第三章 神祭かみまつ


 賑わう本宮の奥では、宮の者が神祭りを行っている。
 水の宮には近くの山から流れる川があるが、それを宮の者が源流までたどり、水を汲んでくる。その若水を、水の精霊と魔物に捧げる儀式がはじまりで、水は命の源であり、その年の無病息災を祈るものだ。
 手をつないだままで清生と邪生がその様子を見に来た時には、若水を奉納する神事は終わっていたようで、水の魔物の姿はすでになく、水の精霊だけが、謁見の広場をたたえた建物に座していた。青みのある銀の長い髪を肩におろし、瑠璃の瞳をしている。彼もまた、席を辞そうとしているところだった。清生たちを見つけると、ただ微笑んで、それからすぐに姿を消した。
 すでに広場では、若水は地の宮、植物の宮の者へと渡され、冷たい土の上に巫女が裸足で立ち、次の神事を行おうとしている。手に小竹葉ささばを持ち、領巾ひれをひるがえしながら巫女が地を踏みならして舞い歌い、宮の者が鍬で地を耕すようにしてその後を舞う。その年の豊作を願うものだ。
 地の宮と植物の宮の者が神事を行うのを、それぞれの精霊と魔物が見守っている。
 清生が邪魔にならぬようにと邪生を言い聞かせ、精霊たちの後ろからそっと様子を見ていた。神事が終わり、精霊たちが寿ぎ宮の者たちが去るや否や、植物の精霊が振り返った。
 常盤色の長い髪が、ふわふわと白い顔を彩っている。その髪には、蔓草を巻きつけた白い木綿の飾り帯を、南天の赤い実がたくさん彩り、椿の濃い緑の葉が鳥の飾り羽のようにつけられた冠をかぶっている。巫女たちが丹念に作ったであろうその冠の赤い実は、白い肌と緑の髪によく映える。
「清生!」
 大きな菫色の瞳を瞬かせてから、植物の精霊・青葉あおばは、桜の色の衣服の裾を蹴りあげ、駆けてきた。南天の実と同じ赤い帯がまぶしい。邪生の手を離して、清生は抱きついてきた少女を受け止める。
「具合はいいの? ずっと気分悪そうだったけれど」
 心配そうな声に、清生はなるべく明るく応える。
「うん、平気だよ」
 頬をくすぐる柔らかな髪に、清生はくすくすと笑う。
「それに今日は祭だからね。せっかく神も人も遠くからやってくるのだもの、楽しまなくちゃ」
 清生の言葉に、良かった、と少女は嬉しそうに笑った。
「花焔たちが西の異変を見つけて、不調の原因も探してくれるよね」
「そうだよ、だから、大丈夫。何もおかしなことなんて起きていないよ」
 清生自身、邪生に言われたことを、念じるように言う。精霊たる清生が、身の不調を感じることこそが異変のひとつなのだが、なるべく彼らはそれに触れたくない。生きとし生けるものの正たるものを表す彼が、どこか不確かに思えることなど。
 清生たちの横を、植物の魔物・槁凋こちょうが邪生に歩み寄った。
「これは、麗しき命の君」
 空になった手をつまらなそうに見る邪生に、声をかける。すらりと背は高く、落ち着いた物腰の青年の姿の魔物の、肩先まで揺れる髪は枯れ色をしている。目元まで覆うような長さの前髪からのぞく瞳は、唐突なほどに鮮やかな緑色をしている。
 大きな手を伸ばして、彼は邪生の血だまりのような蘇芳色の髪に触れる。ひと房手にして口づけようとしたところで、邪生が振り払う。
「気安く触らないでくれる、大樹ひろき
 機嫌そのものの顔で、植物の魔物を見る。
 真名を呼ぶ冷たい声に、植物の魔物は薄く笑い、邪生の髪を離した。するりと指先を離れて、蘇芳の髪が邪生の背に落ちる。
 凍てつくような冬の風が彼らの間を吹き抜けていき、不意に彼らは顔を見合わせる。その直後、ごお、とどこからか低い音がした。刹那、地面が揺れて、清生と青葉がよろめいた。次の神事のため、集っていた火の宮の巫女たちが、悲鳴をあげ、地面に屈みこんだ。邪生が清生ごと青葉を抱きとめ、受け止めきれずに体勢を崩したところ、槁凋がその華奢な肩を支える。
 ガタガタと調度が動き、簾や格子戸が音を立てて落ちる。いつまでも続くかのようだった地揺れは、始まった時と同じように、唐突に終わった。
 ひや、と再び寒風が流れる。揺れも音もおさまり、ひとつふたつ呼吸をして、巫女たちはざわざわとお互いの無事を確かめる。そして慌てて、広間と精霊たちのいる広間をつなぐ階(きざはし)まで駆けてきて、膝をついて言った。
「御方様方、大事はありませんか」
 声をかけられ、ほう、と青葉がひとつ大きく息をつく。清生にしがみついていた彼女は、ありがとう、とつぶやくと、身を縮めたまま清生を離した。邪生が睨むと、槁凋はまた薄く笑い、彼を支えていた手を離す。
「問題ないよ」
 邪生によりそったまま、清生が穏やかに声をかける。暖かな声は巫女を落ち着けたようで、巫女はホッとした様子で宮の者の元に戻っていった。
地震なゐか……近頃多い」
 槁凋のつぶやきに、邪生はそこに座したままだった地の精霊と魔物を見遣った。
穂波ほなみたちは何してるの? 芙蓉峰と東の様子を見に行くと言っていたのに」
 地の精霊を揶揄する言葉に、地の魔物・牙蛾きがが、不機嫌そうに立ち上がった。真白な髪がさらりと流れる。赤い目が、強く印象に残る。
「このくらい大したものではないだろう。いちいち騒ぐな」
「人間には大したことなんだから、警告くらいしてあげてもいいんじゃないの? ほんとケチだよね泰地たいちは」
 地の魔物に、地揺れのことが察せられないわけがない。邪生の言葉に、牙蛾は細い眉をしかめた。
「我々は過度に人には関わらぬ。天や大地と同じく、ただ在り、見守り、正すだけのものだ。そんなつまらないこと、言うまでもないだろう。人が地震なゐでつぶれようとも、我らの手出しするところではない。生かしてもろうておる自然を忘れ、同時に自分たちもその一部でしかないことを忘れて侵し、血で大地を穢して久しい人間など」
 彼は特に人に厳しい。
「芙蓉峰とて、とうに見極めは終えておる。何の難事も見受けられぬ」
 国の真ん中に座す高嶺。西の不穏とは別に地震が頻発しており、精霊と魔物は、たびたび噴火しては人々を苦しめる芙蓉峰の様子を疑っていたのだが。
「わしに信が置けぬのなら、宮の者に聞け。近いうちに芙蓉峰の様子を見に行くと言うておった。わしなどより、人の子の方が信が置けよう」
 のう、と呼びかけると、波打つ稲穂の色の金の髪に大地の色の瞳の、豊満な女性の姿をした精霊は、困ったように笑んで頷いた。
「皆、己の目で見定めて、備えておきたいのでしょう。彼らとて、我々に過度に頼るつもりはありません」
 ふうん、と邪生はただ、つまらなさそうにその言葉を受ける。彼が言葉を抑えたのは、ただ清生がたしなめるように袖を引いたからだ。
「おぬしこそ、しくじるなよ」
 牙蛾が皮肉に笑い、その唇からするどい牙がこぼれる。
 この後には、火の宮の者が行う武射の儀がある。火の精霊と魔物が立ち合うものだ。妖魔などの災厄を首尾よく追い払うことを祈るものだが、特に近頃では妖魔の出現が多く、宮の者は力を入れている。
「誰に言ってるの?」
 邪生もまた、眉をひそめて、金の瞳で赤い目を見返した。


 地揺れで巫女たちはしばらく騒然としていたが、予定通りに祭を進めることとなったようだった。それぞれの宮が神事を終えたあとは、精霊と魔物が都を周り、新年を寿ぎ人々に祝福を与える。
 出立するのでご用意くださいと言いおいていった巫女の背を目で追ってから、嵐紫がぼそりとつぶやいた。
「嫌な気配がする」
 隣で春風が束の間怪訝そうな顔をしてから、不安に眉を寄せる。
「……何か感じる?」
「ただの勘だ」
「あなたの勘なら、何より信じるに足る」
 対となる精霊の言葉に、嵐紫はいつもの無表情を背けて、つぶやく。
「そう言うな。わたしが一番信じたくない。当たらなければいいのだが」
 彼女は立ち上がる。いつもの軽装とは違って、今日ばかりは彼女も色鮮やかな着物をまとい、巫女たちの手でたくさんの飾りをつけられている。女性の衣服というよりは、戦士めいたものではあったが。
「やはり今日ばかりは取りやめた方がいいか」
 嵐紫を見上げて、もの静かな目線で問う春風に、嵐紫は変わらない表情で応える。
「国中に不安を与えることになるだろう」
「そうだけれど、せめてあの子たちが帰って来るまで……」
「何が起こっても、我らがあるから大丈夫なのだと人の子は思っている。だから、もし何かが起こったとして、例え微塵でも我らが動揺をみせれば、まほろばは恐慌をきたす」
「…………そうだね」
「だから、そんな顔のまま表に出るな」
 それは春風を戒めているのだとも、慰めているのだともとれる言葉だった。
 何となく驚いた表情で嵐紫を見た春風の視界で、嵐紫はそのまま背を向けて歩いていってしまう。表情を動かした様子は、彼女にはなかった。
 相変わらず、強いと思う。
 彼女は毅然としていてその思いを見せてはくれない。例え彼女が不安を抱いていたとしても、誰ひとりそれに気づかないまま、彼女はひとりでそれを蹴散らしてしまうのだ。
 頼もしいとは思う。彼女がいつまでもこうあるのなら、世界が揺らぐことはないだろうと思える。
 けれど、寂しいと思わずにはいられなかった。
 ――目の前に、遠い隔たりがある。


 陽の光が天頂を行く頃、都の大路おおじを、行列が行く。


 それぞれ風、水、火、地、植物、物質、生命、と属するものごとに集って、行列はなされている。それぞれの宮の先頭を巫女が進む。その後ろに、宮の者が掲げ持つ御輿が二つ並ぶ。その上に精霊と魔物が座し、後に神々従うのだが。
 厳粛な空気と、高ぶる人々の喜びが共存する、奇妙な空気が都にあふれていた。そしてそれを、人も神も、共に楽しんでいた。
 変わらない明日への誓約あかしを、必ず明日が来ることへの誓約を、皆が同じくして願う日。


 ほぼ同時に、すべての精霊と魔物が同じ方向を向いた。行列の進む先にある、都の大門の方――その辺りに、とてつもない意志を感じたのだ。
 何かがいるとすれば、人だ。それもかなりの人。祭の今日、都には多くの人が集っていたから不思議ではないが、突然現れたとなれば別だ。降って湧いたように、唐突に現れた大勢の人間。そして感じた意志は、人の子が持ち得るようなものではない。そう願う。
 それは、尋常でないほどの、逆に純粋とも言えてしまうような、悪意だった。


 そして都に火の手が上がる。
押していただくだけでも恐悦至極