まがことのは




第二章








 夜は沈黙とともにその場に満ちていた。怠惰に横たわって、人の目をふさいでいた。
 突然、闇を追い払うように光が現れて、慌てて夜の闇はその場を退く。けれども光芒は心細げに揺れていた。同時に聞こえるのは、恐る恐る進む、人の足音。
 ――やめておけば良かった。
 彼は心から後悔していた。
 どこでも似たような造りの長い廊下。同じ造りの教室ばかりが並んでいて、いつ果てるのかも分からないような錯覚に襲われる。こことは違う場所ではあったけれど、慣れ親しんだ空間のはずで、本当にただの気のせいだということなど分かっているはずなのに、気味が悪い。懐中電灯の光りなど、頼りないと言ったらない。どうして廊下の電気をつけちゃいけないんだと、心の中で虚しく意見してみたが、聞く者などいるわけがない。
 ――給料につられたのが間違いだった。
 苦く思う。
 警備会社にアルバイト登録していた彼は、つい先日、何かないかと電話をしたら、この仕事を持ち出されたのだ。夜の学校の警備。
 冗談ではなかった。偶然その日はシフトには入れる者が少なくて、どうしても入ってくれと泣きつかれても、そんなこと知ったことではない。自分が極度の恐がりなのだということを、自覚していたから。嫌なものは嫌だし、恐いものは怖かった。
 けれど支払われる日給が破格だったのだ。
 それに、自分一人で行くわけではない。かき集められた数人のチームで行くのだから安心、と思ったのだが、甘かった。
 当直室に泊まり込みをして、懐中電灯の明かりを頼りに、定期的に学校の隅々まで点検する、というのが今回の仕事の内容だった。決められた時間に皆が手分けして警備するのだが、「手分け」しているのだから、当然その間は、一人になる。
 ――やっぱり、無理だったんだ。俺には。
 泣きたくなりながら思う。情けなくたってなんだって良い。早く終わらせてしまくて、いつの間にか小走りになっていた。警備だというのに、辺りを見回しながら歩くなんて、器用なことが出来なかった。不審人物などいようものなら、彼自身が真っ先に逃げていただろう。
 けれど仕方がなかったのだ、と自分に言い聞かせる。お金が必要だったのだ。それもなるべく早く。貯めていたお金もちゃんとあったけれど、それでは足りなかった。
 だから、数日間ここで働いて、給料をもらうまでの辛抱だ。
 仕方ないと思う。それと同時、ある人物が脳裏に浮かんで、彼の歩調が少しだけゆるまった。
 その人の驚く顔、喜ぶ顔を想像すると、怯えていた心も勇気づけられた。……きっと驚くだろう、でも、喜んでくれるだろう。そう思う。
 目的を思い出して、強張っていた体や頬から力が抜けた。わずかな笑みまでこぼれる。少しうつむいて、気を落ち着けるように何度も大きく息を吸いながら、がんばらなくてはと言い聞かせた。懐中電灯を握る手に力を込める。
 少しだけ余裕の生まれた心にうながされるように、顔を上げる。真正面に視線を向けた。
 その目は、数秒前までにはそこになかったものを捕らえる。
 それは、間違えようもなく人間だった。懐中電灯の光に、スポットライトのように照らし出されて立っているのは、一人の少女だった。長い廊下の途中に、寝間着を着たまま、陶然とした顔で立っている。
 ぽかん、としてしまった。
 目をそらしている間に、向こうから駆けてきた訳などない。廊下の脇に並ぶ教室の戸も窓も締め切られているから、そこから突然出てきたなんてわけもない。前者にしろ後者にしろ、何の音も聞こえないのも、衣服の乱れも呼吸の乱れもないのも、おかしい。顔を伏せて上げるまでの間、ごくわずかな間に忽然と現れたのでなければ、説明がつかない。
 でも、それの方が、どう考えてもおかしい。
 少女はつい先刻まではそこにいなかったはずなのに、ずっと前からそこにたたずんでいたようにして、立っていた。
 とっさに足を見たのは、もしかしたらという思いだったのか。
「何してるんだ」
 少なくとも足はある。それを確認したおかげで、停滞しかけた思考回路も、完全にストップはしなかったようだった。辛うじて悲鳴を呑みこんだ。かわりに出てきたのが問いかけだったのは、自分の仕事を思い出したからではない。そんなもの、とっくに頭の中から飛んでいた。ただおそらく、こういう境遇に面した人間が、必ず口にするだろうと言う、無意識の言葉がのぼっただけ。
 必死に出した声は、当然のように震えていた。遠い廊下の向こうに、震えを残しながら振動して響いていく。その響きが、かえって悲鳴のようで、彼の心臓を掴んだ。
 少女は応えない。何も見ていない目に彼を映して、そこにいるだけだった。奇妙な夢現(ゆめうつつ)の世界にさまよっているかのような――まるで、日本人形がうかべているような、そんな表情だった。
 なんだこいつは。相手の反応がないことにいぶかしむよりも、ただ気味が悪かった。気持ち悪い。なんだこいつは。恐怖を怒りに摩り替えて、再び声を上げようとした。今度は「君は誰だ」と言おうとして。
 口を開きかけた。途端に、相手が笑った。顔を半分に割るかのように唇をつりあげて、笑う。どう見ても中学生か、多く見て高校生か、そんな年頃の少女がうかべるような表情ではない。まるで顔立ちすら変わってしまったかのように、婉然と艶やかに、笑う――
 開きかけた口の中で、吐き出すはずだった声が空回りした。呑み込んだ息が、喉の奥で音をたてる。細い空洞に風がからみつくような音。逃げたかったが、片足を一歩だけ後ろに運んで、それきり体が動かなかった。助けを呼ぶことなんて思いつきもしなかった。ただ少女を照らしている明かりが小刻みに揺れていて、そのおかげで彼自身が震えていることが分かった。
「あきらめよ」
 突然聞こえた声は確かに言葉だったけれども、彼の鼓膜を揺らしただけに終わった。認識して、意味をとらえることが出来なかった。
 ただ、声が聞こえたということ、その声は確かに少女の方から聞こえたということ、けれど少女の唇はぴくりとも動かなかったということだけが、観察して見て取れた。恐怖をさらにあおるだけなのに。そのことだけが何故か分かった。
 思ったのは、ただただ後悔。支払われる給料が高いのは、つい最近自殺した生徒がいたからだとか、表向きには隠されているが、集団自殺を図った生徒がいたからだとかいう噂を聞いていた。いくらお金が欲しいからって、やはりやめておくべきだった。
「手始めにお主にしよう」
 そう聞こえた途端、酔っているような少女の瞳に、突然生気が見えた。まるで夢から覚めたかのように、瞳に光りが灯ったかのような鮮やかな変化と、唐突さで、禍々しい色を宿して笑みを深める。
 抗い難いその瞳。命じることに慣れ、相手が自分に従うことに、寸分の疑いも抱いていないその声。
「聞こえたか?」
 艶やかに問う声。耳の中に忍び入ってくる。途端、彼の思考からすべての判断が消えた。
 体から力が抜けていた。手から震えが消えていた。強張っていた頬も、表情を忘れてしまった。立っていられるのが不思議なほど、筋肉がゆるんでいる。
 廊下に大きな音を虚しく響かせて、懐中電灯が落ちる。光りが踊る。床に転がった光源は、遠く廊下の向こうを無意味に照らしていた。角度の変わった光の余波に照らされて、少女の背後に何かを見た。
 闇を広げたような黒く長い髪が印象的だった。鮮やかな銀糸で縫い取りされた、黒い着物を身に絡ませる姿は、星を蒔いた夜空をまとっているかのようだった。反面黒い瞳には光りがなく、白磁の中の赤い唇はなまめかしく笑んでいる。
 少女の背後の中空にいるそれは、見たこともないほどに美しく、見たこともないほどに邪悪な女性だった。高慢に眼差しを向ける、それが途方もなく似合う。
 この光景を見た者がいれば、先刻発せられた声は少女でなくその女だったのだと理解するだろう。けれど、彼には何も認識できなくなっていた。無意識の服従を呼び起こす、魅惑にあふれた声にのみ心が動かされて。同時にわき上がる歓喜にもてあそばれて。深淵のような瞳に視線を絡めとられて、彼は無邪気に笑んだ。
 夢を見ている瞳のまま、自ら廊下の壁に向かって立つ。


 ごん、と鈍い音が聞こえた。ごん、ごん、ごん、と途絶えることもなく。
 廊下の壁に、頭を強打し続ける。何かの恨みを込めたかのような強さで。そのくせ機械的なリズムで。
 麻痺したように痛みすら鈍い彼の脳裏に、一人の女性の顔が波のように浮かんでくる。
 来月には彼女の誕生日だった。お金を貯めていたのは、指輪を贈ろうと思っていたからだった。このバイトの給料が入れば、確実に出来たはずだ。
 所詮まだお互いに学生の身で、社会的保証も無しに、婚約指輪など大それたことは言えなかったが、自分としてはそのつもりだったし、彼女もそのつもりとして受け取ってくれるはずだった。今まで何度も、そういう話をしていたのだから。
 ――結婚したら、マンションでもアパートでもいいから、犬が飼える家に住みたいわ。
 愛犬家の彼女は、照れたように紅茶のカップを触りながら、うつむきがちに言っていた。彼女の手料理を毎日食べられる日を、俺はとても楽しみにしていたはずなのに……。
 きっと驚くだろう。けれども、きっと喜んでくれるだろう……。つい先刻と同じように思って、彼の間近にあったはずのそれは、遠い世界の出来事となっていた。水面(みなも)を透かして見る、川底の世界のように、茫洋として不確かだった。
 正月に家に帰ったときに見た、また老いた親の顔。子供が生まれると、腹を抱えていた姉の顔。飲みに行こうと言っていた友人。それが全部、水鏡に浮かんで消える。それから、提出しなければならない論文のこと、迫っている試験のこと、まとわりつく日常も、同じように――否、それよりもずっと遠くにぼやけて浮かんで、沈んでいった。
 そして再び、嬉しそうに笑む、唯一の女性の顔――
 すべてが遠かった。夢の中の一幕になっていた。ただ現実は、悪夢のような美しい女だけ。
 打ちつけている頭の痛みも、滴り始めた血の感触も、壁を濡らし、床にたまりはじめた色も、何も感じなかった。闇も、恐怖も、驚愕も、感情は追いやられていた。
 ただそこには、単調に鳴り続ける、鈍い音が聞こえている。


「まだ足りぬ」
 再び陶然とした表情に戻った少女の横で、その女は言う。
「まだ足りぬ。まだ足りぬ。これでは力が出ぬ」
 血溜まりの中、額から血を流して倒れている男を、塵芥(ごみ)のように見てつぶやいている。無造作に手を伸ばして、うつぶせに倒れている男をごろりと片手で転がし、仰向けにさせた。鷹揚な仕草で、白い手を彼の左胸に突き立てる。上がる血飛沫に、眉すらしかめず。
「なにゆえ、このわたしが、このような下等なことをせねばならぬ」
 つぶやいた声に、一瞬だけ深い憎悪が刻まれた。けれど呪詛はその時だけ。
 再びもれる声は、単調な響きだけを宿していた。
「血が足りぬ。命が足りぬ」
 人がステーキを切り分けるときのような、単純作業をこなす淡々とした動きで、男の心臓を取り出して。吹き出す血に体を染め上げながら、そんなことを気にも留めずに。ただ唇から言葉を落とし続けていた。
 ぬらぬらとなまめかしく唇を動かしながら、その血肉の塊に牙をたてる。






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