第一章 言触れの日


 香図音かずねは、日の出の光と雪の眩しさに、思わず目を閉じた。
 宮の中にずっと閉じこもっていたせいか、いつもよりも眩しく感じて、手のひらをかざして空を見上げた。いつ降ったものか、雪は積もっているもののとうに止んでいて、雪山の向こうを白い冬の陽が昇ろうとしている。その頬を、そよぐ風がそっとなでて、通り過ぎていった。新しい年の風は、いつもよりすがしく感じて、思わず笑みがうかぶ。
 年の末を迎える前から三日間、七つある宮の巫女たちは祈祷のために宮にこもる。昨年の終わりから巫女になったばかりの香図音も例外ではなかった。
 新しい年を迎えて、ようやく宮から外に出て、解放された囚人のような気分だ。雨の日だって雪が積もっていたって外に出ずにいられないのに、三日も暗い宮の奥にいたのだから。それから、雪の下で春を待ち、目覚めの時を迎えた春の新芽も、こんな気分だろうか、と考える。
 「ぼうっとせずに、みそぎへ行きなさい」
 彼女を追って宮を出てきた厳しい声に、香図音は思わず首をすくめた。
 香図音の祖母の姉にあたる声の主は、風の精霊と魔物に仕える風の宮の、巫女の頭となる人物である。風の宮の大巫女は代々『紫空の巫女』という称号を冠している。
 紫空の巫女君は、とにかく、説教臭いところが難だと、香図音はいつも思う。幼い頃に両親を亡くした香図音にとっては少ない肉親の一人であったが、苦手な人だった。いつもいつも宮にこもっているから、後ろ向きで偏屈なものの考え方しかできないんだわ、などという思いは口が避けても面と向かって言えないことだったが。
 その紫空の巫女が今日はめずらしく宮から出てきている。年にたった数度の珍しい日だった。祭りが始まるのだから。
 「はあい」と間延びした返事をしてから、逃げるようにして走り出す。裸足の指先に雪は冷たく、普通なら禊に向かう巫女が走ったりしないことを、彼女はすっかり忘れている。
 たどりついた禊ぎのための川には、香図音と同じましろな衣を着た少女がいる。たき火を熾していた茅穂ちほは、香図音を見てあきれた顔をしている。
「まあ、香図音さまったら、神事の最中さなかだというのにはしたないわ。知らないわよ」
 言われて、大巫女の憤慨した顔が思い浮かんだ。後でお説教が待っていることになりそうだった。もう悔やんでも仕方がないから、香図音はただ舌をぺろっと出して見せた。そんなことよりも今は、雪原を流れる小さな川の、そのいかにも寒々しい様子に気が向かう。
「やっぱり、入らないとだめ?」
「だめに決まっています」
 分かっていたことだが、きっぱりと否定されて、うんざりとせずにいられなかった。
「これだから、巫女の一族だなんていやなのよ」
「そんなこと言っていたら、罰があたります」
 風の宮の頭となる巫女の血を引く香図音と違い、茅穂は傍系で、香図音のように宮のために生涯を捧げることはない。初潮を迎えた娘が巫女となり、いずれ嫁ぐまでの間、宮の大巫女に仕えているだけだった。望めば続けることはできるけれど、跡取りの香図音のように神々の身近にいることはできない。入れ替われたらいいのにと、時々お互いに思う。
「恐れ多くも神々に名と顔を覚えていただけるなんて、名誉なことです」
 憤慨した茅穂はそう言うが、香図音は、そういうものは身分や立場とは別なのではないかと思っている。
「替われるものなら替わってあげたいわよ」
 香図音はつぶやきながら、それが茅穂に聞こえないよう、ざぶざぶと音をたてて水の中に脚を踏み込んだ。神事だと言うのに、相変わらずにその気構えのない態度に、後ろでため息が聞こえたが、もうそれどころではない。
 肌を切るような冷たさが裸足の指先を襲う。着ているものが肌に貼りついて冷たく重い。川の中ごろまで進み、胸まで水につかって両手を合わせ、噛み合わない歯の根の間から、懸命に祝詞をしぼりだした。
 指が寒さでかじかんで震えた。普段から忘れがちなものがますます頭から消えてしまいそうで、途切れそうになるのを小声でごまかした。とにかく口早に唱えて、体の芯から冷えて動けなくなる前に、早々に水からあがってしまう。何かもの言いたそうにしている茅穂を尻目に、両手を突き出した。
「着替えの衣、早くちょうだい。凍え死にしそう」
 有無を言わせぬ香図音の様子に、何を言っても無駄だと観念した少女は、すぐに真新しい衣を手渡した。人目のない場所でのこと、香図音はその場で着替えはじめてしまった。
 さっきまで身に着けていた、潔斎のための真っ白な衣装とは違い、香図音たち風の宮の長となる精霊たちへの挨拶に出向くための、正式なもの。装飾の多い衣装は一人では着られないので、茅穂は苦い顔をしながらも、帯を結ぶのを手伝った。髪を拭き、おろした髪に額飾りを結び、大袖の着物の上から頸珠くびたまをつけ、青や緑で織られた綾布あやぬのたすきをかける。
 茅穂は香図音が脱いだ衣の水を絞ると、無造作に火の中に放り込んだ。こうして衣を焼き払うことは、昨年から引きずっている汚れを祓う事に通じ、新たな気持ちで新年のお祝いをするのだ。
「禊ぎが終わったら、宮の御方様にご挨拶に行くのでしょう? 何しているんですか」
 衣を焼いている火に手をかざして暖まっている香図音に、呆れきって茅穂が言う。
「だって寒いんだもの」
 足元には雪が積もっている。氷のような川に入ったのだ。寒くないわけがないじゃないの、と思うのだが茅穂は容赦がない。
「わたしは構いませんけどね。すぐに巫女君がいらっしゃいますよ」
 紫空の巫女は高齢のため、川へ身を浸しての禊は免じられている。だが手や足を清め、衣を焼くためにここまで出向いてくる。そのために先刻宮から出ていたのを思い出し、香図音は反射でシャンと立ち上がった。
「行ってきますっ」
 言うが早いか、走り出している。


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