第三章 神祭かみまつ



 昨日積もっていた雪は解け、晴天に恵まれた。巫女たちの潔斎の明けた次の日には、本宮にて新年の神事が多く行われる。そしてそれとは別に、人の形をもたない神も人の形をとって着飾り、魔物と精霊の所へと挨拶に出向いてくる。
 本宮は多くのもので賑わっている。祭りのために本宮に来ていた香図音は、神々の様子を眺めながらすっかり興奮していた。自分の身支度などとっくに終わらせて、本宮をうろうろしている。
 彼女は昨日とは違って、白い衣装をまとっていた。色のあるのは帯と襷と額飾りだけの巫女の衣装だった。見る人に静穏な気持ちを抱かせるその着物も彼女が着ると、はつらつとした爽やかさを感じさせる。集っている見たこともない遠方の神々に挨拶してまわるのだが、向けられる驚きの目にも構っていない。本来なら巫女は、それぞれの宮の者が本宮で行う神事を取り仕切り、この後の神々の祝賀の行進に共をする、その準備をしなければならないのだが。
 目の端に光をとらえたような気がして、足を止めた。
 高欄こうらんにもたれかかり、庭に足を下ろして回廊に座っているひとが映る。その姿を見て、どうしてこんなところにいるのだろうと思いながら彼女は、いるはずのないひとに向かって歩き出した。
「こんなところで、どうかなさったんですか?」
 後ろにたどりついて、膝をついて屈みながら声をかける。言葉と一緒に白い息が浮かぶ。
「別にい。なんでもないけど」
 顔を仰向けて香図音を見るそのひとは、赤黒い蘇芳の色の髪をしていた。生命の魔物は、金の瞳を笑ませて言う。本来なら魔物は、精霊と一緒に神々を迎えるか、神事を行っているはずだ。
「君こそ、こんなとこでさぼっていいわけ? 準備とか祭事とか、あるんでしょ。確か巫女になったとか聞いたけど」
 耳の早いことだと香図音は思う。巫女にはならないと言っているのに、そのことよりも、彼女が巫女になったという話が彼らの中で飛び交っているようで、なんだか複雑な気持ちだった。
「巫女にはなりません。紫空の巫女もみんなも、わたしも手伝えと言いながら、かえって仕事増やしてるような目で見るから、逃げてきたんです。いてもいなくても怒られるなら、好きにします。風の宮での神事にはもちろん参加しますけれど」
「なるほど、納得」
 くすくす笑いながら邪生は、高蘭に腕を置いて、上に顔を乗せて、のんびりと言う。足をぷらぷらさせているその様子があまりに愛らしくて、香図音は文句を言う前につられて笑う。
 邪生はそのゆるく波うつ髪を結い上げて金の飾りでとめていた。色鮮やかに重ね着した上に、白に銀の糸で模様を織った着物を羽織り、髪の色にあわせた帯を身体の前で大きく蝶結びにして締めている。
 着飾ったそのひとは、本当に愛らしかった。外見は香図音よりも年上ではあったし、しどけない仕種には色香がただようけれど、愛らしいという言葉が一番似合う。少し意地の悪い発言をされても、その無邪気な笑顔を向けられてしまえば、なんでも許してしまいたくなる。性を持たない魔物は、不思議な魅力を備えている。
「あの……実はどなたかにうかがいたかったんですけど」
「なに」
 香図音がためらいがちに言っても、頓着もこだわりもなしに応じる。素っ気なさも感じさせるが、その仕草が相変わらずなので嫌な感じを受けない。
「火の御方のことなんですけど……」
「なに、なんか様子が変だった?」
 邪生は再び香図音に顔を向けてくすくす笑い出す。香図音は少し困ったが、それでも続けた。
「いえそう言うことではなくて」
「違うの?」
「実は昨日お出かけになる前にお会いしたので、今日はどうなさるのだろうと思って」
 火の宮の人々も訪れた神々も、騒いでいる様子はない。
「なあんだ。昨日あの子たちに会ったの? それは運が悪かったねえ」
「…………え?」
 くすくすと笑う彼の表情が、一変して毒気を含んだものになったのを見て、香図音はたじろいだ。魔物たちは、慈愛の精霊と違って底知れなさがある。
「あの子たちねえ、お忍びでお出かけなの。とおっても重要な使命を負ってたんだよね。魔物と精霊以外には秘密なわけ」
 紅の唇をつりあげるようにして、邪生はおっとりと笑う。遊ばせていた足を木の床にあげて肩膝を立て、高蘭に背をあずけながら香図音を振り返る。
 香図音は慌てて言った。
「西へ妖魔討伐に行くのだとおっしゃってましたが」
「そう、それがお忍びなの。困ったなあ」
 冗談だろう。昨日の花焔の様子は気軽で、いつもと変わらなかったし、そんな重要なことなら言うわけがない。彼が言うように魔物と精霊以外には知らされていないことなら、こんなところで香図音に話すわけがないのだから。けれど目の前の魔物の、残虐な表情。――そういえば、花焔も口外しないでくれと言っていなかったか。
「黙ってもらわないといけないなあ」
 邪生は小さく首をかしげながら床に片手をつき、舞の仕草のようにゆったりともう一つの腕を伸ばす。その白い手は、目を見開いて身動きできずにいる香図音の顔を掴もうとするかのように、目の前まで来ると――ひらひらとその目の前で揺れた。
「えぇっ?」
 香図音が思わず妙な声をもらし、邪生はそれを見て吹き出した。
「いったいなにっ? なんなんですか!」
 驚いた顔のまま何事か分からない香図音が大声を出しても、邪生は腹を抱えるようにして笑ったままだ。
「変な顔」
 からかわれていた。その事実よりもむしろ、邪生の言葉に腹を立てた頃。目の前の麗人は、笑いながら言った。
「あんたの言う通りだよ。綿津見についてお忍びで討伐に出かけたんだよ。妖魔の調査がしたいって。それで、あの子たちが居ないと騒ぎになるから、ぼくと清生が替わりに幻影つくってごまかしてるの」
「それじゃあ使命って……」
「やだなあ。信じてるの? 嘘に決まってるじゃないの。本当におかしな子だね」
 邪生はくすくすと笑う。ひっかきまわす彼の態度に香図音は怒りたかったが、ため息をついてしまった。彼の言動はまるで子どものようで、裏はどうあれ悪意は感じられなかった。悪意など、かの人は誰にだろうと興味がなくて、ただ何も感じていないだけかもしれないけれど。何より彼が楽しそうなので、まあいいかと思ってしまう。それにしてもうまくはぐらかされた気がする。
 邪生は急に嬉しそうに顔を上げた。何事だろうと辺りを見て、回廊の向こうから近づいてくるひとを見つける。そのひとは香図音が気がついたのを見て、ふんわりとした笑みを向けた。
 座ったままの邪生のそばで立ち止まる。膝に手をあててかがむと、透けるような虹色に輝く髪がさらさらと背を流れる。笑いを含んだ声でそっと声をかけた。
生命いのちの魔の御方おんかた
「清生」
「ちょっと目を離すとさぼるんだから。ぼくひとりにみんなの相手をさせるなんて、意地悪だね」
 慈愛そのものの微笑みを浮かべて、生命の精霊は言う。言葉はどうあれ、その声に責める調子はなかった。
 清生は邪生の髪の色と同じ着物を一番上に着ていた。純白の帯を締め、虹色の髪を邪生と同じ金の飾りで結い上げている。彼の着ている着物は暗い色でもあったので、香図音は純白な印象のある清生には似合わないような気もしたが、その反面彼をひきたてているようにも思った。そして逆の色合いの着物を着ている邪生と並んでいると、正反対の雰囲気もそろいの金の瞳もあいまって、一対の人形を見ているような気分になるのだ。
「寂しかった?」
「意地悪」
 くすくすと笑いながらささやきあう彼らは、本当に仲睦まじかった。命あるものの正と負とをあらわすこの二人が笑いあっているのを見ると、彼らがこうして幸せにしていられる限り、この世界は平穏でいられる気がする。
「みんなせっかく遥々来ているのに、君がいなくてがっかりしてるよ」
「しょうがないなあ」
 邪生は両手を伸べた。笑いながらも、清生は邪生の肩に手を回して抱き起こす。
「じゃあね。あの子たちに会ったら、挨拶でもしてみて」
 清生にしがみついたまま邪生が言い、隣りで清生がおっとりと笑う。彼がそうすると、邪生とは全く違う空気が辺りに満ちた。香図音は膝をついた姿勢のまま、無意識のうちに微笑み返していた。
 彼らが去ってから、ふと気がつくとなんだか煙にまかれたように釈然としないものは残るものの、まあいっか、と思う。
 
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