第一章 言触れの日


 本宮を出て都の外へと向かう。人々の往来は多く、特に新年の祭りのため、都へと入ってくる旅人が多い。誰もが新年の喜びに溢れていたし、明日の祭りを楽しみにしていた。
 道すがら、香図音は祈祷の時のことや、精霊たちに挨拶に行ったときのことを話していた。香図音が精霊たちに「巫女にはならない」と言ったのを聞いて、風謡は楽しそうに笑い出した。精霊や魔物を相手取ってそこまで言える者など、神々にもめずらしい。
「恋のお相手は誰なの?」
 都の外に出て、見晴らしのいい雪原に出た頃、風謡は笑いながら言った。その言葉に、香図音は顔を輝かせて言う。高揚と一緒に白い息がもれた。
「よく聞いてくれたわっ。もちろん、海の猛者よ」
 香図音が応えたのは名前ではなかったが、それでも誰のことを指すか知らない者などいない。特に彼女くらいの年の娘が、知らない者はないその存在(ひと)。香図音が上げたひとは、少女たちのあこがれの的だった。もし一夜(ひとよ)でもそばにいることができたら死んでもいいというのが、彼女たちの決まり文句でもある。
「まあ」
 それを聞いた風謡は、男性なら誰もがあこがれる「優しさの象徴」とされる女神であるのに、少し物憂げに眉を寄せた。
「あのような方に恋をするものではないわよ」
 風謡は硬い声で言った。誰が聞いていようものなら、その場で平手打ちでもされそうな言葉だった。風謡が神でなければ。
「何を言うの。あんなに素敵な方、他にいらっしゃらないわよ。……ねえ、風謡。あなた、あの方に妻問いされたんですって?」
「まあ、誰に聞いたの? もちろん、丁重にお断りしたわ。国中の女の子の目の(かたき)にされたくないもの」
「お断りする方がよほど目の敵にされると言うものよ。そんな理由だなんて」
「ねえ、香図音。あなた、誰に聞いたの?」
 ひとりで残念そうに首を振っている香図音に風謡は詰め寄るが、香図音は気にもとめていないようだった。一人で笑いながら、言う。
海神(わだつみ)もお気の毒に」
「そう思うだろう?」
 楽しそうに言った香図音の言葉を引き継いだ者があった。もちろん、風謡ではない。
振り返れば、いつの間にかそこには二頭の馬がいる。栗毛の馬にまたがっているのは、長身の青年だった。黒い毛の馬には、頭からすっぽりと布を被った小柄な人が二人、相乗りしている。
 長身の若者は、馬から降りると手綱を引いて歩き出した。海底にただよう藻草のような黒い髪を風に遊ばせながら、香図音たちの方に歩み寄ってくる。
「久しぶりだね、香図音。宮に十日もこもっていたと聞いたから、心配していたんだ」
 不敵に笑うその顔は、甘くはなくただ凛々しかった。端正というには気鋭が強く、研がれた刃のような鋭さを持っていた。けれども冷たさなどはなく、ただただ雄々しい風貌だった。
 少女たちに彼のどこがいいのかと聞けば、大抵の子は口をそろえて、その危険なところだと言うだろう。同時に彼は、女性には誰にでも平等に優しかった。そして水をつかさどる神々の中でも、最上位である綿津海――海神(わだつみ)でありながら、彼はとても気さくだった。
「まあ、気にかけていてくださったの?」
 香図音が顔を輝かせて言うと、彼は笑みを深めてから身をかがめ、目線が合うようにして言う。
「毎日外で走り回っている元気者の香図音が十日も宮にこもっていたりしたら、気が狂って倒れてしまうんじゃないかとね。それにそんなめずらしいことをされてしまっては、大雪になりかねない」
 冗談めかして言われて、香図音は少し頬をふくらませた。
「まあ、ひどいわ」
 彼女は憤慨して見せたが、その実、彼の言うとおりだと納得してしまう。それから不機嫌そうに顔を背けていた風謡までもが、隣りでくすくすと笑っているのに気がついた。怒ってやろうと彼女の方を向いた香図音だったが、その楽しそうな顔を見ていたら気がそがれてしまった。
(うた)いの姫君も、お元気そうで何より」
 綿津海はやっと笑みを浮かべた風謡に対して、うやうやしく言った。自分に向けられたその言葉に、風謡はすぐに笑顔を消してしまう。けれどもさすがに顔を背けたままでは上位の神に対して失礼なので、礼儀正しい彼女は綿津海に向き直る。それから礼の域を出ない丁寧さで言った。
「ありがとう存じます。綿津海にもお変わりなく」
「やだなあ。そんなに堅苦しくしなくても。それに綿津海じゃなくて、(ながれ)と」
 笑みを崩さずに彼はそう言った。気さくな彼は人にかしこまられるのも祀られるのも嫌いだったし、『流』と、まるで人間のように呼ばれるのを好んでいた。
「そうよ風謡ったら、そんなに冷たくしなくても」
 横から香図音が小突いたが、風謡は少し苦く笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。そんな風謡の態度にも気を害さずに、流は明るく言う。
「出かける前にお顔を見られて良かった。幸先がいい」
「お出かけになるんですか?」
 彼と連れの二人の出で立ちは旅支度には見えなかったが、それも当然というものだろう。人に見えても彼は神なのだから。仰々しく身支度をして出かける必要などない。それでも馬に乗って人間らしく出かけているところが、なんとも彼らしかった。
「お正月の祭に、正装なさった姿を拝見できないなんて、楽しみがなくなってしまうわ」
 明日は都に残った神々が祝賀のために都を練り歩く。いつもならば、流はもちろん参列する。その流の姿を一目見たくて、わざわざ遠くから駆けつける少女たちもいるという話を聞いたことがある。たとえわずかしか垣間見ることしかできなくても。
 驚きながらも残念そうに問いかけた香図音に、流は軽く応えた。
「俺も、香図音の晴れ姿が見られなくて残念だ。巫女の修行を始めたのなら、さぞ綺麗に正装するんだろうね」
「まあ」
 今日もとてもかわいいけれど、と言われた香図音は、嬉しそうに頬を染めた。綿津海は女性なら誰にでも等しく優しいことは誰もが皆知っていることだが、それでも憧れの人にこんな事を言われて、嬉しくならないわけがない。例え彼の思い人が隣りにいると知っていて、その上彼が本当に残念に思っているのは、風謡の晴れ姿を見ることが出来ないことだと知っていても、だ。
「今朝、西の海岸の方で、妖魔が出ると連絡がきた。新年であろうと明日が祭の日だろうとなんだろうと、妖魔は時を選んでくれないからな」
「近頃、多いですね」
 香図音は一変して沈んだ顔で言う。
 近頃は妖魔が出る、と言う話をよく聞く。妖魔とは人ではなく神でもなく、異形の者だ。この世ではない、常世に属する存在(もの)だとされていた。太古の昔、人がまだ存在しなかった頃、この地上には妖魔の存在は認められていなかった。人が増えると同時に、同じように黄泉からあふれてきている妖魔の被害の知らせも増えている。
 妖魔はただ残忍で人の血肉を求めた。妖魔が出るとの被害が届くたび、こうして討伐のための隊が派遣されている。それぞれの郷に必ずいる巫女が、神具を通して都に連絡をとり、それを受けた都の宮が一両日中に討伐の者を転移させる。
 土地神や、浮浪している神が始末をつけることもあったが、それよりも手立てが遅くなるとは言え、都に願い出た方がより確かなのだと言えた。同時に、土地の神にもしものことがあったらという、恐れもある。
 それぞれの宮の者の中で、戦うための力を持つ巫術師や戦士が派遣されるのが普通だった。特に戦士を養い、人を守るために有るのが火の宮で、多くは火の宮から討伐の戦士が出されることが多い。
「何も、海神自らお出ましにならなくとも、他にいくらでも手練れの方がいらっしゃるでしょう? しかも三人きりだなんて」
「宮の者は、明日の祭りで忙しいからな。大げさに軍を組むほどの事でもないさ」
 なんだかあべこべだ。神々が式典につどうもの、それに従うのが宮の者なのに、宮の者を気遣って神たる彼が使い走りのようなことをするなんて。香図音の思いを見透かしたかのように、流は続けた。
「それに海での災害なら、俺が出たほうが早い。それに、せっかくの活躍の場を誰かに譲ることもないだろう?」
 微塵も自分の心配をしていない彼は、自信に満ちあふれていた。それが過信ではないことを、香図音も風謡も知っている。
「お気をつけてくださいね」
 香図音が心からの言葉を言うと、流はいつもと変わらぬ不敵な笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 向けられた笑みに、香図音は憂いも不安も忘れた。これで今日一日嫌なことがあっても、あとで紫空の巫女にお説教されたって帳消しだと喜んでから、隣の風謡を小突く。
「ほら、風謡も。戦にお出かけになるんだから」
 恋とは別のことでしょうと言う香図音に、風謡は再び流に向き直ると、丁寧に頭を下げて言った。
「御武運をお祈りいたします」
「できれば、女神の祝福の口づけがあると嬉しい」
 顔を上げた先にある美貌に言われて、風謡は顔を真っ赤にしてしまった。怒っているのか恥じらっているのか、彼女が二の句を告げずにいるので、香図音がかわりに言った。
「せっかく一言もらったのだから、それで満足なさればよろしいのに。冗談も程々にしないと、挨拶もしてもらえなくなりますよ」
「うん。ごめん、冗談だ」
 清々しい笑いを響かせる流に、香図音は肩をすくめた。それからため息混じりに言う。
「風謡も、そんなに冷たくしなくてもいいと思うのよ」
 けれど彼女の言葉に、大きく息をついた風謡は、困った笑みを浮かべた。
「香図音には分からないと思うけれど、わたしたちは人間(ひと)のように自由ではないのよ。誰か一人に思いを傾けることは、そう簡単に許されることではないわ」
 そう言われてしまうと、そうなのかと納得してしまいそうになる。神の領域のこと、自分には分かるはずもないことだと思うが、その言葉を生真面目な風謡が言うと、いっそう説得力があった。彼女は誰にでも優しく、慈しんでくれる女神であったから。
「それは言い訳だぞ」
 けれどそれはいとも簡単に否定されてしまう。その声は、また別のところから聞こえた。流の少し後方、馬に乗ったままの連れの二人の方から。
 前に乗って手綱を握っている方の者が、頭の被り物を取って笑った。香図音と同じ年頃の少年の整った顔立ちはどこかで見たことがあると思ったが、すぐに名前が出てこない。これほどに端正な顔立ちの少年なんて一度見たら忘れるものではないのだけどと、思い悩む香図音の横で、風謡がハッとしたようだった。
「なんだ、俺の顔忘れたのか? 薄情だなあ」
 少年は心底残念だという様子でそう言うと、ひらりと馬を飛び降りた。雪の積もる大地に裸足の足をおろした時には、少年は先刻とはまるで風貌が違っていた。
 黒い色だった髪と瞳の色が変わっている。瞳は燃えるような真紅に、同じように髪の色も鮮やかな黄赤になっていた。膝までの丈の衣を着て、腕と脚に布をぐるぐると巻いただけの格好は軽装である。雪の中に立つにはあまりも寒々しかったが、彼からはそんな凍えなど感じなかった。
「まあ、火の御方(おんかた)様……! 人のふりをなさっておいでだから、分からなかったわ」
「そりゃ、あんたが鈍いからだ」
 驚く香図音に畳み込むようにして言ったのは、馬の後ろに相乗りしていた人物だった。被り物を取って見せた美貌に、香図音は再び驚く。横座りをしていたその少女も馬を降りると同時、瞬く間にその姿を変えた。まっすぐに伸びてやわらかくなびく、長い赤金の髪。冴え冴えとした大きな銀青の瞳。
 膝よりも短い丈の衣は、さらに太股の半ばまで切れ込みが入っていた。そして二の腕だけでなく肩までがむき出しになる着物。飾りになる帯だけが後ろで大きく結ばれている。先の少年よりも軽装過ぎるくらいの軽装だった。
 慌てて礼をとろうとした風謡を、花焔が軽く手を振って止めた。
花焔(かえん)さま、赫奪(かだ)さま、お二人お揃いで、どうなさったんですか?」
 香図音に楽しそうに笑んで、花焔と呼ばれた先の少年は言う。
「流に連れて行ってもらう。俺も妖魔ってのが気になってたんだ」
 火の精霊である花焔は、元気のあふれる明るい少年だった。その彼の言葉を引き継いで火の魔物である赫奪が言う。
「そう。花焔が行くならオレも行かないわけにはいかないし」
 少女のきりりとした眉は、気の強さを通り越して冷酷さをのぞかせていた。黙っていればただ愛らしく、氷のようでいて聡明な感じを受ける彼女であったが、口を開けば乱雑な口調がこぼれてきて、短気なところが見える。非情の炎が、彼女の象徴するところだった。
「かえって流には感謝してもらいたいくらいだな」
 なあ、と燃え盛るような深紅の瞳と、冴え冴えと燃える青の大きな瞳が見合されて、どちらともなく、くすくすと笑いだした。顔を見合わせて笑う火の精霊と魔物は、相対する存在同士でありながらとても仲が良かった。彼ら自身、お互いを親友だと言ってはばからず、それを否定する者などいない。
「でもわざわざ人の姿をなさって、その上そんな被り物をなさっているのだから、お忍びなんでしょう? 明日はお正月のお祭りがあるというのに」
 香図音に痛いところをつかれて、火の化身は一緒に肩をすくめた。
「意外と鋭いね、お嬢ちゃん。出来れば黙っていてほしいな」
「わたしが黙っていても、明日には大騒ぎになりますよ」
「もし大騒ぎになっても、明日には手の届かないところに行ってる。精霊や魔物の皆は承知のことだから、構わないさ」
 一体どういうことなのかと問い返そうとして、けれど花焔に先手をうたれてしまった。
「それで、話戻すけどな。風謡」
 話題がそれたと油断していた風謡は、突然声をけけられて驚いたようだった。それから失礼のない様に微笑みだけを返す。
「どうして流がだめなんだ? 俺は結構おすすめだぞ。それに世の女たちを見ると、泣いて喜びそうなものだがな」
「そうですよね! どうしてなのよ」
 香図音までがそう言って詰め寄ると、風謡はかえって頑なになってしまったようだった。
「わたくし、女性なら誰にでも態度を甘くするようなお方は、お慕い致しかねますわ」
 笑みは変わらないまでも、その口調は断固としたものだった。優しい女性の代名詞とまで言われ、娘が生まれればその親は「風謡のような女性に」と願うのが常のような世であったが、意外と知られていないのが、彼女はとても気が強いということだった。
「これは痛いな、流」
 花焔は申し訳なさそうに流を見たが、流は特に滅入っているようでもなさそうだった。
「女性を敬うのは当然のことだよ。何より謡いの姫君は特別なのに、お気づきいただけないとは寂しいな」
 天下無敵の笑顔でまったくめげもせずに言う流は、確かに稀代の女たらしだとも言えた。
「何はともあれ、女神の祝福もいただけたことだし、行きましょうか」
 流は風に顔を上げて後の二人にそう言い、馬にまたがった。もちろん異論のない火の化身の二人も、元のように頭から布を被り直し、馬に乗る。
「西の地まで随分ありましょう? そのまま馬で行かれるの?」
 心配そうな声を出す香図音に流は、簡単に応えてみせた。
「まさか。人間のふりで都を抜けてきたからね、このまま人目が無くなるまで馬で行って、そこから飛ぶ」
 飛ぶ、というのはつまり移動すると言うことだ。彼らは望む場所へ瞬く間に行くことができる。どうして都でその力を使わなかったのかと問いたかったが、きっと出かけるところを見られたくなかったからだろう。それに力を使えば、巫女や他の神々にも察することが出来る。お忍びだと言うからには、気づかれたくなかったに違いない。
「何が起こるか分からないから、君たちも気をつけて」
 戦に出向く人に言われる言葉ではなかったし、精霊や魔物の住まう都において何かなどあるわけがないと思ったが、気を向けてもらえて嬉しくないわけがない。香図音は素直に頷き、風謡もまた困ったような笑みを浮かべた。
 そうして綿津海は、笑顔を残して馬主を返し、火の化身二人と行ってしまった。
 香図音は雪原にその後ろ姿が見えなくなるまで見送り、大きくため息をついた。流と会話することができた幸運への喜びのため息と、彼の心配をするため息と、両方の意味で。
 そうして香図音は、(かたく)なな風謡を小突いてやろうと隣を見て。けれどそのまま何もできなかった。
 悲しげに柳眉を寄せて、風謡は綿津海の去った彼方を見ていた。ただ白い雪原が広がるばかりで、かの神の気配はもうない。切なげな瞳はもの言いたげで、けれども彼女は何の言葉もこぼさなかった。
「風謡、あなた……」
 かける言葉が見つからないまま声を出した香図音は、それ以上続けることができなかった。
 言葉を無くした香図音を振り返った風謡は、さきほどの表情をぬぐいさって、にこりとわらった。その笑顔にホッとした香図音に、今度は眉をつり上げて怒ったような顔をした。あまりに突然の変化に香図音は言葉が出ない。
「香図音あなた、どなたにあの話をうかがったの?」
 どうやら本当に怒っているらしい。たじたじとなった香図音が白状するまでもなく、風謡には分かっているようだったが。
「綿津海にうかがったのね。どうしてあの方は口が軽いのかしら」
「あら、口が軽いのとは違うわよ」
 気圧されたのもどこへやら、海神の名誉のために香図音は言い返す。
「わたしと風謡が親しいから、尋ねていらしたのよ。自分は本当に嫌われているんだろうかって、お気になさっていたんだから」
 すっかり居直ってしまった。風謡はそんな彼女を見て、それから綿津海の去ってしまった方を見て、小さく息をついた。思わず、というようなため息。
 それは春の女神と言うにふさわしい、何者をも許してしまうような、優しいものだった。  

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