第一章 言触れの日


 人は、至高の存在を崇めて生きていた。
 都の外には、巫女たちの宮が七つあり、国中に散らばる数々の神社(かむやしろ)を束ねている。その宮から延びた道はそれぞれ都の七つの門に通じている。大門と大門の間には垣根が巡らされ、都の人々はそこで守られて暮らしていた。
 大門からさらに都のうちに通じる道は、都の中心、御真城(みまき)の本宮へと通じている。人を守り、または戒める者がそこに坐している。彼らの住処は宮にも御真城の本宮にもあるが、そのどちらに姿の見えないときにでも、彼らはそこに「坐す」とされていた。
 十四いるその存在のうち、七つは慈愛の精霊、残りは精霊と対を成す魔物。(くう)もしくは風、水、地、火、生命、植物、物質もしくは鉱物をつかさどるものたちで、八百万の神々を束ねる和御霊(にきみたま)の神と、荒御霊(あらみたま)の鬼神だ。
 精霊や魔物は、決して政は行わない。彼らはただ見守り、慈しみ、道をはずせば正すだけの存在だった。
 実際の政は宮の巫女に系する一族が、それぞれ協力して行っている。都の本宮を囲むように七つの大きな家が建っており、そこには巫女の一族が(きょ)を構えていて、本宮に詰めて政務を行っている。本宮には、巫女の一族の中から選ばれ巫女となった娘たちが、精霊たちの身の回りの世話をおこなうために仕えていた。
「巫女君、先駆けですか」
 物見櫓のついた大門の脇、見張りとして立っていた兵が、うやうやしく膝をついて香図音に言った。
「香図音様、おひとりですか?」
 もう一人の兵士が言葉を継ぐ。風の宮から一番近い門を守るのは、風の宮に属する兵士だ。香図音は彼らのことが分からなかったけれど、彼らが香図音のことを知っていても不思議はない。
「慣例ではないけれど、わたし一人で先へ行くように紫空の巫女に言われたの。別に大事というわけではないのよ」
 香図音は慌てて言う。通常ならば、潔斎を終えた巫女たちは、大巫女を筆頭に列を成して都に向かうもの。一人で駆けてきた香図音は、もしかしたら兵士たちに、何事かあったのかと思わせてしまったのかもしれなかった。
 けれど兵たちは頭を上げない。彼らがどうして香図音に対してそうふるまうのかに困惑した。香図音は宮の跡取りではあったが、今まで彼らが香図音に膝をつくような事などなかった。はしたないと怒られるばかりだった自分への態度に困惑して、思わず自分の身を見回してから、自分が今まとっている衣装が巫女の装束だと思い出した。巫女は人と神々の間に立つ特別な存在で、人々にとってはむしろ、神々の末席に属するようなものだった。
 香図音は白い息を幾度か吐いて、呼吸を整えてから、恭しく見えるように両手を握り合わせて言った。
「大晦日から新年の祭りに向けて、大事の時に警衛ご苦労様です。あなたがたにとって良き新年でありますように、祈念いたします」
「はっ。巫女君も、無事にお勤めを果たされますよう」
 香図音は、深々と頭を下げる彼らを後にして、都へと足を踏み入れる。
 そこには、雪をかき分けた道のわきに、人々が立っている。新年の祭りの準備に慌ただしいはずの人々が、大門に現れた香図音を目にして、動きを止めていた。香図音のために道を開け、彼らのまなざしは、香図音の一挙一動に注がれている。
 この日、巫女が宮から出てきて内裏の精霊たちに挨拶に向かうのは、神事の一環だった。香図音も昨年までは、巫女たちが都の大路を通るのを見て、わくわくと胸を踊らせた側だったものだ。巫女たちの先駆けとなった香図音の姿はまさしく、新年の訪れそのものだった。
 戸惑いはしたものの、香図音はすぐに背筋を伸ばして歩き出した。拝むようにして彼女を見守っている人々の前に出ると、緊張が体を走る。けれど同時に、巫女を見守っている側にいたときよりも、高揚感に胸が踊っていた。誰よりも自分が、新年を告げる使者であるとの思いは、緊張よりもむしろ、彼女をとても楽しませていた。


「おや」
 本宮には幾棟もの建物が連なり、風の精霊と魔物が坐すのは、特に東の殿だ。七つある大きな御殿のうち花信殿と呼ばれる建物の部屋には、すでに風の精霊と魔物が待っていた。広い板の間の向こう、二つの人影がある。
「お前、巫女になったのか?」
 床に手をついて挨拶をしようとした香図音の頭に、風の魔物は言った。いつも冷静な女性の声は、珍しく驚いている。
「そんなに驚かなくてもよろしいじゃありませんか」
 香図音は顔をあげ、心外だということを精一杯こめて、言葉を返した。その彼女に、風の魔物は唇をつりあげて薄く笑った。
 風の魔物は、黄金の髪を高く結い上げた女性だ。猛禽の鳥のようなその鋭い瞳は琥珀の色をしている。戦士のような凛々しさと、他者を寄せつけない空気を持つ彼女は、賑々しい新年の彩りの中にあってなお、鮮やかな凄みのある美しさを持っていた。
 襟だけを首に回して、背中と肩の大きくあいた、丈の短い真紅の着物を着ている。名を嵐紫(あらし)というが、魔物は表向きの仮名と、その存在の本質を表す真名(まな)と、二つを持っている。その真の名は伏せられていて、それを口にできるのは精霊と魔物と、彼らに特別に許された者だけであった。
 頬を膨らませた香図音に微笑んで、風の精霊の春風は声をかける。
「このお祭りの始めにあなたのお顔を拝見できて嬉しいよ。楽しい年になりそうだ」
 風に溶けるような銀色の髪を肩にたらし、空色の明るい色の瞳を持つ男性は、相手をなごやかにする口調でやんわりとそう言った。人が黒髪と黒い瞳を持つのとは違い、精霊も魔物も、彼らに仕える神々も、人ならぬ彼らは独特の色彩を持っている。
「香図音が巫女になったのなら、これからたくさんお顔を拝見できるね」
 その言葉に、香図音は微笑み返す。
「わたし、巫女になるつもりはありません。今回は紫空の巫女の言いつけでお祭に参加していますけれど、今だけです」
 仕えるべき精霊と魔物の前で言うべきでないことは香図音にも分かっている。けれど誰が何と言おうと、自分の家の血筋がどうであろうと、断固として嫌なものは嫌だった。都へ足を踏み入れた時の巫女にしか味わえない気持ちは、この際別のこと。それとこれとは話が違うのだ。
「巫女になるつもりもないのに、どうしてお前が、一族の者に先駆けて新年の挨拶に来る」
 呆れを含ませた声で、嵐紫は言う。物憂げに脇息にもたれて。
「紫空の巫女は頑固なんですもの。昨年ようやく初潮(月のもの)が来たと思ったら、私の言い分など聞きもしないで決めてしまったんです」
「ああ、巫女になったのだったな。お前いくつになった」
「年が明けましたから、数えで十七になります」
「もうそんな年か。お前はそういうところまで型破りだな」
 嵐紫の淡々とした声で言われて、香図音は頬をふくらませてみせる。他の者が相手なら失礼なと怒るところだが、相手は何と言っても魔物なのだ。気にかけて覚えていてもらえただけでも良しとしなければならない。そうでなくても、この魔物が人にこのような言葉をかけるのは珍しいことなのだから。
「どうして香図音は、巫女になりたくないんだ?」
 春風が穏やかな声音で割って入った。彼が優しい声で話すだけで、そこには草原の風が通ったような、暖かさに満ちる。
「だって、巫女になったら、恋ができませんもの。わたし、身を焦がすような恋をしてみたいんです」
「恋?」
「そうですわ。誰かのことを自分自身よりも一番に思って、自分も思ってもらえるなんて、幸せなことです。これだけいる人間の中で、唯一大切な相手に出会うのって、とても大変なことです。そんな相手に出会えたら素敵なことです」
 力説する香図音に、嵐紫は首をすくめると、唇の片端を持ち上げた。
「そうか」
 淡々とした声が返る。熱っぽく力を込めて語っていた香図音だったが、あっさりとした声にがっくりしてしまった。言い募りたかったが、赤い唇が笑みを浮かべているのを見て、気がそがれてしまう。この魔物が笑むことなど、そうないことだ。先ほどとは違い、穏やかな笑みなど。
「それはそうと」
 面食らってしまって、すっかり言葉をどこかへやってしまった香図音に、嵐紫は言う。
「門のあたりに、風の子の気配がする」
 その遠回しな謎かけのような物言いに戸惑う。そして、気がついた。風の子とは、紫空の巫女のことだろう。
 このままでは鉢合わせてしまう。何を長居して迷惑をかけているのかと、怒られるのが目に見えるようだった。宮にこもっていた間ずっと彼女の顔ばかり見ていたのだし、もうお説教の種は植えてしまっているし、せめて式典まで顔を合わせずにすませたかった。
 思うが早いか、香図音は居住まいを正し、両手を床について上座に座る二人の尊い相手に頭を下げた。こうなったら速く役目を終わらせて、一刻も速くここを立ち去らなくては。
「本年も無事祈祷を終えました。和御霊の風の御方、並びに荒御霊の風の御方に、新年のお慶びを申し上げます。どうぞ御身つつがなくお過ごしになり、健やかなる風をお贈りくださいますよう、お願い申し上げます」
 突然香図音の口から新年の挨拶の言葉が出て、春風は笑っている。普通の巫女が最初に言う言葉が、やっと出てきたわけだ。
「承知いたしました。人の子が息災に過ごせるよう、努力をおこたらぬとお約束しましょう。――香図音は、唯一の相手に出会えるといいね」
 春風が通例通りに言祝(ことほ)ぎを返し、それから香図音自身にも祝福の言葉をかけてくれた。
 至高の存在である精霊に新年の言祝ぎをもらえて、こんなに嬉しいことはない。顔を上げた香図音の声は弾んでいた。
「ありがとうございます」
 満面の笑みで言う彼女に、嵐紫も言葉をかける。
「お前は走り回りすぎて、怪我などないようにな」
 皮肉のように聞こえないこともないようなその言葉だったが、彼女なりの返礼だろう。
「ありがとうございます。気をつけます」
 どういう言葉にせよ、風の双頭からの言葉である。香図音は心から、深々と頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。あわただしくて申し訳ありません」
 まくしたてるように言ってから、香図音は大慌てで立ち上がった。至高の存在の前で、誰もがしないような態度ではあったが、その素直な慌てように再び上座の二人は笑った。
「そちらの回廊をまわると、鉢合わせてしまうよ。お庭に降りてお行きなさい。橘花(きっか)舎で風謡(ふよう)が待っていたよ」
「風謡が……っ? ありがとうございます。失礼します」
 口早に言ってから、香図音はなるべく走らない程度に大股で歩き、部屋を出た途端に全力で走り出した。裸足で冷たい庭土におり、そのまま向こうに見える棟の方に向かう。聞こえてくるその足音に、こらえきれないと言うように嵐紫は小さく笑い声をもらしていた。
 春風も嵐紫自身も、彼女もこんなに笑えるのだということを、不思議なことに改めて思ってしまった。それほどまでに、彼女の笑顔はめずらしいものなのだ。
「あれは、おもしろい娘だな」
 感心したとも言える声音で、嵐紫は言う。
「本当に」
 にこりと微笑んで、春風が応えた。
 人は普通、精霊や魔物の前に出ると萎縮してしまうものだ。精霊はともかく魔物は当然、他を圧する気質を持っていたし、近づいてあまり踏み込みすぎると害を及ぼされるような気になるのは、仕方がないことではあったが。
 香図音にはその気負いの片鱗(かけら)も見えなかった。決して馴れ馴れしくはなく、敬意をはらうが、畏怖して恐れるというわけではない。風のように爽やかな娘であった。
 なごやかな空気がその場を包んでいたところに、回廊を歩く足音が聞こえてくる。しばらくして二人の前に姿を見せたのは、紫空の巫女だった。
 香図音にとっては祖母も同然である彼女は、老練の巫女で、大きな威厳を持っている。背筋を伸ばし、毅然としているところにはこのお役目への誇りがうかがえた。目の前の精霊と魔物への対応にも年の数だけ慣れており、気負うことも畏怖することもなくなった彼女ではあったが、今日はその自信が少し傾いているようだった。部屋に入って座るなり、申し訳なさそうに深々と頭を下げる。
「清廉なる和御霊の風の御方様、精悍なる荒御霊の風の御方様に、謹んで新年のお慶びを申し上げます。あの……香図音は何か粗相を致しませんでしたか」
 遠慮がちな言葉に、嵐紫は言う。
「共に参内しなかったのは、そういう訳か」
 紫空の巫女が見張っていれば、普通ならばきっと大人しくしているのだろうが、香図音に限ってそうとは言い切れない。紫空の巫女自身も、精霊と魔物を前に香図音が何かやらかさないかとハラハラし続けるのは、身が持たないと判断したようだった。それだけならまだしも、目の前で本当に何かをされようものなら。
「慣例を破った上、不詳の跡継ぎで、誠に申し訳ございませぬ」
 恐縮しきって巫女は言うが、上座の神々は怒っている様子がなかった。いつもと変わらない穏やかな笑みで、春風が言う。
「いいえ、楽しいひとときを過ごせたよ。あの子は素直ないい子だね」
 思いもかけずに、ほめ言葉が返ってきて、紫空の巫女はめずらしくもきょとんとした顔をして、平伏したままだった頭をあげた。精霊の方を見ると、微笑みを向けられた。
「あれは、退屈しない娘だな」
 続けて言う嵐紫の声が、いつになく和やかで、さらに驚く。魔物の中でも特に孤高の存在である彼女が、たかが人間の娘一人に興味を示すなど。しかもこんなに和やかな彼女を見たことなどない。
 驚きのあまり、紫空の巫女はしばらく言葉が出ず、そのまま考え込んでしまった。上座の二人もこんな巫女は滅多に見られないことなので、おかしく思う。香図音がらみのそのことに、再び笑った。

押していただくだけでも恐悦至極