第二章 西の不穏

 彼らの小さな背中が木陰に消えていくのを見送って、流は再び犬の声が聞こえる方へ顔を向ける。荒々しい気が駆けてくるのを待った。
 そちらから血の臭いがただよってくる。向かってくる気配は、血と苦しみを浴びて、猛っているようだった。気を昂ぶらせた者のたちの息づかいが近づいてくるのを待って――それよりも早く、こちらに向かってくる別の息づかいに気づく。昂揚した者の気配にまぎれていた、小さな生気だ。
 それは藪をかき分けて、流の前に姿を現した。恐怖にまみれたそれは、人の姿をしていた。泥と煤にまみれて顔がよく見えないが、華奢な手足は少女のものだ。
 転げるように駆けてきた少女は、冷たい刃のような寒風の中、腕を組んで悠然と立つ流を見て、驚きのあまり悲鳴をあげそうになった。けれど懸命に走ってきた彼女は息をするのがやっとのようで、白い息と細く声が漏れただけだった。脚は震え、荒い息に肩が激しく上下している。
「こっちだ!」
 彼女を追って、荒々しい声と獣の息づかいが迫ってくる。山狩りはどうやら少女を追っているようだ。
「おいで」
 泰然と笑みを浮かべて、流は少女に手を述べた。
 立ちすくんでいた少女が、驚きに更に目を見開く。差しのべられた逞しい手。後ろにせまる追っ手と、目の前の見たこともない人と。どうするべきなのか、困惑していた。後ろへはいけない。前へ行くのも恐いのなら、脇へそれて逃げればいいことだ。けれど彼女は目の前の人の手をとった。まるで誘われるように。
 流は少女の手を握ると、引き寄せて自分の後ろへと隠すようにした。
「大丈夫」
 言う流の言葉が終わるか否か、犬が吼えながら、少女が現れたのと同じ方向から飛び出してきた。けたたましい吼え声に、少女は流の背中に隠れ、身を縮めて震えている。けれど犬たちは流を認めた途端吼えるのを止めた。戸惑い、流を窺うように歩き回り、怯えるような鳴き声をもらした。猟犬は獲物に対して残虐だが、人に命じられてすることだ。彼らは強者を嗅ぎ取る。吠えるのをやめた犬に、流は微笑(わら)いながら手を伸ばす。
 そこに男が二人、藪を迂回して姿を現した。困ったようにうろうろしている犬と流と少女を見て、考える様子を見せたのは一瞬のこと。
「お前は何だ」
 厳しく誰何(すいか)の声がかけられる。緊迫した声と、容赦のない敵意の眼差しに、流は素直に手を引っ込めた。
 そこに誰がいようと彼らはそう問いかけただろうが、確かに流は不審でしかなかった。もはや着物とは呼べないようなぼろをまとった少女と、同じように泥にまみれてはいるが、血の臭いをまき散らしている追っ手と。この場にいる者は汚れた格好をしているのに、流は整った服装をしている。
 そして場に満ちた、冷たく堅い空気をまるで気にもしない流は、明らかに少女とも男たちとも違った。訓練された猟犬を怯えさせながらも、氷のような雰囲気を溶かしてしまう悠然とした態度。
「さあてね」
 一見してすぐに、自分が疑われるに足ると分かってはいても、流は余裕の笑みで応えた。
「ただの旅の者だけど」
「旅の者だと? どこから来た?」
「火の島から」
 流は平気な顔で、自分たちが来た都と正反対の場所を当てずっぽうに答える。
 亢奮していた男たちの空気がすうと冴えた。空を切る鋭い音と同時、鈍い光が翻る。おどけたような態度の流に、男たちは遠慮なく刃を突きつけていた。誰の物か知れない血糊で鈍く光る刀。流の後ろで少女が息を飲み込む音がした。少女は不審を忘れたように、流の着物をきつく握りしめて背にしがみつき、震えが大きくなる。
 男たちは口の端から白い息を吐いて、殺気の宿る目で流を見る。
「そんなわけがないだろう」
 ――なるほど。
 流は男たちに薄く笑んだ。流は喉元に剣先を突きつけられながら、少女の頭を落ち着けるように軽くなでて、のんびりと言った。
「ああ、間違えた。都からだ」
「都だと……!」
「ふざけるなよ」
 口々に言われ、流は肩をすくめてみせる。
「本当だ。俺は水の宮の者だ。この辺りの郷で妖魔が出るというので退治の要請を受けて、出向いてきた。宮から巫女へ渡りをつけようとしたが、応(いら)えがなかった。お前たちは知らないのか?」
 男たちは束の間、互いの意思を量るように顔を見合わせた。流が綿津海だということを隠して、ただの水の宮の派兵である、と主張している以外は本当のことなのだから、男たちも何か思い当たることがあったのかもしれない。
「何故嘘をついた」
「突然取り囲まれて、本当のことなんて怖くて言えないだろう」
 流はおどけた様子で両手を上げてみせる。手の内は全部見せたというように。ただし、まったく怖がってなどいない様子だった。男たちは緊張感のない流を睨みつけ、それから再びお互いに顔を見合わせてから、だいぶん躊躇しながら流の喉元から刀を引いた。けれど切っ先を下ろしはしない。
「ひとまずそういうことにしておいてやろう。だが信用はできん。お前が確かに妖魔の討伐に来たのだと言うのなら、その女をさし出して大人しく縄にかけられろ。巫女姫がお前の処遇を決める」
 ひどく警戒している。この者たちはそもそもなぜ山狩りをしていたのか、もし妖魔を警戒していたなら、なぜ少女を追いかけるのか。妖魔討伐を要請した郷の者なのか、彼らの言う巫女が郷の巫女なのか、あるいはまったく別のものなのか、分からない。もし郷の巫女ならば、何故宮へ応えないのか。ただ、外から来るものをひどく警戒しているのは分かる。そして本来ならば、彼らの事情を知らない流に、少女をかばい通す道理もない。
 男の言葉に、流は首をかしげた。おとなしく捕まり、彼らのことを探るべきか否か、考えたのはつかの間。
「いやだ」
 あまりに簡単に言い放つので、男たちが呆れと驚きで声を上げる。
「お前今の状況が分かっているのか!」
「だって、俺はいつでも女性の味方だから」
 あまりにも罪のない態度でにこりと笑みながらの言葉。
 虚をつく、とんでもない流の言葉に男たちは怒る前に拍子抜けした顔をした。風謡がこの場にいれば、きっと向こう一月(ひとつき)は彼に笑ってはくれなくなってしまうだろうが。
 ――火の御方二人のこともあるし。
 そう軽く心の中でつぶやいて、流は男たちの持っている刀のことなど何も懸念せず、優雅な仕草で一歩踏み出した。


「殺したの……?」
 何度も唾を飲み込み、恐る恐る問いかけた少女の声は、それでもかすれてしまっていた。地面には流に素手で伸(の)された男たちが倒れている。
「いや、生きてる。殺生は好まないからね」
 軽い調子で流が言って、しゃがみ込んだ。遠巻きに流の様子をうかがう猟犬に向かって笑顔で手を延べる。ずっと流にしがみついていた少女は、流が突然しゃがんでしまったので居所がなく、落ち着かなくなってしまった。後ろ手に指を組んだり外したりしながら、再び問いかけた。
「本当に都から来たの?」
「ああ、本当に妖魔退治に来た。要請があったのは、この先の郷(さと)だったな。君はそこの子?」
 流が差し出した手に、恐る恐るというように犬が寄ってくる。警戒していると言うよりは遠慮している様子だったが、近寄ってきた犬は、流の手の臭いをかいでいる。
「ええ……」
 彼の背中に答える少女の声は小さい。
「あなた、妖魔退治に来たのなら、術が使える? それって人にも利く?」
 猟犬は流の手に大人しく撫でられている。普通、猟犬は人になつかないものだ。迂闊に手を出せば、指や手を持って行かれたところで文句は言えない。主人をわきまえているし、誇りもある生き物だ。なのに。
 目の前の彼は、いとも簡単に猟犬を手懐けてしまった。それがとても不思議な光景に彼女には思えた。手懐けた、と言うことそのことだけでなく。獰猛な犬と、力強さにあふれていても粗野とは言えない流と、正反対な印象を与えるものが当たり前に一つの空間にいるのが不自然なようであり――とても自然だったのだ。
「術で退治してほしい人間がいるの?」
 追われていた彼女の事情を尋ねようともせず、流は犬を離して立ち上がった。改めて少女の方に向き直り、少女と目線が同じになるように屈んで。少女は流の優しい笑みに、心の荷が軽くなった気がして、ひどく泣きたくなっていた。追われていた恐怖も思いだして。
 大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
 ――大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫。
「お願い、わたしたちの郷を助けて!」


 とりあえず座って、と言う流に少女は大人しく従って、木の根に腰をおろした。向い合せになるよう地面に腰を下ろした流に、少女は言葉を詰まらせながら、語った。
 新年の祝いの今日、皆が喜びとともに目を覚ましたこの朝。突然、妖魔が現れたこと。そして海から大きな船がいくつも現れ、武装した人々に襲われたこと。近頃、人の間のいさかいも増えた。どこの郷も武具を備え、男たちは郷を守るために鍛えているが、現れたのは彼らに対抗しようのないほどの軍だった。
 そしていずれの郷にも、祀る神がある。普通ならばその神が、異変を知らせてくれるはずだったのに、それもなく唐突に敵は現れ、彼女たちの郷を制圧したのだと少女は言った。とるもとりあえず逃げ出したけれど、山狩りが始まって追い立てられてしまったと。
「父さんも母さんも、無事かわからないの。明日のお祭りは、郷の友だちみんなで一緒に祭りの歌舞を見る約束だったのに、みんなどうなったか分からない」
「……そうか」
「都に助けを出したのなら、蛇神様や巫女君は無事なのね」
「ああ、きっとそうだ」
 良かった、と少女は胸を撫でおろす。神や巫女が無事ならば、郷は思ったよりひどい自体にはなっていないかもしれない。
「どうかお願い、わたしの郷を助けて」
 再び少女は言う。流は姿勢を正して、結った髪に指をいれて頭をかくと、うん、とひとつつぶやいた。
「うん、分かった」
 流は、なぐさめるように少女の頭を撫でる。
「都からの使いとして、確かに請け負う」
 あっさり言うと、にこりと笑った。あまりにも簡単に言うけれど、確固たる自信がそこにある。承諾してもらえて嬉しいはずなのに、あまりにあっさりとした態度に、かえって少女は不安になってしまった。
「……いいの?」
「大丈夫、なんとかなるさ」
 そんな少女の複雑な思いに気づいてか気づかずか、流は空を見上げた。葉を落としてしまった冬の木の向こうに、太陽が見える。けれどもう陽は天頂を過ぎていた。朝に襲われたというのなら、彼女はかなりの時間を逃げおおせたのだろう。襲ってきた方も山狩りを始める余裕があると言うことは、もう郷は制圧されたと考えるべきだろう。
「それじゃ、行こうか」
「……え?」
 あまりに気負いがなく、唐突な流に少女は驚く。そして歩きだした背に、少女は急いで立ち上がる。彼は郷とは違う方向に向かっていたのだ。
「あの、そっちは違うわ」
「うん、分かってる。ちょっと、気になることがあるから」
「気になること?」
「そう。どうしても、それを確かめてからでないと、怒られそうだから」  寄り道をしている暇なんてない。急いで、と言おうとした少女だったが、その先は流の笑顔に封じられてしまったのだった。
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