空蝉
十四、不幸を呼ぶ女。

 義父がまた診療所にやってきたのは、数日後の夕方のことだ。夏の長い日も沈み始め、空が紺に染まりつつある時刻で、最後の患者が帰った後だった。義父は馬車で来ても俥で来ても近くで降りて歩いて来るが、今日は俥を診療所の前に横づけにした。
 患者用の椅子に座って僕と向き合った義父の表情は珍しく厳しかった。常にないことに、体を緊張が縛る。
「随分慌ただしいようですが、お忙しいんじゃないですか? 呼びつけてくだされば、家まで行きますよ」
「いや、こちらの方が都合がいい」
 人出入りの多い診療所の方が屋敷よりいいということは、何か家の人間の目をはばかるような、内向きの用事だろうか。
「上に行きましょうか」
「もう診察も終わったんだろう。ここで十分だ。そんなに長居もしない」
 そうですか、と僕は少し重い気持ちで応える。辺りを片付けていた沙起子さんが雰囲気を察したのか、診察室を出て行こうとすると、義父は彼女を手招いた。
「ああ、看護婦はいてくれ」
「え、はい」
 沙起子さんは少し驚いた顔で振り返る。戸惑いながら戻ってきて、僕の横に立った。
 人目をはばかる内向きの用で、沙起子さんにも聞かせる話など限られている。いよいよ僕は追い詰められた気持ちになった。義父に言われるより自分で口にする方が気が楽で、思い切って言った。
馘首クビですか」
「何を言っている?」
「……違うんですか?」
 義父が、何を急に言い出したのかといぶかしげな顔をしたので、僕の方が驚いてしまった。義父は明らかに、別のことに気を取られていて、口を挟んだ僕をたしなめるような目で見ている。子爵は、義父に何も言わなかったのだろうか。ホッとしたが、それならそれでどこか腑に落ちない気持ちもある。
 義父はいつになく落ち着かない様子で、大きく息を吐いた。
「橋本様が事故にあわれた」
 僕も沙起子さんも言葉もなく、ただただ驚いて義父を見る。
「橋本様の乗った馬車が道端の石に乗り上げて、車輪が外れて走行中に転倒したらしい。幸いお命に別状はないそうだが、しばらくは養生が必要だそうだ」
 その話に僕は、身動きがとれなくなった。私に触れると死ぬのですって、と言った女の声を思いだす。
「本当に、事故なんですか?」
「そのようだ。ただそれを知らせて回っていないだけかも知れないが。貴族院からの戻りの際のことだそうだから、万が一にも事故ではない場合もある」
 自由民権運動を行う者の中には、過激派も多い。華族を無差別に憎む者もいるだろう。
 危険にさらされて、子爵はどう思っただろうか。身のすくむ思いがしたのではないか。事故のことよりも、自分が近づいた女のことに。己のしてきたことに。本当に事故ならば、些細な、何のことはない原因だった。幸い子爵は一命を取り留めたが、状況次第ではどうなったか分からない。
 子爵は、彼女から離れるだろうか。
 驚きと動揺と、色んな感情が自分の中を行ったり来たりしていて、その中に僕は強い喜びを感じ、愕然とした。医者のくせに。それに、彼女にかかわった人間が死にかけた、その事実に、彼女がどれだけ傷つくかなど容易に想像がつくのに。
「では、馨子さん……大原さんは、どうなるんですか。橋本様からご依頼を受けていた女性です」
「橋本様ご自身のお命に別状があったわけではないし、急に放り出されるということもないだろう。ただしあまり表だって口にしたくないような間柄ならば、家の方々も快く思ってはおられないかもしれないから、どうなるかわからない」
 遠くにいても自分を責める声が聞こえて来る、と馨子さんは言っていた。場合によっては、馨子さんは突然放り出されるのかもしれない。命があるとはいえ、子爵が身動きとれないうちに、子爵家の人たちが何かしないとも限らない。
「ご子息は」
「征斉様がどうかしたのか」
 ぽろりと僕が零した言葉に義父が不思議そうに聞き返すので、僕は意外に思い、同時にしまったと思った。
「橋本様から、何も聞かれていないのですか?」
「何の話だ」
 あまり言いふらす話ではないだろうとは思ったが、僕が義父に隠しておくことでもない。話の流れもあって、僕は控え目に言った。
「大原さんのお宅へよく行かれているご様子でした。診察の時にお会いして」
「……そうか」
 表だって彼女を妾だと言わないのはこれのせいかもしれない。
 人は口さがない。男が妾を囲うのは公然とあることだったが、それを良しとしない人たちもいる。妾は所詮男の玩具のようなもので、婦権拡張論者たちはその実情を暴きたてた蓄妾報などというものを発行している。そういった人たちがもし子爵に目を向けて、馨子さんについての噂話を仕入れようとしたなら、決して難しいことではないはずだ。子爵は頓着してないようだったが、家の人々はそうではないだろう。
「お家の方々がどう考えておられるにせよ、事故の件で警察の捜査が落ち着くまでは、征斉様もそうそう外をうろついてはいられないだろう。それに結婚もしていない、これからの道行きが待つご子息を、周囲がそのまま放っておかれることはない」
 子爵の場合とは違う。もしかしたら近いうちにでも、彼の望み通りに洋行することになるのかもしれない。彼女から引き離す目的で。僕は少し痛みを覚えたが、表に出ないよう抑え込んだ。
「とりあえず、お前に知らせておこうと思ってな」
「……はい」
 僕はただ、小さく返答するしかできなかった。


 義父が帰って、沙起子さんは再び忙しく働き始めた。器具を片付け、診察室の寝台を整え、ほうきを持って動き回る彼女を横目に、僕はまだぼんやりと椅子に座っている。
「先生、しっかりしてください」
 厳しい声をかけられて、僕はハッとして沙起子さんを見た。彼女はほうきを片手に部屋の真ん中に立って僕を見ている。
「私が口出しをすることでもないと思ってずっと黙っていましたけど、最近の先生はおかしいですよ」
「……おかしいですか?」
「ぼんやりなさっていることが多いですし、先日も患者さんに心配されていたじゃないですか。お医者様なんですから、しっかりしてください」
「それは本当に、お恥ずかしい限りです」
 自分自身で恥じていたことだっただけに、指摘されて余計に情けなくなる。返す言葉もない。人に助けてもらってやっと診療所をやってこれているのだから、せめて自分に出来ることくらいはきちんとしないといけないし、人の命を預かる仕事でぼんやりするなど、あってはならないことだった。
 肩を落とした僕を見て、沙起子さんの顔から少しだけ険が消える。
「手の早くない医者を探していると最初に言われていたのに、お忘れなんですか」
 そんなに表に出ていただろうか。唐突な指摘に驚き、同時にまた恥ずかい気持ちで一杯になった。言外に彼女は僕を責めている。僕ならそんなことはないと言った彼女は、軽蔑しているかもしれなかった。
「そういうのじゃありませんよ」
「そうとは思えません。恋煩いの女学生みたいですよ」
 彼女はいつもはっきりとものを言うが、今日は特に容赦ない。下手に否定をしても簡単に返されてしまう気がして、僕は何も言えずに彼女をただ見上げていた。沙起子さんはそんな僕を見て、さすがに言いすぎたと思ったのか、すみませんと小さく口にする。そして言った。
「空蝉ですよ」
 投げられた言葉の真意が分からず、僕は束の間考えてしまった。
「源氏物語ですか」
 沙起子さんは答えない。
 光源氏に心ひかれながらも、夫を思って彼を拒絶し、それゆえ彼の心に強く残った女性の名前だった。言いよる源氏から衣だけを残して逃げ去ったために、源氏が空蝉と呼んだ。蝉の抜け殻。形はあっても中身はないもの。
 沙起子さんの言葉はやはり、言外に僕を責めている。そして、事実を突き付けている。
 手に入らないから、欲しいと思うだけなのだと。
 そうなのだろうか、昔も今も。ないものねだりをしているだけなのだろうか。身の程知らずに。
 そうではない、と思いたかった。あの時の痛みも、この惑いも、そんなことのために抱くには苦しすぎた。  

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