と彼は続ける。簡単に結っただけの髪を風に遊ばせながら。
「流紅、これだけは言っておく。きっと、どちらにしても、お前は後悔することになるだろうから。自分で選んだのだということを忘れるな。何が起きても、巻き起こることすべてに責任を持てとは言わない。だが、自分が選んだことだとあきらめてしまえば、真っ向から立ち向かうこともできるだろう。多分、どうにかなるさ」
 無責任といえば、無責任な言葉だった。責めているとも、突き放しているとも言えば、そうも取れた。だけども、どこかあっけらかんとした表情の中に、彼の強い信念が見えた。
 自分が決めたことだからと言って、全部に責任は持てなくても。すべてをその手に掴んで、握り締めておくことはできなくても。――何か、耐えられないことが起きても。それを選んだ自分を責めるのではなく、まあ自分で選んだことだから仕方ないと、あきらめてしまえば、気負わずにいけるだろう。
 そして再び吹いた一陣の風が、しがみつく花々をさらうように、もしくは流紅の見送りのためであるかのように、小さな花びらを舞わせる。下に座した人の肩に、立ち尽くす流紅の肩に、舞い降りる。
 花の命は短く、城下の祭も終わり、花の祭の時期も過ぎようとしている。新しい葉が芽吹き、桜の色だった桜花の山は青嵐に賑わうようになる。時間が過ぎるのは早い。来年の祭りもまた、すぐ来るだろう。
 そのときにはまた同じように、父と兄と妹と、神宮の暖かな民と一緒に祝い過ごすことを堅く誓いながら、流紅は父らしい訓示につられるように笑った。