まがことのは




第一章








 寒さから身を守る壁も、吹き付ける風をさえぎる天井もない場所で、少女たちは座り込んでいた。月明かりの下の屋根の上。今日はいつもの黒マントを羽織っていない都雅の隣には、化け猫の飼い主である少女が座っていた。さらにその隣には、六、七才の人間の少年に化けた猫がいる。
「今日は、わざわざ来てくれて、ほんとうにありがとね。都雅ちゃん」
 嬉しそうに、猫の飼い主の美佐子が言った。話しかけた相手の仏頂面に微笑みかけながら。
「べーつに、ヒマだったからいいけど」
 言われた方は、「都雅ちゃん」と親しげに呼ばれて、苦笑してしまった。そんなに軽々しく彼女を呼ぶ人間など、数えるほどしかいないと言うのに。彼女の力のことを知らない人間ですら、他者を寄せ付けない雰囲気に、いつも遠慮をする。
 さすがにこの猫の飼い主なだけあると、感心してみる。
「今日はこの間のお礼もかねて、都雅ちゃんにお仕事のお願いがあったの」
「仕事の話?」
「うん。わたしの親戚の子が、何かに狙われているって、すごい騒動になってて、それで。騒動って言っても、内輪だけなんだけどね。その子のおうち、今はお仕事とか別の大きな事件で大変みたいで、みんなそっちにかかりきりだから、その子のことちゃんとかばってあげられる人があんまりいなくて」
「何かって?」
「よく分からないの。……親戚って言っても、とても遠い親戚だから、わたしのところまで詳しい話は来ないのよ。でもその狙われてるって子と、わたしたち仲が良くて、ちょっと話を聞きかじってきたんだけど」
「……わたしたち?」
「わたしと菊ちゃん」
 ね、と笑みを向けられて、少女の横でごろごろしていた少年が「うにゃん」と返事をした。人型をしている猫は、真新しい洋服を着ていて、どうやらきちんと一家の一員として、改めて認められたのだと知れた。
 何はともあれ、呑気な一家だと思っていたが、親戚ぐるみで呑気なのかと、改めて都雅は苦笑した。
「その子を狙ってるのが何なのか、よく分からないらしいのよ。警備も厳重にしているみたいなんだけど、隙間を縫うようにして嫌がらせされているみたいなの。わたしつい都雅ちゃんのこと話しちゃって、そしたら是非連れてきてくれって言われちゃったの。……ごめんね」
「いやー、ちゃんと金払ってくれるんなら、かえってありがたいけど。あたしのこと話したって、なんて言ったんだ?」
 すまながる相手に対して、都雅はのんびりと、なんでもないことのように言う。
「脅しとか嫌がらせとか、そういうのの解決を専門にしてる人がいるって言ったの。都雅ちゃんはちょっと変わった事態にも慣れてるみたいだから、って」
「普通じゃないみたい、ね」
「うん。あ、お金なら大丈夫。お金持ちの家だから。全国チェーンのデパートの社長さんの家だったはずよ」
 随分とご立派な親戚だな、と思い、都雅は表情を強張らせた。――冗談ではない。
 彼女の表情の変化を見て、隣で話していた美佐子は、ますますに申し訳なさそうな表情をする。
「あの、本当にごめんね。勝手なことしちゃって。迷惑だったら、きっぱり断ってね」
 そんな美佐子に気がついて、都雅は「そうじゃない」とつぶやく。片頬に笑みのようなものを浮かべながら言った。
「仕事の話自体はすごくありがたい。だから、気にするな。ただあたしは、金持ち連中が苦手なんだ。関わらないようにしていこうと、前から決めていたんだ。悪いけど」
「そう……ごめんね」
 断るなら断るで他に言いようもあるだろうに、そんな訳の分からない言い分で断られたことに対して、美佐子はますます声を小さくしてしまった。
 本当は、都雅のような仕事を生業にしている者なら、金銭に余裕のある者、もしくは権力を持つ者に取り入ろうとするものだった。普通でもそうなのだろうが、彼らの場合は、特に。特殊な職業である上、能力自体が特殊であるから、後ろ盾を持っていることは大きな強みになる。文句なしに飛びつくものだったが、都雅は頑なだった。
 けれどそんなことよりも、目の前の相手に、困惑してしまう。仕事の話よりも何よりも、落ち込ませてしまったことに、どうしてやればいいのか分からなくて、ざわざわとして落ち着かない。なんだか変な気持ちだった。
 そのまま、どう返せばいいのか分からなくて、立ち上がる。話を打ち切ることしか思いつかなかった。
「それじゃ、あたし帰る。お宅のご両親によろしくな。ご飯おいしかった」
 自分を思って、自分のために何かをしてもらうことが、とても嬉しかった。家族の団欒だなんて、そんな当たり前の空気に触れたのすら、随分と久しぶりのことだった。
 ――心のどこかで滑稽に思いながら。
「あ、ねえ都雅ちゃん」
 くるりと背を向けて、そのまま帰ってしまいそうな都雅に、美佐子が慌てて声をかける。
「都雅ちゃん、わたしと同い年だったよね。高校、どこ受けるか決めてる?」
 急に言われて、無表情で相手を振り返った都雅は、やはりどう返せばいいのか分からなかった。どういう顔をして見せればいいのか、彼女がどう答えてほしいのか分からない。
「さあ。あたしはこのままこの仕事を続けていれば、学歴なんて必要ないからなあ」
 仕方がないので、事実をそのまま言った。少し素っ気なかったかなと思いながら。
 決めていない、などと言っていていい時期でないのは分かっていた。私立高校の願書の締め切りもさしせまったこの時期に、思い悩むようなことではないのも、分かっているつもりだった。
 都雅はよく学校をサボっているし、誰から見ても、態度が良い部類に入らないのも分かっている。ただ、テストの点だけはしっかり取っている。だから教師の受けは悪くても、担任はやたらと、勿体無いからレベルの高い高校に入れと主張してくる。都雅は上の空だし、保護者は放任主義だ。担任がこぼした愚痴によると、「本人に一任している」の言葉だけ返っているようだったから、無駄な苦労だな、と思うと相手が憐れではあった。
 だけども、面倒で仕方がない。義務教育なんてものでなければ、彼女は今だって、学校になんて行っていなかっただろう。人との関わりも、いちいち関わってこようとする教師も、面倒なだけだった。とにかく、疲れてしまう。
 ようやく終わろうと言うのに、わざわざ引き延ばす気にもならない。その上進学するとなれば、どうしても金がいる。――誰の世話にもなりたくないから、自分で用意しなければならないし。それはただの意地ではあったが。
「あのね、その例の親戚の親戚……だから、わたしからは本当に遠い親戚になっちゃうんだけど、その人が私立高校の理事やってるの。わたしそこ受けようと思ってるのよ。もちろん、他人同然の人で、おまけにとても厳しい人だから、普通に入試を受けて、それで受かることが出来たら、入学金とか授業料とか、安くしてくれるって言ってて……。東城学園っていうんだけど」
「ああ……。随分とバカ高くて、頭のいい奴らばっかりいく。入試が、中学生に出す問題じゃないって、聞いたことがあるな。名門だ」
「そうなの。だから、もし入試に受かることができたら、なんでもしてやるって、そういうことらしいのよ。わたし親にお金の負担とかかけたくないから、そこ受けるつもりなんだけど、お母さんと言ってたの。都雅ちゃんわたしと同い歳なのに仕事してるってことは、お家の方が大変なんじゃないかって。だから、余計なことかもしれないけど、もし良かったら、わたしと同じ条件で進学できるようにかけあってみるから、一緒にわたしと同じ学校受けないかなーって」
 言われた内容が、あまりにも突拍子のないことで、都雅は驚いた。そう、それも高校がどうとかの話ではなくて。
 自分を気遣ってくれているという、この家族の思い。――どうして。
 黙り込んだ都雅に対して、美佐子は続けた。
「わたしの友達、そこ受ける子いないのよ。寂しいから、都雅ちゃんが一緒だと心強くて。お母さんもお父さんもそう言ってる」
 今度こそ確実に、都雅は困惑した。何を言われているのか、よく分からない。得体の知れない相手を捕まえて、心強いとかどうとか、何を考えているのだろうと思う。
 ――友達、か。
 どうすればいいのか、分からなかった。どう応えるべきなのか。
 ただ、気がついたら、強張っていた頬がゆるんでいた。唇が笑みを浮かべているのが分かった。
 そのままで、美佐子に向かって言う。
「考えておく。――――仕事の方も」
 その言葉に彼女が何か言う間もなく、都雅は身をひるがえして屋根を蹴っていた。軽い体が夜風に舞い上がる。再び美佐子の声が追いすがった。
「また遊びに来てね!」
 かけられたその言葉には、今度は振り返らなかった。顔を見ることが、出来なかった。
 それに対してどうして応えなかったのか。最後に少女へ向けた笑みが冷笑なのか自嘲なのか、それとも嬉しかったのか、それは都雅にも分からない。



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