空蝉
四、ローレライ。


 往診を終え、診療所へ戻る沙起子さんと別れて、僕は義父の家を訪れていた。汗だくの僕に、義父は女中に言って檸檬水レモネードを用意させてくれた。洋式のテーブルを挟んで椅子に座る。
「どうだった」
 冷たい飲み物を自分も手にしながら、義父が尋ねてくる。当然の問いかけではあったが、僕はまだ答えを用意できていなかった。
「ええ、なんと言いますか」
 言い淀み、まだ迷い、飲み物を一口含んで間を空けてから、ようやく妥当な言葉を口にする。
「変わったお人で」
 僕の困惑を見てとったのか、義父は苦笑した。
「一人で行ったのか」
「今回は沙起子さんに同行してもらいました。沙起子さんは、とても不機嫌でしたよ」
「まあ、そうだろうな」
 義父は沙起子さんが苦手だが、診療所のために彼女を探してきたのも義父だ。彼女のような人が必要なのは分かっていて、それでもやはり苦手なようだった。
「賢明な人ですから、何も言いませんでしたが」
 患者のことをとやかく言う人ではないし、良識がある。だからこそ僕も義父も信頼している。帰り際に一言だけ、言葉を選んで選んで口にした。「ご病気なのはお可哀そうですけど、もどかしくて仕方がありません」と。
 曖昧な言葉で、あやふやにごまかしている。
「子爵は、かわいそうな女性だと言われていたな」
 義父はつぶやいて、手のグラスを傾ける。冷たい液体を喉に流し喉を潤わせて、思わずのように言葉を漏らした。
「ローレライ」
「……え?」
 僕はつい、大げさすぎるくらいの声を出していた。少し目を見開いて、義父を見た。そんな僕の過剰な反応に、二人とも気まずくなる。
 義父は、情が深い人ではあるが、朴訥な人だ。決して詩など口ずさまない。
「子爵がな」
 言い訳のように義父は口にする。子爵は、あまり詩人肌ではない人なんだがね、と。なぜかまた、言い訳を付け足す。
 ローレライとは、歌声で旅人を惑わせる独逸の妖女だ。ただそこにいて、髪を梳いて美しい歌声を響かせる。その声に魅了された船乗りたちが舵をとりそこねて命を落とすという伝説がハイネの詩にうたわれている。
「その女性は、ローレライなのだと言われていた」
「歌か何かなさっておいでなのですか?」
 いわゆる囲い者になる女性は、芸者であることが多いのではないだろうか。その芸や容色にひかれた男が、支援者になる。だが彼女に当てはめて考えてみても、あまりしっくりくる答えではない気がした。人をひきずりこめるくらい誇れるものがある人の態度には見えなかった。卑屈なわけではないけれど、自分の魅力一つで男を留める覇気とでもいうか、そういう力のようなものは、彼女にはなかった。
 だが、僕の言葉に、義父はまた苦笑する。
「いや、そうではないが。会ってきたんだろう。何か、思わなかったのか?」
 ――ローレライ。ラインの川辺に座す美しい乙女。ただ座っているだけで、男を惑わす女。幻惑のような言葉を口にして、あやふやで、そこにいるのか不思議で、不安にさせる。掴んで引き止めておきたくなるような、美しい女。
 ああ、そうか、と僕は思い、自分の先頃の言葉の無粋さに少し恥ずかしくなった。
「ええと、そうですね。確かに」
「病はどうなんだ。重い病気なのか」
「いいえ、治らない病ではありません」
 そうか、と義父は安堵した様子で息を吐く。そうして僕は、この話を持ち出して来たときに、彼がまだ何かひっかかるような様子だったのを思い出した。
「僕は、何かよほど重い病で、それを治せる医師を探していらっしゃるのだと思っていました。大原さんは、医者にたくさんかかったと言われました。あの病に、今までの方が、気づけなかったとは思えません。彼女も、今までの同じ診断をされたことがあると言われていました」
「気づかなかったわけではない。医者が辞めてしまうのだとおっしゃっていた。長続きしないのだと」
 だから、人が足りなくなった。治療ができなくなった。
 なんとなく……そう、なんとなくではあるが、義父の言葉が分かる気がした。彼女の、あの曖昧なようではっきりとした態度。ローレライか。子爵の例えが当てはまるような、皮肉なものであるような気がしてしまう。男のつまらない言い訳であるように思えた。
「その女性が、嫌がって追い出してしまうこともあるのだそうだが」
「追い出す、ですか?」
「そう伺ったが」
「そういう人には見えませんでしたが……」
 快く迎え入れてくれた。ああ、しかし、若い女性は嫌いだと、あれほどはっきりも言う人だった。
「彼女の病は、根気強く治療をしていけば、治らないものではありません。けれど、心の方が心配される病ですから、どうなるとも確証は言えませんが」
 はっきりしたことが言えないのは、医師としてもどかしい。僕は冷たい汗をかいたグラスをにぎりしめ、言うべきかまた随分と迷った後に、キンと冷えた飲み物を一気に喉へ流し込んだ。その勢いのまま、義父に告げる。
「橋本様に、どうぞ彼女を疲労させないよう、お気をつけ下さるように伝えてください」
「お前は?」
 僕の口ぶりに、僕も辞めてしまうと思ったのだろう。義父は驚いた様子で聞き返した。
 遠まわしにであれ、人に頼まれたものを、簡単に放り出すことはやはり相手の心象を害する。義父はあまり気にしないのだろうが、それが上の身分の人間であれば尚更だった。後々、小さなことで問題にされないと断言は出来ない。そして僕はやはり、義父に恩義を感じているし、義父の不利になるようなことはしない。
「もちろん、患者を途中で放り出したりなどしません。時間はかかるでしょうが、できるだけのことはさせてもらいます」
 義父の顔に笑みを向け、僕は医者としての答えを返した。
「もう二度と、お義父さんにご迷惑をおかけするようなことはしませんから」
 僕の言葉に、義父は少しあきれたような困ったような顔をする。
「昔の話だ」
 言ってから、少し悲しい顔をする。
「離縁はしたが、籍はどうあれお前は私の息子なんだから、変なこだわりは持たなくていいんだぞ」
 僕は素直に、はい、と応えた。お義父さんもね、とは、心の中でだけつぶやいて。

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