第二章 西の不穏



「坊やたち、大丈夫かい?」
 突然後ろからしわがれた声をかけられて、花焔たちはやっと暗い室内を振り返った。人に扮した体は目が慣れるのに少しかかる。窓などは外から打ちつけられているのか、ほとんど明かりも入ってこない。人がたくさんいるのは分かるが、姿形が見えない。
 この郷に充満している淀んだ空気に加えて、ここには悲嘆が沈殿している。すすり泣きや、ため息に満ちている。
 花焔たちが声の主を探していると、脇から誰かが来てそっと手を引いてくれた。人々の中に混ざって座ると、また別の誰かが縄を解いてくれる。
「この郷の子じゃないね。巻き込まれたのかい? かわいそうに」
 最初の声が言った。彼らの目の前にいる老婆だった。
 ようやく慣れてきた目であたりを見回す。ここは集会などに使われる建物だろうか。ただ無機質に四角い広い部屋があるだけだった。女と子供ばかりが暗い建物に閉じ込められている。煤なのか泥なのか血なのかわからないが、誰もが汚れている。
「旅の途中で山を通りかかったときに、兵に出くわした。あんたたちは?」
「この郷の者だ。お前さんたちは、どこから来なすった」
 老婆は問いただす風ではなかったが、何かを悟っている様子ではあった。
「もしや、都から?」
「確かに東から来たが、それはどうかな」
 花焔は嘆息と一緒に答える。ただただ息苦しい。
 老婆は隣を見遣った。そこには三十路も半ばの女性がいて、もどかしそうに言った。
「私は身を偽って逃げることができたので、こうしてここにいますが、わたしはこの郷の巫女です。確かに転移してくる水の波動を感じました」
 巫女の装束ではなく村人と同じような服装をしているが、最初にここへ転移した時には流が力を使ったのを、彼女は水の波動と言い当てたのだから、巫女だというのも嘘ではないだろう。この郷が妖魔の討伐要請を出したのは『水の宮』だったから、当てずっぽうでそう言ったのかも知れないが。それを知っているということ自体が、彼女のある程度の身分を示してもいた。
 だが花焔たちは、誰に対しても気を許すわけにはいかなかった。罠かも知れないと、疑わないわけにいかない。
「はずれだ。俺たちはただの従者。水の宮の使者とは山ではぐれた」
  だが花焔は、少しだけ事実をずらして答えた。誤魔化しではあるが嘘ではない。彼の言葉に、その場に嘆息が満ちた。巫女だけがしっかりとした目で、花焔に言い募る。
「しかし、やはり妖魔討伐の方は派遣されたのですね」
「まあな。だが、この村はどうしたことだ。襲っているのは人間じゃないか」
「本当に、突然のことだったんです。最初は本当に妖魔が現れたのです。慌てて都に知らせを出したところ、彼らが現れて、一日で村を制圧しました」
 巫女の言うことに、言葉が出ない花焔に対し、老婆が言った。
「我々も常に備えはあるが、突然奴らが海から現れて、どうしようもなかった。抵抗しようとした男たちは容赦なく殺された」
 老婆が話すにつれて、周囲のすすり泣く声が高くなった。いらいらした様子で赫奪は頭をかきむしる。苛立ち混じりに舌打ちした。
 新年を迎えた真新しい朝。人々は日の出とともに起き出してきて働き始めるが、今日は祝いのために、明日は祭りのために仕事の手を休める。
 その浮足立った彼らを、妖魔が襲った。逃げ惑う人々の中、誰かが海上に見える船影に気がついた。漁村に船が見えたとて、さほど気にすることでもない。だが、それは船団だった。妖魔の騒ぎに紛れて進んできたものは、発見されたときには随分と陸に近かった。対処する間もなく、列をなして上陸する兵達の先頭に立った男が、高らかに声を上げる。「抵抗するな。抵抗しなければ何もしない。だが、抵抗する者には容赦はしない」と。侵略だ、とようやく人々はそこで気付く。男たちが抵抗し、そして殺されたのだと、老婆は語った。
「外の死体には女もいたな……逆らった者か」
 沈んでしまっている声に、赫奪は頭をかきむしっていた手を止めた。苛立つのをぱたりとやめて、人々など見向きもせず、なぐさめるように花焔の細い肩を抱く。
「オレたちが来る前のことだった。悔いても仕方ないぞ」
「分かってるよ。来たとこで何もしてやれない」
 精霊も魔物も、人の間のことには口を出さない。彼らは自然と同じ、ただそこにあるもので、見守るだけのものだ。何より彼らは今、目の前の小事に関わってはいけなかったから。
 巫女はそんな彼らを見ながら、力無く言った。
「ここより西はもうだめです」
「なんだそれ?」
 赫奪が不機嫌そうにきつめの眉をひそめる。
「彼らの会話を聞いたんです。どうやら、ここより西はもう、制圧されています。ここ数日間のうちに」
「なんだそれは!」
 先刻と同じ台詞を、赫奪は今度は怒りのこもった声で言った。彼女に変わって、落とした声で花焔がひとりごちる。
「尋常じゃないな、こんなに短期間でこんなにたくさんの郷を」
 ここ数日だなどと。尋常ではない。普通では考えられないことだ。
 こうも近づくまで都の自分たちが気づかなかったこと、そして気づかせないくらいの手早さ。そして、土地神たちはどうしてさせるままにしている。どうして黙っている――?
 人間たちだけの行動にしては、迅速すぎる。
 ――何か、誰かが、関わっているのか?
 そんなこと、思いたくなかったが、これは。
 ――だが、もしかしたら。
 もしかしたら、これが彼らの危惧した異変なのか。
 この郷だけならまだしも、それだけの短い期間で、たくさんの血が流されたとなれば。それだけの悲しみと憎しみと恨みが、大地に流れたのだとなれば。この大気にあふれてしまったのだとすれば。
 ――否、この程度の血ならば、人間たちの間で流されるようになって久しい。
 思いながらも、悲しかった。こんな事を考えなければならない事実が、彼の落胆を誘う。この程度で異変を感じるほど、世界が平穏だったら良かったのに。だったらきっと、問題はとても小さいだろうに。繰り広げられた殺戮を見て、この程度、と捕らえなければならない事実が、悲しい。
 ――血で大地を穢すなど。
 怒りに燃える者の言葉を思い出した。西の異変を調べるため旅立つ前、話し合う精霊と魔物の前で、大地の魔物は吐き捨てるように言った。
 考え込む花焔に気づき、赫奪がどうしたのかと不安そうにその顔を覗き込むが、それと同時、彼女の目の前で花焔が口元を抑えてうずくまる。その手が小刻みに震えている。
「おい、花焔、大丈夫か!」
 薄闇の中の花焔の青い顔を見て、自分まで青ざめながら赫奪がうわずった声を上げる。
「大丈夫だ、驚いただけだから」
 花焔は見えない者から守るようにして、彼を抱えるようにしている片割れの手を軽く叩いた。顔をあげて、巫女に問う。
「彼らは本当に人間だけだった?」
「いえ、特には……。ただ、異様に手際が良くて。まるでこの郷の事を知り尽くしているみたいに里長が真っ先に討たれて、郷のおやしろが狙われ、わたしたちも都へ連絡することも出来ず、ただなすがままで……。妖魔討伐の要請ができたのは、本当に運が良かった。他の者が身変わりになってくれなければ、わたしは殺されていました」
 巫女はため息をつきながらそう言った。どんな郷でも巫女はいるが、こういった小さな郷に巫女は多くない。彼女を逃がして身変わりになった者がいたから、兵達は安心しているのだろうか。残った彼女とて、都の宮の者ほどの霊力ちからはないはずだから、道具がなければ無力だ。都からの打診に応えることが出来なかったのも仕方がない。
「土地神はどうした」
「それが、数日前からお姿が見えないので……」
「新年祝賀のために、都へすでにお発ちなのかと思っておったのだが……」
 彼女たちは本当に途方にくれているようだった。何か助けを求めようにも、不可能だったのだ。もうどうしようもなかったのだ。
「――そんなに早くに、誰も土地神なんか来てねえぞ」
 赫奪が言った乱雑な言葉に、目の前の老婆が少し眉をひそめた。都の宮から派遣されてきた者とは言え、所詮は人間なのだ。神に対してそんな口を利いていいものではない――と、思っているのだろう。しかも彼らは、自分たちをただの従者だと言った。
「口に気をつけろ」
 花焔が苦笑する。その表情はやはり、堅い。
「大丈夫なのか。無理するなよ、なあ」
 花焔へ優しく声をかけてから、赫奪は八つ当たりのようにうなった。
「流は何してるんだ。さっさと助けに来ないか」
「流をあてにするのは、何か格好つかないなあ」
 先刻は流を心配した側だったのに、なんだか情けない。同時に、姿を見せない彼を心配もする。花焔たちが捕らわれていること以前に、どこにいるのかもきっと知らないだろうから、助けを期待するのが間違っているのだろうが。
 何はともあれ術を使わないのなら、無力な子どもに変わりない。日の光も見えない暗い建物で、傷ついた人々と一緒に、閉じ込められたまま、身動きとれなくなってしまった。
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