第五章





「ご存知だとは思いますが」
 若い声は、尋ねると言うよりは確かめるようだった。
「飛田家が、軍を整え終えたとの話がございます」
 再び飛田の進軍が囁かれ出したのは、誰の予想にも反して、秋も終わりに差し掛かった頃だった。密かに兵糧を集め、領内から兵を集めている。準備が整う冬の入り口頃には行動が大っぴらになってきており、勝利を確信した行動は、本條を脅かそうというのか、神宮をいたぶろうというのか、その意図はやはり周辺の国の人間にもよくわからなかったが。
「そうかね」
 当然知っていた事ながら、神宮の当主はのらくらした返答を口にした。
 捉えどころのない反応に、平伏していた若者は束の間言葉に詰まり、そんな自分に苦笑した。神宮の当主は、噂に違わない狸だ。
 桜花城の広い謁見の間で、神宮の当主と、傍らに控える流紅を上座に見ながら、石川家からわざわざ神宮家居城へ足を運んだ竹寿は下に座している。彼の言葉が丁寧で神宮の当主の言葉がぞんざいなのは、彼らの気質の問題や年齢のことだけでなく、家の格式が確実に神宮の方が上だからだ。竹寿は逡巡し言葉を探しながら会話を続ける。
「本條殿は、領内の小さな砦のようなものにこもっておられると聞きますが」
「そのようだな。その点は、わしよりもおぬしの方が詳しいのではないかな」
「今回ばかりは、本條からの救援もございませんか?」
「それを、わざわざお主にいう必要も感じられないが」
 変わらない口調で、しかしながら断固とした言葉を投げかけられ、竹寿は再び言葉を失った。相手は、まったく会話の糸口を見せてくれない。広い部屋を抜けて行く枯れた風が、一層寒く感じられた。小さく身震いしてしまったのは、寒さのせいばかりではない。
 これは、誤ったかも、と竹寿が心の端でちらりと考えたところで、神宮当主はにやりと笑って言った。
「まあ、その通りだな。さすがにそこまで考え無しではなかったようだ」
 そうしてわざわざ、竹寿の言葉に捕まってくれた。
 当然のことながら今回は、飛田家が進軍の様子を見せても、本條から神宮家への援軍の要請はない。すべて自分たちの招いた結果だ。起きた物事を理解せず、また援護を願ってきたら、それこそ恥知らずというものだ。
 それはさすがの神宮家も――神宮家だからこそ、送られてきた使者を斬って捨てるくらいはしかねないほどの愚行だ。相手を挑発する行為にとられても、文句は言えない。
 盟約など、まったく過去の話だ。神宮の配下の誰もが、そんな事実があったことすら認めたくもないだろう。
「本條家同様、我が家は小さく、力の強い神宮と飛田家に挟まれ、日々もがきながらなんとか足場を保っております。ご存知の通り、我が家がそうして立っていられる努力の結果は、情報収集に努めてきたからです」
 まわりくどい会話やかけひきは放り出して、竹寿は自分からそう言った。相手を自分の調子に巻き込むのは、彼自身の経験も乏しいことながら、相手が相手だけに無理だと悟ったからだ。
「ほう、わしがまだ知らぬ事情を何かご存知と言うわけか」
 神宮の当主は、それをわざわざ伝えに来たのか、と笑う。さっさと言ってみろ、と先を促す態度に、竹寿は苦笑する。
「左様です」
「わざわざ、桜花くんだりまで、我々に報を持って来てくださったわけか。石川の新しいご当主が、家を離れてこのようなところに、ご親切に痛み入る」
「家には父がおりますので、ご心配には預かりません。わたしが家に残るよりも、やはり今まで家中を収めてきた父がいる方が、効果がありますから」
 つい先頃、竹寿は石川家の当主の座を継いだばかりだった。今でも実質その父が采配を振るっているのに変わりはないが、それでも名は彼が石川の主だ。目前で戦が起ころうかと言う時に、軽々しく他国へ足を運んでいる場合ではないはずだが。
「それに、神宮のご当主とよしみを通じておくのも得策かと思いまして」
 竹寿がわざわざこの慌しい時期に、桜花へまで足を運んだことの、紛れもない理由のひとつだ。そして彼は、相手に悟られないよう、深く息を吸ってから続けた。
「然るに、貴家のご長男の姿が飛田の陣頭にみられるとの話は、ご存知ありますまい」
「捕虜としてか?」
「出陣の、飛田の将としてです」
 竹寿の言葉に、神宮の当主は束の間目を見開いた。予想に反して、驚いたと取れるような仕草は、それだけだった。当主の隣りに座っていた流紅の方は、驚愕の表情を浮かべ、何か言いたそうにしていたが、それは簡単に封じられてしまう。その父の笑い声に。
「なるほど、それは困ったな」
 にやりと顔に笑みをはいて、神宮当主は続けて問うた。
「何を企んでおられる?」
 ――竹寿の、ひいては石川の意思を。
 竹寿は、ようやく自分の手の元へ下りてきて、そう尋ねてくれた神宮当主に、笑みを返した。いくらか安堵の混じったものだったが。
「きっと、もう察しておられるのでしょう」
「そうかな」
 相手は飄々と応えるが、当然、読まれきっていることなど分かっていた。むしろこればかりは、察してくれないと意味がない。
 今度こそ惑わされず、竹寿は笑みを浮かべたまま、言い切った。
「また機を見て伺わせていただきますゆえ、そのときにでも」
 それには、神宮当主は唇の端を片方つり上げて、なるほど、とだけつぶやいて笑った。



 襖を締め切った部屋に、冷気が滞っている。客人が去るために開けたわずかの隙間も今は塞がれているが、その時に舞い込んだ木枯らしが、未だに部屋の中を渦巻いているようだった。空虚に広い謁見の間は、足元から這い上がるような冷たさを孕んでいる。
「父上」
 竹寿が去って、戸が閉められるのをじっと見守り、相手の出方をずっと辛抱強く待っていた流紅だったが、とうとう耐えかねて呼びかける。仏頂面で真正面の襖を見ていた父は、息子の声を受けて、大仰にため息をついてみせた。
「お前はもうちょっと大人しくできんのか。そんなに感情がだだ漏れでは、相手に足元を掬われる」
「わたしが、腹芸が得意でないことくらい、知ってるでしょう」
 だったら同席させなければいいのに、と言外に告げる流紅に、神宮当主は飄々と返す。
「知っているが、お前もわしの涙ぐましい行為を理解しろ。滞りなく当主の座を明け渡せるように、地道にも下地を整えていってやってるというのに」
 当主のみが行う謁見に同席させる。それは同時に、お披露目の意味もある。場を学ばせる意味もある。
「分かってますよ。これでも努力してるんです」
「努力といってもなあ」
「結果が全てだって言うんでしょう。分かってるよ」
 今の物事にしても、治世のことにしても、軍事のことにしても、そして後世で語られることにしても、努力の経過もその量も、問題にはならない。民にしても他国にしても、彼らが受け取るのは、目に見える現実だ。巻き起こった物事だけ。
 それも重々分かっているし、自分がまったくそれに叶っていないことも分かっているが、今回ばかりは小言など聞き流した。どうせ相手も意地悪で言っているだけなのだ。流紅が話したいことなど分かっているくせに、わざと引っ掻き回している。
 せっかちな流紅に対し、父は呆れたような目で息子を見返した。竹寿が持ってきた情報に話を戻す。
「まあ、予測はできたことだがな」
 ――紅巴が、飛田の将として陣頭に立つ。
「捕虜として連れて行かれて、他国で生き延びようとしたら、相手に媚びるしかないだろう。それを良しとしないから普通は自害するし、逆に自決もしないで靡いてくる相手を、敵方だって見下す」
 十分に人からの侮蔑に値する。足に取りすがって頼んでも、蹴り飛ばされて殺されることだって当然ある。
「なら、それだけの価値を、飛田が兄上に見出したって言うことでしょう」
「そうだろう。いろんな意味でな。だがもし、紅巴に価値を見出した飛田の当主が受け入れたとしても、飛田の家臣はそうもいかないだろう」
 皮肉な話だ。神宮当主は内心口をゆがめて笑う。最大の敵国と認識されている飛田家において、その生家で認めてもらえなかった才を認められるとは。
「でも、敵将になるのか」
 流紅が暗い面持ちでつぶやく。
 しかしそれだけではない。捕虜としての価値のない今、暗殺されないとも限らない。命の危険は常にあり、故郷との隔たりはずっと遠くなる。
「それでも、生きることを選んだってことだろ」
 あれは、細かいことをあまり気にしない性質だから、と神宮当主は嘯くが。
「どちらにせよ、神宮の領内の些事にも、人間関係にも詳しい人間を他国においておくわけにはゆかぬ。他国の将になるのなら、自ら進んで協力することが求められるだろうからな」
「じゃあ」
 その言葉に単純に喜び、流紅の顔が明るくなった。
 だが、流紅が期待するような反応は返ってこない。頷くことも、言葉もない。かわりに父は顔を上げて、少し遠くを見るような目をしていた。珍しく疲れたような表情に、少し不安になる。見守る目の前で足元に目線を落とすと、神宮当主は唇の端を持ち上げて、つぶやいた。
「もしかしたら紅巴は、本気で、神宮家に対立するつもりかもしれんな」
「まさか」
 考えるよりも先に声が出た。冗談だと笑うよりも、妙なことをと怒るよりも、するりと言葉が出た。けれども、父の顔は変わらず暗い。
「ありえないことだ。だが、どんな可能性だって、考えておく必要がある」
 起こりそうな物事すべてを、予測しておく必要がある。苦い表情で言い放つ父に、流紅は半ば呆然とした気持ちだった。内から沸き起こってくる不安。反論の声は、それを抑えようとするかのように、知らず大きくなった。
「でも、神宮のために、足を折られるようなことまでして」
「そんなもの、捉え方次第でどういう意味にでもなりえる。もう迷惑だから人手を寄越してくれるなってことかも知れんだろ。……わしは最近ようやく、そういうこともありえるのだなと思った」
 憶測でしかない。何もかも。
 しかしながら、もし彼の言う通りに、本気で紅巴が神宮を見限ったのなら。それは、これ以上のない脅威だ。神宮の内実に詳しく、何より彼ら二人とも、紅巴の才覚を認めていた。その相手が敵になるのなら。
 浮かんでいた気持ちが、停止した。急速に冷えて暗闇に飲まれていく。父の言葉の示唆すること。極端な、あまりにも極端な二つの意味。
 寒苦するかのように、身が震えた。
「でも、それじゃあ、もし兄上が……」
 本気で、神宮を見限ったのだとしたら。
 顔を強張らせ、言葉を最後まで続けることの出来ない流紅を横目でちらりと見て、父は脇息をひきよせると、頬杖をついた。ため息をついて、やれやれとつぶやく。
「そんなこと、あいつも覚悟の上だろ。もしもそうだったらの話だがな」
 当然、まだ断定などではない。そうかもしれないというだけのことなのだが。
「あれは、ここではずっと不遇だった。折角の才も生かせずに、大人しくしていたからな。国を出たいと思っていたとしても仕方がないことだ。他国で悠々と力を発揮していけるのなら、無理に連れ戻すのもはばかられてならん」
 いつになく弱気な父は、それだけこの問題に参っているのかもしれなかった。もし本当に、紅巴が自身の境遇を憂えて国を捨てたのだとしたら、その状況を防げなかった自分の責任だと思っているのだろう。そんなことはないと、例え口先だけでも否定することができず、流紅は黙り込む。父は慰めがほしいわけではないだろうし、紅巴に窮屈な思いをさせていたのは、流紅自身の存在も大きかったから。
 黙り込んでいると、父は珍しく大人しい流紅に目を向ける。何を思ったのか――弱気を露呈してしまった自分を悔やんだのか、気を遣う流紅がおかしかったのか、唐突に普段の調子でにやりと笑った。
「また一人で突っ走っていこうとするなよ。この期に及んで、神宮の人間が接触する気配だけでも、相手は過敏に反応するだろうからな」
「しませんよ」
 憮然として答える。前例があるだけに、強く言えなかったが。
「紅巴がどういう思惑にしろ、飛田が本気で紅巴を配下にするつもりなら、大々的に前面に押し立てて、戦に繰り出すだろうな。これは結構、神宮だけでなくて、他国にとっても脅威だ」
 神宮家と飛田家の対立は、戦国の伝説であり伝統だった。誰もがその対立に疑問を抱かないし、飛田が捕虜として連れて行った紅巴が、どんな惨い殺され方をしても誰も不思議には思わないだろう。――それを、臣に迎え入れる、とは。
 飛田の当主の手腕と思惑に、神宮家の出方に、誰もが驚き怪しんで、成り行きを見守ることになる。特に神宮の臣の動揺は大きなものになる。石川家が、何よりも先にその知らせを運んでくれた事は、神宮家にとっては有難すぎる収穫だった。だが、彼らが何の見返りもなくそんなものを持ち込んできたとは考えられない。――そして神宮の将の不安を抑えるには、石川からの要請に応えない訳には、いかないだろう。
「やっかいだな」




 本拠地白蛇を発ち、領内の通る道々で軍を編成しなおし、飛田家の軍が本條領に足を踏み入れたのは、小さく雪の舞う昼のことだった。寒雲に阻まれて、あたりは暗い。
 軍内に柳祥の姿はない。先陣としてまず柳雅が戦況を整え、状況を見て当主たる柳祥を呼ぶ手はずになっていた。黒の揃いの鎧を纏った軍の中、白を基調にした鎧を着た柳雅は、切り取ったようにそこだけ目立つ。
 柳雅と馬を並べて進む紅巴は、黒と赤とを織り交ぜた色合いの簡素な鎧を着ていた。戦に行くのなら鎧を用意すると言われた時に、華美でもなく重層でもなく、負担にならないものを頼んだからだ。そして彼は久々に太刀を佩いていた。飛田の臣たちは猛反対をしたものの、戦に行くのに武器を帯びていかないわけにはいかない。しかしながらそれも行軍中だけ、攻撃をするとき、もしくは攻撃を受ける危険があるときだけで、それ以外身近に人がいる場合は、必要な時だけ渡されるようになっている。
 整然と列を整えて進む飛田の軍は、領内で縮こまって過ごしている本條家の人間にとって、十分な脅威だろう。斥候からの報告だけでなく、誇張された人の噂も当然その耳に届く。そして飛田の軍は、他の本條の城を完全に無視して、本條家当主がいる砦を目指して突き進んでいた。
 昨年の冬の戦。その折に飛田と本條家が戦い、本條家の先代が討たれた川の、こちら側と向こう側では、同じ国内だと言うのにこの一年でまるで様相が変わっていた。本條領内で、飛田家側にある土地を任されていた本條家の家臣たちには、すでに飛田の息がかかっている。表立って配下になったわけではないが、飛田の軍が領内を通ることを、黙殺している。――そうして自分たちの主君を見捨て、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。それは軽はずみな展開を招いた戦を行った主を、そして負けた後の領内を掌握することを放棄した者を見捨てたのだと言える。果たすべきことが果たせなかった者の、成れの果ての姿だった。
 現在本條家の当主がいる砦も、彼らがもともと居城にしていたところもその川の西にある。飛田家が本当にこの土地を自分の領にした、と言うには、まずこの二つを落とさなくてはならない。本條家が居城にしていたのは才郷、現在いる場所を蒲原かばはらという。
「物憂い顔だな」
 声をかけられて隣を見ると、艶やかな顔が笑みを浮かべている。
「お前はいつも辛気臭い顔をしているな。せっかくお前の言う「機会」が与えられたと言うのに、もう少し楽しそうにして見せたらどうだ」
 領土を侵略して入っている以上、もうここは戦場だった。さらに深く戦場に踏み入れるために移動している最中で、楽しいも何もないだろう。
 しかしながら、行軍中に憂い顔は確かに良いものではないし、紅巴自身そんな顔をしていたつもりもない。普段から人前でそんなものを見せることは、あまりないことだ。
「お気に障ったのでしたら、ご容赦ください」
 顔を前に戻し、紅巴は静かに言う。人前で暗い態度など見せない。だけども今、紅巴が物思いにふけっていたのは確かだ。良い考えではないのも確かだった。
「格式張った話し方は、兄上の前だけにしておけ。気味が悪い」
 喉を鳴らして笑って柳雅が言う。垂らし髪にしていた黒髪が、白い顔の横で揺れた。
「何を考えていた?」
「空は暗いし、雪で視界も悪い。右手は傾斜だ、ここはいい場所ではない。もっと警戒すべきだ」
「なるほど、生真面目なことだ」
 そんなことは、彼自身とっくに気づいていたのだろう。平然と続けた。
「横槍さえ入らなければ楽な戦だ。そう神経質になる必要もない」
 二度に渡る戦で、本條家も民も疲弊しているし、本條の将たちで飛田になびいている者は多い。たしかに彼の言う通りだ。
「慮りなくして敵を易る者は、必ず人にとりこにせらる、と言うが」
「油断大敵というわけか」
 これも言われるまでもないことだろう。わざわざ横槍を口にしたのだから。
「俺の敵は、そんなものではないというだけのことだ」
 柳雅は一人ごちる様につぶやき、どういうことだと問いをかけられる前に、再び紅巴へ尋ねる。
「本当に、神宮を裏切る気でいるのか」
「そう言わなかったか」
「本当に弟を憎んでいるのか?」
 紅巴は答えない。
 ちょっかいをかけてくる柳雅を疎んじて、無視を決め込んだともとれないことはない。戦の大将に対して、傍若無人極まりない態度だった。彼らの後ろを飛田の将たちが馬を進めていて、目の前で交わされる会話に聞き耳をたてていると知っていても、紅巴は平然としている。柳雅はますます声をあげて笑った。
「分かっていると思うが、肝に銘じておけ。今回の戦でお前は試されている。生半可な活躍では臣の誰も言い負かすことはできないぞ。それから、少しでも怪しい動きをしたら、生殺与奪の権は俺にあることを忘れるな」
 言われるまでもない。こういうとき、柳雅は明らかに嫌味だった。笑いながら彼も顔を前に向けて、さて、とつぶやく。
「お前の言うことが当たったようだな。また来たか」
 西へ向かって歩を進めていく軍の横を、流れに逆らって駆けてくる馬がある。
 そして、それが柳雅の元に辿り着く前、右手の切り立った傾斜の上に、突然いくつもの人影が沸いた。長蛇になる大群の真横、しかも丁度柳雅が通りかかった時だった。
 鈍い音がして、悲鳴を上げる間もなく兵が倒れる。慌てて見れば、大きな石に頭を潰されていた。それを見た、頭上の人間が罵声と歓声をあげ、兵が悲鳴と困惑の声をあげる。
「崖側から離れろ! どうせ大した距離は飛ばせない!」
 上からの攻撃を受けて何事かと驚き、逃げようとして混乱しだしていた兵たちへ何の指令も出す気配のない柳雅のかわりに、見かねて紅巴が大声を出した。
 間髪いれずに、罵声と共に上から降らされているのは弓矢などではなく、石だった。一抱えほどもあるものから、拳程度のものまで、大小構わず上から投げ落とされている。敵兵の奇襲ではない。武装した者の姿は見えない。戦にはかかわりのないはずの、本條領に住まう民たちだった。
 攻撃の気配を感じると同時に、さっさと馬の足を速めて、その攻撃範囲から逃げ出していた柳雅は、「遅い」と伝令を叱責した後、後ろに従う配下の将たちの方へ向き直った。
「こんな奴らの相手をしてやる暇はない。俺は逃げる」
 投石に用意していた石がきれたのか、手に農具を持って兵たちの中に駆け込んでくる民と、それに応戦する自軍の兵たちの喧騒を背景に、柳雅はあっさりと言った。
「少し早いがここで軍を分ける。桂木と西沢はここに残って奴らをどうにかしたあと、才郷の城へ向かって本條の根城を落とせ。その前に、この辺りの村を抑えておく事を忘れるな」
 抑えておく、とはつまり制圧するということだ。そして容赦なく住民から食料を強奪して、補給の手間を省く。先の戦の時にも何度となく見せられた光景に、柳雅に追いついた紅巴は、声を荒げて指示の声をさえぎった。
「見せしめにするつもりか。その村の住民が襲ってきているとは限らないのに」
 珍しく感情をあらわにした紅巴に、おや、という表情を浮かべてから、柳雅は彼の方へ顔を向ける。怒りの滲んだ紅巴の顔を見て、唇をつりあげて笑った。
「本條の領内に入ってから、何度目だ。これ以上振り回されてやる方ほど俺は親切ではない。一度徹底的に懲らしめておけば、調子に乗っていた者たちも頭が冷えるだろう」
「触発することになりかねない!」
「舐められるよりは牽制した方が良い」
「余計な労力を厭うと言うならやめるべきだ。いざというときに裏目に出かねないだろう。この土地を手に入れるつもりなら、民の恨みを買うのは得策ではない」
「無駄な力を使っているのは、やつらの方だ。意地になっているだけに過ぎない。飛田になびいた民がきちんと保護されていることくらい、聞き知っているはずだ。素直に庇護を求めるなら間違いなく守ってやるが、刃向かうものには容赦しない」
 柳雅が言うことも、また事実だ。冷酷で怖れられる飛田家とは言え、自国の民を虐げているわけではない。彼らになびいた者には、分け隔てなく援助をする。それは実際に、本條の民にも差し伸べられている。しかしながら、今襲ってきているような民が意固地になるようなやり方をしたのも事実だ。先の戦の折に、飛田の撒いたものに恨みを持つ者は当然多いだろう。わざわざ国から出て飛田へ報復することはなくても、侵略してくるのなら話は別だ。
 何を言うのも無駄に思えて口を閉ざした紅巴に、柳雅は笑みを消して続けた。
「お前が気づいていないはずはないが、わざわざ言ってやろう。奴らの動きがおかしい。中には民とは思えぬほど兵に抵抗してくる奴もいる上、毎度毎度正確に俺のいる場所を狙って突いてくるのも妙だ。何かが紛れ込んでいる。放置しておくわけにもゆかぬ」
 実際、並み居る兵の壁を破って、柳雅本人のところまで討ち入ってきたこともあった。
 ――妙な、横槍。
 柳雅がつぶやいていた言葉を心の中で反芻する。もう反論を口にしない紅巴に再度笑みを見せた後、柳雅は声を上げた。
「残りは蒲原へ向かう」
 周辺にいた将たちが、応、と威勢のいい声をあげる。手に農具を持って健気とも言える攻撃をしている民と、応戦する兵たちの、喧騒と怒号など押しやるほどの気迫と声だった。その哀れな人々の運命を、暗示するような。


 本條家の当主が逃げ込み、仮の居城にしている蒲原の砦に到着したのは、それから三日後のことだった。天候は飛田の味方をしたのか、ちらほらと雪を降らすことはあっても足を止めるほどに積もることはなく、あれ以後民の攻撃を受けることもなく、大した徒労もなく蒲原に到着している。八千程の飛田の軍を見て、数百程度の兵の備えしかない本條家は、飛田家と少しの刃を交えることもなく、当然のように篭城の構えを取った。
「どこから援軍が来るというわけでもなし、ここで篭城したところで何が変わるというわけでもないだろうに」
 野営の準備にかかる兵たちの様子を見てから、柳雅は眼前の砦を見上げる。篭城は、どこかからの援助を頼りに出来る場合に、敵を前にして踏ん張るには有効だが、今の本條家には当然そんなものは望めない。ただ、そうする以外なかっただけだ。
 蒲原の砦は岸壁を背にしたところだった。強固だと言えるのはその一点くらいだが、攻撃するのは正面からしかできず、大軍があまり意味を成さない、というところでは本條家にとっては重要なところだろう。それを頼みにするなら、簡単には降伏してないだろうが。
「兄上に連絡をしておけ」
 彼のために、木枠を組み白い幕を張って整えられた陣へ腰を下ろし、柳雅は配下の将へ命を出した。
「まだ包囲したばかりで、早いのでは」
 柳雅を上に、向かい合うようにして座す将たちが大将へ驚いたような顔を向ける。戦況を整えてから、当主を呼ぶ手はずになっていたはずだ、と返る声に、柳雅は笑う。
「秋を越えたが、本條も大した蓄えなど出来てはいないだろう。徴収しようにも民が税を出すわけもないし、強要してみたところでどれだけのものがあるか。どうせすぐ弱気になって出てくるさ」
 なるほど、と他の者が返す。言われるまでもなく、彼らの目の前にある砦からは、何が何でも抵抗して見せるという覇気はまるで見られない。何倍にもなる軍に包囲され、援助の保障がない状況なら尚更だ。
「兄上が軍を率いてここに来るには、十日もかからないだろう。この季節に、こちらもあまり長い間野営して待ってやるつもりはない。兄上が到着してくるまでの間に降伏してくればよし、してこなければ容赦なく力攻めだ。どうせ兄上は大勢引き連れてくるのだから、余裕だろう」
「かしこまりました」
「降伏してきても、簡単に受け入れるな。全部兄上が来てからだ。――何かと、疑われるのも面倒だからな」
 最後の一言は、ふいに心中が零れ落ちたかのように、小さなものだった。間近にいた紅巴の耳はその言葉を拾い、うつむけていた顔を上げる。他に聞こえた者はいないのか、席を立って指示を出す将の方へ気をとられていたのか、誰も気にした様子はなかった。
 顔を向け、柳雅を見ると、彼は問うような紅巴の視線を受け、ただにやりと笑った。



 野営を張っていた飛田の軍が再び急襲を受けたのは、その夜のことである。急襲、というには正しくないかもしれない。
 突然響いた悲鳴に、飛び起きる。駆けつけようとした紅巴は、見張りと護衛を兼ねた兵に阻止されてしまっていた。陣中、しかも夜に勝手な行動をとろうとすれば、詰問を受けるし、怪しまれて当然だった。様子を見に行くのも、わざわざ紅巴が動く必要はない、報告を待てというそれを言い聞かせるのが面倒で、それならついて来いと言い置いて駆ける。
 悲鳴は、陣の中だった。それだけでもただ事ではない。しかも遠くではなかった。広い陣内であることを考えれば、むしろ紅巴がいた幕屋からすぐ近くだったはずだ。一度響いた悲鳴以外はもう頼りになるようなものは聞こえなかったが、方角に迷うことなく走る。
 辿り着いて、その幕屋の外で、入り口を守備していたはずの飛田の兵が倒れているのを見つけた。
 立ち止まり様子を見る暇を惜しんで、入口に垂らされていた布を払いのけた。中に踏み入れる。その刹那、目の前に現れた影に、慌てて飛び退いた。再び幕屋の外へ出る。
 眼前を白刃がよぎり、たて続けに振るわれたものを、更に後ろに下がって避ける。月明かりの中、幕屋の中から人が飛び出してくるのが見えた。――飛田の兵だ。
 猛進してくる胴丸姿の相手を見て、誤解されたかも、と瞬時に思う。――いや、違う。
 地面に薄く積もり、淡く光を放っている雪に、相手の顔が軽く照らされている。踏み込んでくる相手の血走った目が、紅巴の後ろに向けられるのに気がつく。舌打ちが聞こえた。
 足音が間近で止まり、驚く声が聞こえて、紅巴は振り返って手を伸ばす。やっと追いついてきた見張りの兵から槍を奪う。続いて攻撃が繰り出される前に、紅巴の一撃が相手を突いていた。
 大きな音がして、槍の刺さった体が雪の上に倒れる。先に倒れていた護衛の横に倒れた相手を見て、追いついてきた兵が、驚愕の声を上げた。
「これは一体……!」
 攻めるような目で紅巴を見る。それをとりあえず黙殺し、幕屋に再び足を踏み入れた。
「お見事」
 その途端にかけられた声は、様々なものを含んでいた。苛立ちと、おかしみのようなもの。そして、何かほの暗いもの。垂れ幕をあげたせいで入り込んだ月の明かりに照らされた幕屋の主は、寝具の上に胡座して、血に濡れた刀を倒れた兵の着物で拭っていた。
「お前が最初に駆けつけてくるとは思わなかった。見張りを連れてきたのは、賢明だったな。あらぬ誤解を受けずにすむ」
「これがぼくの仕業とでも?」
「他に何があるか」
 柳雅は、無手で立ち尽くす紅巴を見ながら、拭った刀を鞘にしまった。
 立ち尽くして、紅巴はその幕屋の中を見回した。戦の大将のために用意されたこの幕屋は、他の簡素なものとは違い、作戦を練るための陣営と同じように、木の枠組みでしっかりと建てられた仮屋のようなものだった。他よりもやや広い屋内には、二人の兵が倒れている。どちらも先程見たのと同じ、胴丸姿の飛田の兵だった。暗殺者という風体ではない。
 髪も顔も血に濡らして、辺りを赤黒い血の海に囲まれて、柳雅は平然と座っていた。鎧は着ていない。緊迫した状況ならともかく、篭城されてしまえば長期戦になるのは目に見えている。そんな時にまでいつもいつも、鎧をまとって眠るわけではない。鎧の下にまとう着物だけを着て休んでいたのだろう。
「怪我は」
 夥しい血の量を見て問う。すると柳雅は、蛾眉をあげて驚いた顔をした。
「おや、心配してくださるわけか」
「……当然だ」
 こんな状況ですら、からかうような見下すような相手の態度に、少しばかり言葉に詰まる。苛立ちとは違い、気圧された、とも言えるかもしれない。それとも、戸惑ったと言うべきか。それを見て、柳雅は楽しげに笑った。
「これしきのことで、いちいち傷など負っていられないな」
「本條の手の者か」
「さあな、口を割らせる前に殺してしまった」
 あっさりと柳雅は言う。それだけ余裕がなかったということだ。
「飛田の兵の格好をして、本條の手の者がまぎれこんだと考えるのが妥当だろうがな。誰の手の者でも、どうでもいいことだ」
 自分の命を狙われるなどという事態ですら、柳雅はあっさりとそんなことを言った。どうでもいいわけがないのに。嘲笑う様な声の響きだった。
 幕屋の外からは、柳雅の名を呼ばわりながら駆けて来る足音がある。ようやく駆けつけてきた将たちを、紅巴の体越し、幕屋の外に見ながら柳雅は苦笑を浮かべた。
 そして室内の惨劇、転がる死体と飛び散った血へ、改めて目を向ける。そこにあるのは彼の肢体と血だったかもしれない。
「先手必勝というつもりか」
 顔にかかる、血に濡れて重い髪をかきあげ、柳雅は暗くつぶやいた。


 まず場所を移るように言う将たちの言葉に柳雅も、血にまみれた姿をどうにかするため大人しく引っ込んでいた。彼を他の幕屋へ招き入れ、もといた幕屋をとりあえず片付けるよう将たちが指示を出す。手引きをした者がいないか、他に仲間らしき者が潜んでいないかの捜索がはじまり、辺りはにわかに騒がしくなった。
「あまり夜中に物々しく動くな。敵に動揺を気取られる。本條の仕業であれ、そうでないにしろ、陣内が浮き足立っているのを気取られるわけにいかない」
 そう言いおいた柳雅の言葉がなければ、煌々と松明がたかれ、もっと仰々しい捜索が行われていただろう。外はとりあえず、声が行きかい、いつもよりも少し多い火が辺りをうろついている程度だった。陣営を敷いたばかりの夜だから、そのせいでざわついていると取れないこともない。
 柳雅の言った通り、紅巴にも当然疑いの目が向けられたが、彼自身が何もしていないことは、 ついてきた見張りが証明している。そもそも、行軍中ずっと人に見張られ、何か指示を出すときには必ず柳雅や別の将を通さなければならなかった紅巴に、外部と連絡をとることができるわけもない。
 陣内の探索には邪魔にしかならない紅巴は、無理矢理にも自分の幕屋に押し返されていた。
 することもなく、騒がしい周囲に反して何をすることも出来ず、紅巴はただ寝具の上に座り込む。体力がないのは分かっているから休むべきなのだろうが、不穏な気配に、そして思い至る不穏な物事に、意識がさえてしまっていた。
 ただ頭の中で柳雅の言葉を繰り返し考えている。
 柳雅の命を狙う者など、当てがありすぎて分からないのは事実だ。一番考えられるのは、本條の手の者。彼らが現状を打破するには、大将たる柳雅を狙うしかないところまで追い詰められているのも事実だ。そして、まわりの国々。戦に乗じて何かを仕掛けようとするのは考えられることだ。そのどちらかが飛田の兵に紛れこんだのかも知れない。度々攻撃を受けたことを考えると、本條の民でないとも限らない。――そして、飛田の臣。他国にそそのかされたか、柳雅へ思うところがあるのか、内輪の人間が行動を起こさないとは断言できない。飛田は恨みを買いやすい。考えれば考えるほどそういった可能性が浮かんでくるのだから、柳雅自身が言う通り、どうでもいいことなのかもしれない。それから、もうひとつ。
 思いを巡らし、そうした理由で柳雅が狙われるのなら、数日後に到着する飛田の当主も、同様なのだと考える。
 紅巴は押し込められた白い室内、周りを駆け回る足音を聞きながら、戦の前の出来事を思い出していた。



 紺碧の空に、冴え冴えとした月の浮いた夜だった。
 ほぼ出陣前夜、とも言える日にも、飛田の当主は何を思ったのか、月見の酒に紅巴をつき合わせていた。
「お前を陣頭に立てると言った時の皆の顔を見たか」
 酒を手に、くつくつと笑いながら、目の前でおとなしく相伴している紅巴に言う。言われた方は笑みを返しながら、反対の声だらけでしたが、と静かに応えた。
「陣頭と言っても、実際には柳雅殿が率いていかれるわけですから」
「みすみす弟を、敵の前に立てて、殺すつもりかと言う意見も出たな」
 戦ともなれば、何が起きて誰が倒れるとも限らない。その混乱の中に、神宮の人間と共に飛田の人間から柳雅一人を行かせるとなれば、そう捉える者がいても不思議はないだろう。それだけの前科が、飛田の血にはある。
「いくらなんでもそれではあからさま過ぎると言うものだ」
 そのつもりだともそうでもないとも言わず、柳祥は笑っていた。
「そんなことをするくらいなら、軍陣の血祭りにしてしまえなどという輩もいたがな」
 出陣の際、勝利を願って行う儀式がある。簡素化されつつあるそれの中でも、昔から行われるのが、戦の前に捕虜を斬首する「血祭」という行為だった。首を晒し、軍神に供えたことにする。同時に、その血なまぐさい行為は、敵方への威嚇となる。――今回、敵となるのが神宮家でなくとも、その残忍な行為は確かに、本條への威嚇となるだろう。
 そのいかにも飛田家らしい、戦国らしい風習に自分自身が持ち出されているというのに、紅巴は穏やかな態度を変えない。それが、飛田の臣にとってはかえって気に障るものがあるのも、確かなようだった。
 常に追い詰められた状況にあるくせに、悠然と余裕を失わない態度は、相手を侮っているように、とられることもある。何かと紅巴に構う当主への不満も、そちらへ向かう。笠に着ていると思われることもあるだろう。
 それすらもやはり、紅巴の表情を変える事はなかったが。彼は笑みながら、残忍な言葉に応える。
「あなたご自身は、どうなのですか? わたしと二人でこうしているのも、臣のどなたもいい顔はしないでしょう」
「わたしのすることに口出しはさせない」
 余計なことを言うなと、その顔には書かれている。眉根を寄せて盃を煽ると、柳祥は空になった盃を物憂げに見る。
 紅巴が徳利を持ち上げると、彼は盃を差し出して紅巴のほうへ顔を向け、再び笑みを浮かべた。悪巧みを思いついたような顔だった。
「神宮の方からは何かと次男の名を聞くが、お前の方が、価値があるようにわたしには見える。神宮の人間は、皆目が悪いのか」
「わたしは脇腹ですし、あなたは弟を知らないからそうお思いになるだけです。体が強くないのだって、当主としては良いことじゃない」
「確かに、白蛇に来てからも何度か寝込んだな。おかげでこちらとしては随分と楽だったが」
 だが原因はそんなことじゃないだろう、と彼は言う。
「お前が、神宮の人間らしくない、というだけの話ではないのか? 神宮の人間は、体力自慢で能天気なのが血筋だろう?」
 家臣の多くが流紅の味方をするのは、あるいはそうなのかもしれない、と思った。紅巴が好んで表に立とうとしなかったのもあるかもしれないが。
「弟を憎んでいると言ったな」
「ええ」
「本心か?」
 念を押すような言葉に、紅巴は真意を窺って柳祥を見た。
「お疑いですか」
「情に厚い神宮の人間が、弟を殺せるのか」
 そう言ってから、ああ、と柳祥は何かに思い至ったかのように続ける。
「憎んでいるということは、すでに殺したいと思ったことがあるということかな」
 飛田の人らしいことを、楽しげに問う。
 紅巴は、酒に酔っていても雅やかに見える飛田の血筋の人を見ながら、神宮の人との違いを考えていた。そして問いかけに対して、不意をついて言葉が口から落ちた。
「――憎まないわけがない」
 神宮に属する人間に対してなら、絶対に言うことなど出来ないもの。思わずのものであっても口から零れ落ちることなどなかった言葉だ。それは、いつかも柳祥に対して言ったのとは違う。あのときのような、内面を繕ったでまかせではなかった。
 今はまったくそんなこともないが、小さな頃は、側室の子だということで、惨めな思いをしたこともある。流紅を恨んだこともある。まだほんの子供の頃のことだけども、ふとそんな頃のことが思い出されて、卑屈で惨めな自分のことばかりが浮かんでは消える。
 妬まないわけがなかった。正室を母に持ち、強い心と体を持って生まれ、誰もに望まれてそこにある弟を。
 ――実際に、殺してやりたいと思ったことなど、何度もある。
 何度も、あった。
 それは事実だ。
 ぽつりと応えた紅巴を興味深げに見て、飛田の当主は言う。
「そういうことだな」
 妙に納得した様子で、柳祥は唇を吊り上げて笑った。そういう表情をすると、柳雅とよく似ている。
 だがやはり、常に挑発的な柳雅に比べ、飛田の当主は、ある意味そういった前へ向く力が、彼よりも少ないように思えた。前へ向くというのはこの場合、あくまで内に向かってではなく、外部の人間に向かって、という程度のことだが。
「わたしは、身内のほうが怖いな」
 それは彼も、決して飛田の人間には見せない感情だろう。弱さを見せると、途端に食われる。
 しかしながらその言葉に、すべてが要約されているようだった。



 夜半になって紅巴が部屋に戻ると、暗い室内に人の姿があった。開いた障子の隙間からもれる光に照らされて、影が長く伸びている。
 束の間驚いて動きを止めた紅巴だったが、中にいる人物が誰か気がついて、すぐに力を抜いた。
「こんな夜更けにどうしたんだい」
 百合は立ち上がると、部屋に入った紅巴の方へ駆けてきて、そのまま抱きついた。
「ねえ、戦にお兄さまも連れて行かれるって、本当なの?」
 抱きついた顔を上げもせずに、くぐもった声で問い詰めた。顔は見えなかったが、その声と震える肩で、彼女が泣きじゃくっているのが分かる。少女を見ていると、別れたときの妹を思い出した。彼女も、別れ際に同じように泣いていた。切実さは、きっと百合の方が上だろう。肉親と離れ離れになる悲しみよりも、彼女の環境の苛酷さのほうが哀れだった。
 唐突に悲しくなった。戦になれば何が起きるか分からない。誰も命の保障をもたない。誰もが、自分の命も他人の命も保障なんてできない。兵法書の言うすべての条件を整えて戦に望んでも、必ず勝てるとは言えないのが戦だ。加えて、ただでさえ体の弱い紅巴が、冬の行軍に耐えられる保障はない。特に今回は、身を守られて陣頭にあった今までとは違い、助けてくれる人も守ってくれる人も、身を案じてくれる人すらいない。
 そして今回は、柳雅に折られた足のこともあった。傷は完治していたし、日常の生活には差し障りないが、骨を折った直後の手当てが十分でなかったためか、走るには支障がある。百合姫が心配しているのは、そのせいもあるだろう。
 もしかしたらもう会えないかもしれないと改めて思った。妹とも、こうしてここにいる少女とも。
「連れて行かれるというよりは、ぼくが望んで行くんだよ」
「どうしても行かないといけないの?」
「そうしないと、身の証をたてられない。ここで生き延びることもできなくなってしまうから」
 言わば賭けのようなものだった。ここで身の証を立てなければ、神宮の捕虜として殺される。戦に行けば何が起こるか分からないし、それを回避できず手に余った場合も、死ぬことになる。暗殺されないとも限らない。だけどもじっと座っているよりは、戦に行く方が、まだ生き延びられる可能性が高い。
「そうなの」
 宥めるような紅巴の声に対し、少女の声は、まだ不満と不安が色濃かった。そして、諦めが。
「戦になったら仕方がないんだ。大丈夫だよ。ぼくはともかく、柳祥殿は多分無事に帰ってくる」
「柳祥さまのことはいいの、別にわたし、心配なんてしないもの!」
 望んで政略結婚の道具になるのではないのだと、力を込めて少女は声を上げた。
 紅巴はただ、彼女の頭を優しくなでる。しばらく声もなく泣きじゃくる彼女の気が落ち着くまで、ずっとそうしていた。
 彼女の呼吸がおさまって、時々しゃくりあげるだけになったのを認めて、紅巴は少女にそっと声かける。
「百合姫、落ち着いて。座らないか?」
 少女はただ黙って首を横に振る。離れるのがいやだ、というようにしがみついてくるので、紅巴はそのまま無理矢理にならないよう、彼女を抱きかかえるようにして、床に腰を下ろした。それには少女も逆らわずに、素直に座り込む。
 追い返されないのをようやく認めて、彼女は少しだけ紅巴を離した。それから顔を上げて、泣き腫らした目を恥ずかしそうに袖でぬぐいながら、紅巴を見上げて、無理矢理のように笑う。
「ねえ、おにいさま。お話をして」
 いつも彼女とは、一緒に本を読んだり、たくさんの話しをしたりして過ごした。いつもそれをせがむ時と同じように、少女は懇願して言う。紅巴は微笑んでそれに応える。
「そうだね、何の話がいい?」
「桜花のお話も、ご家族のお話もたくさん聞いたもの。お兄様のお話がいい」
「ぼくのかい?」
 彼女の要望に応えたくて、いろいろなことを考えたが、思いつくことは家族のことと、彼らと桜花での思い出ばかりだった。
 自分自身のことはあまりにも小さなことで、口に出して語れるようなことは何もないような気がした。
「ぼくの、話か……」
 それから、みすみす妻を死なせてしまった愚かな男の話がふと思い浮かんだ。口をついて出そうになったそのことを、不思議に思いながらも喉の奥に押し戻す。ただの弱音だ。
 本当に、つまらないことしかない。つまらない人間だと思った。流紅なら、もっとたくさんのことを話して聞かせてあげられるのだろうけれど。
「あまり、お話になるようなことはないよ」
 申し訳なく思いながら紅巴が言うと、少女は少し暗い顔をした。残念、という様子とは違う。悲しい顔でうつむいてしまった。何かを考えるように黙り込んで、しばらくして再び顔を上げる。表情には、切羽詰ったようなものがあった。
「神宮の人たちは、戦に来るの?」
「多分ないと思う」
「敵になって戦うことはないのね?」
 確証などはない。紅巴が飛田の傘下に加わることで、どれだけの動揺が他国や神宮にあるのか、予測がつかなかった。しかしながら、念を押して尋ねてくるのに対し、再度事もなく頷いてみせると、彼女はほっとしたようだった。
 家に帰りたいと言っていた紅巴が、その家族と戦わなくていいのだということを、素直に喜んだ。
「もしおうちに帰れたら、お兄様は、神宮のご当主になれるの?」
 多分彼女は、それで幸せになれるのかと聞きたかったのだろう。勿論、飛田にいるよりはずっといいと分かっていても。
 神宮の当主に。それを望んだことがなかったかと言えば、それは嘘になる。だけど結局、ほしいとは思わなくなった。今も、それを望まない。
「ぼくは当主に向いていない」
「どうして?」
「自分のことしか、考えてないからね」
「そんなことないじゃない」
「本当なんだ。もし神宮家の誰もがいなくなって、ぼくにとってあの土地を守る意義を失ってしまったら、ぼくは多分もう何もしなくなるだろう。ぼくは、ぼくの大事なもののことしか考えていないから」
 柳祥は、紅巴のことを神宮の人間らしくないと言った。それは、こういうところにも当てはまるだろうと思う。
「流紅は結局、ぼくよりもずっと視野が広い。責任感も強い。ぼくが死んでも、父が死んでも、誰が死んでも、あの土地を守り続ける」
 その言葉は、まるで最初から死を覚悟することを覗かせているようで、百合姫は怒ったように言った。
「諦めているの?」
 帰ることをではない。――望みを。
 確かめる言葉に、紅巴は穏やかに笑みを返した。
「もうお手打ちになってもいいなんて、言わないって言ったろ?」
 瞳を見返して、百合は、小さく頷いた。それでも必死に紅巴の腕にすがって言い募る。
「ちゃんと帰ってきてね。ずっと一緒にいたいわ。もっとたくさんお話がしたい」
「うん」
 紅巴はただ頷く。それに怒ったように、駄々をこねるように少女は続けた。
「おにいさまがここにいられないなら、わたしも桜花に行きたいわ」
「うん、いつか、行きたいね」
「ちゃんと約束してくださらなきゃいやよ。わたし、このままご当主の正室になるのも、お兄さまに会えないのもいやだもの」
 彼女が自分のことを思って言ってくれているのなど、分かっている。できることなら、紅巴もそうしたいと思う。幼い彼女にとって、飛田の家にいるのは過酷なことにしか思えない。
 それとも、と彼女は言う。
「戦になったら、もしかしたら混乱に乗じて、逃げられるかもしれないわね」
 体力と機会さえあれば、できないことでもないだろう。そうだね、とただ静かに応えて、紅巴は続ける。
「もし無事に神宮へ帰ることができても、いつかあなたを奪いに戻ってくると、約束するよ」
 半ば言い聞かせるような言葉だった。口約束にもならない。紅巴がこの城から逃げ出すのすら、何度も失敗し果ては諦めざるを得なかったというのに。もし神宮家が飛田を降す日が来るとしても、それが一体どれだけ先の話になるか。
 それでも、本心だった。彼女を放り出していくことはできない。小さな姫君がしてくれたことは、それだけの危険を冒しても、と思えるほどのものだったから。
 しかしながら百合姫は、小さく言葉を落とす。
「戦に行かずに、一緒に逃げるって言わないのね」
 言うなりうつむいてしまった。
 彼女の沈んだ表情を、細い月明かりが照らしている。
 従妹だから当然だろう、彼女は柳雅とも柳祥ともどこか似た面立ちをしている。けれどもその優しい性格は相手に与える印象をまるで違うものにしていた。それは美しい月と同じようなものだ。同じものでもその表情で、冷たい冴えたところを見せるもの、温かな気持ちにしてくれるもの。
 ひとしずく、その頬に涙が落ちた。
「いいのよ。白蛇には戻ってこなくて」
 先程とは違うことを、彼女は言った。落ち着いた声で。
「お兄さま、大好きよ。絶対生き延びて。敵になったって構わないわ。それで百合を殺しにきてもかまわないから」
 生きていてくれればどこにいても、敵になっても構わないと。
 温かさの中に寂しさを持った少女は、可憐さの中にも、断固とした強さを持っていた。それはやはり彼女も、武家の女だからかもしれない。飛田の血を持つからかもしれない。ただの、意地なのかもしれない。そして何より最後に残るのは、優しさだった。
 紅巴は何も応えず、懐に収めていたものを取り出した。いつも身につけて持っていたもの。神宮から持ってきたもの。
「これを預かっていてくれないか」
 昔宮廷にあったという名器だった。どこから贈られたものだったか、神宮家に対して貢物として捧げられたものの中にあったそれを、父に頼んで譲ってもらった。紅巴が滅多になくわがままを言ったことにおもしろがりながら、どうせこれを生かせるのはお前だけだから、と笑って下げ渡してくれたもの。
 紅巴自身が、己のものとして持ち、財産と言えるのはこの笛と刀だけだった。刀は弟に渡した。またここで一つ、己の身を切り取って渡すように、自分の身を、心を明かすものを残していく。――他にもう、どうすることも思いつかなかった。彼女との絆は、これ一つに集約されるようなものだったから。
「次に会う時の約束に。また、ぼくの笛につきあってくれると嬉しい」
 百合は袖で涙を拭い、紅巴を見上げた。
「いいわ」
 確固とした声で応えると、紅巴の手から黒塗りの笛を受け取った。顔を上げて笑う。目元を赤く腫らして、それでも健気に笑う少女に、紅巴も笑みを返した。
 そして彼は小さな姫君を優しく抱き寄せる。細い少女の体はとてもか弱く、悲しくなった。その白い額に唇を寄せる。
「ありがとう。あなたのおかげで、白蛇での日々もとても楽しかった」
 白蛇に来て得たものがあるとすれば、彼女との小さな憩いの日だったと、思う。それはある意味、神宮にいるよりも和やかで、こころ静かに過ごせたときだった。
「お部屋にお戻り。小さな妹」
 別れの言葉をつぶやく。君の幸せを願ってるよ、と。声に出して言えばきっとまた怒るだろうから心の中で付け足して。


 その夜から、雪が降り出した。
 静謐な町に、音もなく雪が降り続けて、翌朝には薄く積もった。進軍を迷わせるほどのものではなかったが、多少の障害にはなるだろう。
 何より、城下を見下ろす眼前に広がるのは、この国の絶景のひとつとして語られる風景。桜花の桜と対比して語られる、白蛇の雪。しろく静かな町。
 冷徹といわれる主君からはあまり連想できないような、和やかで、けれどもやはり、厳しい風景だった。
 ――白壁の町が、ましろな雪に沈むのは。



 冬の寒気が、人々の間をすり抜けていく。季節が寂しく容赦ない空気に満ちていく中でも、町を行く人々は、首をすくめ、白い息を吐きながらも、懸命に己の手に抱えた仕事をこなしていた。
 そして、道先に品を並べ、商いを行う人々の声を潜り抜けるようにして、町中を進んでいく一行がある。少人数で、目立たないようにひっそりと、枯れ山の道を登り、桜花の城へと足を運ぶ。現れた人々を見て、門衛が慌てて人を呼びに走って行った。
 その間に竹寿と供の人間は、待合のための部屋に通されて、旅装を解き、身を改めている。衣服そのものは、桜花に入る前にきちんとした正装に着替えてあったから、襟を正し、帯を直した程度のものだったが。それだけでも、意識が引き締まる。
「おう、竹寿殿」
 けれども、ややあって彼らを案内するために訪れた人物に、つい苦笑してしまった。気軽な相手に、緊張した意識がほどけていくのが分かる。
「相変わらずだなおぬしは。気軽すぎる」
「ここは桜花で、神宮の城だ。別にいいだろう?」
 客人にまで説教じみたことを言われて、流紅は憤慨した様子を見せたが。
「何もわざわざおぬしが迎えに来ることもあるまいに」
 いくら相手が賓客だからと言って、次期当主がわざわざ迎えに出る必要はない。謁見のための間へ、彼らを案内する役目の人間が、きちんと別にいるはずだ。
「いいだろう、別に。友人を迎えに出たって」
「友人か」
「……なんだよ」
「いや」
 竹寿は小さく笑う。そんなに自分を買ってくれているとは思っていなかったので、つい聞き返してしまったのだが、流紅は気分を害したようだった。そんな竹寿を、流紅は口を曲げて見ていたが、小さく息を吐いて気を持ち直すようにしてから、改めて竹寿に向き直った。
「よく来たな。待っていた」
 人目を忍ぶから、石川家から神宮家へ向けての使者など送られていなかった。以前来た時に残した言葉があったとしても、明確に約束などしていなかったし、神宮当主は再来を言い残す竹寿に歓迎の意も見せなかったのだが。当然のように、流紅はそう言った。
 竹寿の知る流紅らしくもなく、少し硬い表情をしている相手を見て、竹寿は先程までとは違う笑みを浮かべてみせる。余所行き用の、対外用の笑みだ。少しばかり安堵が混ざっていたが。
「それは、ありがたい」
 流紅の言葉は、彼の肩の荷をだいぶ軽くした。ここまで足を運んだ用も、それで済んだようなものだった。
 流紅に連れられて、つい先日も通された謁見のための間に足を踏み入れる。上座に神宮の当主が座しているのは同じ。竹寿を残して、流紅がその脇に座るのも同じ。けれども、他に集った人間がいるのは、以前とまったく違った。武藤家の人間をはじめ、神宮家重臣の主だった人間がその部屋の真中を空け、両脇に別れ並んで座している。当然ながら、部屋に満ちた空気は重いなどというものではなかった。冷気も手伝って、圧力すら持っているようだった。
 人の割れ目である、真中に足を進め、少し段の上がる上座に座る神宮当主より低い場所の、真正面になる位置で腰を下ろす。
 急な訪問を迎えていただいて感謝する、という竹寿の言葉から始まり、形ばかりの挨拶を交わした後、用件を問われて、竹寿は顔を上げた。背筋を正し、壇上の神宮の主へ、朗々とした声で告げる。
「飛田の兵が、本條領内、蒲原の砦を包囲したのはご存知でしょうか」
「存じている」
「どうご覧になりますか」
 竹寿へ、神宮当主は少しいぶかしげな顔をしてみせる。答えの分かりきった問いだ。例え、戦とは何が起きるかわからないものとは言え、今回ばかりは先が見えているようなものだった。
「本條に何か勝算があって立て篭もっているなら話は別だが、現状では何もかもが時間の問題だな」
「本條は大人しく降ると思いますか」
「あちらの臣だって、黙って飛田に従う者ばかりでもないだろうし、本條殿はまだ若いから、いくらか無駄な抵抗もするだろう。簡単にとはいかないかもしれないが」
「それでは、単刀直入に申し上げます」
 珍しく簡単に問いに答えた神宮当主へ、竹寿は強く応じた。来訪の意すら不明瞭にしたまま、確実に何の用件も告げずに去った先日の来訪とは違い、彼は初めから、はっきりと言った。
「我々石川は、かねてより極秘に戦の準備を進めてまいりました。混乱に乗じて、本條領に奇襲をかける」
 あまりにも率直な言葉、わざわざ他国へ足を運んでもらして良いようなものでない情報に、神宮の臣たちがざわめいた。そう切り込んでくるものとは思っていても、こうまで簡単に言い放つとは思わない。
「それはまた」
 神宮当主は、小さく笑った。途端に、辺りが再び静まり返る。
「横からかすめとるおつもりか」
「漁夫の利です。もし成功するなら、回りへ目を向けなかった飛田が悪い」
「しかし今更、いくら本條が抵抗したところで、外からつけいるほどの隙が飛田に生まれるものでもないだろう」
「我が国の手の者を、本條の領内にまぎれさせています。ただでさえ、あの土地の民は荒んでしまっている。道中の飛田家を襲うようにそそのかすのは難しいことではありません。多少なりと、痛手を与えられます」
「民を餌にしたわけか」
「我々が動かなくとも、民が決起するのは時間の問題でしたでしょう。いずれにしても、目の前の騒乱が長引けば、本條の民だけでなく我が国の民の苦渋も続くと言うこと。我が国は小さい。手段を選んでなどおれません。一連の物事で痛みを被ったのは、石川も神宮も同じです。あの土地を飛田が抑えれば、今後もどうなるかは分かりません」
 それはつまり、先の戦の折に飛田家がした本條領の民への仕打ち、そのおかげで自分たちの被った害の大きさに、とうとう黙っていられなくなったと言うことなのだろう。腹に据えかねる、と。
 本音を露呈した石川の若者に、しかしながら神宮当主は、脇息に頬杖をついて、のんびりと言った。
「民にとっては、上に座る者が飛田であろうと、神宮であろうと関わりのないことだ。飛田家とて、敵国の民ならともかく、自国の民につらくあたるわけでもない。本條がおとされて飛田があの土地を治めるのなら、賊も鳴りを潜めようし、飢えて迷う者もいなくなるだろう。この騒ぎもおさまる。民にとって何よりも重要なのはそのことだ」
「しかし、それが民に分かるでしょうか。最初から、飛田家の厳しさはよく知られていたところに、先の戦です。飛田の行いは汚い、残忍だ、そればかりを先の戦の時に植えつけられているし、事実恨んでいる者はあまりにも多い。簡単に認識が変わるものでしょうか。もし飛田家が、大した労もなく本條家を下しても、民が大人しくしているとは思えません。逃げてくるか、決起するか」
「しかし神宮家は、自ら討って出たりなどしない。国を守るためだけに、戦をしてきた」
「ですが、このままでは、国を守ることすら危うい」
 ますます難民が増え、賊の被害が増える。奪われ人が傷つくよりは、最初から与え守る方が、同じだけのものを失うなら、ずっと楽だし、人心も安らかだろう。家の体裁に傷もつかない。
「勝算がないわけではありません。そうでなければ、押しかけてきたりなど、いたしませんから」
「なるほど」
 勝算とは、と尋ね返してはこない。それを聞くことは、同意することになるから。竹寿は、静かに続けた。
「真意を、尋ねたい方もおいででしょう」
 沈黙が、さらに重く降りた。――飛田家の陣頭に、名の挙がっている人。切り札のように持ち出してきた竹寿に対し、神宮当主は、初めて苦い顔をして見せた。
「神宮にとってあれは、そんなに痛みに見えるかな」
 対外的には、見捨てたことになっている人。飛田につくことを選んだのは当人だ。横から見ていれば、確実に、決別したように見えるのではないか。
 少し困ったような顔にも見える神宮の当主に対し、竹寿もここにきて初めて、虚勢ではない笑みを浮かべた。少し、安堵の混ざったようなもの。
「わたしはまだ、何もかもを割り切ることができる程、老成しているわけではありませんから。わたしが同じ立場であれば、まず真意を問いただしたいと思うだろうと、判断したまでですが」
「なるほど、竹寿殿には、流紅によくしてもらったのだったな。あれは神宮の策なのだと言いたかったのだが、無意味だろうな」
 くすくすと声をもらして笑う。
 神宮当主は当然、石川の地で流紅と竹寿がどのように過ごしていたのかなど知らないが、神宮にとって――流紅にとって、紅巴がどれだけの痛みであるかなど、簡単に察せられるだろう。
 二人のやりとりを、当主の傍らで見守っていた流紅へ、その顔を向ける。父親に、からかうような、おもしろがるような表情を向けられた流紅は、きょとんとして相手を見返した。それにまた笑い、神宮当主は再び竹寿へ顔を向ける。
「勝算があると言ったな」
 はい、と竹寿は強く応えた。
「陣頭には、神宮の方を」
 勝算、の説明になっていない言葉に、座していた神宮の臣たちが再びざわついた。当主をさしおいて、直接竹寿に真意を問う者はいなかったが。それには見向きもせず、竹寿は続ける。
「兵は石川が出します。本條の領土は、我々で手に入れる。蒲原の砦を落とし、本條の居城であった才郷の城も手に入れるために、すでに動いております。奇襲をかけて迅速に退くつもりですから、我々が飛田家に討ち入って、あちらの陣におられる方に迷惑をかけることもないでしょう。しかし軍を従える名に、神宮のものがほしい」
「……どういうことだ?」
 いぶかしげに問う声に、竹寿は再び背筋を正す。明るい声で唐突に言い出した。
「我が父は老いておりますが、遅くにようやく生まれた子が二人います。ひとりがわたし。もうひとりが、妹です」
「存じている」
「流紅殿には、まだ正式な室がいらっしゃらないとか」
 突然話に名があがって、流紅は驚いた顔を竹寿に向ける。それを真正面から受け止め、そして竹寿は続ける。
「側室であって構いません。次期ご当主に、我が妹を娶っていただくことで、不都合がおありでしたらおっしゃってください」
「政略結婚か」
 予想もしていたのだろう。神宮の当主の声は、さほど気負ったようなものではなかった。しかしながら、竹寿は肯定の声を上げない。
 政略結婚。――それだけではない。
「ずっと様子を見てきました。皆様ご存知でしょうが、この成り行きの結果を見て、どちらにつくか選ぶつもりでした。――しかしながらわたしは、ずっと思っていました。神宮と飛田にはさまれて、一人孤立するには、我が領土には力が足りない。そして民も臣も、飛田のやりようを快く受け入れはしないでしょう」
 一呼吸あけて、まるで言挙げの誓いのように、どこか誇らしげに竹寿は続ける。
「政略結婚で盟約を結んで、本條家の領土を手土産に、石川家は、血族をあげて神宮に下る。石川の領土も、名も、神宮の方にお預けする。その確約と証明として、陣頭に神宮の方の名がほしいのです」
 それは誰しもの予想を超えて、あまりにも、思い切った申し出だった。



 慌しく人が走っていく。馬に飛び乗って駆けていく者が多い。事の顛末を他に知られるわけには行かないから、これでも控えめで偽装などもしているのはわかるが、それでも普段よりも人の出入りが多いことは否めないだろう。唐突に。
 そして例え、城内がその動きを隠そうとしていても、やはり内に宿った空気は急に熱を帯びたようになった。
「前に竹寿殿が来た時から、戦の準備はしてあったんだ。父上は意地が悪いだけだよ」
 城内を、門の方へと連れ立って歩きながら流紅が言う。結局、神宮の将の動揺を抑えるには、すべては策なのだと主張するのが一番だった。その意味を含めて、参戦を請われて断るつもりはなかった。勿論、石川家がどれだけの確信をもって戦に臨むのか、それを確認するまでは、決断が下されていたわけではないが。
「だろうな」
 竹寿は、苦笑交じりに受けた。そうであってくれなくては困る、とつぶやく。その思いは半ばの確信と、残りには願いがこもっていたのだろう。結局竹寿も気づいたに違いないが、石川家の思惑通りに神宮の当主が動いていたのでなければ、知らせもなく神宮の城を尋ねた竹寿との会見に、臣があれだけ集っていた説明がつかない。
 竹寿は、滞在を勧める神宮に対し、急いで準備をしなくてはならないからと、折り返し領地へ帰るつもりだった。その彼を竹寿を門まで見送るとわざわざついてきた流紅に顔を向ける。神宮当主はともかく、と。
「何かわたしの申し出は気に食わなかったか?」
 弾かれたように竹寿の方へ向いた顔は、驚きの表情を浮かべていた。竹寿の肩越し、陽光の中にある、桜花城の中庭が見える。陽だまりの庭には生憎、花が見えない。
「いや」
 自分の反応に、相手の問いに、流紅は苦笑してみせる。
「父上が決めることだ。わたしが口をはさむことじゃない」
 事実だ。けれども夏の頃からの流れで、いよいよ近いうちに神宮の当主がその座を息子に譲り渡すつもりなのだということは、誰の目にも見て取れることだろう。代が替われば、当然多少は国内もぐらつく。しかし実際に、飛田にいる人とはもう関わりがないのだと証明するにはそれが一番の方法だった。そして、若々しい力は、邦民を、臣を鼓舞する力になるだろう。
 しかしながら流紅の声には生彩がない。自身でそれを悟って、流紅は更に眉間に皺を寄せて口を閉ざしてしまった。竹寿が笑みを浮かべた。
「政略結婚が気に食わないか。妹には、会ったことがなかったか?」
「城で世話になっているときに、何度か」
 のんびりとした、穏やかな少女だったと記憶している。竹寿同様、石川の前当主にとって遅くに生まれた姫君は、城の人間に大事に守られて育ち、時々苦笑してしまうくらいに無邪気な性格だった。確か、流紅より一つ年下になるはずだ。
 政略結婚が気に食わないなどというわけでない。最初から、そういうものだと分かっていた。竹寿の妹姫だってそうだろう。
「でも、気に食わないとかじゃなくて」
「何か障りでもあるのか?」
 竹寿は、更に小さく笑いをもらした。彼の全身を、これから始まる物事への責任に対する別の緊張が覆っている。けれども、神宮当主に会う前の緊張に包まれた様子とは違い、その笑みには親しみとからかうような響きがあった。
 言外に問われたことに、流紅は少し頬をふくらませる。
「石川家と、神宮家と、飛田家と、これにすべての命運がかかる。わたし個人の考えなんて、握りつぶすべきなんだろう?」
「うちにいた時には聞いたことのない言葉だな」
 竹寿の前で、兄を助けに行くと無茶をわめいたのを思い出す。
「わたしだって、少しは学習するんだ」
 憤慨して、ふん、と鼻息を吐いて言うと、意外にも笑いながら竹寿は同意してくれた。
「だろうな。前と顔つきが違う気がするよ」
「どう違う」
「ちょっと精悍になったな。ちゃんと色々悩んでるように見える」
 それなら、前はどれだけ脳天気だったと言うのだろう。笑い含みの声に、流紅はますます憤慨して口を閉ざした。それを見て竹寿はまた笑ったが、ふいに彼の表情から軽いものが消えた。笑みだけを残して、目には真摯な色を乗せて、流紅を見た。少し自嘲しているようにも見えた。
「政略結婚などと言うが。ただ服従の証に血縁をさしだす我が家の方が立場は弱い。さっきも言ったが、正室にしてやってくれと言っているわけではないぞ? もちろん、どうせならそうしてやってくれた方が兄としては安心だがな。気にかかることがあるのなら、無理にとは言わない」
「そういうわけには、いかないだろう。正室にと望みたい女が、身分低い場合は」
 流紅は顔をうつむけて小さく笑った。
 例えば武藤家など、神宮でも有力の家柄の娘なら、竹寿の言うことも通るだろう。だが勢力が劣るとは言え他国の領主の姫君を差し置いて、小さな武家の娘を正室に据えることは、どう考えても問題だった。竹寿が何を言おうとも、石川の家臣はいい印象を持たないだろう。そもそも石川にはこの話に反対している者も多いだろうに、これ以上、少しでも争いの種になるようなことは、避けるべきだ。
 分かっていたことだ。繰り返し思う。だから、自分から女性に目を向けないと決めていたのだ。なのに――結局、どうするつもりだったのだろう。
「それなら、わたしがこう言うのは何だが、側室に迎えてやればいいじゃないか。神宮の人間の側室だ、正室にはなれなくても、これ以上ない栄誉だろう」
 そうかもしれない。普通ならば。
 武家の結婚は、家同士の契約でしかありえない。嫁はただの人質で、間者で、子をなすための道具でしかない。――当主にとっての大きな仕事のひとつは、子孫を残すことだ。
 どちらにせよ、望んだ相手一人きりを、傍に置くことは不可能だった。
「わたしはまだ考えが甘いんだ」
 流紅はただ苦く笑う。前言撤回などしていない、と言われたことを思いだす。その通りだ。まだ優柔不断にも、あがこうとしている。
「できれば、自分の子どもにはわたしたちのような思いをさせたくない。だから、迎えるなら正室が一人でいい」
 兄がいなければと思ったことはない。父の側室である桔梗のかたは良い人で、早くに母を亡くした流紅と桃巳に対して、本当の母親のように気遣ってくれる。――でも、神宮家が神宮家としてある以上、絡んでくる問題は、あまりにも重過ぎた。
 例え腹違いでなくても、同じような問題は起こるのかもしれない。けれども、要因になりそうなものくらい、最初から避けて通りたい。
「わたしは、今はまだ他のことは言いたくない。兄上が帰ってくるなら、石川家と契約するのは、兄上でなければならないんだ」
 そして冷たい風を受けて、冬枯れた庭に目を向ける。
「今ならまだ、春に間に合う」
「今度の観桜宴か?」
 竹寿の言葉に、頷いた。賑やかで華やかで、そしてしめやかで儚い春の宴。思い浮かべて、そして苦笑する。
「自分が選びたくないから押し付けるのかなどとは言ってくれるなよ、さんざん言われてきてうんざりしているんだ。ただ兄上と話し合って決めるくらいはしたい。まだ可能性があるのなら、その前に決めてしまう必要はないと、思う。どうするべきか分かってる。でも今は、どうしたいか、のほうが強いんだ」
 ――帰ってくる。
 真意を問いたい相手。飛田に加担したという兄の真意を問う機会を用意すると石川が言うのなら――どんな手順を踏まなくても、戦場で接触することになるのは確実だろうから、助け出す機会はあるだろう。父が何を言おうとも、懸念することがあっても、やっと、そのために動き出せる。皆が動いてくれる。その事に、確かに気持ちが高揚した。そして話を詰めるうちに、現実に動き出す人々を見ているうちに、喜びが大きかった分不安も大きかった。
 またこの土地に彼が立つ。そこに至るまでの、間に横たわった物事を考えると、気が重くなる。この計画が飛田家に知れたら。神宮が動いていることで、紅巴が疑われたら。彼自身が拒んだら。そして、戦場で失敗したら。
 高揚するよりも、気持ちが沈んでいる。意味もなく鼓動がずきずきと痛んでいるのを感じて、柄にもないな、と自分で思った。緊張しているらしい。それとも、早鐘というよりは疼きに感じる鼓動は、恐れと焦りのあらわれかもしれない。
「紅巴殿のことを餌にしておいてなんだが、今おぬしを頭にまとまりかけている神宮の家をまたひっかきまわすことにならないか」
 黙りこくってしまった流紅に、遠慮がちに竹寿が言った。それは、人質の問題が出てきたときに、話題にのぼったことだ。――不在になった方が、当主になる権を失う。自然と人は、遠くの人よりも、留まってくれた人の方へと集う。その人が何か不始末をしでかしたら、遠くの人を思って「あの人なら」と嘆くのだとしても、目の前の手の届く範囲にいる人にすがる。
「――それでも」
「神宮の人間に、娘を差し出してくる相手は多いだろう? 家を守り立てていきたいと思うなら、たとえ当主を継ぐことがなくても、断ることなどできんだろうに」
「それでも」
 期待すればするだけ、叶わなかった時の落胆は大きい。だから、最悪の予想を常に用意しておくべきだと思う。でも、先の望みを浮かべる心を、止められない。
 わたしの願いはそんなにも、大それたものかと、問いたかった。竹寿にではない。父にでもない。ただ、誰かに。何かに。
 家族がいて、隣りにいてほしいと思う人がいて。ただ、笑って暮らしたいだけなのに。
 やるせない思いに捕らわれかけ、流紅は不意に笑った。奔放に歩き回って、きっと相変わらずの生活をしているだろう少女を思い出すと、なんだかおかしかった。また、馬鹿ね、と笑われてしまうような気がする。
「わたしがどれだけ悩んで状況をどうにかしたところで、相手に忘れられてるってこともあり得るけどな」
「なんだそれは」
「慌しい奴だからな。実際わたしのことをどう思っているのかもよく分からないし、当主の妻なんていやだと言いそうだからな」
 再び竹寿が、なんだそれは、と問うが、流紅はただ笑っている。
 もし石川の姫を側室にして、無理矢理にでも彼女を正室にすえることにでもすれば、惰性でないことは証明できるだろうか。でも例えできたとしても、心底怒られるだろうということは、想像に難くなかった。
 そしてもし兄が本当に無事に帰ってきて、紅巴が石川と取引をすることになって、それで迎えに行ったらどうやったら惰性などではないことを証明できるのだろう。
 そこに至るまでの道は、暗い。けれどもその先を考えることで、少しだけ気持ちが救われるような気がした。馬鹿馬鹿しく、ささやかな問題ですら、目標になってくれることを強く願った。



 石川家が前面に出て動くとは言え、流紅が前線に出て護衛がないわけにもいかず、そもそも参戦するのに護衛程度で済ませるわけにも行かず、結局神宮家も一軍を動かすことになる。慌しく戦へと向けて本格的に動き出した神宮家だったが、実際の準備は、竹寿に言った通りにずっと前から進めていた為と、迅速さが必要になる事態だった為、竹寿が去って幾日もしないうちに流紅も桜花を発つ事になった。飛田に察知される前に、夜通しかけて石川領内を通過し、戦場となっている場所に辿り着かなくてはならない。
 兵を動かすのは、本拠地桜花からではなく、国境近い場所からだった。桜花を発つのは流紅と目立たない護衛程度の兵なので、桜花の城の城門内に集う人々は、決して多くない。
 しかしながら国境近くにあたる土地を治める人間が、慌しく桜花に集まっている。指示を仰ぐためと、流紅を迎えに来たのだったが。
 門前に収集された人馬と荷の様子を見に来た流紅は、決して多くないその人々の中に知った顔を見つけて少し驚いた。
「どうした。お前も招集されたのか」
 慌しく走り回る人々の中、泰明は、どこか途方にくれたような顔で、その中に佇んでいた。
「あ、若君」
 泰明は、いつものように大慌てで膝をつこうとする。流紅はそれに笑いながら、いつものように彼を止めた。
「こんなところで礼などしたら皆の邪魔になる。お前はいつもそそっかしいなあ」
 彼らの横をすり抜けて、慌しく荷を担いだ人々が通り過ぎていく。門前に準備を整えつつある中に、地面に膝をつく人間など邪魔でしかない。
「……そうですか?」
「不服そうだな。わたしには言われたくないって言うんだろ」
「いえ……あの、そういうわけじゃなくて。いつもわたしが茜子に言っていることだったので」
 なるほど、それは複雑かもしれない。
「皆は元気か?」
「元気すぎて困るくらいですよ」
 流紅の言う、皆は、の言葉が主に茜子を指している事が分かっているのだろう。泰明はため息混じりに答える。
「実は、茜子に縁談が持ち上がったんですよ。……持ち上がったと言うか、わたしが武藤様に、なんとかいい縁がないかと泣きついたんですけど」
「……それは知らなかった」
 驚いて目を見開く流紅を横目に、再度深く息を吐いて、泰明が続けた。
「ばれないように、こっそり話を進めてたんですけど、それはもうあいつは勘がいいですからね。怒るわ暴れるわ数日行方をくらますわで、大騒ぎで手ひどく突っぱねまして。武藤様のお屋敷に殴りこむなんていうものだから、結局とりやめにしたんですけど。もう無茶苦茶ですよ、あいつは」
 実際にやりかねないから恐ろしい。槍や長刀の一つや二つ持ち込んで、玄関先で大立ち回りをするくらいはやらかしそうだった。知らず笑みがもれる。
「何か言っていたか」
「……何かって?」
「突っぱねた理由」
「理由なんて、必要ですか、あいつに。ただ単に、嫁いだりしたら今までのように行かなくなるのが嫌なだけですよ」
「そうか」
 少し不服に思って、流紅はそう一言返した。気づいているのかいないのか、泰明は肩を落としたまま力なく続けた。
「この土地で生きて死ぬのがいいんだ、なんて言ってましたけどね。できるわけないじゃないですか。いい年した娘が嫁の貰い手もなくて、わたしはもう頭が痛くて。このまま……」
 何かを言いさして、止まる。どこかぼんやりした顔で視線を宙に浮かべ、それから少し険しい表情になったので、流紅もさすがに驚いてしまった。お人好しで、振り回されてばかりで、心配ばかりしている泰明が見せたことのない顔だった。
「泰明は、いくら家の体面があるからって、茜子の意志を無視して無理矢理縁談をまとめてくるようなことはしないだろう。何か、あったのか?」
 問われて、初めて泰明は自分の表情に気づいたようだった。大慌てで、すみません、と言いながら動転している。流紅は冗談交じりにわざと少し渋い顔をして見せた。
「まさか、この戦にもついて来るって言ってるんじゃないだろうな」
「まさか、それはさすがに。今回はほとんど隠密行動ですし、大急ぎでの移動ですから、軍以外は動かさないものだと聞いていますし」
 大抵の戦は、茜子の言った通り飯炊きのための人手や、荷物を運ぶ小荷駄勢、さらに戦場へ物売りに来る商人がいる。さすがに、飛び入りになる今回はそれもない。
 多分、言い出しはしたのだろうなと思い、止めようとした泰明の苦労を思うと、悪いと思いながら少し笑みがうかぶ。
「あれから碌に礼も出来なくて申し訳ない」
「何をおっしゃいます。若君は、あちこち駆けまわったり、ご当主の補佐をなさったりと、お忙しかったのですから」
「そうは言っても、せめて家の方からでも何かできればいいんだが、わたしがお前のところにやっかいになっていたのなんて非公式だから、表立って何の礼もできなくて」
「そんなもの、必要ありませんってば」
「お前は、お人好しだよなあ。こういうことは、利用して出世しようとか考えそうなものなのに。わたしが領内を回っている間だって、娘を差し出そうっていう親は多かったし」
「わたしなんて、まったく若君のお役に立てませんでしたし、娘を差し出そうにも、差し出せるような気の利いた人間はいませんので」
 泰明は、茜子が流紅を逃がそうとしたことも、彼らの間にあったことも知らない。茜子がまだ何も言っていないのなら、知らないままのはずだったが。――もし、知っているのなら、もっと違う受け答えをしただろう。逆に、分かっているからこその言葉だとも受け取れるが。縁談の話を持ち出したのだって。
「若君」
 考え込んでいると、泰明が少し困ったような顔をして流紅を見ていた。呼ぶ声に応えて眼差しを向ける。すると彼は慌てた様子ですぐに目をそらした。
「いえ、なんでも」
「気になるじゃないか」
「すみません。でも、ええと……やめておきます」
 珍しく煮え切らない。周りの人間に振り回されているようではあったけれども、泰明は自分の主調はする人間だったはずだ。
 言いさした自分自身のせいで慌てた泰明は、かわりのように頭を下げて言った。
「ご武運を」
 戦に行く人間を見送る言葉には正しい。しかし、流紅は少し眉を上げて、泰明を見た。
「お前も戦に行くんだろうが」
「……ああ、そうでした」
「何ぼんやりしているんだ。大丈夫か?」
 萎縮しきった様子で、泰明はただ、すみません、と答える。



 先触れの人間が、渡殿を進んで回廊を曲がる。姿の消えた先、受け答えをする声が聞こえて、流紅は奇妙な感覚に捕らわれていた。父が、兄を見捨てると言ったのが、この渡殿だった。あの時の困惑と、怒りを思い出す。呼び起こしはするが、心の内は別のものに支配されたままだった。激情のままに走っている間はいい。
「ご武運をお祈りいたします」
 部屋に入り、勧められるままに腰をおろす。その部屋の主は、あくまで戦のためではないという体裁で、甲冑を着込まず旅装の流紅に、丁寧に言って深々と礼をした。
 当主の妻なのだから、着ているものが良質なのは当然なのだとしても、豪奢ではなく華美ではなく、たおやかな笑みでのみ身を飾るような人だった。穏やかで、けれども決して希薄ではない女性ひと
「有難う存じます」
 その微笑を直視できなくて、出立の挨拶に来ていた流紅は、ただ頭を下げる。そんな彼に、相手は優しい笑い声を小さくもらして、応えた。
「そんなに堅くなってしまわないで。石川の方も、万全に供えてらっしゃるのですし、何を思い悩むこともございませんわ」
「でも、今回の戦は、意義も大きいですから」
 目を伏せたまま、つぶやくように応える。しかし桔梗の方は、穏やかに言った。
「どうぞ、ご自分のことを、一番にお考えになってくださいまし」
「でも……!」
「それから、わたくしのことよりも、桃巳様のことを、気にかけて差し上げてくださいませ。お兄様を心配して、ずっと塞ぎこんでいらしたのですから」
 顔を上げて相手の笑みにぶつかり、それ以上何も言えなくなってしまった。この人は、本当に――父が言っていたように、紅巴と同じで、見かけによらず芯が強い。
 紅巴同様彼女も、側室だと言うことで、たくさんの諍いや蔑みを経験して乗り越えてきただろう。流紅が何を言っても、今更なのかもしれない。敵わない。口を閉ざすしかなかった。拒絶されているのではなくて、ただ本当に、彼女の中には断固としたものがあって、それと同時に流紅と桃巳を気遣ってくれているのが分かるから。
 流紅は桔梗に再び頭を下げて、腰を上げる。
「桃巳」
 呼びかけても、返事がなかった。桃巳は、部屋の隅に向かい、流紅に背を向けたまま膝を抱えて座り込んでいる。後に流紅が膝をついても、頑として振り向こうとしない。
「顔見せてくれないのか?」
 問いかけにも、やはり返答はない。
 妹は、当主の側室である桔梗の方の部屋に入り浸っていることが多くなった。以前からよく桔梗の方には懐いていたが、紅巴が戻らなくなってから、そして流紅が一度行方をくらましてから、どんどん頻繁になっていた。成す術もない状況で、身勝手な大人たちを見ているしかない彼女が、もしかしたら一番辛かったのかもしれないと、今更ながらに思う。誰よりも寂しかったのは、小さな妹かもしれない。
「すぐ帰ってくるから」
「兄さまもそう言ったわ」
 やっとの声は、怒りを含んでいた。息が詰まって、流紅はすぐに言葉を返せなかった。
 背を向けて座る少女の頭に手を乗せる。
「帰ってくるときは、兄上も一緒だ」
 撫でるように、とんとんと叩いてから、震える肩を抱き寄せた。桃巳は顔をくしゅくしゃにして壁を睨みながら、震える声で言った。
「流紅も帰ってこないなんてことになったらいやよ」
 口約束のいい加減さを攻める相手に、頬を寄せて、頷くことしかできなかった。



 出立のために、門前に集まった緒将がいる。内々の出立だから、大した人出があるわけではない。実際には国境を出るときに戦支度を整えるのだし、その後も昼夜を問わず移動をして本條の領を目指すのだから、賑々しく出立することはないだろう。だから実際には、ここ本拠地桜花を発つのが、戦のはじめなのだと言えるかもしれなかった。
 しかしながら、この先の明暗を分ける戦であると言うのに、戦の折には華美を好み、自らを目立たせることを好む武家には珍しく、とても地味で、ささやかなものだった。
 実際には、命運をかけた物事だって、そんなものなのかもしれないが。
「先の戦から、本條からの流民や賊に悩まされ続けてきた。よほどの痛みを被った者も多いだろう」
 流紅は、戦の大義名分を押し立てるために、前に立つ。本條から受けた屈辱を、飛田のもたらした戦災を思い起こして、人々は流紅を見る。期待を込めて。
 白く吐き出した息が震えているのが、もうどうしてかもわからない。大きく呼吸をしてから、再び口を開いた。
「諸悪の根源を絶つ」
 彼の放った一言に、威勢のいい歓声のような――喊声のような声が、沸き上がった。朔風にさらわれ、澄清の空に吸い込まれていく。枯れた山は、寂しく風を通わせ、逸り怯える心にも冷たく吹きつける。
 旅立ちには、あまりにも寂しい季節だった。