空蝉
二、花には容を想う。

 その数日後、僕は沙起子さんと共に往診へ出向いていた。診療所を無人にしたくないため、往診は大抵一人でやっているが、今回ばかりは、せめて最初くらい女性も一緒の方がいいだろうと思い、ついて来てもらったのだった。
 夏の勢いは衰えるところを知らず、溌溂とした眩さと、耐えようのない圧を振りまいていた。上から照りつける陽と、地面からじりじりと立ち上るような熱が、体を包み込んでいる。鞄を持つ手にも汗がにじんで滑る。
 幸いなことに、目的の家は、川べりから少し路地に入ったあたり、涼しい風が吹き込むところにあった。質素で決して大きくはない一軒家だった。庭木は華やかではないが、手入れされている。玄関横に朝顔の鉢植えが置かれていた。
 簡素な門の前で立ち尽くし、なんとなくすぐに入り辛くて、少し家の様子を伺う。シンと静まりかえって、人の気配がなかった。訪ねる日時を伝えていたはずだが、留守なのだろうか。それとも、眠っているのだろうか。茹で上がりそうに暑い日中ひなかだが、相手は病人だ。僕は起き上がることもできずに倒れているかもしれないことに考えが至り、僕は観念して門を開け、玄関の前に立つ。
 かばんを置き、眼鏡をはずして手布ハンカチで拭いて、もう一度かけなおして、気持ちを入れる。くしゃくしゃになった手布を、丁寧に折りたたんでから上着の隠しポケットにしまった。
 戸を叩いて呼ばわる。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか」
 声がいたずらに響くだけで、やはり反応がない。あまりご近所に目立ちたくない僕は、少し困ってしまった。
「お出かけなんでしょうか」
 少し後ろに立つ沙起子さんは、抑えた声で言った。出かけるときからあまり機嫌が良くない。
 資産家の愛人という立場に多少なりと思うところがあるようだった。彼女のように、男社会で口さがなく言われながら自分の力で懸命に働く女性にとっては、いらだちやもどかしさを感じるのかもしれない。だが、患者のことをとやかく言うことは不謹慎だという意識があるようで、言葉にはしない。表に出ないようにしようとしているのは感じられたが、それはあまり成功しているとは言えなかったが。義父の言うように、矜持が高いということなのかもしれない。だけどまるで子供のようで、思わず顔が笑ってしまっていた。沙起子さんにバレたら怒られるなと思い顔をそむけたが、彼女が気がつく前に、家の中から小さく物音が聞こえきた。僕は慌ててゆるんだ顔を元に戻す。
 ガタガタと音がして、少しだけ引き戸が開いた。女性は通り抜けられても僕は通り抜けられないくらいの幅で、家の空気が切り開かれる。室内は暗く、影になってよく見えなかった。
 顔をのぞかせたのは、ほっそりとした女性だった。僕よりは幾つか年嵩だろう。長い髪をゆるく編んで肩に乗せ、少しだけ襟元を緩めて、紺藍の和服をまとっている。髪はほつれておらず、着物も崩れていなくて、身綺麗な人だった。戸に寄り添うように手を添えたまま、外の日差しに眩しそうに目を細め、その眼差しで僕を伺っていた。たったそれだけの佇まいが、なおやかで流れるようで、ひどく美しかった。
 僕はできるだけ不審に見えないように、相手に微笑みかけた。人の良すぎる顔だとよく言われて、医師としての信用や威厳に欠けるのではと少し不満の顔だったが、こういうときにはありがたかった。
「高辻の義父の紹介で参りました。医者の刈谷義隆よしたかと申します」
 ああ、と納得したように声を上げ、けれど女性は僕の白衣を見ながら、不思議そうに首を傾けた。
「高辻男爵のご子息が見えるのだとうかがっていたのですけれど」
「ええ、僕がそれで間違いありません。実際には、高辻の家の人間ではないので」
 けれど、高辻とは違う氏を名乗った僕に、彼女は少しだけ眉を寄せた。顰めたようには見えなかったが、気を悪くしてしまったのかもしれない。華族の妾であれば、気位の高い人かもしれないと今更ながらに思いつく。身元の怪しい人間に自分を診察させるなど、気分を害したのかもしれなかった。――子爵が、医師を探してわざわざ義父に声をかけたのは、そういう理由もあったのだろうか。
「すみません、不審かもしれませんが、決して怪しい者ではありませんから。以前男爵家の養子に入れていただいたことがあったのですが、あちらのお家のお子が生まれたので、今は実家の姓に戻っています。その時のご縁で、男爵とは懇意にしていただいています。今回はそのつてで」
 言いながら、自分でも随分怪しいと思った。焦って言い募る僕を見てから、女性は顔を伏せ、口元に手を当てて肩を震わせていた。見れば、声が漏れるのをこらえて笑っていた。
 僕はなんだか情けなくなって、玄関先に立ち尽くしていた。そんな僕に、相手は「ごめんなさい」と笑いをこらえた軽やかな声で言った。
「後ろの方は、助手の方ですか?」
「遠藤沙起子と申します。刈谷先生の診療所で、お手伝いをさせていただいております」
 沙起子さんはいつものように、折り目正しく、綺麗な角度で礼をした。女性は微笑みながら沙起子さんに会釈をする。
「お暑い中、わざわざありがとうございます。どうぞ、おあがりになって。お待ちしておりました」
 ほっとして僕は華やかな顔に笑い返す。
 戸を大きく開けると、彼女は僕を家に招き入れる。女性一人の住まいと聞いていた僕は少し萎縮しながら、後に続いた。
「ごめんなさい、お飲み物をお出ししたいのですけど、今日はひどく体が重いの」
 一間きりの家だった。台所と小さな庭だけがある。申し訳程度にある小さな庭には、夏の日差しが強く差し込んでいたが、植えられた鮮やかな緑がそれを和らげ、簾が、家に入り込むのをさえぎっていた。部屋には布団が敷かれているが、物のない家だ。
 どうぞ、と差し出された座布団に、僕は不躾に見回していた自分に気づいて、慌てて止まる。礼を言って腰をおろした。
「本当にお一人でお住まいなんですね」
「ええ。別に、めずらしくもありませんでしょう?」
「ご病気なのに、色々と大変なのではないですか」
「本当は、身の回りの面倒を見てくれている女性がいますの。子爵が世話をしてくださった人なのですけど、お年を召した方ですから、こんな暑い日にこき使うのもかわいそうで。お昼ご飯を一緒して、もう帰してしまいましたわ」
「それなら、元気な女性を雇い入れるようにお願いすればよろしいのでは」
 言ってから、僕は慌ててしまった。言うまでもないことを言ってしまったかもしれない。妾という不安定な立場で、自分以外の女を身近に置くのは、あまりいい気がしないものなのかもしれなかった。男が目移りするとか考えるものかもしれない。
「若い女性は、近くにいるだけで疲れますの」
 僕の前に座した彼女は、にこりと笑んで、少しの邪気もなさそうな顔で、辛辣ともとれることを言った。年若い沙起子さんを目の前にしていながら、簡単にそんなことを言ってのけた。罰の悪い気持ちになった僕のことなど、気づいた様子もなく。もしくは、気に留めた様子もなく。嫉妬や、他人の感情など、まるで係わりのないことなのだとでも言うような表情だった。
「大原馨子きょうこと申します。お世話になります」
 手をついて頭を下げる姿は、卑しい女には見えない。擦れたようにも見えない。気位が高いようにも見えない。
 ただ、しっとりと美しい女は、少しの惜しげもなく鮮やかな笑みをさらした。
「ねえ、先生。ちゃんと、お聞きになりました?」
 唐突な問いかけに、僕はきょとんとしてしまった。
「……何のお話でしょう」
「私のことです。ご存じない?」
「ご病気のことですか?」
「いいえ」
 彼女は微笑んだままだった。
「私に触ると、死ぬんですって」
 ゆるゆると笑い、楽しそうに言った。歌うように。
「ご覚悟がおあり?」
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