空蝉
十五、憐れみか欲望か、優しさか。

 僕は、月明かりの元で立ち尽くしていた。夜は静かだ。ジリジリと耳障りな虫の声も聞こえない。人の声も聞こえない。黒く塗り篭められた空の中、月が鮮やかに僕を照らしている。
 人は高価な灯りを惜しみ、早く床に着く。身分は撤廃されても貧富の差は大きく、この辺りに住まう人は決して裕福ではない。道端には瓦斯灯が皓皓と照っているが、そんなものは道の隅まで照らすことができない。ほんの少し闇を押しのけはしても、人の賑わいを呼ぶまでにはならない。
 沙起子さんも帰宅して一人きりになった僕は、白衣のままで診療所を出ていた。気がつくと、馨子さんの家の前に立っていた。
 ぐるぐると迷い、躊躇っている。僕は拳に握った手を持ち上げ、そして下ろした。戸を叩こうとして結局やめる。起きているだろうか。先日あれほど疲れきっていたのだから、眠っているのではないか。繰り返し考える。
 こんなことをしていても仕方がない。僕はようやく、戸を叩いて反応がなければ帰ろうと意を決し、拳を持ち上げた。もう何十回目にもなる動きをまた繰り返し、今度こそ戸を叩いた。どうせ、気づかないだろう、眠っているだろうと言う思いと、起きてきてほしいと言う思いに翻弄されながら。
 しばらく立ち尽くし、僕は、軽い安堵と大きな落胆が自分の中に満ちていくのを感じていた。それに浸っていた。今更、なんだと言うのだろう、僕は。
 知らず強張っていた体を解くように、大きく息を吐く。すると最初の日と同じように、軽い足音が聞こえてきた。途端に今度は逃げ出したくなる。なのに、縫いとめられたように足が動かなかった。
 窺うように、遠慮がちに、扉が開く。顔を覗かせた馨子さんは、夜の暗さのせいもあるのだろうがひどく顔色が悪く、僕は心臓を突かれたような気持ちになった。僕と目が合うと、彼女は輝くように笑った。
「まあ、どうなさいましたの」
「起き上がれるのですか」
「夜の尋ね人はお迎えするものよ」
 答えになっていない言葉を返した僕に、彼女は冗談めかして言う。僕は、今度は言葉に詰まってしまい、彼女は更に笑った。
「誰かそばにいてくれないかしらと思っていたところでしたの。だから、開けてしまいましたわ。どうぞ、お上がりになって」
「いえ……」
 ここに来てようやく、僕は自分が何をしているのか、どれだけ軽はずみな行動に出たのかに気づいた。結局また、自分の行動に矛盾することを返してしまう。
「もっと、ご用心なさってください」
 こんな夜更けの訪問者を簡単に家に上げるなんて。
「何をおっしゃいますの。先生なら、いつでも歓迎いたいますわ」
「僕だろうと誰だろうと、関係ないでしょう」
「ここで押し問答していると、誰の目に触れないとも限りませんわ。私は構いませんけれど、万が一にも先生の評判に傷がつくと困ります」
「いえ、僕は、そんなことは。いえ、そうではなくて」
「こうして立っているのも、今は少し疲れますの。どうぞ、お上がりになって」
 自分の病気を盾に取るように、彼女は微笑んだ。そして彼女の病状を知っている医師の僕は、その言葉に逆らえない。してはいけないことをしていると、自分自身のつぶやきが聞こえる。警鐘がどこかで響いている。
 最初の日のように――いつものように、けれど自分の行動にも随分と躊躇いながら、彼女の後ろをついて歩く。
 無防備に庭へ続く障子を開け放ち、簾だけを垂らした部屋の中に、密やかに月明かりが忍び込んでいる。もう休むつもりだったのか、ずっと床についていたのか、部屋には寝具が延べられていた。それにうろたえ、僕は部屋に踏み込めずに足を止める。本当に、何をしているのだろう、僕は。
「どうかなさいましたの?」
 立ち尽くす僕に、彼女は振り返り問いかけてくる。それは、なぜ部屋に入らないのかと問われたのか、何をしに来たのかを問うているのか、判断がつかなかった。馨子さんは本当に起きているのもつらそうで、寝具の上に座る、その仕草に何の他意もないはずだ。
「いえ、すみません、やはり帰ります」
「どうして?」
 問いかけてくる声は裏がない。
「私は、とうとう本当に、先生に軽蔑されてしまったのかと思っていました。おかしいでしょう。最初から嫌われていて当然なのに。私のような女」
 そんなことはない、と口に出来なかった。もう、わけの分からない思いに捕らわれて。とどまるか、帰るのか、そればかりに気を引かれている。
 口を開かない僕に、彼女は再び問う。
「橋本様の件、聞かれたんでしょう?」
 もしかしたら何の知らせも来ていないかと思ったが、きちんと彼女も知らされているようだった。子爵家の人が来たのだろうか。彼女が疲れた様子なのは、もしかしたらそのせいかも知れない。
「聞きました」
「驚きましたわ。やはり私は不吉なのね」
 彼女の言う通り、彼女に触れた男が死ぬ。否、死んではいないが、死にかけた事実。彼女が唱え続けたことが、戯言でないことが証明されたようなものだった。偶然でも。偶然だからこそ。
 彼女に触れた男が死ぬのなら。
「そんなことを言わないでください」
 今微笑んでいても、この人のか弱い手は、いずれ僕を突き放すかもしれない。
 僕は。
「あなたに……」
 言いかけ、言い切れずに口を閉ざした。そうしてようやく僕は、彼女が立っている僕を見上げているのもつらそうなのに気づく。ためらいながら部屋に足を踏み入れた。最後の境の一歩を、踏み出してしまった。
 彼女の傍に膝をつく。彼女は言葉の先を待っている。もう知っているだろうけれど、おとなしく待っている。
 あなたに会いたくなっただけなのだと。
 子爵の話を聞いているなら、きっと傷ついている彼女を慰めたいと思い、知らないのなら知らせなければと思い、この話が彼女の病気の負担にならないわけがないから、診察をしなければと思い、そんなことがぐるぐると頭の中を回っているが、そんなもの言い訳でしかない。
 ただ、会いたくて。
 それだけのことが、言葉にならなかった。僕が口を閉ざしたまま固まっているので、彼女は言った。
「私は、何でも構いませんの。先生にお会いできて嬉しいわ。ご用事などなくても、来てくださって嬉しいわ」
 寂しげに笑う。
 このままでは、もしかしたら僕も子爵と同じようなことになるのかもしれない。見えない何かにからめとられるのかもしれない。……それでも。恐れよりも、決して今まで見せなかったその表情に、僕は自分の中の何かに突き動かされていた。気がつくと僕は、彼女の唇を求めていた。覆いかぶさるようにして唇を覆う。
 乾いた唇だった。瑞々しいとも、熟れて誘っているようだとも言えない唇だったのに、なぜそんなにも欲しいと思ったのか。
 一度離して、彼女の唇を舐めるようにして自分の唾液で湿らせて、潤わせるように唇に噛み付いて。何度も深く重ねる。眼鏡が当たり、ひどく違和感があったが、気にも留めなかった。
 弱々しい手が僕の胸元に伸び、押しのけられるかと思ったが、違った。白衣を掴み、握り締められる。そのことで逆に僕は、彼女の体を離した。
 間近に美しい顔がある。病で食が細くなっていなければ、もっと華やかだっただろう。決して顔色がいいとも言えないのに、唇だけが赤くなっている。禁欲的で征服欲をあおるわけではない。知らずに食らいつきたくなるような熟れた女などではないのに、また乱暴な気持ちが煽られるように思考を覆い、けれど僕は、僕の白衣を掴むことでようやく身を支えている彼女を見て、感情を押し留めた。
 疲労させるのはいけない。苦しめてはいけない。考え込む要因を作ってはいけない。何より周囲の理解が必要で、それを承知している自分が彼女を傷つけるような行動に出てはいけない。
 僕は、自分が蔑んだ男と同じことをしようとしている。
「すみません」
 彼女は、また笑った。
「どうして謝るの?」
「僕は、卑怯だ」
「どうして」
 彼女は問うが、分かっているはずだ。子爵の事故の話を聞いて、今は子爵が決してここを訪れないことを知っている。そして、不安なはずの彼女に付け込もうとしている。もしかしたら子爵の手が彼女から離れるかもしれないと思って、機会をうかがっている。
「すみません。僕は、医者なのに」
「それが、どうしたというの」
 珍しくはっきりとした声で、彼女は言った。僕の眼鏡をとりあげる。
「ねえ、義隆さん」
 そしてすぐに微笑んで、ゆるやかに僕を呼んだ。はじめて、僕の名を。
 体の奥に、痺れが走る。
 彼女は、子爵の女だ。少なくとも、まだ。先に進めば、何もかもを壊してしまう。
 彼女の本心が分からない。本当は、僕なんかよりも子爵を恋うているのではないかと、肝心のことを問えない。
 触れてはいけない女。体をひさいで生きている低俗な女。それに変わりはないはずなのに。
 傷つきやすい人。
 僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。髪の中に指を差し入れる。彼女は、気持ちよさそうに目を閉じる。まるで猫がじゃれついているようだと思い、急におかしくなって、笑ってしまった。


 真夏の夜のじりじりと咽るような空気が満ちている。吸い込むものは熱気の塊のようで、ただでさえ息苦しくなる中、汗ばむ肌を触れ合わせて、熱い息を吐く。
「ラ・トラヴィアータ」
 眼鏡がなくても、間近な馨子さんの顔はよく見える。彼女の顔を見下ろしていると、言葉がついて出た。
「なあに?」
 吐息の合間に、間延びした声が返る。聞かせるつもりもなく、聞かれているとも思わなかった言葉への反応に、僕は少し困ってしまい、結局答えた。
「椿姫という物語ですよ」
「外国の?」
「ええ、そうです。欧羅巴ヨーロッパの、悲恋の話です。胸の病を患った娼婦が、情熱的な若者と恋に落ち、行き違いで男は女を傷つけ、女は一人寂しく死を待つ。自分の間違いに気づいた男が慌てて彼女のところに駆けつけ、再び愛を誓うが、女はほどなく病で死んでしまう」
 トラヴィアータ。道を踏み外した女。美しい堕落した女。そして気高く、健気な女だ。
「まあ、じゃあやはり、私も死ぬのだわ」
 言葉と共に、彼女は体を震わせている。動きにあわせて乳房が揺れた。泣いているのかと思った。顔を見ると、彼女は笑っていた。
「でも、いいの。夢ですもの。愉悦の夢の中でゆるく死んでいくのね」
 しあわせだわ、と。囁きが熟れた空気を振動させる。膨れ上がって、熱く満ちる。
「夢?」
「お医者様に恋するなんて、幻なのでしょう? それならこれは夢なのだわ」
 眠って見る夢。起きているときに見る夢。吐息の合間に見る錯綜の夢。どれも、束の間の霞だ。揺れて消えるうつつの幻。淡い薄明かりの向こうに浮かんでは消える程度のもの。手に掴めなどしないものだ。
 姿はあっても形のないもの。
 空蝉の、蝉の抜け殻のような。
「こんなに楽しい夢は久しぶり」
 夢かうつつか寝てか覚めてか。
 彼女が以前に、唇から落とした言葉が脳裏をよぎる。これは夢なのか、現実なのか、寝ているのか、起きているのか。
 君や来し我や行きけんおもほえず。あなたが来たのか私が行ったのか覚えていない、と詠われた歌だ。決して男と通じてはいけない女性が、恋しい男と束の間の逢瀬を持った翌朝、男に贈った歌。昨夜のことは夢だったのか現実だったのかも分からない。あなたとの逢瀬も、願ったあまりに見た夢なのか。
 そして、夢でなければならなかった。
「僕は、あなたの夢なのですか」
「そうよ」
「あなたは、僕の夢ですか」
「そうよ」
 笑いながら彼女は泣いていた。幸せそうに泣いていた。
「でないと、あなたは死んでしまうもの」
 言葉は、冷たく僕の心の中に落ちた。熟れた心が冴えていく。彼女が幾度となく、遊びのように唱えていたこと。それは彼女にとっての、何よりも恐れだった。痛みだった。
 呪われた女。決して人と交われない人。
 ローレライ。椿姫。斎宮いつきの姫皇子。人を惑わせ死に導く女。死病と若い嫉妬に弄ばれた女。穢れを断ち神に仕える清い女。
 ただ、不器用で不幸で翻弄され続けた女。
「死にませんよ」
 頬に口付ける。つぶやきと共に吐息が彼女の頬に触れて、自分の熱い息が僕に跳ね返る。熱は僕らの間に横たわり、辺りに溶ける。涙を溜めた目元に口づけ、閉ざされた瞼に唇を落とした。 
「言ったでしょう。あなたがあきらめない限りはあきらめないと。僕は医者ですよ。多少のことがあっても、自分でなんとかできます」
 他の人とは違いますよ、と気休めを唱える。
 例えこうして触れ合っても、先が見えない。それは僕が死ななくても、変わらずそこにある現実で、僕らは身動きがとれない。それでも。
「あなたが逃げても、僕が、逃がしませんから」
 清廉な愛情というものではなく、執着の情念の糸でもいい、絡み付いて互いをつなぎとめるのなら、彼女をこれ以上追い詰めないものなら、なんでもいいと、焼けるように思った。
 すべてが、夏の夜に浮かされた夢でも。



 恋しさに思ひ乱れてねぬる夜のふかき夢ぢをうつつともがな



終わり

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