歌が、聞こえた。 低い声だったが、歌の内容も込められた響きも陽気だった。なんとなく線香の匂いがするからか、読経の方が似合いそうな声なのに、と連想が働いたが、楽しげな声にはなんとなく坊主の印象が浮かばない。 瞼を開けて、目を射る日差しの明るさに顔をしかめる。何度か瞬いてからもう一度改めて眼前を見ると、天井があった。見慣れない天井だ。 何を考えるよりも前に、枕元に手が伸びた。いつもそこに刀を置いておくための癖だったが、当然のように手が空気を掴む。しかも、伸ばした方の腕に痛みが走った。舌打ちしながら半身を起こすと、頭もずきずきと重く痛むが無視をする。傍らに感じた人の気配に、座ったままで身構えた。 「起きたと思ったら、いきなりどうした」 突然の流紅の行動に特別驚いた様子も見せず、そこに座っていたのは、黒い僧衣を着た年若い坊主だった。坊主というには雰囲気も眼差しも呑気なもので、頭にはぼさぼさの髪が生えているが。手元には針道具があって、どうやら着物の繕いをしていたらしい。先程の連想は、どうやら間違いでもなかったようだった。 「ここはどこだ?」 「寺だ。ついでにいえば山奥のぼろい寺」 応える声は低く、穏やかだったがからかう色が強かった。 「そうじゃなく」 「土地の名で言うなら、ここは富岡だ」 「富岡?」 聞き返す声には、大きなため息が混ざる。構えるのをやめて、座り込んだ。 その土地の名を聞いて思い出せる場所は、石川でも本條でも飛田でもない。 「神宮の土地か」 移動の途中だった。桜花から、石川への国境へ、戦の際には大急ぎで駆け戻った道を今度は逆に、馬には無理を強いながら、昼夜なく駆けてきたところだった。 「自分がどこにいるのかも分からずに、あんなに大急ぎで馬を駆けさせてたのか? 間抜けだな」 年若い坊主は楽しげに歌うように言って、カラカラと遠慮なく笑う。 「うるさい」 流紅は吐き捨てるように言った。何より自分を罵っているのは、彼自身だから。夜通し駆け続けて、方角以外確認することができなかったし、あまり表の道を通りたくなかったから、だいたいこの辺りだろうという検討くらいはついても、それだけだ。土地の名を聞かされて、全然先へ進めていない事実が、気に重い。 早く神宮の領内を抜けなければ、すぐに見つかって連れ戻されるだろうから。こんなところで呑気に寝ている場合ではない。――もし領外ならば、もっとそんな場合ではないのも、確かだったが。 「道で行き倒れてたのを助けてやった相手に、それは礼儀知らずってもんじゃないのか? それとも頭を打って恩義ってもんを落としっぱなしにしてきたのか」 言われて思い出した。山中の道を駆けている時に、突然子どもが馬前に飛び出してきた。大慌てで手綱を引いて馬を止めたが、急停止の勢いで馬は前足を蹴り上げ、気がついたら流紅の手は手綱を離れていた。視界が回り、まだ朝早い空の色が目に鮮やかだったことばかりが、記憶に残っている最後だ。頭が痛いのは坊主の言う通りぶつけたのだとしか思えなかったし、腕は、そのとき捻りでもしたのだろう。 危うく馬で、子どもを蹴り殺しかけた。 「子どもは無事なのか?」 「おかげさまで」 そうか、とつぶやく。 「あの子ども、どうしてあんなに慌てて飛び出してきたんだ」 「聞いてどうする」 坊主は、独白のような流紅の言葉の揚げ足をとる。流紅も、相手が答えを知っていると思ってつぶやいた言葉ではなかったが、まるで事情を知っているかのように、そのくせ、それはあまり性質の良いことではないような、試すようでいて楽しげな声に、口をつぐんだ。 まったく他意など無いようにも思えるし、逆に見下してからかっているようにも思える。つっかかっても、のらりくらりとこの調子でかわすだろう。 いろいろ、なんだか頭にきていたが、流紅は仏頂面のままつぶやく。 「とりあえず、礼を言う。助かった」 変な坊主だと、思う。普通の人間なら、倒れている人間を見て、こんなにばかばかしい応対はしないだろう。それとも、普通の人間なら、そんな状態の相手を拾ってきて看病はしないのかもしれない。神宮は他の国に比べて治安が良いが、それでも、荒れた時代なのだ。流紅が手にしていた刀を奪って、倒れた人間はそのままにして、もしくはご丁寧にとどめを刺して逃げる方がむしろ普通だろう。 なのに、ずきずきと痛む頭に触れると、綺麗な布で巻かれて手当てされている。怪しい人間を連れ帰って傷の手当てをした上、相手の気がつくまで近くにいたくせに、事情も聞かずによく回る口で相手をからかっているのは、剛毅なのかこの男こそ馬鹿なのか。それとも、坊主だからなのか。 言われた言葉に少し驚いたように目を開き、すぐに坊主は笑った。喉をくつくつと鳴らして、楽しげに。 「甘いな。どうしてそこで俺の言うことが信じられる。もしかしたら本当は、ここは飛田なのかもしれないぞ。気を失っている間に他国へ連れ出されたとも限らない。本條かも石川かもしれないし全然別の土地かもしれない。実はこうしてしゃべっているのも、実はただの時間稼ぎで、軍が駆けつけてくるのを待っているのかもしれない」 再び流紅の目が警戒に染まる。それを見ながらも、相手は変わらず陽気な口調で続ける。 「お前の刀をみた。桜の紋があった。ただの人間なら気がつかないかもしれないが、あれは神宮の紋だ。神宮の紋の入った刀を持てる人間など決まっているし、先日の戦で何があったのかも、知っている者は知っている。それでどこがどう動くかというのも、多少頭を動かせば分かることだ」 「一体何者だ」 「俺は おどけて言って、流紅を見る。 「坊主だからそれなりに学があるし、ここに籠もっていることは少ないから、あちこちの事情をそれなりに知っている。おぬしを拾ったのも、久々にここに返ってくる途中だった」 「一体何が目的で……」 言いかけて、流紅は口をつぐむ。戦がおきてから、こうして気配をうかがうのは何度目か。 廊下を歩いてくる足音がする。本当にこの坊主の言う通りなのかと少し焦り、すぐにその足音が、この場に踏み込もうというにはドタバタとただ落ち着きがないだけなのに気がつく。窺うように坊主を見ると、彼は知らん振りを決め込んで、目線をそらして口笛を吹く。 「常盤殿、一体何が……」 たどり着いた足音の主は、部屋の中に声をかけながら、障子戸を開ける。訪れた人物は、部屋の中を伺い見ながら入ってこようとして、片足踏み出した姿勢のまま止まってしまった。 泰明が、そこに立っていた。 呆然としてしばらく無言でそこに立ち尽くして、山村家の年若い当主は、戸口に背を向けたままの黒衣を見た。それから、恐る恐るというように、入り口を睨んでいる流紅の方へ視線を移す。 目が合った瞬間正気に返ったのか、痛そうなほどの音をたてて、泰明は慌ててその場に膝をついた。両手をついて、勢いよく頭を下げる。あまりにも勢いが良すぎて、床に頭をぶつけたほどだ。 肩を震わせて笑っている常盤が懸命に声を抑えているおかげで、再びそこに沈黙が降りた。 呆れて、流紅がため息混じりに声をかける。 「何をやってるんだ、お前は」 「こ、ここはうちが神宮のお家から預かっている土地ですから」 少し的外れなことを泰明が答える。そしてどこか必死な声で続けた。 「どうしてこんなところにいるのですかあなたは!」 「おや、面識があるのかい」 常盤が呑気に問うが、泰明の耳には入っていないようだった。 「常盤殿、何を呑気に! だいたい、お怪我をさせてしまって……!」 慌てた様子で言うが、問いかけの答えにはなっていない。それに対して常盤は、ただ肩をひょいと持ち上げただけだった。泰明はむすっとした顔続ける。 「早馬らしきものか、神宮からの使者の足を止めてしまったと知らせがきたけど」 先だって戦があり、そしてまたいつ起きるとも知れない緊迫した状況が続いていて、その土地を大急ぎで馬で駆けていく武士がいれば、領主へ至急に何かを伝えに走る、もしくは臣下へ命を伝えに走る早馬である可能性が高い。それを他愛のないことで止めてしまったとあれば、十分に大事だ。それで国の命運や、人の命が左右されることなど、わかりきっている。だから、そんな知らせを受けた泰明は大慌てで駆けつけてきたのだろうが。 「言ったな」 「神宮のお人だと気がついてて、わざとそんな言い方をしたでしょう!」 「したな」 常盤の楽しげな様子は変わらない。 早馬や使者がどうというより、主君の足を止めてしまい、もしくは負傷させたとなれば更に大事だというのに。 「おい」 今度は、流紅が不機嫌な声を上げる。責めるような視線に、常盤は飄々と言った。 「誰も時間稼ぎでないとは言っていない」 神宮のことを考えて、泰明のことを考えれば当然の行動だ。 苦い顔で、流紅が黙り込む。 折角大急ぎでここまで駆けてきたのに、土地を抜け出す前に臣下に見つかってしまった。当然父に知らせが行くだろう。連れ戻されてしまう。 不機嫌な顔で、それ以上何も言わない流紅に、彼の不機嫌の理由をどうとったのか、それとも深くは考えなかったのか、泰明がハッとした様子で言う。 「もしかして、神宮家はわざわざあなたを遣わしてくださったのですか?」 予想もしなかった反応に、流紅は片方の眉を吊り上げて泰明の方へ視線を向ける。無言のままの彼に、泰明は戸惑った風を見せた。 まだ知らないのだ、泰明は。流紅がどうしてこんなところにいるのかを、知らない。神宮からの知らせもまだ、泰明のような小さな家の者には伝わっていないのかも知れない。――ただの鎌かけだったにしても、むしろ、常盤のような洞察力の方が尋常でない。 「あ、違うのですか? そうですよね、うちなどよりもっと 「今はもう国境よりも、こっちの方が深刻だと何度も言っているだろうが。そうそう同じ場所には留まっておらんものだ」 少し恥じ入る様子で目をそらしながらブツブツと言う泰明の言葉を継ぐように、常盤が言う。泰明はともかく、常盤の言葉は、いちいち流紅への揶揄のように聞こえてならない。 しかし、そんなことに構っている場合ではないようだった。 話が、見えない。 「一体、どういう……」 「やはり知らないか」 問いかけようとした流紅にかぶせるようにして常盤が言った。まるで静止するかのように。 「神宮のご子息は、別の用事で急いでいたようだし、いつまでもこんなところで捕まえておくのも良くないだろう」 真意を量りかねて流紅が睨みつけても、涼しい顔で続ける。 「何せ富岡は今、家出のお邪魔をしている場合じゃないからな」 「お前……」 「どうせ、飛田へ行く途中だったのだろうが。行きたいなら行け」 無責任ともとれる言いようで常盤は、繕いをしていた着物の影に隠れていた――隠していたのかもしれないが、そこにあった刀を取り出して、流紅の前に放り投げた。 鉄の塊は、寝具の上に重い音をたてて落ちる。事態についていけず成り行きを見ていた泰明が、驚いて声を上げた。 「常盤殿!」 「だって俺は、傍観者で部外者以外の者でいるつもりはないしなあ」 「わたしの正体を詮索しただろうが」 「興味本位だ。深い意味はない」 信じるわけなどない。流紅はきつく睨みつけるが、相手は涼しい顔だ。何を考えているか分からない。――分からないからといって、ためらっている場合じゃない。 流紅が刀を掴む。だが持ち上げる前に、足音も高く駆け寄ってきた泰明が、飛びつくようにして刀を押さえ込んだ。 「おい」 睨み付ける。だが、泰明も同じだけの力で視線を返してきた。 「どういうことなのですか」 「お前の知ることじゃない」 「常盤殿の言うことは勝手な推測かもしれませんが、俺は常盤殿のことを信頼してます。いい加減に見えるかもしれませんけど、頭のいい人ですし。だから、あなたがこれから、どうしてどこへ行かれるのか、はっきり言ってくださらないとこの手は離しません」 「家臣ふぜいに、神宮の人間の意志すべてを語れと?」 言外に、出すぎだ、と言い切る。推測でしかない域で、泰明などが流紅の、神宮の動向をすべて知ろうなどと、思い上がりも甚だしいところだ、本来ならば。意見することですら、無礼だと一言で切り捨てられても文句が言えないものだった。いくら、桜花で親しく言葉を交わしたことがあると言っても。 本来なら、二人の間の身分の差は、こんなに間近で会話ができるようなものではない。家臣一同が集まって流紅が上座に座るなら、泰明はもっとも戸口に近い末席、もしくは回廊にでも座らなければならないところだ。――流紅が、そんなものを振りかざすことなど、あり得ないことではあったのだが。 しかし、泰明も負けてはいなかった。 「今更ですけど、そもそも神宮のお人が遠出なさるのに、供の一人もいないのはやはりおかしいです」 泰明の言うことも、正論だ。そして常盤の言うことが本当で、流紅が勝手に飛田へなど向かおうとしているのならば、それは十分に泰明が彼の足を止める理由になる。何よりも優先されるべきは、流紅の意志ではなくなる。 苛立って、流紅は泰明を更にきつく睨みつける。けれども、泰明は一層刀を強く握って、流紅を見返した。張り詰めた沈黙が満ちたが、常盤は横でやれやれとつぶやいている。のんびりした動作で針を手に取ると、呑気に裁縫を再開した。 しかしながら、彼が針を一度二度と、刺したところだった。少し遠くで怒鳴り声が聞こえて、泰明が目をそらした。顔を上げた常盤と目をあわせ、それから戸口を振り返る。刀は、押さえ込んだままだったが。聞こえ出した荒々しい足跡に、泰明はすぐにも走り出したそうだった。 「若殿、こちらですか!」 駆けてきた武士がひとり、開け放したままだった戸の外に、滑り込むように膝をついた。若、と言われて流紅は少しビクリとしたが、相手が呼んだのは泰明のことのようだった。 「今度はどこだ?」 何が起きたかを問うこともしない泰明に、心得たように相手が素早く答える。 「上つの村の方です!」 「分かった、すぐに――」 行く、と言おうとしたのだろう。けれども、自分の状況を思い出した泰明は、顔を前へ向ける。まだ睨んでいる流紅と、横でのんびり成り行きを見ている常盤の間で視線を往復させた。葛藤の表情で束の間、口をつぐんだが。 「常盤殿、若君をしっかり捕まえておいてくださいよ!」 「確約はできんな」 「常盤殿!」 「はいはい」 生返事の相手を不審そうに見てから、不承不承の様子で、恐る恐る刀から手を離す。そして離してしまうと、「ご前、失礼します」と叫ぶように言って流紅に頭を下げてから、すぐに身を翻して駆け出した。 「何が起きている?」 刀を引き寄せながら、独白のように流紅がつぶやく。すると常盤は、おもしろがるような口調で問うた。 「それは、ただの好奇心か? 神宮の人間としてか?」 簡潔な言葉だ。だが流紅は、相手の言いたいことを悟って、黙り込んだ。 「ただの好奇心でも、お前が神宮の人間である以上、話を聞いて何もせずにここを出て行ったら、お前はもう神宮を名乗る資格はないぞ、次男坊」 もし流紅が本当にただの通りすがりで、もしくは素性が知れていない時点であれば。この土地が巻き込まれているらしい何かの事態に、何の気なしに口をだしても、大した問題ではないのかもしれないが。 神宮家の人間として、民に対して、その所領に対して、背負うべき責務というものがある。しかしながら流紅は、仏頂面でつぶやいた。 「『神宮』は、兄上がなる」 事情を話すよう、強要するつもりの言葉ではない。ただ単に、自分がここにいる理由だ。頑なな流紅に常盤は、とりあえず、という様子で聞く。 「家を飛び出して、こんなところに来てどうするつもりだ」 「飛田に行って兄上を助け出す」 今更隠すまでも、改めて問われることでもない。もう迷うこともなくただ一つのことを言う流紅だったが、常盤は変わらず何食わぬ顔で続けて問いかけてきた。 「神宮の手練の者が何人も行ってどうにもならなかったものを、お前がどうにかできるのか」 「わたしは、他の者にはないものを持っている」 ほう、と常盤が眉をあげる。おもしろがっているのが、よくわかる顔で。多分、流紅が言おうとしていることなど、聞くまでもなくわかっているのだろうが。 「もしお前の言うように兄上を助け出せなかったとしても、わたしと引き換えなら、帰してもらえるかもしれない」 「自分を犠牲にして、か。なるほどそれでお前は命を捨てるのか」 「わたしがいなくても、兄上が無事でいれば、それでいいじゃないか」 「おめでたいな」 遠慮も何もなしに返ってきた感想に、流紅はむっとして口を閉じた。 「飛田家が、そんなに生易しいものだと、本当に思っているのか? 目の前にぶらさげられた餌を両方とも逃がすような奴らか。お人よしの神宮家ならともかく。それに、だ」 涼しげな顔で告げる常盤の言葉は、容赦のない正論だ。そして彼は続ける。 「お前の言葉は、兄に全部責任をかぶせるからそれでいい、って言っているように聞こえる」 「そんなことは言っていない!」 「そういうことじゃないのか。自分は兄を助けたいから大義名分で好き勝手して死ぬが、兄は帰ってきて神宮の民の全部の命を背負う責任を一人で負えばいいと言っているみたいだな。それも、兄が無事に帰ってこられればの話だ。もしかしたら、二人とも帰って来られないかもしれない。そうしたら、お前は父親に全部責任をかぶせるのか」 「関係ない者は黙っていろ」 刀を握り締める手に力がこもる。――兄の、刀を。 悔しい、と思う。 「確かに俺は部外者だが、神宮の土地に根をはる人間だ。上の人間の都合で国を賭けられてはたまらんからな。分不相応だろうが、折角の機会だから、口だけは出しておく」 常盤の言うことは、正しい。父はそれを分かっていたから、紅巴を見捨てると言った。それくらい、分かっている、いくらなんでも。 だけど、考えてしまう。見たことのない敵国。非道だと怖れられる飛田家。 ――足を折られた兄、そして、足を折られたという、神宮の忍。 失敗すればあるいは、殺されるだけでなくそれ以上の酷い目にあわされるかもしれないと思ったが、他にどうしろというのだ。 誰も彼もが、そんなことを平気でするような人間のいる場所に、そんな人間ばかりのところに、兄を一人で放り出しておけと言う。できるわけもないのに。 思えば、人質の話があがった春の日から、何かと自分を軽んじる兄に対する苛立ちと、心配があった。もしくは以前の冬の戦のときから、もしくはもっとずっと前の自覚しない昔からかもしれない。それが、ここにきて我慢しきれなくなって、破裂したようなものだった。 悔しいと思う。それはただ常盤に対してのものだけではなくて。自分自身に、父に、兄に、そしてどうにもならない状況に、まわりのすべてに。 何より、怖いのは飛田家ではない。ずっと助けたいと思っていたのは、戦からではない。彼自身からだ。――流紅の影からだ。 それはもう、幼い頃からの恐れだ。石川家を出てくるときにも思ったそれは、余計に重くのしかかる。本当は、憎まれているのかもしれない、と。 だけども、それだけじゃない。 「うるさい」 流紅は、常盤の言葉にも、自分の混迷する思いにも、叩きつけるように言った。 「「もういい、何も聞かない。この土地にはかかわらない。それでいいんだろう。わたしだって自分がやってることが、的外れて馬鹿なくらいわかっているんだ。他のことには構わない」 ――人の言葉に、惑っている場合じゃない。神宮家の状況も飛田の思惑も、構わないと思ったから飛び出してきた。このままでは、今のままでは、何もかもの感情が無意味になる。 「兄上のために何かしようという人間は、もうわたし一人なんだ!」 しないのではない、出来ないのだとわかっていても。 断じて、兄一人を敵国に放り出して、そのまま死なせるなんてことがあってはならない。 悲痛な思いで、取り上げられてたまるかというように、流紅は刀を抱え込んだ。しかしながら常盤は、流紅の思いも、力いっぱい思いの込められた言葉も、さらりと流して呑気な顔で言った。 「まあ、行きたいなら行け。拾った命に対する責任以上のものは、お前には持たん」 刀も返してやっただろ、と。簡単にそんなことを言った。それから、流紅のことに興味をなくしたかのように、手元の布を引き寄せる。 「……なんだって?」 「お前の馬は、裏に繋いであるぞ」 「あいつに、わたしを引き止めておくと約束していなかったか」 「なんだ、行きたくないのか。だいたい人のことを気にしている場合なのか、お前は。そんなことどうでもいいんだろうが。お人よしだな」 喉の奥で笑う。人に意見をするだけしておきながら、結局は「でもお前がそうしたいのなら勝手にしろ」と言い捨てるのは、あまりにも意地が悪い。笑われたことも、引っ掻き回されたこともまた癇に障って、流紅はもう何も言わずに立ち上がった。刀を腰に差して、足音も荒く歩き出す。 呑気な表情の食えない坊主は、やはり止めるつもりもないようで、ただ手元を見て繕い物に精を出している。 「どうせ、見捨てることもできんだろ」 去っていく流紅の背中に、変わらず呑気な声で、そんなことを吐いたが。 流紅が部屋を出てすぐに気がついたのは、辺りがあまりに賑やかなことだった。騒々しく、慌しい声にあふれている、と言った方が正しいかもしれない。常盤のいた僧房を出て、あまり広くはない寺の回廊をあるいていると、庭が目に入る。 人であふれた庭だった。口々に騒ぎ立てている人、泣いている子ども、そして慌しく動き回っている僧達。何かが起きているのだろう、ということは、それを見るだけでも察しがついた。でも、立ち止まらない。気づかなかった振りをして、すぐに視線をそらして歩き出す。 通りすがった僧を捕まえて、馬がつながれている場所を教えてもらい、ついでに履物を譲ってもらう。木につながれて草を食んでいた馬を見つけると、彼は馬の首筋を叩いてなでてやりながら、すぐに縄をほどいた。 「無理させて悪いけど、まだまだ道は遠いから、がんばってくれな」 神宮領にいる間はまだいい。問題は、国境をこえるときだ。そして、石川の領に入ってからは、兵に怪しまれないよう、人目につかない道を選ぶ必要がある。本條領は今、当主が領内の小さな城に逃げこんだままのせいで、領内はほとんど無法地帯と化している状態のようだった。そこに至れば、石川領とは違った状況を迎えるはすだ。そして、問題は飛田家。 まだ道は遠い。こんなところで、惑っている場合じゃない。鐙に足をかけ馬にまたがる。振り切るように、駆け出した。 周囲を木に覆われた寺を脱し、そのまま人目を避けて山道を突き進んでいく。まとわりつくような晩夏の熱を風に変えながら、ただひたすら前へ進む。 しかしながら、しばらくもいかないうちに気がついたのは、臭いだったか、音だったか。流紅は、風にのって流れてくる大きな音に顔をあげ、不快な臭いに顔をしかめる。 どちらも、覚えのあるものだった。しかしながら、こんなところで感じるはずのないものだった。 先へ進めば進むほど大きくなる喧騒と、焦げ臭いにおい。 ――敵襲か? ほとんど反射的にそう思い、すぐに否定する。国境寄りの土地とは言え、国境そのものではない。こんなところがいきなり敵襲をうけるなどそうあることではないだろう。そういうことが起きそうだという報告すらなかったはずだ。裏切りや、奇襲ということも考えられないことではないが―― 物思いにふけっていた流紅だったが、突然視界の端をよぎったものに、考えるよりも前に手綱を引いていた。馬が嘶いて前足を蹴り上げ、振り落とされそうになったところを、なんとかこらえる。さすがに、同じことを二度繰り返す気はなかった。 馬のひづめが、地面を叩く。その横に驚いてうずくまっているのは、怯えた子どもだった。暑さとは別の汗が、ひやりと額を伝う。 「馬鹿!」 文句を言おうと口を開いた流紅よりも先に発せられた声は、まさに子どもが飛び出てきた茂みからだった。突然の急停止と、目の前に飛び出てきたものに興奮している馬を御しながら見ると、道の脇の茂みから別の子どもが走り寄ってくる。 「止まるな、逃げろ!」 うずくまった子どもよりも年かさの少年は、怯える子どもに近づくと、まずはその子を押し出すようにした。すぐに、押しても引いても相手が動けないでいるのを悟り、今度はその子を庇うようにして流紅の前に立ちはだかる。馬上から見下ろす流紅を睨みつけた。 「兄ちゃん……!」 少年の後を追うように、わらわらと続けて別の子どもが駆け出してきた。少年は、顔を向けて怒鳴る。 「出てきちゃダメだ。早く逃げろ。すぐに山村様が来てくれるから!」 「でも、にいちゃ……!」 子どもは駆けて来て、少年の後ろに隠れるようにして、流紅を見上げる。 「あいつらと違うよ、山村様のとこの人じゃないの?」 言葉につられるように、少年は再び流紅を見上げる。――髪を結い、立派な馬にまたがり、きちんとした身なりをして腰に刀を帯びた、武士。 値踏みするように流紅を見ながらも、健気に他の子どもたちを庇う少年を見下ろしながら、流紅は小さく息を吐いた。 「何が起きている?」 似たような言葉を吐くのは、すでに何度目だろう。まるで他の言葉を知らないようだ、と思うと歯痒かった。馬鹿のようだと思う。――常盤のせいだと思った。自分の知らないことが繰り広げられていることに、こんなに悔しく思うのは。知らない自分に苛立つのは。神宮の領内で何か事件が起きているのすら、知らなかった、知ろうとしなかった自分を責める心があるのは。 今は、今の自分は、それどころではないはずなのに。 苦味のはしった流紅の表情をどうとったのか、少年は警戒を和らげたようだった。彼らの後ろに広がる木の茂みの向こうを指差して、叫ぶ。 「本條の落ち武者がまた襲ってきた」 指の先には、煙が上がっている。幾筋も。目を向け、流紅は唇を噛み締める。――また、と彼は言った。 そして流紅は、少年の言葉ひとつで、起きている事態のほとんどを理解した。決して珍しい物事ではない。けれども、こんなに国の内で起きていいことでもなかった。しかも何度もだなんて、見過ごせることではない。 それどころじゃない。もうそれこそ、何度目かの言葉を心の中で叫ぶ。――どうせ、と言われた言葉が、脳裏をよぎる。うるさい、と叩きつけるように怒鳴って、流紅は子どもたちを避けるように馬の手綱を引いた。 その村では、泥と血にまみれた賊と、泰明たち神宮所領の兵が小さな戦を起こしていた。いくつかの家は煙を上げ、夏の熱気をさらに息苦しいものにしている。緑色に染まった田は賊に、そして逃げ惑う民に、無残に踏み荒らされていた。寺で見た光景、そして先程見た子どもたちを思い起こす――当然、それとは比べ物にならない、光景。 逃げ惑う、武器も武装もない無力な人を追い回して、刀を振るう人。悲鳴をあげて逃げる娘を捕まえ、馬の鞍に担ぎ上げる者、のみならず衣を剥ぎ取って嘲笑う者。少ない蓄えを担ぎ出していく者――これも、戦場では決して珍しい光景でないことを、流紅も知っている。知識としては知っている。けれど、軍規が厳しく、よく訓練された神宮の兵が繰り広げている光景を見た事はない。戦場は、見慣れている。幾度となく出向いた。しかしながら、これは。 駆けつけたものの、自国の領で、しかもいくら国の境に近いとは言え、決して国境とはいえない土地で繰り広げられている光景に、半ば唖然とした。 けれども、間近でした悲鳴にハッとする。村の外れに踏み入れていた流紅の方へ駆けてくる少女がいる。後ろを、裸の上に鎧を纏った賊が、下卑た笑いを響かせながら追いかけてきていた。そして賊は、進路に馬上の武士を見つけ、手にしていた刀を振りかざす。笑いをおさめることもせずに。 それを見て、押さえ込んでいた感情が爆発した。すべての怒りと苛立ちを込めて、刀を抜き放つ。 「大丈夫か?」 馬に乗ったまま、賊の血に濡れた刀を血振りする流紅に、転んだのか泥だらけになっていた少女がカクカクと頭を上下に振る。何が起きたのか分かってもいない様子で、流紅と、血まみれで倒れている賊を見比べていた。 「本当に、大丈夫か? 自力でここから逃げられるか。無理なら、山村の兵が来ているから、助けてもらえ」 言い聞かせるように、ゆっくりと口にするが、目を見開いて流紅を視界におさめているだけの少女は首を振るのをやめはしたものの、返事を返さなかった。本当に大丈夫なのかいぶかしんだが、彼女だけに構っていられない。再度言い聞かせてから馬を走らせようと思ったところ、少女は突然目に色を取り戻して、叫んだ。 「茜子さんが」 聞き覚えのある名に、考えるよりも前に体が反応した。目線を追って、村へ目を向ける。喧騒と煙に束の間惑うが、さほど遠くない場所に目的の少女が見えた。 田のあぜ道を、子どもたちの背中を押すようにして駆けていく姿が見える。見覚えのある姿だと認識している暇もあればこそ、少女の後ろに、馬に乗った賊が近づいた。気づいた少女が、子どもたちに何か叫んでいるのが聞こえる。何を言っているのかは分からなかったが。 ここは富岡だ。泰明がいれば茜子がいるのも当然だったが、どうしてこんなところにいるのか。子どもに構っている場合か、と怒鳴ってやりたかったが、それどころではない。 「それを貸してくれ」 刀をおさめ、地面に倒れた賊が背負っていた弓と矢を指差す。視界の中で、茜子が鞍の前に担ぎ上げられるのが見えた。焦りと苛立ちが募るが、かけた声に反応が返らない。振り返って、助けた少女を見る。まだ覚めやらない恐怖と驚きにか彼女は、流紅の指の先と、流紅と、茜子をもたもた見比べて、怯えた様子で応えた。 「でも、茜子さんに当たるわ」 「大丈夫だから」 言い合いをしている場合などではないのに、相手はおどおどと言い募った。 「でも」 「いいから貸せ!」 つい怒鳴っていた。戦場で迅速を尊ぶ兵と同じように行かないのは当然だが、慮っている余裕などない。厳しい口調に相手は本当に飛び上がり、それから、動揺して震える腕を伸ばして弓矢を広い、懸命に流紅の方へと差し出してくる。 流紅は、ひったくるようにして受け取るや否や、馬の腹を蹴って駆け出した。矢をつがえる。弦を引いた腕が痛みを訴えたが、無視をする。 空を切る、鋭い音がした。次の瞬間には、暴れる茜子が拳を振り上げた先、賊の頭に矢が突き刺さっている。突然頭に矢をはやして動きを止めた賊に驚いたのか、腕を振り上げたまま茜子が動きを止める。そんな彼女をよそに、手綱を掴んだまま絶命した賊が均衡を崩して馬から落ちた。突然、妙な方向へ手綱を引かれて、馬がいなないて前足を蹴り上げる。 「来い!」 駆けつけていた流紅は、暴れる馬の背にしがみつこうとしている茜子の腕を掴んだ。そのまま強引に引き寄せると、彼女は相手を見て目を見開いたが、それだけだった。自分から流紅の方へ反対側の手を伸ばして、しがみついてくる。 自分の前に彼女を乗せると、流紅はすぐに暴走する馬から離れた。 「おまえはいったい何をやっているんだ」 「みんなを逃がさなきゃと思って」 少女の息は切れていたが、さらわれかけていた割には、冷静な声だった。怯えてもいないし、震えてもいない。 「そういうことは、兵に任せておけばいいだろうが」 「すぐに駆けつけてこれるわけじゃないわ。動ける者が動かなきゃ。やっと、もうすぐ実りの季節だって言うのに、目の前で田を焼かれて黙っていられるものですか」 「それで、自分がさらわれそうになっていれば世話ない」 「でも、皆は逃がせたわ。ここはうちが神宮のお家から預かってる土地だもの、うちの人間が責任をもたなくちゃ」 確かに、泰明たちの働きで、賊の多くが逃げ出し始めている。だが彼女の言葉を泰明が聞けば、ため息をついたことだろう。妹の気概はありがたいだろうが、身を危険にさらしてほしいなどとは思うはずもない。しかしながら、茜子は続けて言った。 「だけど、もう必要ないわね。もう大丈夫なのでしょう?」 間近で、強く見上げてくる瞳に、流紅は少しひるんでしまった。 「どういうことだ」 「神宮家はあなたを遣わしてくれたんでしょう?」 泰明と同じことを、この少女は言う。彼らが、土地に住む民が、神宮家に対して持つ期待と、神宮家が彼らに対して持つ責務を思わせるには十分な、まっすぐな瞳。 視線を合わせていられなくて、流紅は目をそらした。 「そういうわけじゃない」 前方を睨みながら、苦味の混じった声でつぶやく。 賊の逃げ足は速かった。旗色が悪くなってきたと悟ると、すぐに逃げにかかり、しかも一旦逃げ出すと速い。三々五々、ばらばらに山中、木々の中に駆け込んでいく。こうなると、捕縛できたとしても、少数だろう。相手のすばしこさを抑えるには、兵が足りない。 泰明は幾人かを追っ手に出し、残りで荒らされた村の後始末にとりかかるつもりのようだった。火を上げている家は、刀を持った武士たちが、燃え移る怖れのある周りの建物もろとも叩き壊す。水をくんでくるよりも手っ取り早いからだ。 流紅は村の外れに馬を止め、弓を帯の後ろに差し込んでから、茜子を下ろそうとした。自分は馬に乗ったまま腕で抱えて下ろそうとしたが、逆にその腕を相手に力いっぱい掴まれて、考えるよりも前に振り払っていた。 「何するんだ」 「何するじゃないわよ、怪我してるじゃないの! 腕、腫れてるわ。どうしたのよ、その頭も」 「その腕を思いっきり掴む奴があるか」 ずきずきと痛む腕を庇いながら文句を言う。茜子は少しきょとんとした顔で流紅を見上げてから、慌てて謝った。 「あら、ごめんなさい。驚いて」 「驚いたからって……」 「だってあなた、わたしを降ろしたら、手当てなんかしないで行ってしまいそうだったもの」 束の間言葉に詰まった。図星をさされたというわけではないが、揺らいでいる自分自身を指摘されたようで情けなく、勘のいい茜子に驚き、そして少し呆れた。 「だからと言って、他に止めようがあるだろう」 「それはさっき謝って……。あ、兄さんだわ」 茜子が手を振る方を見ると、彼らを見つけた泰明が走ってくるのが見える。流紅はため息を一つつくと、馬から降りた。腫れだした腕を庇うようにしながら、茜子を抱え降ろす。 そうも広くない村だ。消火に走り回る人の声、負傷者を助け、また遺体を片付ける人、肉親を失って泣く人の声に満ちた喧騒の中駆けてきた泰明は、すぐに流紅のもとにたどり着いた。 「常盤殿はどうしたんですか!」 開口一番、憤慨したように言う。流紅が苦笑すると、唐突に我に返った様子で顔を赤くした。それから、流紅の隣りに立って、呆れ顔で兄を見ている茜子の手を引っ張ると、二人で流紅の前に膝をついた。 「兄さん、痛いわよ」 「うるさい。お前はまた勝手に首を突っ込んで無茶をして、若君のお手をわずらわせて。若君、お怪我はありませんか」 「腕を怪我してるみたいよ。腫れ上がってたもの」 流紅が何もないと答える前に、茜子が口をはさんだ。泰明はますます顔を赤くして、口を開くが、流紅の方が早かった。 「これは今回のとは関係ない。お前が気にする必要はないよ。それから、そんなところに膝をつく必要もない」 「しかしながら、若君」 「目立ちたくない。ここらではお前が一番偉いんだろう。お前がそんな態度をとっていたら、皆が変に思う」 言い返そうとして顔を上げ、流紅の顔を見て泰明は口を閉じた。しかしながら彼が渋々立ち上がるよりも、茜子が立ち上がって流紅の顔を覗き込む方が早かった。慌てた泰明がその腕を引っ張る前に、彼女が言う。 「大丈夫なの?」 突然聞かれて、一瞬何のことかわからなかった。立て、と言ったことに対してではないのは明らかだった。茜子に流紅が置かれている状況が分かるはずもない。困惑したが、すぐに腕のことを思い出した。 「大した事はない。冷やしておけばすぐ腫れもひく」 「そうじゃなくて」 彼女はいつも、まわりくどい言い回しをしない。彼女なりの配慮もあるのだろうが――むしろ、だからこそなのだろうが、さらりと続けた。 「わたしが腕を掴んだ時より、痛そうな顔をしているから。何か、つらいの?」 言葉が、出なかった。取り繕えなかった。笑って誤魔化すことなど、もっと出来なかった。 知らずそんな顔をしていたからなのか、言い当てられて何を考えるよりも、唖然としたからなのか。 そんな風に、彼を親密に心配してくれる人は、はじめてかも知れないと思ったからか。家臣や親族がそうしてくれるのとは別に、ただ真摯に、彼の立場も責任もないものにして、まっすぐに見上げてくる目は、他にないものだった。 「何もない」 ――まだ悪あがきをしたいのだ、わたしは。 流紅はため息をついて、茜子から目をそらす。 改めて村の方へ目を遣ると、転がる死体は、起きたことの惨さを思い知らせるには十分だった。道端に、田の中に、山の木の中に倒れる人たちは、武装した者よりも、逃げ惑い背中から斬られた者が多い。その様子も、血と泥にまみれて泣き叫ぶ子どもの姿も、まったく見慣れない光景とも言えなかったが、自国領で見たいものではなかった。 「負傷者や、焼け出された者はどうしている。寺にいたのがそれか?」 問いかけには、泰明がすぐに答えた。 「ええ、すぐに村の方も人手をかきあつめて再建しますが、それまではお寺と、うちの方でもあずかっています。それにも限度がありますから、ある程度の仮住居だけでも整ったら、男連中は村の方に戻ってもらっているんですが。当人たちもそうしたいと言いますし、一度襲われた村は、二度も襲われることはないでしょうから」 「賊の追捕は」 「させておりますが、相手はすばしこく、逃げるのに慣れている様子で、多分今回も空手でしょう。いつも散り散りに逃げるので、捕縛できても数えるほどにしかなりません。山や森の中に逃げ込まれたら見つけるのも難しいですし、逆に潜伏してこちらに罠をかけてくる程度には知恵もまわるようで、深追いすれば痛手を負うことになります。そもそも地の利はこちらにあるはずなんですが、やつらも転々と身を隠す場所を変えているようです。一度追い詰めたこともあるのですが、こちらと渡り合えるくらいには、賊の数も多くて」 「大勢で来て、一斉に囲んで攻撃するしかないか。こういうことは頻繁なのか?」 「ええ、まあ。ここのところ」 「襲われたところの再建にしろ、追捕にしろ、まったく人手が足りないのじゃないのか」 濁すように言った泰明に、畳み込むように続けると、彼は困ったように応えた。 「今はまだなんとか、うちのたくわえやらで賄える程度ですが、これ以上被害が増えるのは目に見えてます。どうせ、飛田はまた本條へ進軍するのでしょうから、また戦になればどうなるかは、考えるまでもない。そうなれば、もう手に負えません」 神宮が参戦すれば、その被害は倍増する。だが、してもしなくても、戦が起きれば同じだ。 「国の外とのかけひきで、神宮家は今色々な面でも余裕がないはずです。戦の兵糧、石川家との間でのこと、飛田家とのこと、ご嫡男のこと。もちろん領内のことですから、支援はしていただけるでしょう。こちらも、なんとか上の方へは迷惑をかけないよう報告のみにとどめて、援軍や食料の支援の申請はしていなかったのですが。先日、どうにもならなくなって、武藤様へ願い出たところでした」 先日、というのがいつなのかをはっきりは言わなかったが。 流紅がこういう風に事情を尋ねるのは、今更なのかもしれない。泰明は報告だけはしていたと言っていた。それなら、流紅はすでに事情を知っていて当然だった。だから泰明は、濁すような口調になったのだろう。そのことに気がついて、しかもそれが今頃だと言うことに、悔しさと羞恥の思いで一杯になる。 知らなかった。しかし、きっと父は知っていた。領内を見て来いと言ったあの言葉は、暗にこの事態を示唆していたとしか思えない。 否――もしかしたら、わたしも知らされていたかもしれない、と思った。報告は聞いていたのに、上の空だったのかもしれない。国の内で起きていることを、きちんと見聞きしている心情ではなかった。それとも最初から、そんな状態の流紅には、知らせてくれなかったのかもしれない。どうせまともには聞いていないだろうと。 領内視察などを言い出した父は、流紅の目を覚まさせようとしたのかもしれなかった。 「本條の落ち武者と聞いたが」 苛立ちと悔しさと、そして、それを止めようとする感情が、身の内を渦巻いている。そんな流紅の葛藤に気づかなかったのか、泰明が答える。 「先の戦で飛田家は、本條領から引き上げる際、通る道々にある村や町を焼き捨てていったと聞いています。あれは、本條の民です。他に考えられません」 戦が起きれば、戦場付近の村や町は無事ではすまないのが定石だった。人の住む集落は邪魔になることもあるし、敵の拠点になることもあり、補給源になることもある。そのため、わざと村々を焼き捨てていくことは決して珍しいことではない。進撃の際には敵を狼狽させる役に立つし、撤退の際には目くらましになる。 しかしながら、優勢のうちに撤退した飛田家に、その用はないはずだった。ただ本條領をますます混乱させることを目的として、行く先々で人の住む地を焼いていった。――そもそも、戦の際には民を徴収する。民だけでなく、職のない流れの者や盗賊などを連れてくることも多い。そういった者は、戦の最中においても周辺の民を困らせるが、戦が終わればさらに始末が悪かった。主君が負けたとなれば余計にだ。本條家にはもう、そういった者たちを制御し、討伐する力は少しも残っていない。そして手綱をふりきった賊は、食料と金目のものを求めて周辺の村を襲い、人をさらう。村を焼かれて行き場をなくした民も、賊になる。追われるのを恐れた彼らは、移動を繰り返し、他国にまで逃げてくる。決して珍しい話でもない。 もっとも被害を被ったのは石川家だろうが、それを抜けて神宮の領にまで来るほどに彼らは切羽詰っているのだとも言えたし、それだけ今回は、路頭にあぶれた人々が多いのだと言えた。被害はこんなに国のうちにまで及び、しかも多発しているようだから、他国の手がかかっていることも考えられるが。 ただ国を逃げ、生きる糧を奪う彼らだったが、決して飛田家には向かわない。 飛田を憎んでいても、決して東には足を向けない。国へ帰る道々に人々の村を破壊した、彼らの非情さを理解しているからだ。飛田がふたたび本條の土地に侵略してくるならまた別だが、自ら飛田に侵入し、国土を傷つければどんな仕打ちを受けるかわからない。だが、石川家なら。神宮なら――と、思う。情に厚いといわれる神宮の統治は、こういうところで仇になる。 圧制で民を苦しめることは決して望まない。けれどそれで他国になめられることは、あってはならないことだった。 隙を見せてはいけない。 そしてそれだけではない。神宮の民に、同じ思いを味わわせてはいけない。領主が挫けて、民を路頭に迷わせてはいけない。それは神宮の名を持つ者として、当然背負うべきことだ。 ――――兄上。 目をかたく瞑る。拳を握り締めて、身が震えだしそうな感情を抑えこむ。 まだ、悪あがきがしたい。できるものなら、この村のことなど見なかったことにして、立ち去りたい。なのにわざわざ事情を聞いて、この状況を見て、どうするというのだろう、わたしは。 聞いて何もしないなら、神宮を名乗る資格などなくなる。そう言った常盤は正しい。――だけど、資格など。 いらない、そんなものは。兄上が無事なら、自分がこの国に居なくても、大丈夫だから。そのはずだから、今は、目の前のことに関わっていられない。 だけど、こんな状況にあるのは、この土地だけではないのだ。 「わたしがたとえ何者でなくても、この土地に留まれば、何か助けになるだろうか」 気がつくと、言っていた。口にして驚き、そして奥歯を噛み締める。 一刻も早く、駆けていかなければ、いつ兄の命が絶たれるとも知れない状況なのに。こんなところで留まっている場合ではないのに。 国から出るのが少しでも遅れれば、追っ手が来る。領内へ知らせが行き渡るだろう。泰明は、流紅が何を命じようが何を頼もうが、神宮からの下知であれば従わなければならない。引き渡せといわれれば流紅を縛ってでも桜花に連れて行くだろう。連れ戻される前に、国を出なくてはならない――そうなのだけども。 目の前のこれを、見捨てるのか。 兄を、見捨てることになるのか。 はっきりと蹴りをつけて、選ぶことが出来なかった。あんなに、かたく心に決めて飛び出してきたのに。 そして、もしかしたら、父は流紅を追わせてなどいないかもしれないと思った。父は、追っ手を出さなかったかもしれない。 その目で領内を見て来いといったあの人は、もしかしたらこうなることを読んでいたかもしれない。もし国の状況を目にすることがあれば、見捨てられるわけもないことを。 ――しかしながら、討伐の兵が来るのならば、同じことだ。神宮の将に見つかれば、同じことだ。 「もちろん、一人の手でも必要な事態ですから」 泰明は驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに言った。その顔に、続ける。 「わたしのことは、どこの誰とも詮索しないでもらいたい。ただの通りすがりで、この土地の状況を見かねて手を貸すだけだ。誰にも、わたしのことは伝えないでほしい」 苦し紛れですらない言葉。しかしながら泰明は、笑みを浮かべ、きっぱりとした声で応えた。 「お約束いたします」 その瞬間、泰明が例えようもないほど大きな物を抱え込んだことは、流紅にも分かっていた。流紅がその背に負うものと、同等とも言えるものを。それも、泰明が持つ権限では分不相応とも言えるもの、損としか言えないものを。分かっているつもり、だったが。 「おう、泰明殿」 その場の雰囲気も、この村の嘆きと怒りですらものともしない呑気な声がして、顔を向けると、踏み荒らされた道を有髪の若い坊主が歩いてくるところだった。 「終わったか?」 焼かれた田や家々に目を遣りながら問う。泰明は流紅へ一礼すると、常盤の方へ駆け出した。 「怪我人の誘導をお願いします」 「おう、任せておけ。坊主が役に立てるのはこれくらいだ」 「賊を追った者から何か報告が来ているかもしれません。必要な物資の確認もしないといけないから、常盤殿は若君をお願いします。くれぐれも、危険なことにまきこまれないように気をつけてください」 常盤と流紅、両方へ言い置いて駆け出そうとしたところ、茜子が当然のように彼の後を追った。 「わたしも行く。怪我人の手当てくらいなら手伝えるわ」 「お前は家に帰って……」 足を止めて言いさして、泰明は言葉も止めた。ため息をついて、再び駆け出す。 「しかたないな。ひとりでうろつくなよ」 その彼を、遠くから呼ぶ声がする。声を上げてそれに堪え、動き回る人々の方へ向かう二人の背を見送っていると、おもしろがるような声が言った。 「やはり、居たな」 人々が、慌しく走り回っているのを尻目に、さして急ぐ様子もなく、流紅の方へ歩いてくる。 「おや、腕が腫れてるな。そちらの怪我の方は気がつかなかった。すまなかったな」 拍子抜けするくらいさらりと言って、にやりと笑う。その顔を睨み返す。結局常盤の思い通りになったのだろうと思うと、腹がたった。 そんな流紅に、笑いながら常盤が言った。 「お人よしが。本当に先へ進みたければ、子どものひとりふたり、蹴り殺してでも駆け続けろ」 「見てきたように言うな」 「お前が殺し損ねた子どもらは皆寺に避難しているからな。事情は聞きかじっている」 「坊主のくせに、物騒なことを口にする」 「寺が武装する時代だ。俺のことなど大したものではない」 常盤の表情は変わらない。そのままで、彼は言った。 「やはり、お前はまだ分かっていないな」 寺の庭は、相変わらず大勢の人であふれていた。村から避難してきていた男手は皆出払っているから、先日村が襲われた直後からすると、ずっと人はすくないが。 そもそもあまり大きくないこの寺では、収容できる人数にも限りがある。重傷の人間は建物の中に運び込み、あぶれた人は、戦の時の幕屋のように仮屋を建ててしのいでいるが、その中庭も、決して広くない。人が逃げ込んだ寺もここだけではないが、それでもやはり、人があぶれてしまっている。 大人も子どもも、身動きがとれる者は襲われた村の再建のために、もしくは負傷者の世話をして働く。村へ戻ることは、一度襲った村を同じ賊がもう一度襲うことは少ないだろうから、危険はないと言えばないが、この混乱の世にあってうろついているのは同じ賊ばかりでもないから、安全とも言えない。大人たちは村へ造った仮屋で過ごすが、やはり女子どもは寺へ戻ってきてそこで寝起きする。 人々が出払ったのとは逆に、日中になると、寺に避難するほどの怪我はしていないが、何もかもを奪われて身一つになってしまった人などが食料を求めに来るから、結局賊の被害を受けた人でごった返してしまう。 毎日寺にやってきて皆を手伝い、人々の様子を見ている茜子は、流紅が汗をかきながら大きな鍋をかき回しているのを見つけて、声をあげて笑った。鍋を炊く火と夏の暑さで、じわじわと汗がにじむ。 「そんなにおかしいか?」 「自分で、おかしくないと思う?」 他の兵たちも、同じようなことはしている。そもそも兵は護衛のために寺に詰めているのだが、人手が足りない時に、武士だからどうだとは言っていられない。だから、着ている物だって泰明のものを借りていて、彼らに溶け込んでいる流紅が鍋をかきまわしていたところで、何もおかしなことはないのだが。 「だろうとは思うが。結構、おもしろい」 戦場でも、余程のことが起きない限りは流紅が鍋をかきまわす羽目にはならないし、そういった状況になった時は切羽詰っているから、楽しんでいる余裕などあるはずもない。不謹慎かもしれないが、今みたいに大勢の人のために食料をつくる作業は、やり慣れないからこそ結構楽しかった。 「こんなに楽しい気分で鍋をかきまわすのは初めてだな」 笑いながら言うと、不思議そうな声が問い返してきた。 「あら、料理ができるような口ぶりね」 「できないことはない。とりあえず、野戦料理でよければな」 応える流紅に、茜子はますます不思議そうな顔をするので、わざと真面目ぶって続ける。 「長期戦になって、兵糧の不安が出てくると、食料は現地調達だ。物売りも来るが、全部が賄えるわけではないしな。いざとなれば食えるものは木の皮でも何でも食う」 「それって、料理って言うの?」 「一応、煮炊きはする。いよいよという状況になったら、ふるまってやるぞ」 「そうならないことを祈ってるわ」 茜子がふきだして、笑いながら応えた。 ここのところ、数日前に村が襲われてからは賊もしばらく鳴りを潜めていて、泰明たちはたいした収穫をあげられずにいる。それを知らないわけでないだろうに、茜子は相変わらず明るく、よく笑う。 すぐに怪我も気にならない程度に回復していた流紅は、賊の探索や村の再建を手伝うよりは、寺にいて人の世話をしていてほしいと泰明に懇願され、寺に留まっている。寺には兵が詰めて護衛をしていて他へ出向くよりは安全だからだったし、自分を見たことがある人間が来ないとも限らない山村の家へ留まるのを流紅が嫌がったからだ。そして泰明は、流紅に護衛を一人つけ、自分はあちこちへ報告を聞きに行ったり、逆に上の者へ報告に出向いたりと走り回っている。 この土地に留まりはしたものの、結局流紅は何の役にもたっていない自分が歯痒くもあった。 「今日はひとりで来たのか?」 「最近、ひとりで出歩くと兄さんがうるさいから、今日は兄さんと一緒なの。流紅に何か言うこともあるみたいだし。先に警備の様子を見てから来るって言ってたし、そろそろ来るんじゃないかしら」 そういう彼女の言葉が終わらないうちに、流紅は人々の間をぬって駆けて来る泰明を見つけた。何だかいつも泰明は、顔をしかめている気がする。特に茜子といるとそうだ。 彼は駆け寄ってくると、何を言うより先に、茜子に向かって怒った顔を向ける。 「こら、お前がいてどうして若君にこんなことさせてるんだ」 「はあい。細かいことにうるさいんだから、兄さんは」 「すみません、若君。気の利かない妹で」 茜子のこぼした言葉を聞き流して流紅に苦笑して見せる泰明は、怒っているというよりは、妹のことが気にかかって仕方がないという風にしか見えなくて、流紅も笑ってしまう。 「そんなに気にするな。茜子みたいに明るい女子は、妹くらいしか身の回りにいなかったから、逆に新鮮だな」 「若君、妹姫は明るくて愛らしくて知られてますけど、うちのはただ単に、のんきなだけですから」 「まあ失礼ね」 流紅から、鍋をかき回す大きな杓のようなものをとりあげて、火の具合を見ている茜子が口を挟んでも、泰明は気にしない。 「だいたい、若君の身の回りにいらした方って、武家の女の鏡みたいな方ばかりでしょう。それと比べて、茜子みたいなのはいないと言われても、うちのはたしなみがないと言われてるようなものですよ……」 「そうか。そんなつもりはなかったんだけどな。兄上も、茜子は教養があって頭がいいって言ってたし」 流紅の言葉に、束の間泰明は口を閉ざした。構わず流紅は続ける。 「武家の女の礼節と貞淑はないだろうが、わたしは嫌いじゃないな。そうは言っても、わたしも女のことがどうと言えるほど何が分かってるわけじゃないけど」 言ってしまって、泰明が複雑な表情を浮かべているのを見て、流紅は苦笑した。流紅が紅巴のことを口にしたからか、嫌いじゃないなどと言ってしまったからか。 「心配しなくても、何もしない」 「はあ、あの、いえそういうわけでは……」 「もらう嫁は、ひとりだと決めている。どうせわたしは政略結婚でどこぞかの家から嫁をもらうことになるから、自分から女子に興味はもたない」 自分から火種は撒かない。 それはずっと流紅がかたく誓っていたことだった。いつ頃からだったか――家中が、跡目争いの様相を表に出し始めた頃だったか。 けれども言ってしまってから、ますます対応に困った様子の泰明を見て、少し後悔した。今口に出して、しかも彼らに言うことでもなかっただろう。茜子が何かを言おうと口を開いたが、それを制するように言葉を口にした。 「それはそうと、何かわたしに言うことがあったんじゃないのか?」 「あ、はい」 すぐに泰明はハッとした様子で流紅を見た。雑談している場合ではないことを思い出した様子で、表情をひきしめる。 「先程連絡がきました。今日の夕方には、武藤様が遣わしてくださった兵が到着するそうです」 「そうか、一安心だな」 「はい。まだ、取り急ぎ程度だから、大した数は揃えられないってことでしたけど」 例えそうでも、主家から兵が到着すれば指揮権はすべてそちらに動く。最終的には、土地に明るい泰明が彼らを手伝うことになるとは言え、泰明の肩に乗った責任は、ずっと軽減される。 将として率いてくるのが誰か、にもよるが、流紅は少し気が重くなった。悪あがきも、これで終わってしまうかもしれない。 「賊の根城はいくつかおさえたんだろう。首領格の者はまだつかまらないのか」 「一団というわけでもなく、たった一人に従っているわけでもなく、というようなので」 集団になって潜んでいたところをいくら捕まえても、決定打にはならない。 「こちらが本気だということを見せないと、やめないしいなくならないのだろうな、そういうものは」 武藤から送られてくる兵がどれほどかにもよるが、その兵で効率よく賊を威圧しないと、神宮家そのものが舐められることになりかねない。主家が動いておいてこの程度か、と思われるのは良くない。それで増長されては、ますます困ったことになる。 何か、手を打ったほうがいいのかもしれないが。 「神宮の兵が今日にもくるということは、誰かに知らせたか」 「いいえ?」 「噂をばらまいてみたらどうだ。怖れて鳴りをひそめるならそれでよし、逆に最後とばかりに一斉攻撃をしてくるかもしれないが、それで捕縛できたらいいだろう。最後のあがきに攻撃してくるとしたら、山村の家か、物資が集まってる寺か。多少の護衛はものともしないで、置き土産とばかりに攻撃して逃げていくだろうな」 「ええと、それで大丈夫なのでしょうか」 「民を安心させることもできるだろう。次に襲われそうなところが分かって逆にやりやすいだろうし、予防にもなる。援護は、明日来る、ということにしておけ。その前に、襲われそうなところには兵を配備しておけよ」 間に合わずまったく徒労に終わるかもしれないが、うまくすれば、賊が慌てて動き出したところを一網打尽にできるかもしれない。これを受けて動き出すとなれば、賊はきっと全力で来るに違いないから。 「あ、わかりました! すぐにかかります!」 威勢良く了解の言葉を返すと、彼はすぐに駆け出して行った。 その背中を、茜子の呆れた声が追ったが、多分彼は気づかなかっただろう。 「どうして兄さんって、ああ落ち着きがないのかしら」 あまりと言えばあまりな言葉に、流紅はふきだしてしまった。 人々へ配る食事を作りだしたのは日が高くなる前だが、量が多くて出来上がりにも時間がかかる。それだけでなく、相手も多いのだから、ひと段落ついたと思ったらもう次にかからないといけない。とりあえずなんとか合間を見つけて手を休めていた流紅は、茜子も同じように人々を見て回るのをやめて、どうやら他の人間と交代しようとしているのを見つけた。 「もう帰るのか?」 歩み寄って話しかけると彼女は、話していた相手に「よろしくね」と声をかけてから、流紅を振り返った。なんとなく連れ立って歩きながら、彼女は言う。 「用事ができたから、寄り道して帰るわ」 「泰明には言ったのか?」 「いちいち兄さんに報告しないわよ」 「でも、ひとりで出歩くなと言われているのじゃなかったのか?」 続けて言うと、茜子は少しふくれた顔をした。茜子がひとりであちこちへ出かけているのはいつものことだが、さすがに最近は泰明も神経質になっているようだった。 「子どもじゃないんだから、平気よ。もう、兄さんもじい様もみんなわたしのことなんだと思ってるのかしら」 「危なっかしくて目が離せないから、仕方ないだろう」 この間だって、危うくさらわれかけていたくせに。 危険なところを流紅に助けられているのだから、普通なら反論をやめるところなのだろうが、茜子はしたたかだった。 「あら、あなただって同じよ。ひとりでこんなところに来てしまうような人なんだから」 逆に、流紅のほうが口をつぐんでしまう。笑みとともに。 この話題を続けると確かに分が悪い。 中庭を抜けて歩く間に、たくさんの人とすれ違う。幕屋から顔を出している人たちが、茜子を見かけるたびに声をかけ、彼女はそれに明るく応対していた。このあたり一帯を治めているのが泰明で、その妹だからというのもあるのだろうが、奔放な彼女は人々に顔も広く、好かれているようだった。 その様子をなんとなく見ているうちに、寺の門にたどりついた。流紅は自分の後ろを振り返り、泰明が彼につけた護衛がひとりきちんとついて来ているのを確認してから、そのまま門を抜けて歩く。寺の警護についていた門衛が茜子に挨拶し、泰明が敬意を払って接している流紅に対しても、訳が分かっていないなりに丁寧な挨拶をする。 山の木々の中にひっそりとある寺を抜け、歩き出す。少し行くだけで、人々にあふれた賑やかさが途絶えて消えた。人にあふれた熱気はなくなり、木陰と瑞々しい葉のおかげで、少しだけ涼しい空気に包まれる。 「兄さんに伝言もしないで、わたしについてきてしまって良かったの?」 茜子は笑いながら、隣りを歩く流紅に言う。 「ひとりじゃないし、門衛が出て行くところを見ているからな。どうせだから、送っていってやる」 実のところ、茜子とこうして連れ立って出歩くのは、今日に始まったことではなかった。この土地に来たばかりの時、寺で憂鬱そうにしていた流紅を、文句をいわせず彼女が連れ出してあちこちの村の様子を見に行ったのがはじめで、なんとなくそれが習慣になっている。もちろんそれがばれた時など、泰明は烈火のように怒っていたが、茜子は気にしていないし、護衛をちゃんとつれて歩いているから大丈夫だと、流紅は言ったのだが。 「それで、今日はどこにいくつもりだ?」 「さっき聞いたのだけど、近くの村で病人が何人か出たのですって。その様子を見に行くの」 驚いて、流紅が声を上げる。 「疫病じゃないのか?」 「ただの食あたりですって」 「……なんだそれは」 「子どもたちが昨日、山に入って遊んでいたらしいの。そのときに何か採ってきて、いたずらで食べ物に混ぜたみたい。それで、知らずに食べた人が寝込んでるのよ。ちなみに、毒のあるものじゃなかったみたいだから、ただの単なる食あたりね」 普段なら、ちょっとした笑い話にでもなるだろうが、この近隣の状況ではまったく笑えない出来事だった。流紅は内心、小さく舌打をもらす。まずいかもしれない。 「薬でも持っていくのか?」 「そんなもの、皆に配れるほど裕福じゃないわよ、うちは。今はそんな余裕もない。ただ様子を見に行くだけ」 「ただの食あたりに?」 「何をするわけでもなく様子を見に行って、大丈夫かと気にかけるだけでも、相手は嬉しいものだわ。うちは小さな家だけど、この辺りの土地を預かっていることに変わりはないもの。それなりの責任てものがあるし、どうせならみんなと仲良くやっていきたいし。うちの兄はまだ若いから、不安に思わない人がいないわけないんだもの、わたしがこうしてささいな事からうちと皆の間を取り持ってるの。山村の家の人間が顔を出すって言うだけで、違うものよ。それに今は特に、村の様子に気を配っておかなきゃ。倒れた大人がどれくらいのものかわからないけど、賊に話がもれたら危険だわ」 「泰明は知っているのか?」 「兄さんが帰った後に聞いた話なの。報告してもらうように頼んであるけど、一応様子を見てこようと思って」 当然のように茜子は言う。本当に今置かれた状況が分かっているのか、いないのか。 ――泰明が去って、どれくらいたったかな。 流紅はなんとなく時を計るように空を見上げた。その頃には彼らは山を下りきり、田畑の広がる中にある、人気のない街道を歩いていた。 日輪の光は、中天を越えて西にかかり始めている。夏のまだ日の長い時期だから、暗くなるには早いが。 泰明が、神宮の軍が来ることを民に広めるよう手配したとして、これだけの時間でどこまで広がっただろうか。狙われるとしたら、この辺りで一番権力と金のある山村家か、物資の集まっている寺かと思ったが。そういった状況の村があれば、また話は別だ。程度にもよるかもしれないが―― 考え込み、ついて来ている護衛を振り返って、知らせに走らせた方がいいか少し迷い、やめた。さすがに自分の置かれた状況も分かっているつもりだったし、茜子が報告を頼んだと言っていたから、今更慌てることもないかもしれない。 流紅の様子を不思議そうに見る茜子に、彼は応えて言った。 「多分、泰明はおとなしくしてくれる方がいいと言うと思うが」 「言わないわ。今はこんな状況だから怒ってるけど、わたしがこうしていることで、皆からの不満の声が少しは減ってるんだって、知ってるもの。戦が激化すればこの土地の人間だって兄さんがつれていくけど、兄さんもわたしも一緒に行くのだから、どうせ連れて行かれるのなら自分たちの事なんか放ったらかしの人よりは、それなりに気配りをしてくれる人のほうがいいに決まってるじゃない」 あっさりと言われたことに、再び言葉に詰まった。彼女があまりにも、ごく当たり前のことのように言うから、聞き間違いかと思ったが。 「お前も戦に行くのか?」 多分、間違いだろうとの確認を込めて問うと、彼女はやはり当たり前のように返してきた。 「わたしは別に刀を持って戦うわけじゃない。煮炊きとか雑用だとかに女手が重宝されてるの、あなただって知ってるでしょ。もちろん、最前線にはついていかないわよ」 「しかし、それはお前のような、きちんと家のある武家の女がすることじゃない」 「仕方ないじゃない。じいさまも兄さんも反対するけど、うちには人手が足りないんだから。こういうのに、家だとかどうとか、関係ないわ」 相変わらず頓着しない口調で、彼女は言う。 彼女なりに、兄や村の人々を助けようとしてるのだということだろう。 しかしながらそれよりも、ただ単に、人を構うのは彼女の性分であるように流紅は思う。最初に、寺で鬱々と過ごしていた流紅を連れ出したのだってそうだろう。 「お前は、いろいろ考えてるんだな」 「あら、普通そうでしょ。わたしなんて考えてない方よ。やりたいことを好き勝手やってるだけだもの。あなたの方がたくさん考えなきゃいけないことがあって、大変そうだわ」 その言葉に束の間止まってしまう。軽く応じることが出来なかった。彼女にはどうして自分がここにいるかなど話していない。結局泰明にも、何も言っていない。彼の場合は彼なりの予想もあるだろうが。 「どうしてわたしがこんなところにいるのか、知っているのか?」 「いいえ?」 「常盤や泰明からは何か聞いていないのか」 「常盤様はああ見えて、とっても口が堅いの。兄さんも、必要ないことはあまり人に言わないわ。兄さんはね、わたしがあまり武士のすることとか政治のこととかに口出させたくないっていうだけなのだけどね」 まあ、当たり前なのだけど、と彼女は言った。 「何かあったのだろうということくらい分かるわ。神宮のお家に何があったか、皆知ってるし、不安にも思ってる。兄さんや常盤様の様子を見てると、もしかしたらこうなのかな、とも思うけど」 そう言ったところで、茜子は言葉を止めた。道の先のほうに目をやって楽しげに笑う。勢よく手を振り出したので一体何かと思えば、道端の木陰に黒衣が見えた。膝に書物を置いて、のんびりと読書に励んでいる坊主が居る。 「常盤様、お寺で見かけなかったから、また富岡を出て行ってしまったのかと思っていたわ」 茜子が駆け寄ると、あぐらをかいて座っていた坊主は、そのままで彼女を見上げた。 「おもしろいことがおきているのに、他所へでかけていられるか」 楽しげに言って、後から追いついてきた流紅に手を振って見せる。それに対して流紅は腕を組んで、仏頂面をして見せた。 「夏の屋外で読書だなどと、物好きだな」 「寺は人が多くて、呑気に勉学もしていられん。寺にいると皆がちゃんとしろとうるさいしな」 「皆が忙しく働いている時に勉学もないだろう」 「その分、俺は襲われた村へ足を運んで人を葬ったり怪我をみたりしているからな」 笑って常盤は頓着なく言い返した。 「泰明殿も、本当にお人よしだよな。こんな厄介者を抱え込んで、貴重な人手を減らして」 流紅の護衛と称して後ろについている人間を見ていた。 「名を隠したところで、お前が主家に絡んだ人間であることは変わりない。今名を名乗りもしないお前など、この非常時に護衛のための人手を割く価値もないというのにな。損ばかりだ」 「なんだと」 「無名のお前に従う人間などいないし、誰の士気が上がるわけでも賊が怖気づくわけでもない。あの人が分かっていないとも思えないからな。進んでお前のわがままにつきあってくれてるだけに過ぎん。命賭けでな。お前はそれを知っておく必要がある」 常盤の言葉は、とても厳しい。笑いながら言うくせに、まったく遠慮がない。流紅がこの土地に留まるのにどれほどの葛藤があったかを分かっていないはずがないのだが。真実そんなことを、民の誰も気にすることではないのかもしれないが。 「多分お前は分かっていないからな。親切に教えてやったんだ。ありがたいだろう」 「うるさい」 流紅が仏頂面で言い返す横で、茜子があっさりと言った。 「兄さんのことだから、そんなに難しく考えてなんかないわよ。ただ単に、お人よしなんだものあの人」 「確かにそれはそうかも知れんな」 常盤は、呑気に笑いながら応えた。そうして、流紅と茜子を交互に見比べて続ける。 「それはそうと、妙な噂を知っているか?」 茜子はきょとんとして常盤を見る。流紅も何のことか分からず常盤を見返した。彼はそんな二人を再度交互に見て、手をひらひらとさせた。 「いや、やめておこう」 ひとりで楽しそうに笑う常盤に、少しむっとしながら流紅が言う。 「坊主のくせに、噂話を耳に入れるのか」 「事情通と言ってくれ」 「あまり怪しいところを見せると、間諜でないかと疑うぞ」 「間者が、お前さんを拾って助けるかい」 流紅の言葉に、常盤はからからと笑った。 「前に言ったろう。俺は放浪好きで各地に知り合いも多いし、変わったことがあるとわざわざ知らせてくる暇なやつもいる。それにあちこちでいろいろなものを見聞きしてきているから、物事の予想をたてるのも、お前さんよりは秀でているというわけだ。ついでに言うと、この土地には貴重な情報提供者がいる」 「……泰明か」 当たりとも外れとも言わずに、常盤はただ笑うだけだった。 「それでなくても、お前は怪しい」 「ほう、そうかね」 「放浪だとか傍観者でいるとか、言うことも態度も達観して突き放しているくせに、どうしてそんなにわたしにからむ」 「興味本位だと言ったろう。この土地にいてこんなに楽しいのは久しぶりだ。この非常時に不謹慎かもしれんがな」 常盤はからからと笑う。 「お前、わたしを馬鹿にしてるだろう。最初からずっと」 流紅が少しむくれて言うと、相手はあっさりと答えた。 「当たり前だ、お前は馬鹿だから」 茜子のことを身も蓋もないと思うことは多いが、この坊主もそれは同じだった。富岡の人間は皆こうなのか。 「何を間に受けてるの。常盤さまはいつも誰にでもこうよ」 くすくすと茜子が笑う。なんとなく流紅が黙り込むと、常盤は楽しげに言った。 「河津の村の方へ行くのか」 「本当に耳が早いのね。一応、兄さんに伝言は頼んであるんだけど、護衛が必要かどうかだけでも見てこようと思って」 「ふむ」 軽くうなるように応えて、黒衣の坊主は膝の上の書物を、ぱたんと音をたてて閉じた。懐に収めると、おもむろに立ち上がる。着物の裾をはたいてから、妙に年寄り臭い口調で続けた。 「どれ、俺もついていってやるとするかな」 茜子は嬉しそうに笑うが、流紅は不審の目を向ける。そんな流紅の反応が楽しくて仕方がないという様子で、人の悪い笑みをうかべながら常盤は言った。 「なにせ、物見高い性分だからな」 その名の通り小さな川のそばにある村は、一見して、予想したほど切羽詰った状況にあるわけではないようだった。子どもたちは外を走り回っているし、村の目の前に広がった田には、手入れに出ている大人がいる。 村は背後を山に包まれ、眼前に田が広がっている。その横合いから、田を左手に、村を包むようにしてある山の木々を右手に見ながら村の中を歩いて行くと、突然まわりに歓声がわいた。驚いて目を向けるた先、彼らを見つけた子どもたちが駆け寄ってきていた。 「今日はどうしたの? 様子見に来てくれたの?」 まず茜子を掴まえて彼らは口々に質問し、彼女が笑いながらそれに答えると、今度は常盤を取り囲む。 「ねえ、いつ帰ってきてたの。今度はどこに行ってたの?」 「常盤さま! 今度来た時は、おもしろいお話たくさん聞かせてくれるって言ったよね」 口々に言う子どもたちに周りを固められて、袖や着物を掴まれていたが、常盤は困った様子もなく、いつもと変わらず飄々と言う。 「そうだったかな」 途端に子どもたちから不満の声があがった。その反応が楽しかったようで、常盤が大人気なく声を上げて笑うと、さらに子どもたちが不満の声を上げる。 しかしその様子はとても楽しそうで、流紅は驚く。 「よくあれになつくものだな」 「だって、常盤様っておもしろい人だもの」 簡単にひとことで言い切って、茜子は続けた。 「まず、村長のところに挨拶に行くわね。状況も聞けるし」 常盤を撒き餌のように子どもたちの中に残して、まだ彼女の方を見ている子どもたちに手を振りながら、茜子は村から少し外れた方へ向かって歩きだす。村の家々は決して一軒一軒が寄り添うようにして建っているわけではないが、それでも集落として固まって建っている。そこからほんの少し、他の家からは離れてある建物があった。彼女が向かうのはその家だ。 「村長の家は、他の家から少し離れてるのか」 村の家々は決して一軒一軒が寄り添うようにして建っているわけではないが、それでも集落として固まって建っている。そこからほんの少し、他の家からは離れてある建物があった。彼女が向かうのはその家だ。 「そうみたいね」 興味深く村の様子を見回していた流紅に、茜子が頷く。辿りついてみると、村の家々が、戸に蓆を下ろしただけの質素なものであるのに対し、長の家は大きく広く頑丈な造りで、そして戸口にきちんと戸板がある。 家の前に立ち尽くして止まった流紅を、茜子は不思議そうに振り返った。中に入ろうとせず、家の入り口やその周囲を見ていた彼は、茜子の視線に気がついて顔を戻す。 「やめておく?」 問う声に束の間迷い、頷いた。 「悪いが、少し、歩いてくる」 「分かったわ。でも、一人で遠くまで出歩かないのよ。すぐ終わるから」 笑いながら、小さな子どもに言い聞かせる母親のような口調で言う。それに笑って応えてから、流紅は彼女に背を向けて歩き出した。泰明が彼につけた護衛は、ちゃんとその後ろをついてくる。 先程は通り過ぎただけの家々の間を縫うように歩く。一見して村は悲壮感などを感じさせなかったが、時々家の中から人のうめき声などが聞こえてきていた。よく見れば、そこかしこで働いている人々の顔色もあまり良くないように思える。 家々の間を抜けて裏手に出ると、目の前の山は近い。青々とした木々が視界を覆っていた。村の方を振り返り、森のようになっている山を見比べて、流紅は護衛の人間を手招いた。 「すまないが、ここで少し見張っててくれ」 言われて、男は驚いたように、山に眼を向ける。 「何かあるのですか?」 「何もないが、とりあえず」 「しかし、あなたを一人にするなと山村様に言われております」 「どうせ村の中にいる。何かあれば呼ぶから来てくれればいい」 流紅の言葉に、相手も食い下がっては来なかった。大きな町をうろつくと言っているわけではないし、大声を上げれば村中に聞こえるようなところだ。 「わかりました」 「視界が悪いから、気をつけてな」 言い置いて、再びの応答の声を背に、流紅は歩き出す。村の外れを縁取るようにして、ぐるりと周囲を歩く。 田の様子を眺めると、田圃には、青々とした稲穂が風にそよいでいた。地べたに這い蹲れば、辛うじて身を隠せる程度には高さがある。 もうすぐ、人々がいっせいに収穫に出る季節が来る。大地は稲穂の金色に染まり、忙しくても喜びの季節が来る。 「ねえ、神宮さまの兵がいっぱい来るってほんと?」 突然話しかけられて、流紅は驚いて目を向けた。常盤にくっついてどこかへ行っていたはずの子供たちが幾人か戻ってきて、彼を見上げていた。気がつかなかったが、もしかしたら、村の中を歩いていたのもついてきていたのかもしれない。見慣れない人間がものめずらしかったのだろうか。 「もう大丈夫なの?」 子どもたちの大きな瞳が、不安そうに見上げてくる。流紅は地面に膝をついて目線があうようにしてから、問いかけてきた少女の頭を軽くなでて、笑みを浮かべながら答えた。 「大丈夫だよ。ちゃんと守ってくれるから」 つられたように少女が笑う。すると、唐突に別の子どもが声を上げた 「ねえ、茜子さんのお婿さんって本当?」 急に言われたことに、流紅は驚いて勢いよく振り返った。突然の相手の反応に、子供の方が驚いた顔をして流紅を見返す。 「なんだって?」 聞き間違えかと思い問い返すが、相手の子どもは口を閉ざしてしまった。それまで口々に何かを話していた子どもたちも、ぱったり口を閉ざしてしまう。何事かと思っていると、視界に黒衣が見えた。 「妙な噂があるって言っただろ?」 楽しげな声が耳を打つ。 歩いて来る常盤を見つけると、子どもたちは流紅の方を指しながら、口々に常盤へ訴えだした。 「だって、よく一緒に歩いてるの見るって」 「誰か知らないけど、泰明さまも仲いいみたいだからって、皆言ってる」 誰か身元も分からなくて、そのくせ泰明が丁寧に接していて、茜子といるのをよく見るというのなら、人々がそう結びつけるのも不思議はないのかもしれないが。のんきだなと思う反面、緊迫した空気が満ちたこの富岡の地の人々も、そういった状況の中ですら小さな楽しみを見つけるのだと思うと、たくましさが頼もしくもあった。 「流紅」 苦笑しながら答えに窮しているところに、名を呼ばれて顔を上げる。長と話が終わったのか、茜子が駆けて来ていた。子どもたちはそれをみて、したり顔で何やら話しだしている。それを不思議そうに見ながら、茜子は少しふくれた顔を流紅に向けた。 「あんまり遠くまで出歩いたら駄目だって言ったのに」 「すまない。村の様子を見たかったから」 「長に話を聞いてきたわよ。倒れて動けないのは五人くらいですって。まだ本調子でない人も他にいるけど、寝ているほどのことではないみたい」 「そうか」 そんなに多い数ではない。だが、そもそも人が多い村でもないようだから、少ないともいえないだろう。しかしそれくらいなら、長の家に入れそうだ。 「病人は、長の家に運び込んだ方がいいな。一所に集まっている方が守りやすい。村の人間の蓄えとかも、気になるようだったら長の家に預けた方がいいだろうな」 「危険だと思う?」 「念のためだ」 常盤と茜子が村の長にかけあい、村の人間を呼び集めて、まず病状の重い五人は人の手を借りて運ぶ。自分で動けるが、働きには出られない程度の人も収容する。突然の招集だったが、村の誰もが、何事かとは言わずにその指示に従って動き出す。 動転したような、大きな声が聞こえたのはそんな中だった。夏の長い日も、空の色を染め替えながら西の空に傾きだした時刻。慌しく作業していた人々の上にも、その声は通っていく。素早く声のした方へ顔を振り向け、方向を確認すると流紅は、歩くのを手伝っていた病人を、別の人間に押し付けて走り出した。声がしたのは、見張りに立っているように、と流紅が指示した山の方。 流紅がたどり着く前に、護衛が慌しく駆けてきているのに会う。その背を追うように、突然沸いた 「若君!」 護衛は、流紅の呼び名を知らない。だから泰明が彼を呼ぶのと同じように、流紅を呼びながら駆けてきた。押さえた肩に矢が刺さっている。 「賊です、山の方から!」 来たか。内心つぶやく。 「早いな」 もう、こんな村の子どもたちが、神宮の兵が来ることを知っていた。思ったよりも噂が広まるのが早かったのだろう。 「大丈夫か? まだ走れるなら、皆へ知らせろ。長の家へ行くか、何でもいいから武器を持って田の方へ逃げるように。走れなければ、田の中に隠れて大人しくしておけ」 「しかし」 「護衛なら必要ない。急げ!」 怒鳴られて、護衛は痛みに顔をしかめながら走り出した。その彼とは逆の方向、山の方へ駆け出そうとした流紅は、突然肩を掴まれて止まる。 「どこに行く」 振り返ると、黒衣の人が、夕日に赤くなりだした周囲から切り離されたように立っていた。その向こうを、茜子が駆けてくるのが見える。 「お前が行くのはそっちじゃない。泰明殿に知らせに行け」 「それなら、お前が行け」 流紅は常盤から目をそらし、辿り着いて足を止めた茜子に言った。それを、常盤が珍しく仏頂面で止める。 「お前はまだ分かってないな、次男坊」 問答をしている場合ではない。彼らの横を、手に手に鎌や鍬などを携えた、村の男たちが駆けていく。悲鳴や怒声が、村にあふれつつあった。立ち尽くしてる場合ではないというのに! 反論しようとした。けれども流紅が何を言うよりも前に、常盤が突然彼を突き飛ばした。自分の後ろに放り出すようにして、彼自身は流紅の前へ身を乗り出す。 よろけた流紅を慌てて茜子が支える。その手を振り払って、睨むようにして常盤を見返す。口を開いて何かを言う前に常盤は、懐から書物を出して目の前に掲げた。その瞬間激しい音がして、矢が突き刺さる。受けた常盤の手が、勢いにがくんと、下がり、流紅は何も言えなくなってしまった。まだ読み終わっていないのに、と悪態をつく声が聞こえる。 「おい!」 「お前がそこにいると、俺も茜子殿も、身を呈してお前を守る羽目になるんだ。それくらい分かっておけ」 振り返り、常盤は流紅を見た。その向こう、村の男たちを蹴散らして賊が向かってくるのが見える。矢が、人を傷つけるのが見える。 「お前が行け、次男坊。何のために俺がついてきてやったと思ってる」 「わたしが行って、お前に戦ができるのか」 「そういう問題ではない」 分かっている。――分かっている。唱えるように思う。だから、この土地に留まったんじゃないか。だけど――分かっていないのかもしれない。分かりたくないだけだ。戸惑い、流紅は常盤を睨みつけた目を離し、彼らの問答を見守っていた茜子の方を向いた。息を大きく吐くと、常盤に向かって手を突き出す。 「火打を持ってるだろう」 「なんだって?」 「火打だ」 火をつけるための道具だ。富岡に帰ってきて、しばらく根を張っている彼が常備しているかどうかは定かではなかったが、旅慣れているのなら習慣で持っているかもしれない。 流紅の言葉に、常盤は何も言わずに小さな袋を差し出した。受け取って懐に収め、さらに流紅は常盤が持っていた本を奪う。突き刺さったままの矢を引き抜き、帯に挟むと、書物を開いて紙を数枚破り取った。 「あ、お前、勝手に」 「坊主が戦に口を出すな。お前たちは、皆を非難させろ。山の方へは行かせるな。風上へ走れ」 文句を言わせず、ぼろぼろになった書物を常盤の手に押し付けた。 「これくらい何とかできずに、領主が名乗れるか」 「お前は、本当に救えない大馬鹿だな」 「勝算がある。そうでなければ逃げている。わたしだって分かっている!」 言い置いて駆け出した。 賊の方に、ではない。手近な家へ駆け寄ると、入口にかけられた筵を乱暴に引き剥がす。家から駆け出てきて逃げ惑う人々を背に家の中へ駆け込むと、筵を土間に投げ出し、紙をその下に入れて火打を取り出した。 一軒の家が、黒煙をあげて燃え出した。突然の火に、人々の目が集まる。次いですぐに、隣の家が火を噴いた。 「止まるな、逃げろ!」 怒鳴る声に、人々は火から逃げようと風上へ駆け出した。風は、下から吹き上げるように、山の方へ向かって吹いている。しかも、火は次々に、村の家々へ燃え移っていた。山から駆け下りてきていた賊はたまったものではない。そのほとんどが火に追いやられて、いくらか山の方へ逃げていく。 流紅は刀を抜いて、火の手が上がる前に村の中にまで侵略してきていた賊に応戦しながら、人々が逃げるのを手伝っていた。すでに田の方へ逃げ出した者は、後は体力に任せて走っていくだけだが、間に合わなかった者や負傷者は、村長の家に逃げ込んでいる。彼らを追い立てるようにしながら、流紅自身も村長の家を目指して走った。 夕日と炎に包まれて赤く染まる中を走りぬけ、流紅が家に駆け込むや否や、戸口が閉められた。戸の脇に控えていた常盤の指示で、戸口の前に戸棚が持ってこられてさらにそこを塞ぐ。 「どうしてお前がここに来るんだ馬鹿者」 常盤が言っているが、無視をする。 「急いで窓を塞いで!」 すぐ近くで茜子の声がした。締め切った室内は暗い。夏の熱気と、外で燃える家々からが撒く火の熱と、逃げ込んだ人の体温とで、ひどく蒸した。怪我人も多く、血の臭いでただでさえ空気が悪い。 壁一枚、戸板一枚でさえぎられた向こうで、賊たちが荒々しく叫んでいるのが聞こえる。思わぬ抵抗にあった怒りの声は、たったそれだけの隔てで防げるものではなかった。そして、賊の攻撃も。今は火に気をとられているが、賊がこの家を襲撃し始めたら、きっとひとたまりもないだろう。 広い土間に立っていた流紅が、刀を鞘におさめ、人々が身を寄せている部屋の方へ足を踏み出すと、突然声があがった。 「何故火をつける必要があったんだ!」 暗い部屋の中で身を寄せている人の中、一人の男が叫んでいた。外で何が起きているか分からない、これから何をされるか分からないような状況で、困惑の捌け口を見つけた人の声は、怒りに震えていた。同意の声が、次々にあがる。 「狼煙がわりだ」 流紅は短く答える。恐慌に包まれた人々に、何を言っても無駄のように思えた。それだけで分かる者もいるだろうが、明らかに説明の足りない彼の言葉に、再び苦情の声があがる。 「いったい狼煙がなんだと――」 「彼に文句を言ってどうなるの」 弁解しない流紅を見かねて、茜子が口を挟む。 「兄さんが今どこにいるか知ってるの? あれだけ煙があがればどこにいても見えるし、人が走って探し回るよりも早いわ。壁にもなるし、時間を稼げる」 賊は刀を持っている。人々の家は、そんなに頑丈な造りではない。崩して壊して、乱暴に鎮火させるのは難しいことではない。しかし、それまでに十分な時間がかかることも事実だ。逃げる人の助けになるし、泰明への合図にもなる。 「大事なものはこの家に運び込むようにって言ってたでしょ。家なら建て直せばいいわ」 宥めるような、励ますような茜子の声に、ざわめいていた人々の声も、少し落ち着いたように思えたが。今度は別のところから声があがった。 「ここに燃え移ったらどうする!」 近くで、やれやれという顔をした常盤が成り行きを見ているのが分かる。流紅は茜子が何かを言う前に、ゆっくりと答えた。――誰もが動揺するのは、仕方のないことだから。 「燃え移らない。ここは他と離れてる」 「しかし火を放たれるかも」 また、別の声だった。 「賊は、物を奪いに来てるんだ。他の家が燃えてしまったら、目的はここしかない。わざわざ火を放ったりしない」 「それなら、ここにいるのは危険ではないか!」 「だから、戸口と窓を塞いだんだろう」 「そんなことで、どうにかなるのか。相手は武器を持っているし、今までたくさん村を襲ってるんだ」 正論だった。長の家は他に比べれば頑丈なつくりだが、城であるわけではない。頑健な城砦だって、執拗な攻撃の前には門を破られる。 「長い時間持ち堪える必要はない。泰明は、今日の夕方には神宮の兵が来ると言っていた。もうとっくに来ていてもいいくらいだ」 それがいつになるか分からないのが、唯一の問題だったが。 「まだ、来ないじゃないか!」 流紅は、口をつぐんでしまった。答える言葉が見つからない。その彼のかわりに、再度隣りで声がした。 「でも、彼が判断して行動してくれなければ、こうしてここにいることだってできなかったかもしれないのよ」 ――それは。 人々の声が、少し低くなった。誰もが沈痛な顔で身を寄せ合い、不安の表情を見合わせている。だが、茜子の言葉が必ずしも正しくないことを、流紅は分かっていた。ばらまいてみるように、と泰明に言った噂話が、予想以上に早く広まっていたことを別にしても。 「神宮家は何をしているんだ」 ちいさなつぶやきが聞こえた。神宮は、彼らを守る盾のはずだった。その救助の手が遅れ、こうした事態になっているのを恨むのは、当然のことかもしれないが。 流紅はただ、口を閉ざしている。目を前に向けて、立っていることしか出来なかった。 口々に、人々が困惑と非難の声をあげている。閉じ込められた空間で、人の感情は昂りやすく伝染しやすい。しかしながら人々が激昂しだす前、茜子や常盤が何かを言う前に、外で動きがあった。 賊が声を張り上げて何かを叫んでいる。先程までの騒々しさとは様子が違った。しかも近い。 明らかに、野次だった。そして怒号。そんなものをこちらに向ける余裕があるということは、もう鎮火されてしまったのだろう。観念して出て来いとひときわ叫ぶ声があって、流紅はくるりと踵を返した。 「おい」 黙って見ていた常盤が、問いかけるような声をあげる。そのくせ、確信が滲んだ声だった。進むには目の前の戸口を塞ぐ物と、その脇に立つ常盤を退けなければならないのが分かっていたから、流紅は低い声で応えた。 「交渉に出る」 「それなら、俺が行く」 事も無げに常盤が言う。 「名無しのお前が出て行って、何が出来る。同じ名無しなら、俺の方が口が回る。殺されてもさほどの支障はないだろう」 目を向けると、薄明かりに溶けるようにして立つ坊主は、呆れ顔をしていた。 「何度も言わせるなよ。ここでお前に何かあれば、最低山村の家のことだけを考えても、泰明殿はとりあえず死んでわびるくらいはしなければならない。それですめば良いがな。この国がどうなるかを考えれば、話はもっと悪い」 戸を塞いでいた棚に手をかけていた流紅は、目の前の問題と、彼が抱える問題とを提示されて止まった。周りの人間が、一体何を言っているんだと、問うような目を向けているが分かるが。 流紅に、畳み掛けるように常盤が言う。 「平常時、領主が何にも増して優先すべきは、己の命だ。投げ打っても良いのは、有事の際のみだ。それまでは、何が何でも生き延びて、民のためにあくせく働くものだ」 「いまのこれは、有事ではないのか」 「笑わせるな」 常盤は、一言で切り捨てる。 「山村家にとっては有事だが、神宮家にとっては些事だ。この村ひとつ程度の存続とおぬしの命をはかりにかけたら、どちらが重いかは考えるまでもないだろう」 戦の折、領主の命ひとつで、和睦にもちこめるようなことは珍しいことではない。命を捨てて、その土地と人を相手に明け渡す証明にする。国を贖える命。国を賭けられる命だ。 「お前はここで死ぬわけにいかない人間だ。お前はこの家の奥に隠れて、誰を盾にしても、生き残る最後の一人にならなくちゃいけない」 ――分かっている。 例え目の前で誰が死んでも、自分は生き延びろ。そう言い聞かされて育ってきた。 「それがいやなら、最初にとっとと逃げておくべきだったんだ。本当に馬鹿だな」 それはただ単に、最初に見捨てて逃げるか、後で盾にするかの違いしかない。どちらにせよ、見殺しにすることに変わりない。でも結局、最後に迷うのなら、常盤の言葉は正しい。 分かっている。本当は。自分がどれだけ矛盾を吐いているかも。目の前の物事も、流紅の肩にかかったものも。 ――そして、兄が捕らえられたということが、立派な「有事」であることも。命を投げ打つべき、有事であること。命を投げ打とうとし、自分を見捨てろと伝えたあの人の方が正しい。そして決断した父は正しい。 兄一人の命と、民すべての命を比重にかけるのか。 神宮が彼の命に固執すれば、それは神宮の民の行く先を左右する道を、悪い方へ導くことになりかねないのに。流紅が、兄のためだと駆け出して、その不在が他国に知れるだけでも国の威信をぐらつかせることになるのに。目の前を見れば分かるように、今だって十分に危うい、それを。 助けられると決まったわけでもないのに、そのために命を賭けるのか。国を賭けるのか。 ――今ここで、目の前の人間たちのために、命を賭けるのか。十数名の人。それと、国中に住まう人間を、秤にかけるのか。 もしはじめから、流紅が名乗りをあげていれば。この土地に留まると判断した時に、神宮の人間が来たのだと知らしめていれば。 今富岡に向かっているのだという救援の軍は、もっと先を急いだだろう。もうとっくにこの土地に辿り着いていただろう。これ程の被害がでることもなかった。それ以前に、神宮の威光を恐れた賊が、勝手に逃げ出した可能性もある。そもそもこんな状況にはならなかったかもしれない。 ――――でも、だからと言って。 思考は、堂々巡りを繰り返す。兄を助けたかった。でも神宮の民を見捨てられなかった。でも、悪あがきがしたかった。そして問題は、振り出しに戻る。 だけども――民も兄も、簡単に見捨てられるわけがない! 叩きつけるように思う。しかしながら流紅が何を言う間も、行動をする間もなく、外から戸を殴りつけるような音が響いた。戸板の前におかれた棚が、弾けるように動いた。常盤が流紅を後ろへ引っ張って退かせ、慌てて人々が棚を押さえつける。悲鳴があがった。恐怖に満ちた室内とは裏腹に、外で哄笑が沸き起こる。 そして流紅の耳は、その中をついて、また別の音を聞いた。何かが空を裂く音。気のせいかと思ったが、再度同じ音がした。甲高く細く笛のようだったが、もっと鋭い。 流紅は前へ踏み出すと、ゆっくり言った。 「外に出る」 「馬鹿を言うな!」 戸を抑えている一人が、叫んだ。今手を離せば、間違いなくこの戸口が開いて賊が押し寄せてくる。何を考えているのだと、その声は言っていた。 しかしながら突然、外で再び喚声が沸いた。賊の怒号とは違う。何事かと再び人々は困惑していた。恐慌におちいるかという寸前、渾身の力で戸を抑えていた人々が、戸を叩きつけていた音がやんだことに気がついた。手ごたえが何もない。かわりに、矢が壁に突き刺さる音がする。 「そこをどけ、外へ出る」 「この音が聞こえないのか。外は矢の雨だ」 「弓を止めろ!」 口をさしはさんだ人には応えず、外に向かって叫ぶ。すると戸惑うように弓矢の音が少なくなり、やがてぱたりとやんだ。人の声は、まだあふれているが。 信じられないものを見るように、目の前で戸を抑えていた人々が彼を見た。流紅が前に進むと、彼らは逃げるように彼の目の前から去る。けれども、流紅が戸を抑えていた棚を退けようと手をかけると、慌てて戻ってきて、棚を退ける。動転しているのが分かるその動きに流紅が苦笑すると、彼らは自分たちも逃げるようにその場を退いた。 村長の家を、賊が包囲している。それはいつか見たのと同じで、髪を乱してぼろぼろの鎧を着て、抜き身の刀を下げた男たちだった。数は決して多くはないが、彼らは失うものをもう持たず、ただ奪うことしかできなくなった人間だった。 賊の背後を包み込むようにして、鎧を着た兵がいる。火は鎮められたはずなのに、落日がまだあたりを赤く照らしている。神宮の兵の、赤の揃えの鎧が染みるようだった。弓を構えた者たちが賊を狙い、その前で刀を構えた兵たちは、刃向ってくる賊たちに応戦していた。賊らは、大軍による突然の包囲に、半ば唖然としながらも必死にそれぞれの武器を振り回している。 取り巻く援軍の中に、馬に乗った武者が数人見えた。 「若君!」 戸口を潜り抜けて、赤い夕日に包まれた情景を見渡す。流紅を見つけて叫ぶ声が、怒号の渦の上、ひときわ大きく聞こえた。泰明だ。声の出所を探して馬上にそれを見つけ、そして流紅は泰明の隣に知った顔を見つけた。 その間に、周辺の人間の目が自分に向かって来ているのが分かっていた。兵の目も賊の目も、後ろの人の目も。 「尊芳、やめさせろ」 増援を率いてきた将へ、無造作に言い放つ。尊芳はそれに応えて兵へ命令を叫ぶ。賊が向けてくる刃に対し、彼らはただ盾を構えた。しかしながら武藤家の若者がそれを指示するまでもなく、流紅が何を言うまでもなく、争いの波は徐々に引いていた。 賊のほとんどを取り押さえたからというだけではない。問うような視線が向かう。困惑が、そして奇妙な緊張と静寂が満ちている。 流紅は唇を開いて、朗々と声を上げた。目の前の賊と、神宮の軍と、そして後ろに庇う人々に。 「現神宮当主、神宮 一挙一動を人が見守っている。見張っている。それは、決して今に始まったことではなかったが。改めてその意味を思う。その重さを、思う。目の前の光景を心に刻み込む。賊の姿、村の姿。 「神宮の家を敵に回したい者がいたら、得物を持って名乗り出ろ」 戦場ではない。賊が行儀よく一騎打ちに応じるわけもない。これはただ、殺せるものなら殺して見せろ、と。力を見せ付けるためだけの言葉。 賊たちは、降って沸いた立て続けの出来事に、まだ困惑から抜け出せないようだった。突然囲まれて反発した時とは違い、改めて周りを完全に取り囲んでいる兵たちを見て、その数の多さを、この土地にいる兵たちとは比べ物にならない歴然とした差をはじめて思い知らされた。そしてそれを、一声で従える人。 神宮家を侮っていたはずの彼らは、そのことすら忘れ果てたようだった。もう最後の足掻きすら放り出して、手にしていた刀を次々に落として行った。 やれやれ、と後ろで声がして、流紅は室内を振り返る。平伏する人々は、むしろ腰を抜かしたように見えた。 「鏑矢か」 茜子とともにその中に立っている常盤が、呆れとも感心しているともとれない声で言う。 「古風だがな。合図には使える」 流紅が聞いた笛のような音は、矢の音だった。空洞があり、射れば、虚空を飛ぶときに笛のような音をたてる。彼らのずっと前の時代には、開戦の合図に使ったものだ。未だに神宮の兵は合図などにも使う。 賊を捕縛している兵たちの方へ歩き出すと、その間をぬって泰明が駆けてくるのに気がついた。流紅が何を言うよりも前に、泰明が大きな声をあげる。 「ご無事ですか!」 「何もない」 「申し訳ありません、もっとちゃんと護衛をつけてあれば……」 「勝手にうろついたわたしが悪いのだし、お前がつけた護衛はちゃんと役に立ってくれた。矢傷を負っているはずだが」 「道中会いました。急ぐので、手当てに幾らか兵を残して置いてきてしまったのですが」 「ちゃんと労ってやってくれ」 言って顔を上げる。兵に指示を与えていた尊芳が、彼らの方へ向かってくるのが見えた。彼は流紅の元へ来ると、足元に膝をついて頭を下げた。慌てて泰明が同じように膝をつく。 流紅は尊芳を見下ろして言った。 「お前が来るとは思わなかった」 困惑顔をあげて、神宮家の重臣は応える。 「いらっしゃるとは思いませんでした」 彼が知らないということは、やはり父は追っ手を出さなかったのだろう。 「泰明に口止めしていた」 「おいでになっていたのなら、おっしゃってくださればよろしかったのに」 「極秘だったからな」 苦笑する。 「もともと、わたしが領内視察に出かけるのは父上の意志だから。内実を探るために、極秘に来ていた」 まだ尊芳は、納得できない顔で流紅を見ている。さすがに彼は神宮の人間をよく分かっていた。そして泰明を問うように見るが、見られた方は平伏するのに必死で、まったく気がついていない。 「存じ上げず、遅くなりまして申し訳ありません」 「まったくだ」 尊芳に非はないが、つい本音がもれた。もう少し遅かったら、どうなったか分からない。最悪、常盤の言うようなことになっていたとも限らなかった。 流紅は小さく息を吐くと、ついでのようにつぶやいた。 「父上に連絡を」 その足元で、ひれ伏した人の声が、御意、と短く応える。 せわしなく動き回る人々を、少し離れたところから眺めていると、歩み寄ってくる足音がした。 「帰るのね」 茜子の声は、尋ねるというよりは、確認するようだった。 「うん――いや」 流紅の声は煮え切らない。その目はただ、前を見ていた。もうじき完全に日が暮れる。彼の視界の中で、家を失った人々は、病人や怪我人を背負って、一夜の宿を求めて寺の方へ移動を始めていた。尊芳が指示をして、兵たちがそれを手伝っている。 「ここで神宮の身を明かした以上、この土地の賊を掃討しないわけにはいかないからな。多分、もうしばらく留まることになると思う。まだ増援も来るようだから、大した時間はかからないだろうが」 ここに来ていた賊たちのように、兵の数と神宮の名の威光に、鳴りを潜めたり、投降してきたりする賊が多いだろうから。 「その後も、父の望みはわたしが当主代行で領内視察にまわることだから、このまま城には帰らずに出かける羽目になるかもしれないな。使節の方が逆に桜花からこっちに来るかもしれない。面倒をかけることになる」 「だけど」 茜子が言う。彼女が帰るのかと聞いた、その真意も本当は分かっている。 流紅はただ前を見て、黙って佇んでいた。斜陽は山の縁に消え、空が紫に染まり始める。 今まで寺に滞在していた流紅は、当然ながら山村家へ移動することになった。尊芳や彼に従って来ていた身分のある者も、同じように泰明の元へ招かれている。入りきれない兵の多くは警護を兼ねて、その外へ幕を張って仮屋にしていた。 茜子が、泰明と同列に上げて口うるさいと言っていた、山村家の先代は、流紅の訪問に腰を抜かさんばかりに驚いて、もてなしのために大慌てで走り回ったようだった。気を使う必要はないと言う彼や尊芳に対し、酒宴をはると言い張った。疲れたから、と流紅が言わなければ、深夜まで付き合わされたことだろう。神宮の所領の、その片隅をひっそりと守ってきた老人の驚きを思えば、憐れなくらいではあったが。 一人用意された部屋で寝具に横たわっていた流紅は、出任せでなく本当に疲れていたが、なかなか眠りにつけなかった。自分のした行動と、それの起こした結果を考えると、目がさえて眠るところではない。そして、これから招くであろう事態。 それでもやはり疲れていたのだろう。うとうととまどろんでいたところを、小さく揺すり起こされて、目を開く。一瞬、石川家での同じような状況の記憶が全身を駆け巡り、気がつくと相手の手を払いのけていた。甦った感情に絶望感が駆け抜けていく。そうして起き上がろうとして、間近で見下ろす顔にようやく気がついた。 肘をついた中途半端な姿勢のまま、止まってしまった。ただ、単純に驚いた。 「何をしているんだ、こんなところで」 茜子が、自分の唇に人差し指をあてて、静かにするように示して、流紅に何かを押し付ける。着物のようだった。手にしたものを見ていると、彼女は囁くように言った。 「着替えて、こっそり厩の方に来て」 「なんだって?」 「見張りがいるから気をつけてね」 何かを企んでいる様子の彼女は、目的に頭を捕らわれて、夜半に男の部屋に忍び込んだ、という事実はまったく気に留めることではなくなっているようだった。ただ単にそんなこと気にしていないだけのようでもあったが、すぐに踵を返して出て行ってしまった。 訳も分からないまま着替えて、物音をたてないよう気をつけて廊下へ出る。流紅の部屋の前で見張りをしていたはずの兵は、壁にもたれて眠りこけている。ただ単にさぼっているのか茜子に何かされたのかは分からなかったが、流紅はため息を落として歩き出した。 決して広いとは言えない山村家の厩は、すぐに見つかった。草履を履いて地面に降りて近づくと、陰になるところで茜子が手招いた。厩の裏手、人の死角になるところ、木塀の前に大きな石が置かれている。 呆れて口を開きかけた流紅を、茜子が軽く睨んで止める。案の定、彼女がその石をどけると、塀には大きな穴が開いていた。 茜子が案内してきたのは、夕方彼らが足を運んだ河津の村だった。村の人が寺に宿を求めたため、無人になった村には静寂だけが満ちて、近くを流れる川の、ささやかなせせらぎが清らに響いている。その中に、自分たちとは別に草を踏む音と、動物の臭いがした。よく見ると、川辺に茂った木の間に隠れるように、馬が繋がれている。 「賊のところから、一頭かすめておいたの」 「なんだって?」 あまりにもあっさり言われて、つい聞き返してしまった。驚き呆れる流紅に、彼女は事も無げに続ける。 「うちの厩から馬に乗って出るとさすがに見つかってしまうし、先に外に連れ出しておいても、一頭減っていたらおかしいでしょ。兄さんたちが賊を捕まえてる間に、村をうろついてたのを一頭かすめておいたのよ」 「何をしているか、分かってるか?」 そんな無茶苦茶なことを、やらかすのといい――流紅を連れ出して逃がそうとするのといい。逃がす、という言葉は正しくはないかもしれないが。 皆にその身を明かして、この土地にいるのが武藤家に知れて――それは同時に神宮家に知れるのと同じことで、そうなると流紅はもう先へは進めなくなる。彼の一挙一動を皆が見守り、彼の行くところには必ず誰かがついてくる。 それは果たしたいと思ったこと、そのために飛び出してきた理由を、捨てることだ。 「わたしが何をしたかったか、本当にわかっているのか? どこへ行こうとしていたのか」 「多分、思っていることに間違いはないと思うわ」 目的のために、流紅が神宮の民を見捨てようとしていたことも。 そしてこのまま行けば本当にそうなることも、それは命を捨てる行為になりかねないことも、そうすれば手引きをした自分にどれだけの責任がかかってくるかも、きっと分かっているのだろう。茜子は、静かな表情で言った。 「本当にしたいことをすればいいと思う。行きたいところに行って、いいと思う」 けれど、流紅がしようとすることの、後押しをするわけではなく。 「きちんと自分で決めて、選んだことでないと、後悔するわ」 「成り行きのように見えるか」 「そうね」 あまりにもあっさりと言われて、他の人間にもそう見えたかなと思うと、情けなかった。 流紅は小さく笑う。ただの苦笑とも、自嘲ともつかない顔で。 「引き止めてはくれないのか?」 「引き止めてほしいの?」 「そうかもしれない」 引き止めた人々に、あんなに怒っていたのに。 結局そうして、最後は人のせいにしたいのか。思うと、自分自身の感情の醜さに、踏ん切りをつけられない不甲斐無さが、哀しい。兄上なら、と考える。あの人ならきっと、自分の決めた先になら、迷わず進んでいくのだろうに。 流紅は、馬のそばを離れると、水が流れる場所を目の前に座り込んだ。河原には草が生い茂り、その影や涼しげな音をたてて流れる川面を、少し季節に遅い小さな蛍の光がいくつも、惑うように飛んでいる。 草を踏む音が隣で止まり、茜子が腰をおろす気配がした。折角彼女が用意した逃げ道に感謝をするでもなく、断るでもなく、ぐずぐずとしている流紅に怒ったりもせず、彼女はただそこに座る。風に揺られた草木が、月の光を照り返す川がたてるかすかな音と、馬の小さないななきだけが、彼らを包んでいた。 流紅は茜子に――もしくは、独白のように、ただつぶやく。 「兄上を助けに行きたかった」 桜花に帰りたくない。当主名代など、冗談ではない。それは、まだ本心だ。 「兄上がお一人で大変なのに、自分が桜花の城にいるのも、皆に大事に守られているのも、我慢がならなかった」 何かがしたかった。なのに結局それをやめた。このまま居残れば、父の言うとおりに当主名代として領内をまわらなければならない。兄の不在を、それを押しのけた自分を、認めなくてはならなくなる。それを認めたのだということを、見捨てたのだということを、人に知らしめなければならなくなる。 「でも、守らなくてはならない。城には家族がいる。わたしたちを信じてついてきてくれる臣がいる。民をあの賊のようにならせるわけにはいかない。この土地にも、他の土地にも、守らなくてはならない人がいる。父も、桔梗殿も、妹も。泰明も、癪だけど常盤も。お前も」 草の上に留まって光る一匹の蛍を睨むようにして流紅が言うと、茜子があきらめきった様子でため息をつくのが聞こえた。 「あなたはまったく、馬鹿みたいに律儀で融通が利かないわね」 それは、父にも言われたことだ。 「きっと、結局こんなところで立ち止まってしまったことも、下した決断に迷うことも、それを嘆いている姿をわたしなんかに見せているのも、許せないのでしょうね」 そうかも知れないと思った。情けないくせに、意地を張る自分が虚しい。彼女を見ると、目があった。 「何も言わないのか?」 「言ってるわ」 「そうじゃなく」 また少し苦笑をうかべて、流紅がさえぎる。 「皆がわたしに対して意見をするのに、茜子だけは何も言わないから」 すると少女は困ったように笑った。 「あえて何かを言ってほしいなら、言うわよ。色々思うこともあるわ。だけどわたしは何も知らない。わたしはあなたに何も言える立場じゃないし、事情もよく知らないし。難しいことも知らないただの娘だもの。だけども、あなたがどうすべきなのかっていうことくらいは分かるつもり。だけど、分かるつもりなだけで、多分気持ちはあなたと同じだわ。だからこれ以上は、言わない。口うるさく言うのも言われるのも好きじゃないし」 「そうか」 「それに、もう言ったわ。したいことをすればいいと思う」 流紅がすべきことは分かっている。だけど、彼のためにこうして逃げ道を用意してくれる。 そうして、ちゃんと選べ、というのだろう。彼女は。ある意味誰よりも手厳しく、そして思いやりが優しかった。 流紅は、そっと笑う茜子から目をそらして、川面に目をやる。静かに流れる水は、淀みなく清々しい。決して眩くない、小さな光が幻のように飛び交っている。 誰に何を言われたときよりも、諌められたときよりも、気持ちが抑えられなくなりそうなのは、なぜだろう。 「皆わたしだけでも留まるべきだというが、わたしなんて、本当に、大したことないんだ」 言葉が勝手に口をついて出る。静けさが、耳に痛い。 「必要なのは、賢い治世者だ。戦をするものが頭である必要はない。わたしは、兄を助けて戦をするが、神宮の国と民と兄を愛しているからだ。兄は、人に慕われる人間だ。わたしよりも治世者に向いている。もっと前に出て、表に出て、人と接するようになれば誰もがそれを知るのに。たまたまわたしが、この性格だから、表に出すぎて人の目についたに過ぎないんだ」 息が、詰まりそうだと思う。苦しくて悔しくて、息が出来ない。なんだかとても、泣きたい気分だった。そう思ってから、自分が泣いているのに気がついた。 「あの人は、神宮の家の長子なのだから」 静かで、物腰柔らかで、優しい人だと、誰もが言う。それは事実だ。 そして、臆病で戦向きではないと、言う人がたくさんいる。それは、決して事実ではない。 昔はたくさん剣の稽古をした。彼が負けてくれたとき以外に勝ったことなどなかった。昔は、城を抜け出して遊ぶのも一緒だった。勉学を教えてもらった。兄は。あの人はただ、静かに燻る炎を、隠しているだけだ。身の内におさめているだけだ。流紅のために。神宮家の中に、火種を呼ばないために。 本当なら、誰も太刀打ちできない、執政者になれるのに。 巻き起こったことには、自分自身にも責任があることなのだと考えると、悔しかった。 ただ兄を助けたいだけなのに、まとわりついてくるしがらみが重かった。人の諫言が、父の痛みが、重かった。どうして分かってくれないだと、思った。 ――――ただ本当に、誰かに、同意してほしかっただけなのかもしれない。 慰めがほしかっただけかもしれない、と今更思った。こんなところで愚図っている自分が情けなかった。つらくて悲しくて、甘えたかっただけなのかもしれない。ただ子どものように、誰も本当の意味で兄のことを心配したり思ったりしていないのだと、勝手に思っていじけて、うずくまっていたいのかもしれない。 あきらめないけれど。あの手を失うかもしれないことを考えると、それだけで飛田を滅ぼしても構わないと思うくらい、悔しくて悲しいのに。皆が皆、あきらめろと口にして、あきらめきれない流紅を責めるのに、耐えられなかった。 もうどれだけ望んだところで、兄を助けに行くことなどできないことを、ちゃんと分かっている。誰もが皆兄を心配していて、流紅の気持ちも、けれどもそれを甘受できる状況でないのを分かっていて、言いたくないのに諫言を口にしているのも、本当は知っているけれど。それでも悲しくて、理解していない振りをして、相手を責めたかった。 自分自身が、事実を認めたくないから、誰かに「自分も同じだ」とただ一言、言って欲しかっただけなのかもしれない。 「何泣いてるのよ。馬鹿ね」 笑う声は、暖かい。伸べられた手は優しい。 茜子は何の頓着もなく、小さな子どもをあやすようにして流紅の頭を抱える。その腕にされるままになりながら、流紅はおとなしく茜子の肩に額をあてて瞳を閉じた。 ただただ寂しかった。 「前言を撤回したら笑うか?」 そのままで流紅がつぶやくと、小さな笑い声が聞こえた。触れたところから体を揺らす反動が伝わる。 「笑わないわ」 「……笑ってるじゃないか」 「そういう意味じゃないわ」 間近で聞こえる声は、おかしみを隠しきれていなかったが。 寂しさは、人の手を追い求めたくなる衝動にかきたてる。夏の気だるい暑さは、冷静な思考を鈍らせる。目の前を踊る小さな光は、幻のような美しさと、命の燃えていく切なさを訴えかけるようだった。木々の間から見える、遠く高い星の空は、かつてなく今だけ、何のしがらみからも開放されている自分を自覚させる。――今だけは。 何も考えたくなかった。 明日には掛かってくる重責も、現実も、忘れたかった。何もかも忘れて、優しい人の手に触れて、遠く離れた人のことを案じていたかった。 細い体を、抱きしめる。すがりつくように。 顔を上げて唇をかさねる。そのまま草の上に倒れこんでも、茜子は何も言わなかった。 「桜花に来ないか」 つぶやいてから、問いかけよりは懇願のようだと、自分で思った。 茜子は、間近で強く自分を見つめる流紅を見る。同じだけの強さで。 「行かないわ」 にっこり笑って答えた。 「あなたのことは好きだけど。今あなたは、寂しくてちょっと気が弱くなって、そんなことを言ってるだけなのよ。わたしのことを理由にしてもいい、言い訳にしてもいいわ。だけど、後悔の種にはなりたくない。あなたはきっと、本当の意味で前言撤回なんてしていないもの」 迷いのない目は、たとえ流紅が命令として言ったものだとしても、流紅の願いを受け入れなかっただろう。 「惰性でわたしを選ばないで」 弓を離れた矢は、勢いよく的に刺さる。小気味のいい音をたてて、それは遠くはなれた的の、中心近くを射抜いていた。 片肌脱ぎになっていた飛田の当主は、それを満足そうに見て、傍らに控えた小姓が差し出す手拭を受け取り、額の汗を拭う。日差しは強く、紅巴ならばそこにずっと立っているだけで眩暈を起こしかねないものだったが、飛田の当主には何ほどのことでもないようだった。手拭を戻し、次いで差し出された矢を手に取る。弓を下に向けて弓弦に矢羽を当てがい、けれどもそれをつがえて構える前に、近く彼を見ている人物の方へ目を向けた。 「お前の言った通りだったな」 当主に呼び立てられ、回廊に座してそこにいた紅巴は、ただ彼を見上げた。穏やかに見返してくる相手に、柳祥は言う。 「神宮の次男が、領内視察と称して桜花を発ったと言う。聞いたか」 「はい」 「実質、次代を継ぐ人間をお披露目するのとかわりない。お前はやはり、完全に見捨てられたな」 「そうですね」 「飛田家にとってお前の価値はなくなった。今ここで、お前を射殺しても構わないというわけだ」 紅巴は静かに、その通りですが、と応えた。瞳にも声にも感情の揺れは感じられない。未だ自由の利かない足を投げ出して座る彼は、しかしながらやはり、弱いところを少しも見せなかった。 「お許しいただけるのなら、その件はもうしばらく熟考願いたい、と申し上げる」 「ほう」 飛田の当主はおもしろそうに応え、手にしていた矢を小姓に戻した。強弓を地面に刺し、改めて紅巴に向き直る。 「どういう意味かな」 「わたしの命の価値を、もう一度お考えいただきたく」 言葉とは裏腹に、その声音には動揺も切羽詰ったものもない。ただ静かに、己の利を考えてみるよう相手を説いていた。 「わたしは、自分を過大に評価もしないし、過小な価値も申し上げない。わたしは神宮の領土のことも、神宮の人のことも熟知しておりますし、必ずお役に立てるでしょう。そしてわたしがこちらに与したと知れば、神宮はもとより他国も必ず動揺する。対立していた神宮の人間を従えたのだと、恐れるものも多いでしょう。わたし自身の価値は、先日の戦の折の働きを考慮していただきたいと思います」 捕らえられてきた紅巴を前にして、なかなか見事だった、と評した柳祥の言葉を逆手にとったものだった。 そしてこの言葉は、ただ単に人質や捕虜としての価値を説いたものではない。 思いがけない紅巴の言葉、それの意味することに、飛田の当主は少し驚いたようだった。それよりもずっとおもしろがっていたが。 「命乞いをするのか」 「いけませんか?」 紅巴はただ、真意の見えない表情で笑んで相手を見返している。 「一概に悪いとは言えないな。だが、お前が飛田に降るのか」 「神宮は、わたしを見捨てたのでしょう?」 真意を問われて、言葉を反復する。そして続けた。 「神宮がわたしを捨てるのなら、わたしが神宮を捨ててはならない道理もない」 先刻の紅巴の言葉は、飛田家の臣としてあってこそ意味があるものだった。そこにあるだけの客人のような、そして行動を束縛されるような立場の人間ではなく、生まれや立場のみの利を説くのではなく、己の力をそこで発揮して見せると言うのなら。 紅巴は、神宮を裏切り、飛田家へつくのだと公言したことになる。 「神宮の人間は、飛田を憎んでいるのではないのか?」 初代はその生家を滅ぼされ、何代にも渡って神宮家は飛田家に命を脅かされてきた。 「それは飛田のお人の方でしょう」 神宮家は、飛田がそのように手を出してこなければ、自ら人を憎むような気質はもっていない。未だ、戦国の世の伝説であり伝統のように両家が対立するのは、飛田が招いたことだ。柳祥も紅巴も、どちらも正しい。 言葉を返し、そして紅巴は続けた。 「しかしながらそれも昔のことです。そして例えわたしの中の血が、飛田家を憎んでいても、劣り腹のわたしには大した影響を与えなかったのでしょう。わたしには、家の問題よりも、自分が生き延びることの方が重要なようですから」 「それなら、何故神宮の忍びをかばった」 「何度も失敗しているのですから、これ以上犠牲を出して、神宮がわたしをあきらめるようなことになったら、自分の命の保証がないでしょう。そう思ったら無我夢中で。もともとわたしは、神宮にとってはいらぬ人間です。どんな些細なことですら、見限られる要因にならないとも限らない。必死になっても不思議はないでしょう?」 少し困ったような顔で、紅巴は言った。 「結局、臣にとっても民にとっても弟が嫡男であり、わたしなどはどれだけ神宮のために尽くそうとも、この様ですが」 当主名代として起ったのだという弟を引き合いに出す彼の言葉に、飛田の当主は少し唇を歪めて笑った。神宮家中での紅巴の立場を、飛田の当主も当然知っていた。 紅巴はその歪曲した笑みに向けて、続けた。 「飛田の方ならわかっていただけると思ったのですが」 骨肉の跡継ぎ争いは、むしろ神宮ではなく飛田のお家芸だ。その皮肉とも、指摘とも、批判ともつかない言葉を、飛田の当主はただ額面通りに受け取ったようだった。 「弟を憎んでいるのか?」 「憎まないわけがない」 さらりと、当然のことのように、穏やかな口が答えた。それはむしろ、静かだからこそ、見る者の目に、彼の心の内を深読みさせるものがあった。いつも静かに佇んで耐えてきたからこそ、たわめられた暗いものを。 「わたしは、本来の自分があるべき立場も何もかも、今はこの命ですら、弟ゆえに奪われるようなものですから」 その言葉に柳祥は、紅巴ではなくその傍近くに座して控えていた弟を見る。柳雅はずっと、口を差し挟むことなく、黙ってその艶やかな気配すら押し殺すようにしてそこに座っていた。冷笑を浮かべ、飛田の当主は紅巴の方へ視線を戻す。 「しかし、命乞いだというだけなら、理由には弱いな。お前も武家の人間なら」 命を惜しむな、名こそ惜しめ。というのが戦国の慣わしだ。 生き恥をさらすくらいなら、死を選ぶ。命を惜しんで逃げ回るよりも、家の栄誉を重んじて敵陣へ向かっていくものだった。 「ご納得いただけませんか? 困ったなあ。もしかして、ご当主はすべてお見通しで、わたしに白状させるおつもりなのでしょうか」 それまでずっと穏やかに、少しの余裕も失わずに話していた紅巴は、ここに来てさすがに困惑した様子を見せた。 裏を見透かされて困った、という様子で束の間口を閉ざす。ためらいはしたものの後ろ暗さのない相手に飛田当主の方も、始めて不審そうに彼を見た。 その視線を受けて、紅巴は再び笑みを取り戻す。少し困ったような色の笑みだった。 「百合姫は、かわいらしい姫君ですね」 柳祥は、紅巴の言葉に目を見張った。驚きを隠さずその顔に浮かべ、そして次には大声で笑った。 「あれはたいそう、お前になついていると聞いていたが、そうか」 喉を鳴らして、おかしそうに笑いながら彼は言った。その表情には、いくらかの安堵や、からかい、そして見下したようなものも混ざっている。 「あれはやれん。昔から当主の正室になると決められている。滅多なことを口にすると、当主を狙っていると思われかねんぞ」 相手が百合だから、というわけではないのが、ありありと出た言葉だった。ただ彼女が、飛田当主の従妹だから。 柔らかな面差しに、遠慮がちにも見える困惑した表情を浮かべたまま、紅巴は応えて言う。 「わたしの価値を汲んでいただけるのなら、このような政略結婚もあながち無きものではないと思うのですが」 政略結婚とは、国同士の結びつき、同盟を結ぶ役目をもつが、それだけではない。嫁いだ娘は夫を見張る。国を見張り、それを自国へもらさず伝える役目を負わされるものだ。夫は、娘の命を手中に収めていることで、相手の国を牽制する。――それは当然ながら、いざとなれば簡単に無くなってしまうような、か細い保障でしかなかったが。 「考えておこう。今後お前の働き次第で」 「いずれにせよ、機会さえあれば、わたしの言葉が偽りではないことを証明してみせますのに、残念です」 この足では、と嘆いて言うその言葉には応えず、飛田の当主は、流麗な顔を無表情にして庭を眺めていた弟を見た。ここまで話を進めておいて、もののついでのように尋ねる。 「神宮の嫡子が飛田の傘下へ降るなど、まったく前例のないことだが、どうかな」 柳雅はただ、その叡智と高圧な力をたたえた瞳を伏せて頭を下げて隠し、御意、とつぶやいた。 「兄上がお決めになることですから」 「わたしが決めたことなら、臣が反対しようとも、お前は反論しないと言うのか?」 「もちろんです」 柳祥が、小さく鼻で笑う。 「そうか」 短く応じ、もう柳雅の存在など忘れ果てたように、飛田の当主は傍らに立っていた小姓に向かって手を出した。そこにはいない者のようにじっと控えていた少年は、慌てることもなく、矢を当主の手に渡す。風雅を称えられる飛田の人間にして、武断の主を気取っている飛田当主は、そうして再び弓を的に向かって引き絞った。 それはただ、そうあれない自分を悟りながら、そうあろうとしないのだと懸命に主張しているだけだ。恐れ、それゆえに反発している。弱さを露呈しているのだと気づかずに。 惰弱な凡夫が。 柳雅は、伏せた眼差しの中、嘲笑を浮かべて思う。 飛田に降ると言い出した紅巴が、問い詰められ、百合のことを出した途端に態度が軟化した。それは偏に、問題が目に見える位置に落ちてきたからに過ぎない。国同士の関わりではなく、策略でもなく、分かりやすい問題に摩り替わったから。 紅巴の内には陰謀などなく、敵国の姫にひかれて自国に仇なすのだと、単純に納得した。命を惜しむのだということも、弟を憎んでいるのだと言うことも、それに付随する問題に捉えたのだろう。 ――愚かな。 吐き捨てるように、ただ心の中で言い放つ。 あれが、色恋で、国を捨てる人間か。 問題を単純なものに摩り替えた。それは、紅巴がそうしてやっただけのこと。百合のことなど、本音でもないだろう。飛田の当主は、紅巴に抑制され、うまく空回りさせられたに過ぎない。 柳雅には、紅巴が二面性を持つ人間なのだと、分かっていた。表は穏やかで軟弱に見えても、実質その内面では暗く強いものが沈んでいる。決して優しくなどない容赦のない人間だ。目的のためなら、きっと歪んだ道も通る。その本質に、自分自身と似たものを感じ取っていた。 飛田家など、目的のためなら、そして目的を果たしたなら、何ほどのものでもないように裏切るだろう。――裏切るなどと言う言葉は正しくないかもしれない。彼は所詮、最初から最後まで神宮の人間だ。 柳雅は分かっていて、兄には何も告げなかった。誰にも、何も言わない。 強い日差しを投げかけてくる日輪の元、ただ、心の内で冷たく笑った。 |