七、生き人形。
次に訪ねたとき、僕は彼女の家から出て来る人と行き合った。ちょうど家から出て来て、戸を閉めたところのようだった。黒い髪を短く切った、細く背の高い青年だった。白い襯衣が日を返して眩しい。黒い洋袴は学生の制服だろうか。ずいぶんと若い。子爵でないことは確かだ。思いもよらないことで僕は面食らってしまい、相手を見たまま固まってしまった。
この真夏でも青年は日に焼けておらず、たたずまいが涼やかだった。ぽかんとした顔で見ている僕に、軽く会釈をした。それだけの仕草が上品だと思った。子爵宅の小間使いということはないだろう。彼はそのまま、間抜けなことに身動きとれずにいる僕には見向きもせず、去って行った。
入れ違いのように戸を叩いた僕を、手伝いのトシ江さんではなく、馨子さんが出迎えてくれた。
「今日は、お客さんがいらしてたんですか?」
家に招き入れられ、腰を下ろしたところで僕は何気なく問いかけた。そして自分のうかつさに、遅まきながら堅く口を閉めた。トシ江さんが出迎えなかったということは、今家にいるのは馨子さんだけのはずだ。ということは、さきほどの男と、ふたりでこの家にいたことになる。
「ええ」
僕の前に座り、彼女は楽しそうに笑う。
「よくお越しくださいますわ」
「あなたを看病に?」
「ええ、ご熱心に」
「親しいお人なんですね」
自分から振ってしまった話だ。彼女が嫌がる様子がないので、観念して続ける。
ええ、とまた彼女が応える。卓の上に肘をついて、頭をささえるようにして、目線をそらした。そして息を吐いた。長くゆっくりと。
「だけどもう、あまりお越しにならないでと申し上げました」
彼女は、急に沈んだ声を出した。先程まで笑っていた顔には唐突に疲労がよぎり、それだけで、華やかだった笑みが枯れた。まるで一気に、いくつか年老いたかのような表情の変わりようだった。
「どうしてですか」
「人と接するのは疲れますの」
何故か、ギクリとしてしまった。
「人が嫌いですか?」
以前も、若い女は嫌だというようなことを言っていた。
「嫌いだなどとは申しませんわ。ただ、疲れる、と」
言う彼女は、今まで見た中で一番疲労しきっているように見えた。少し活動するだけで寝込んだり、何もする気がおきなくなったり、そういう自分を苛んでしまう病だ。それなのに、もう幾度となく訪ねて、はじめて見せる彼女の様子に僕は、少し戸惑った。最初に会った日から、こういった様子を見せてもおかしくなかったはずだ。先ほどまでのは虚勢だろうか。それとも、いつも通りに振舞おうと力を使って、かえって疲れてしまったのか。
今まで彼女は、気を張っていたのだろうか。弱いところを見せたくなかったのだろうかと考える。それとも、先程の客のせいだろうか。彼が余程苦手なのか、それとも人と接することはそれだけ彼女に疲労させるのか。
僕が往診に来たときはいつも楽しそうに語っていたが、僕が帰るとこんな風に、疲れて物憂げに語るのだろうか。それとも、僕が医師だから別なのだろうか。いや、義父は、追い出された医師も多いと言っていた。ただ僕が鈍いだけなのか。
「もう何もかもが億劫なのですわ」
「それがご病気なのですから」
「分かってもらえないことが一番つらいのを、誰も分かりはしないのだもの」
ふいに、彼女は涙ぐんだ。僕はひどく慌てて、反応に困ってしまう。くるくると回る風車のような人だ。
「私も愚かではありませんから、人がどう思っているかくらい分かります。人の噂を耳にするのは疲れますの。好奇の目の前にずっと座っているのも疲れますのよ。気になるのはわかります。私の目に見えない、耳に聞こえない範囲でなさるのでしたら、構いませんわ。言いたくなるのは分かりますもの。私、得体が知れませんでしょう?」
そんなことを問いかけられても、応えようがあるはずもなかった。何も言えず、そうですとも違いますとも言えず、瞳に涙をたたえたままでゆるゆると笑う彼女の眼差しにさらされて、ただ硬直した。
「ご自分たちの生活の中に、得体の知れないものが入り込むのが快くないのも分かりますわ。けれど、分かるのと慣れるのは違います。そういった態度を目の当たりにするのは、疲れますの」
「ご無理をなさることはありませんよ。……とりあえず、横になられたほうが良いのではないですか」
彼女の様子と言葉に耐えかねて、僕はさえぎるように言った。ひどく的外れで間抜けな言葉だったが、他に何も思いつかなかった。僕の真意をはかるように彼女は僕の顔を見る。僕の眼鏡を不思議そうに覗き込んだのと同じ瞳は、疲れきって、暗かった。
「そうですね。本当は、今日は朝からひどくだるくて、寝込んでいたのですけど」
客が来たから、わざわざ起き上がって応対したのだろう。そばに控えているはずの女がいないのは、彼女が追い返したのか、客が追い払ったのか。
寝床に横たわる彼女は、ひどく病人めいていて、それにも僕は驚いた。今更だ。本当に今更だった。でもそんなことに驚くくらい、今まで彼女は病人のようではなかったのだ。発熱がおさまらず、顔色も悪く、気怠そうではあったけれど、病人のようではなかったのだ。それは、あの笑顔のせいだと今更気づく。
「橋本公は、あなたを大切になさっておいででしょう?」
彼女を見ていられなくて、慰めるつもりで口にした。彼女のために医師を探して、家を与えて、人を与えて、着るものを、食べ物を与えて。
そう思ったから子爵のことを出し――すぐに、間違えた、と痺れるよう思った。本当に、こういう機微には疎くて、余計なことばかりを口にしてしまう。いくら大切にされても、彼女は子爵の妻にはなれない。子爵には奥方がいるし、子息もいて、身分も立場もあり、そして得体の知れない女を、宮内省は正式に認めはしない。自分の身の上も結果も承知の上で、娼婦として開き直って生きているのならいい。
「気遣っては下さるわ。だけど、橋本様のような方なら、女の一人や二人、囲うのも捨てるのも、たいした決意は必要ないのよ」
僕の言葉の裏の事実と、惑いと後悔に。まるで気づかない様子で、彼女はゆるく微笑みながら言う。気づいていないわけがないのに、彼女が。
「男の人はみんな同じ。私の上辺しか見ていない。自分の都合しか考えていないわ。あの方が一番大切なのは、自分の思い通りになる女よ。自分が抱きたいときに抱ける人形」
「……そんなことを言わないでください」
そんな男ばかりではないと言いたかったが、自分の置かれた状況をよくわかっている彼女の言葉に、僕の言葉は弱かった。だから、彼女に簡単にさえぎられてしまう。
「だけど、私のことが怖いのよ」
「死ぬからですか」
最初に訪れた日のことを思い出す。私に触れると死ぬ、と言った。彼女はいつも真意が分からない。からかうようなことを言ったり、ふいに思いつめたような顔をしたり。そんな彼女の思惑が一番分からない言葉だ。だが憂鬱そうな表情や仕草は変わらず、いつもよりも思い詰めて見えた。
彼女は僕の言葉に、そうよ、と応えた。それもあるわね、と。
「私、夫をふたり亡くしましたの。他にもたくさん失いましたわ。実家にも不吉がられて、もう近寄らせてもらえませんのよ」
なんでもないことのように淡々と言った。
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