まがことのは




第十章








「やめておけ」
 血にまみれた爪を掲げて鈍く光らせ、美佐子に襲いかかろうとしていた魔族は、その声に止まった。あちこちから血を流し、まさに強固な意志だけでそこに存在を続ける魔族は、手を止め、すべての動作をやめて振り返る。その隙に菊が美佐子を連れて避難したのを見送って、都雅は少しほっとする。凌霞もそれに気づいていながら、見逃していた。
 ――先の攻撃で、死んでおかしくなかった。
 この世から消えておかしくなかった。でもまだここに存在し続けるのは、偏に、自分の誇りを傷つけたものを苦しめるためだけだ。誇り高い魔族として、彼女はそれを許すことが出来なかった、だからこそこうしてあらゆる手で苦しめようとした。
 結果どういうわけか、あり得ないことが、こうして起こっている。絶対たる自分が追いつめられ、消える寸前まで来ている。
「なぜ、恐れぬ」
 疑問が素直に口をついて出た。
 不思議でならなかった。そして何より許せなかった。彼女が都雅にこだわった第一の理由は、傷をつけられたからでも敗走させられたからでもない。
 彼女は、人間などより余程高貴で希有な己の存在を自負している。力の差など考えてみるまでもなく明白なことで、人間など彼女にとってとるに足りない遊び道具でしかなかったはずだ。相手だって、それが分からないほどに馬鹿ではないはずなのに。
 脅威を感じてしまったから。傷つけても苦しめても立ち上がってくる相手に、例えほんの少しであろうとそんな感情を抱いてしまったことに、彼女は気がついていた。何をしても無駄な気がする……。それは、あってはならない事だった。ありえないことだ。
 強大な自分に決して屈しない相手に、恐怖を感じてしまった。それが何より、許せなかった。
 それなのに、都雅は簡単に答える。
「程度の問題だろう」
 強大な存在が恐くないわけではない。人並みに恐怖を感じていると、彼女自身は思っている。けれども、彼女にとって「最も恐いもの」ではないだけ。
「あたしにとっては、生きていくことの方が、困難な戦いだ」
 それがどうした、とばかりに言う言葉に、凌霞は笑みを浮かべていた。
「やはりお前はむしろ魔族だな。お前のような人間は見たことがない」
 魔族は血を流したままでも悠然と立っていた。どう見ても重傷の体で、しっかりと地面に直立していた。その美しい顔で、笑みを浮かべる。いつもの魅惑の笑みをしてみせた。矜持が、その表情からあふれている。
 けれど都雅は相手がどうあれ、いつもの、どこか不機嫌そうな顔でそこにいた。
「うるさい」
 魔族の攻撃に破れてしまった黒マントを羽織り、風になびかせて立っている。彼女自身も満身創痍だったが、気に留めていない。はじめから気にもしていない。相手が魔族であろうと、自分に痛手を与えた相手であろうと、普段とまったく変わらない。
 魔族はもうその態度にも慣れてしまったとでもいうような様子で、その紅の唇から艶を帯びた声で、言う。人間の精神に関わるのを得意とする魔族は、遠慮もなく言い放つ。
「母親に疎まれ、他人に疎まれ、ようもそう平然としていられるものだな。化け物め」
 その言葉に、都雅の顔から表情が消える。もともと憮然としていた顔から、完全にすべての感情が消えた。瞳だけを怒りに輝かせて、魔道士の少女は魔族を見返していた。
「化け物(おまえ)に化け物呼ばわりされるいわれはないんだよ」
 闇色のマントを払って、彼女は傷にまみれた片手を掲げる。
 ――逃げない。
 あたしは、魔族なんかじゃない。都雅は、冷静に自分自身へ言葉をかける。あたしは化け物なんかじゃない。それを知ってる。知ってる人がいる。ただ臆病で、だから虚勢を張って、傷つかないように懸命に踏ん張っているだけだ。
 何を言われても、どんな目を向けられても自分らしくある強さがほしい。だからこんなところで立ち止まらない。うろたえない。
「悪は滅びるものと決まっている。さっさとあたしの目の前から消えろ」
「いつから魔族は悪となった。いつから人を害するものが存続を許されぬものとなった。我が物顔で世界に蠢く人間にとって都合の悪いものだからというそれだけのことで、排除しようというのは、間違いであると思わぬのか。われらとて世界に在るものであるのに。のう、そこな鬼と同様」
「あたしが自分を正義だと決めた日から、あたしに敵対するものは悪だと決まった」
「人間ごときが。神でも魔でもないくせに、お前が一体何者だと言うのだ」
 魔族が吐き捨てるように言い、反対に都雅は唇を片方つり上げて、笑う。手を掲げ、伸ばしながら抑揚のない声で淡々と答える。
「正義の味方でぇす」
 棒読みで吐かれたのは、いつもと変わらない、彼女好みの陳腐な台詞だった。闇のマントを羽織る魔道士の少女は正に自分自身が、英雄譚の言う悪役のような、とても正義の味方とは思えないような皮肉な笑みをしている。
 そして切り捨てるような声で、続けた。
「消えろ」
 命じる。
 呪文でもなんでもない。棒読みのままの、けれども奥底に深い怒りの隠された、ただの声。言葉。――だが、現象は起きた。それは先刻と同じ最高魔法。しかも先刻のものよりも、確実に強大な魔法。


 一般に魔道というものは「呪文を唱えて現象を起こす」ものだとされている。もしくは「悪魔の力を借りたもの」だと。だがそれは、正しくない。後者のそれはむしろ「邪法」と呼び分けられる。
 彼らの使う技である、何もないところに火を熾したり、風を吹かせたりすることは自然にはあり得ないことだ。だから本来魔道とは、断固たる意志をもって「現実にあり得ない現象」を起こすこと。自然をねじ曲げて自分の思い通りにすることが「魔道」と呼ばれるもの。彼らの使う、本来必要ないはずの『呪文』とは長年の研究の賜物で、「これを言えば現象を起こしやすく出来るキーワード」でしかない。
 神のように万物に命じようとするから、彼らの技のことを悪魔の仕業と言う事も多い。
 身に持った魔力がわずかでもあり、元素たるものに呼びかける素養があれば。そして本人の意志が強ければ。強者が一睨みで弱者を従えることが出来るように、呪文など使わずとも魔法は起こせる。だがそれはやはり生半可なことではなかった。研究の結果呪文というものが生み出されたほどなのだから。しかし精神力を消耗はするものの、それがもしできるのなら、決まり文句である「呪文」などを駆使した時よりも、よほどの効力が得られる。
 ――自我を持って自然すら捻じ曲げる精神力を持つ彼らだからこそ、恐れを持って、同時に皮肉を込めて、魔道士(エゴイスト)と呼ばれるのだ。
 そして今世界は、彼女の意志に従って、力をそこにあらわした。






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