空蝉
三、揺々と笑う。

 物騒とも言えることを口にした顔は笑んだままで、真意がはかれない。自意識過剰な言葉に、僕は驚き、少しあきれてしまう。からかわれたのだろうか。だけどこんなたちの悪い言葉遊びを、初対面の相手に、しかも医者相手にするとは思えなかった。視界の端で、沙起子さんの唇が歪んだのが見えたが、聡明な彼女はそれ以上態度に出さなかった。
「今までも医者にかかったことがおありなのですか?」
 答えは、変わらず笑みと共に返ってくる。
「ええ、たくさんございますわ」
「前の医師は、亡くなったのですか?」
「お聞きになりたい?」
 僕の問いに彼女は、謎かけのように問い返してきた。
「聞いた後でも、わたくしを診てくださるのかしら」
 彼女の言う「触れる」がどういう意味合いを持つのか、問い返すこともできるはずがない。
「あなたがお望みであれば」
 僕の応えに彼女は、ああ、と声をあげた。ごめんなさい、からかうつもりはありませんのよ、と。
「先生にも立場がおありなのは、分かっているつもりですの。それでも、命を脅かすほどのものであるかお考えになる猶予は必要でしょうと思ったものですから」
 困惑する。
 彼女は言葉遣いも丁寧で、受け答えもしゃんとしていて、しっかりとした知性のある人に見える。こういう、夢と現実を混ぜ込んでしまったような、つまらないことを口にする女のようには見えないから、反応に困ってしまう。つまらない虚言を振りまいて、同情を集めようとする人には思えなかった。病で不安になって、人をからかうようなことを口にするのだろうか。
「大原さん」
「そう呼ばれると、自分のことではないような気がしますの。よろしければ、馨子と呼んでくださいません?」
 やはり気ままに彼女は言った。初対面の、それも医師に言うにはいくらか馴れ馴れしい態度ではあったし、僕は今までこういう唐突な女性に触れ合う機会がなかったので、やはりまた困ってしまった。ただそんなことで、たしなめるつもりも言い争うつもりもなかったので、言われるまま呼びかける。
「……馨子さん」
「はい」
 華やかな笑みが返り、僕は思わず目をそらした。
「いくつか、うかがってよろしいですか? 診療をしたいので、お体に触れるかもしれませんが」
「必要があるのなら、何でも構いませんわ」
 ありがとうございます、と言うと、彼女は笑う。
「熱はありますか?」
「ええ、もうずっと。熱が下がらなくて」
「夜はきちんと眠れていますか?」
 いいえ、と答えが返る。
「暑くて熱が篭っているだけかしら。暑くて眠れないだけかしら」
「それも考えられますが、ずっと続くのでしたら、違うでしょう」
「ひどく体がだるいの。何をする気にもならないわ。どうなってもいい気もするわ」
 それはつまり、生きるつもりもないということだろうか。そういう考えを誘い出すような言葉に、僕はそっと言った。
「ご病気のせいでしょう。あまり思い詰めておしまいになってはいけません」
「だらけているだけだと、責める人もありましたのよ」
「そういう人もいるのでしょうが、医師でない人間が決め付けで判断することではありませんよ」
「先生はお優しいのね」
 僕はただ、医師ですから、とだけ応える。
 失礼します、と声をかけてから彼女の喉元に触れると、腫れているようだった。
「咳は?」
「時々、空咳が」
 沙起子さんが、僕が持ってきていた鞄から治療録カルテ筆記具ペンを出してくれたので、それを受取って彼女の言葉を書き留める。独逸ドイツ語で記載している僕の手元をおもしろそうに覗き込む彼女と、そのままいくつかの問診と触診を重ねる。その流れで、彼女は気軽く口にした。
「らい?」
 言葉の重さの割りに口調があまりに軽く、一瞬面くらい、僕は返す言葉が遅れた。
「ご家族に、らいの方は」
「さあ、存じ上げませんわ」
「では、その可能性はとても低いです」
 そしてどう考えても、その症状はない。彼女自身、分かっているはずだった。それでも彼女は続ける。
虎列剌コレラかしら」
「違いますね」
「あら、じゃあ隔離されないのね。脚気?」
 たとえそれらの病気に詳しくなくても、もし、彼女が医者にかかるのが初めてでないのなら、上げ連ねたどの病名も医者はあげなかったはずだ。
 楽しそうに不治の病の名を連ねる彼女に、僕ははゆっくりと言った。いいえ、と。
「労症でしょう。まだ断言できるものではありませんが」
「労咳ではなくて?」
「そう診断した医師もいたのですか?」
「ええ」
「以前は、すべてくるめて労症と呼んでおりましたからね」
「案外いい加減なのね」
「日本は、閉じこもっていましたから」
 曖昧な部分が多いのだ。自分たちの手に負えない病や、判断しきれない現象すべてをくるめて不気味なものと決め付け、迫害してしまうことも。そして閉じた世界にいるままの人は、永遠にその歪みに気づかない。
 けれど僕のように、わざわざ外国へまで出て他の場所を知っているのに、あえて歪みに逆らおうともしない人間には、何も言えたことじゃない。
 彼女は、何程の事でもないように、それもそうね、と笑った。
「労症って治るのかしら」
「今まで、同じ診断を出した医師は?」
「もちろん、いらっしゃいますわ。治るが、難しいとおっしゃいました。途中で放り出しておしまいになりましたけれど」
 そうだ、治る病だが難しい。それに、今や医者と名乗るには治めていなければならない西洋医学ではあったが、その西洋医学には完全な対処法がなかった。
「これは簡単に言ってしまうと、過度に疲労する病です。精神的なものから、感染症、色々と原因はありますが、一番必要なのは、ご自身と周囲が理解して、根気を持って治していくことです。ご無理をなさらず、ご自分を責めずに、ゆっくりと直していかないと」
「そう」
 ただそれだけを、彼女は返した。今まであれこれと話していたのが嘘だったかのように、疲れた様子で。自分のことだというのにも、あまりにもそっけない態度だった。
 本当に自分のことなど、どうでもいいのだと言うかのように。

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