第三章 神祭かみまつ



「あ、香図音」
 後ろから嬉しそうな声をかけられた。けれど、かけられた声音とは反対に、香図音は嬉しくない。
「なあに、あなたこんなところうろうろして」
 ちょっと眉を持ち上げて、嫌そうな顔を隠しもしないで香図音は立ち上がり、振り返ると、少年が駆け寄ってきたところだった。
「あれ、聞いてなかった? 俺も今年からお祭りに参加するんだ」
 白い息を吐いて、頬を紅潮させてにこりと笑うその顔が、少女のようにあまりにも可愛らしくて、香図音は嫌な気分が増していた。そのままにべもなく言う。
「嘘おっしゃい」
「嘘じゃないって。香図音も今年からだろ? 同い年の俺が遅れをとるのは格好がつかないからって、宮の連中がはりあっちゃって。俺はどうでもいいんだけどなあ」
 満智晴みちはるは、火の宮の大巫女の兄の子にあたる。立場は香図音と近い上に、年も同じと来ている。おかげで比べられることが多かった。
 そんなこと満智晴はまったく気にしていなかったし、昔は香図音も気にしていなかった。満智晴は香図音になついていたし、よく一緒に遊んでいたのだが、香図音は最近どうにもおもしろくないと思っている。自分よりよほど乙女らしくおっとりしたところと、愛らしい彼の顔立ちを引き合いに出されてからかわれることが一番嫌だった。
 もしかしたら、彼は彼なりに女の子めいているところを気にしているのかもしれないが。それをまわりに感じさせない、のんびりとした性格をしていた。決して感情を表に出して、人々を鬱々とした気分にさせることがない。
 なにより彼は男なので宮の跡を継ぐ責務を持たない。それが香図音にはうらやましかった。男でも宮の巫女の直系となるとその霊力が強いことが多いので、妖魔の討伐のために派遣されたりすることも多く、そのために修行させられるあたりは大して変わりがないようにも思えるが、自由に恋をすることができるのは、やっぱり大きな違いなのだと香図音は思う。とは言え、より純血の者を残すために、直系であればあるほど相手を選ばせてはもらえないものであると言うことを、香図音は昔から失念したままだ。
 そして彼が今年から祭りに参加すると言うことは、今年から戦士としての活動をすると言うことだ。妖魔討伐に発った流と同じように、戦いに赴く。それは神である彼とは違い、人にとっては命がけの戦いだった。それに巫女とは違い、幼い頃からずっと厳しい修行をさせられている。巫女も幼い頃から節制を強いられるものだが、初潮を迎えないことには一人前に見られないので、そこが根本的な違いだ。
 そんなところも香図音は当然忘れていた。
「香図音、すごくかわいいよ。びっくりしちゃった」
 満智晴は頬を少し紅潮させながら言う。そんなところが微笑ましいくらいで、例えほめられても香図音はますますいい気持ちがしなかった。同じようなものをまとっている彼の方が、余程似合っていて余程かわいい。戦士である彼は腰に剣太刀を帯びてはいるが。
「お世辞言わなくていいわよ」
「お世辞じゃないよ」
 満智晴は慌てているが、彼女はそれも気に入らない。満智晴が男らしくないから歯がゆくて仕方ない。そう、綿津海のように男らしくてかっこいい人がいい。
「嘘じゃないよ。本当にかわいい。……ねえ、香図音、怒ってる?」
 不安そうに呼びかけてくる満智晴に、眉をつり上げて文句を言おうとした。
「香図音!」
 聞き慣れた声で呼ばれて、香図音はそれをやめた。
「ああ、風謡」
 途端に怒るのを忘れて、香図音は風謡に笑みを向ける。彼女は満智晴の後ろの回廊の奥で手を振っていた。
 駆けてきた彼女はいつもと変わらない笑顔だったが、いつもの黒い髪と黒い瞳ではない。銀の髪に、人では持ち得ない桜に近い淡い色合いの瞳をしている。そしてその背中には、白い羽があった。彼女は巫女たちと同じような白い衣装を着ている。淡く薄紅の文様を織り込んだ衣装は、彼女のあたたかで清廉な雰囲気によく似合った。
「わあ、風謡、やっぱりきれいだわぁ。これを見られないとは、綿津海も残念なことをなさったわねえ」
 しみじみと香図音は言う。その言葉に少し笑ってから、風謡は香図音の隣りに立つ少年に声をかけた。
「満智晴、久しぶりね。素敵よ、よく似合うわ」
「そんな……俺なんて全然。風謡さんもおきれいです」
 彼は少し頬を染めて恥じらう乙女のような表情を見せてから、のんびりと言葉を返す。
「それに俺、この剣太刀が重くて重くて、もう。苦手だなあこういうの」
 まったく辟易した調子で彼は続ける。少し眉を寄せて困った顔の満智晴に、イライラしながら香図音は言う。
「戦士のくせに何言っているの。それに、太刀を邪魔にするなんて、失礼だわ。神罰が下るわよ」
 太刀は神聖な神具だった。邪を「断ち」滅ぼすものだからだ。それでも普通の武器なら、妖魔などのこの世ならざる者には効かないもの。だから宮の巫術士は特別に霊力を込めたものを持っている。しかも宮の巫女直系に当たる彼の持っているものは、普通の巫術士などよりも特別製だ。
 それぞれの宮は役割をもつ。香図音の属する風の宮は主に祭事を執り行い、満智晴の火の宮は戦士の宮だ。どの宮にも宮を守るためと派遣のための兵があるけれど、火の宮はその筆頭だ。都や人を守るための役目を担い、また悪事を取り締まる役目も担う。他の宮よりよほど戦いに出る機会が多い。
「あなた、今年から大丈夫なの? そんなんじゃ、あっと言う間に妖魔にやられちゃうわよ。ちゃんと太刀扱える?」
「うん、まあ少しは。でも戦うのって苦手だなあ。稽古だって、何が起こってるか全然わかんないうちに終わっちゃうんだ」
「何言ってるの。ちゃんとしなさいよもう」
 香図音が腰に手をあてて言ったところで、突然風謡が笑い出した。目に涙もためてお腹を抱えるようにして笑う風謡に、香図音はぽかんとしている。満智晴は何が起こっているか分からないようだったけれど、にこりと笑った。
「どうしたの、風謡」
「だって、香図音おかしいんだもの」
 何がおかしいのか香図音はやはり分からない。頬を膨らませる彼女に風謡は言った。
「紫空の巫女君が、探していたわよ。そろそろ祝賀の行進が始まる頃だから」
 その言葉に香図音は一変して顔を輝かせる。にこりと、笑ったときだった。


 すうっ、ととてつもない冷気が流れてきたような感覚が三人を襲った。寒風ふく季節であっても、晴天に恵まれたこの日には、唐突なものだった。身体の奥の血が、一瞬で凍ってしまったような、刹那で直前までの感情をすべてぬぐい去るようなもの。
 瞬きするほどのわずかな時間すぐ身近で感じて、風謡と満智晴は思わず目を見合わせる。そして二人が感じたのなら同じように感じて当然の香図音の視線が彼らと交わらないのを、不思議に思う。風謡が香図音の顔を覗き込むようにして、声をかける。
「香図音?」
 少し前まで笑っていたはずの香図音は、表情をなくしていた。瞳は何の意志も浮かべずに見開かれていて、黒い深淵と化していた。
 風謡は驚いて、慌てて香図音の両肩を掴もうとした。けれど風謡の手が香図音の肩に触れる前に、その唇がまるで操られているような不自然さで開く。思わず止まってしまった風謡を尻目に、息をはくようにして声がもれ出てきた。
「――来る」
 溌剌とした香図音が、こんなに淡々とした暗い声を出せるのだということを、誰が想像できただろうか。あまりにも感情のない、抑揚のない声だった。
「絶望が来る」
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