空蝉
一、気怠い真夏の診察室。

 士族の女だろうか。ちょっとした仕草が指先まで丁寧で、上品だった。張り詰めているわけではなく、動きがしなやかだ。ただ、物憂げではあるが。
「私に触ると、死ぬんですって」
 ゆるゆると笑い、楽しそうに言った。歌うように。
「ご覚悟がおあり?」
 自意識過剰な女だ。
 それが、最初の印象だった。


 その女が何者か、誰も知らない。


     ※


 暑い。
 夏の日差しは容赦なく、窓の外に降り注いでいる。僕は二階で窓際の机の前に座し、団扇を動かしていた。眼下を見遣ると、陽炎で景色も歪んでいるような気までする。
 僕のいる診療所は箱の形をした建物で、一階を診察に、二階を自宅に使用している。二階にいると、屋根の焼かれる音が聞こえてくるようだった。
 こんな日に、きっちりとした襯衣シャツに上着まで着込んでいると、体に熱が溜まって茹で上がりそうだ。襟をくつろげ懸命に団扇で煽いで、なんとか自分の方へ風を呼び込もうとするが、残酷なまでに凪いでいる。蝉の合唱だけが空気を揺らしていた。
 斜向かいの氷屋の軒先にぶら下がる氷の旗が涼しげだった。カキ氷でも食べれば、体のだるさがとれて少しは動く気になるだろうか。思ってはみたものの、買いに行くのが億劫だった。軒先で炭酸ソーダ水を飲んでいる子供が少し恨めしい。あきらめて、机に向きなおって書き物をしようとしたが、鼻あてが汗で滑って眼鏡がずり落ちてきて、気が散って仕方がない。
 苛々しても仕方がないのは分かっていても、やはり苛立ってしまう。大きく息を吐き、筆記具ペンを放り出して、椅子の背もたれに身を投げ出した。再び眼下の景色を見遣る。
 すると、氷屋の前を、手布ハンカチで額の汗を拭きながら歩いてくる男の姿が見えた。
 僕は思わず、あっ、と声をもらした。団扇で煽ぐのをやめて、慌てて首をひっこめる。積み上がった本や書類で散らかった机の上を申し訳程度に片付け、くつろげていた襟元を慌てて直した。ちょうどその直後に、浴衣の上から白衣を着こみ、髪を銀杏返しにした若い看護婦が、開け放した戸から顔を覗かせた。
「先生、お客様ですよ」
「上から見ていましたよ。どうぞ、お義父さん。ちょうど患者さんも途絶えて、暇をしていたところでした」
 続いて、口髭を蓄えた男性が入ってきた。僕は眼鏡を外して机に起き、再び彼の顔を見たが、視界がぼやけてしまって相手の表情も分からなくなった。立ち上がって出迎え、壁際に置いていた椅子を持ってきてすすめる。
「沙起子さん。申し訳ないんですが、外で冷たいもの買ってきてもらえませんか。お金は後でお支払いしますから」
「分かりました。大事なお客様ですからね」
 看護婦が一礼して出て行ったのを見送ってから椅子に座り、ドアを見ながら義父はぼそりと言った。
「働く女は矜持が強くて扱いにくいものだが、お前は何かコツでも心得ているのか?」
 少し悔しそうで恨めしそうな彼の口調に、元の椅子に座りながら、僕は少し笑ってしまった。
「彼女は一人でよくやってくれていますよ。働き者ですし、不精な僕のかわりに掃除をしてくれたり、患者さんのことに気を配ってくれたり、女性のこまやかさはありがたいものです。たぶん、僕が頼りなさすぎるので、使命感に燃えているところもあると思うのですが」
「確かにお前は、読書やら研究に没頭すると、自分のことなど後まわしになるからな。留学中どうしていたのか、不思議でたまらない」
「人間、必要に迫られれば、ある程度はやるものです」
「ある程度、な」
 義父が苦笑をした気配がした。
「本当に暇だったのか? 他に患者がいるのなら私を優先しなくていいんだぞ」
自室ここでのんびりしていたくらいですから、本当に平気ですよ。まだ開業して何年も経っているわけではありませんし、年若い医師は不安だという方も多いんでしょうね。ご年配の方の話し相手くらいには役に立っていると思うんですが。かえって、論文を書いたり研究したりする時間もとれて、有意義には過ごしていますよ」
 儲けが出なくてすみません、と言うと、そんなことは気にするな、とため息がちに返って来た。どういう表情かは見えなかったが、怒ってはいないだろう。
「珍しいですね。診療所にいらっしゃるなんて」
「最近の暑さのせいか、夜は眠れないし、体がだるい。大したことはないが、そういえば、身内に医者がいたなと思いだしてな」
「倒れるまで働いてお義母さんに怒られるよりは、ずっといいですよ。そういったご用件なら、下の診察室に移動しましょうか」
「いや、ここでいい。大したことはないから」
「暑気あたりでしょうか。脈を測ってみましょう。手を出してもらえますか?」
 義父は襯衣シャツの袖をまくり、僕に片腕を差し出した。僕はその腕を掴まえようとしたが距離があまりつかめず、眉間に皺をよせて、無意識に顔を父の腕に近付けていた。その姿を見て、父は息を吐いた。今度は、大きく。
「眼鏡をしていないと見えないんだろう。今更よそよそしいことをしなくていいから、かけていなさい。誰もお前のことを高慢ちきだと思ったりしない」
「ええ、はあ、すみません。なんだかあまりいい印象を持ってもらえないことが多くて」
 確かに、作業に手間取って仕方がないので、僕は先程机の上に置いた眼鏡をかけることにした。あきれ顔の義父の顔がはっきりと見える。今度こそ義父の腕をとった。
「お義父さんももっと、気軽にここに来てくださいね。あなたのお金で建った診療所なんですし、ちょっとしたご相談でも聞きますから」
 僕の言葉に義父は、うむ、と短く応えた。少し居心地が悪そうに、手布ハンカチで額の汗を拭う。言い方が悪かっただろうか、とか、少しでも毒を含んだように聞こえてしまっただろうか、と少し心配になったところで、義父が言った。
「橋本子爵を知っているか?」
「ええ、聞いたことはありますよ。貿易の事業をなさっておいでの方でしょう。お父さんともお仕事の関係で縁が深いとうかがったことが。確か、今年ご子息が学習院へ行かれたとかで」
「そう、ご子息がお前のように医学に興味をもたれたそうでな。いずれは洋行もしたいとおっしゃっていると、ご相談を受けた」
「いずれは、家督を継がれるご子息ですから、子爵も驚かれたでしょうね。語学を学びたいなら明治学院が良いでしょうけど、医学なら帝国大学へ行かれるのが良いでしょうし」
「そう、子爵も洋行や語学は良いのだが、医学はと言われていてな」
 つられたように話し続けていた父は、言葉を止めると、彼の手首を掴んでいた僕の手を振り払うようにして、会話を打ち切った。
「そうではない、そういう話ではなくて」
 人の良い父は、すぐに人の調子に巻きこまれる。くすくす笑いながら僕は、空いてしまった手で眼鏡を押し上げた。はい、と声を返す。
「今日来たのはだな」
「具合が悪いのでは」
「いや、体が重いのも確かなのだが、それだけではなくて」
 父は少し罰が悪そうな顔をする。僕は、父の腕を掴んでいた手を離した。
「橋本公の縁の方が重い病のようで、腕のいい医師を探しておられてね」
 そこまで聞いて、ああ、と僕は納得した。父はまだ言いにくそうにしているが、僕は笑みを刻んで応える。
「それで、僕を?」
「ああ、つい、お前の話をしてしまってね」
 目立ったりするのが苦手で、人とあまり自分から関わろうとしない僕の心情を分かってくれている筈だから、義父は本当に、つい、僕の話をしてしまったのだろう。僕を利用して子爵に取り入ろうなどとは考えなかったはずだ。自慢になどならない義理の息子ではあるが、父は少し子煩悩なところがある。むしろ子爵自身が僕のことを覚えていて、義父がそう言い出すのを見透かして、父に話を持ちかけた気がした。
「構いませんよ、お義父さん」
 気軽く請け負うと、義父は僕の顔を見た。ため息をつく。いくら僕が人が苦手とはいえ、仕事の紹介ならをして物憂そうにするということは、何か訳ありなのだろうか。
 気づかないふりをして、僕は父に明るく声をかけた。
「僕が直接、橋本公のお屋敷へお邪魔した方が良いですか。日程の約束はされているのでしょうか」
「いや、それがお屋敷にはお住まいの方ではないようだ」
「ご親戚ですか。それとも、なにかご縁のある」
 父は苦笑してから言った。
「ああ、さる女性で」
 屋敷に住んでいなくて、縁のある女性。内縁の女――妾か。
「でもお父さん、子爵の内縁の方ならば、それなりのご身分の方でしょうし、僕なんかが突然お邪魔したら失礼にならないでしょうか。あちらが不安に思われるかもしれないし」
「すぐそうやって自分を卑下するのはやめなさい。もしお妾だと公言してはばからない相手ならば、そうおっしゃると思うのだがなあ……そうでないということは訳ありなのだろうから。腕が良く、口が堅く、手が早くない医師を探しておられるのだよ」
 珍しく、父は軽口のような、蔑むような言葉を唇に乗せた。
 ご一新から数十年。かつて妾は認められていたが、明治と改められた世で、今では一夫一婦制が定められている。それでも、男が妾を持つことは、公然としてあることだった。
 子爵ともあろう人が、身分卑しい女を、ともあまり考えられないのだが。父は一人つぶやいた。
 四民平等とは言え、刻まれてきた差は、そう簡単になくなりはしないのだ。それは深く長い、傷のような溝だ。子爵自身の無意識が、身分卑しい女を選ぶことはないだろう。それでなくとも、子爵として公の己の立場をわきまえていれば、評判を貶めるような行動はしないだろう。
「手が早くない医師、ですか。まあ、それは確かにご心配でしょうけど」
 僕がつぶやいたところで、コンコンと戸を叩く音がして、看護婦が再び姿を見せた。家具の少ない僕の部屋には食卓もなく、論文書きなどに使うための机と寝台ベッド箪笥チェストと、あとは来客があったときのための椅子が置いてあるくらいで、彼女は僕の前の机に、二人分のお茶を置いてくれた。診療所には不似合いの江戸切子だ。硝子ガラスの中で、氷が冷たい音をたてる。以前に義父が訪ねて来た時、来客用の食器などが一切なく僕がいつもしているように、ビーカーでお茶を出したことがあった。その時は渋面を見せただけで何も言わなかったが、後日この江戸切子のグラスや、ビードロの器などが届けられたのだった。
 沙起子さんはお茶を置くと、お盆を抱えるようにして父の後ろに立ち、ツンとした表情で言った。
「口をはさみますけど、うちの先生にそんな甲斐性があるとは思えませんよ。奥手で、びっくりするほど鈍いんですもの」
 冷たいグラスを両手で抱えて、ひんやりとした感触を楽しんでいた僕は、思わぬところからの指摘に、びっくりして顔を上げた。
「先生に話し相手をしてほしいのが、お年寄りだけと思っておられるようですけど、ご近所の若奥さんだとかもよくお越しなのに気づいておられないんですか? 女学生なんかも時々、小雀みたいにさえずりながら診療所を覗いていますよ」
「……そうだったんですか」
 彼女が時々、診療所でピリピリしているのはそのせいだろうか。今も何故か怒っているようだったが。
「僕が物珍しいだけじゃないんですか?」
「もちろん、それもあると思いますけどね。この診療所はできた時から噂の的でしたし、帝国大学を出た若いお医者さんが白衣に眼鏡で外をうろついて、時々ぼんやりと散歩しては、野良猫を構っていらっしゃるし」
「……なんでそんなことまで知ってるんですか」
「毎日長い時間この診療所にいますからね、それくらいはわかります。奥様方の噂話も、耳に入りますし。私は地獄耳なんです」
 そうですか、と僕はただ苦笑する。
「僕はこの通り、融通が利かない人間ですから、子爵がご心配なさるようなことにもならないでしょうし」
 義父の顔を見ると、彼は渋面で江戸切子に口をつけていた。突然の冷たい飲み物がきつかったのかと思ったが、どうやら彼は、沙紀子さんのような、はっきりきっぱりとした女性が苦手のようだった。
 義父の立場を考えれば、軽はずみな行動などできるわけもない。
「面倒かけてすまないね」
「いえ、これでお義父さんも橋本公に恩を売ることができますし」
 そんな滅多な事を言うな、と父は小さく苦笑する。
「今度は、具合が悪くないときにも遊びに来てくださいね、お父さん」
 僕が続けた言葉に、今度はまた居心地悪そうな顔になった。それを見て、つい僕は笑ってしまった。

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