第三章 神祭かみまつ



 少女と出会ってから数刻、流は疲れ切った少女を背負って山中を歩いてた。幾度か兵をやりすごしたり、蹴散らしたりしながら、少女が教える方角へ向かってひたすら歩いている。
 冬の短い日が山の端に沈みかけ、深い山中が暗闇に支配され始めた頃、焼け焦げた臭いが二人の鼻孔に届いた。
「もうすぐのはずなんだけど……」
 少女の声が震えている。不安を呼び覚ます臭いだ。
 木々の向こう、集落があるのが見えた。集落だったと思われるものが。いくつかの小さな住居すみかは破壊され黒焦げになっていた。もう炎も煙もあがっていない。ただ、黒い塊になっている。少女を背中から下ろすと、二人は身を屈め、木陰に隠れながら進む。
 やがて木々が途切れて、少女には木陰に身を潜めているように声を出さずに指示して、流は郷の様子をうかがう。
 山を切り拓き、わずかばかり耕した田畑とは踏み荒らされ、血を流した人たちが田畑に、壊された家のそばに倒れている。冷たい大地に、血は赤黒い染みを広げている。その亡骸を、兵たちが一処ひとところに集めていた。少女を追い立てていた兵たちと同じ鎧だ。
 力を振りかざす横暴な者が、弱いものを蹂躙したばかりの、吐き気がするような光景だ。そしてひどく不穏な気配がする。
「妖魔討伐だけのはずだったんだけどなあ……」
 流はひとりごちる。精霊たちの危惧の調べの手伝いを言われてはいたが、こんなものに出くわすとは。
 花焔たちと別れて、少しでも周囲の調査をと思い、少女に案内してもらって隣の郷までやってきたのだが。唐突にやってきて彼女たちの郷を襲った軍が、都に知られずどれだけ進軍をしているのか調べる必要もあった。彼女たちの郷より先へ進んでいるのか否か。まだならば警告をする必要があると思ったのだ。
 郷をうろついている兵の数は決して多くないが、新しい年の慶びに満ちていた無防備な人々を襲うには、十分だろう。だが、傷ついた様子の兵が一人もいないのが気になった。転がる亡骸の中にも、武装をした者は一人もいない。
 そして武骨な甲冑の上に、似つかわしくない白珠の編まれた玉襷たまたすきをかけている者がいるのに気付いた。兵を指揮している隊長のようだった。
 襷は、神に通じる者が身につけるものだ。または、神をその身に降ろす者が身につけるもの。襷をかけて結ぶことで、神をそこにとどめる。都で出会った香図音も身に着けていた。巫女や宮の者が身につける神具のひとつでもある。
 なぜ、兵がそれを身につけているのか。――しかも、白珠しらたま
 その時、空を切る音がして、木陰に身を寄せる。間近の木の幹に、音を立てて矢が突き刺さる。少女が小さく悲鳴をあげる。
 矢の飛んできた方を見る。集落とは逆の方向。山中は暗闇に沈み、見渡しても人が見えないが。
 気付かれていたか。
 振り返り、木の陰から出ると再び矢が飛んでくる。流はそれを軽く避けて、無手で進み出た。足元で落ち葉がくしゃりと鳴る。
「おや、おや」
 おどけて肩をすくめるようにした彼を、どう捉えたのか。少しの間を開けて、木陰から兵が進みでてくる。太刀を構えた兵と、弓を構えた兵が。
「お前はどこの者だ」
 西へ来て幾度目か、つきつけられた剣太刀と言葉にも流は動じず、言った。
「お前は、どこの神に仕える者だ」
「なんだと?」
 問いに問いで返された兵が、苛立ちまぎれの不穏な声を返す。白い息が歯の隙間からもれる。流は少しも気にせず、続けた。
「白珠の襷をかけている者がいた。あれは、戦の道具じゃない」
 しかも白珠は、海に属する巫女がよく身につけるものだ。
 兵たちの空気が闇を増した気がした。切っ先が喉元を突きそうなくらいに。
「お前は何を知っている」
 流はただ笑う。
「来い!」
 刃をつきつけたまま、抵抗しない流の腕を掴んで、兵が引っ立てる。弓を構えた兵が、少し離れたところから流を狙っている。木陰に隠れた少女が震えながら様子をうかがっているのを、流は大丈夫だと目配せをして、飄々と追い立てられていった。


「よくこれが神具だと分かったな」
 日は山の端に落ちて、兵たちは松明たいまつをかざしている。蹂躙された郷の真ん中に立って、襷をかけた男が、感心したように笑う。流がそれに気付いたことにか、兵に囲まれても、後ろから刃を突きつけられていても、少しも動じず、泰然としていることにか。
 男が腰に履く太刀は、宮の戦士たちが持つ物に似ている。見た目の装飾などではない、そこから感じる力の波動のようなものが。普通の武具で、妖魔に傷をつけるのは容易ではない。宮の戦士たちは、霊力を備えたものが戦線に加わり、特別に祝福を与えられた武具を持って戦う。彼らの武具に似ているが、それは容易に手に入れられるものではない。
 霊力の強い土地神が、彼らの保護する郷の子らに与えることもあるが、そういうものよりは、やはり見なれた宮の者のもつ武具と同じに見える。
 隊長らしき男の言葉を、流はやはり無視した。
「お前たちは、火の島から来たのか」
 少女と出会った時、火の島から来たと嘘をついた流に、兵たちは食ってかかった。そんなはずがないと。精霊たちは、西に不穏があると言った。西の果て、南に広がる大きな火の島。
「お前はどこまで知っている」
 相手の言葉は、答えではない。しかし否定でもない。
「ここに来るまでに、お前たちの仲間が吐いた」
 しっかりと聞いたわけではないのだが。流のひっかけに、男は口を片方持ち上げて笑っただけだった。そんなわけがないと、確信しているのか。
 流はため息一つ、続ける。
「お前のしている襷。白珠は、海のものだ。火の島には、綿津海を拝する社が多いだろう」
 流はさすがに複雑な気持ちになる。火の島の民は海を道として船で行き来するため、水の精霊と魔物を、そして八百万やおよろずの神々のうち特に綿津海を祀っている。お前が疑われているんじゃないのかと赫奪が言った言葉が、真に迫ってくる。あの苛烈な魔物のこと、冗談であるのは重々分かっているが。
 男の笑みが深くなる。不穏に、暗く。
「お前が何者か知らないが、知りすぎたな」


 兵たちのそば近く、焼け焦げて崩れた残骸の近くに、黒く蠢くものがいた。うっそりと起き上がる。
 夜の闇ではない。夕闇は紫に空を染め上げ、影を濃くして、空気を冷やすが、あれほど暗鬱な闇を作り出しはしない。
 頭がある。ぬばたまのように光る目のようなものも、牙のはえた口も、不格好に大きな腕もその刃のような爪も。まるで生きているもののようだ。だがひどい嫌悪感を抱かせる。
 妖魔とは、黄泉からあふれでてきた、この世ならざる者。命あるものとは呼べない、形あって動きはするが、ただただ醜く、人を襲い、殺し、食らい、破壊を行うもの。
 それはただ、悪意の塊とも言うべきもの。
 悲鳴があがった。流たちが背にした山の中から。流と一緒に来た少女の声だ。
 兵たちは、動じた様子がない。それどころか、にやにやと流の様子を見ている。そして妖魔も、兵を襲う様子がない。ただ黒光りする目らしきものが、流に据えられているのが分かる。
 妖魔は人を襲うものだ、それが。
「――行け」
 隊長が、ただ一言命じる。妖魔を見遣ることもなく、彼もまた、歪んだ笑みを流に向けたままで、流を指さす。
 白珠の神具が、ぬるりとした光を放ったようだった。錯覚だ。だが、まるでそこから力が放たれたかのようだった。妖魔が、ずるりとこちらへ進み出る。
 ――――まさか。
 聞いたことがない。
 妖魔は人を襲い、宮の者は討伐へ向かう。それは、存在してはならないものだからだ。人を害なすものだからだ。
 人がそれを使い、使役し、武力として人を襲うとは。
 それはひどく強い嫌悪感を抱かせる。あってはならない、してはならないことを行っている禁忌を強く感じる。
 だがこれで分かった気がする。彼らが迅速に兵をすすめて、いくつもの郷を襲うことができた理由が。
 流は、ひとつ大きく息をつく。
 精霊も魔物も、自分に大きな期待を寄せすぎではないか。もしくは本当に疑われているのか。正体を隠して西の不穏を探る手伝いに駆り出されて、勝手に今彼が何者かを披露してもいいものだろうか。だが、霊力を封じたままでは、さすがに流も素手で妖魔と戦うのは難しい。
 まずは目の前の男の剣太刀を奪う必要がある。
「どういう仕組か、どれだけ兵を進めているのかは、あとでじっくり教えてもらうか」
 流は強く笑む。
「名乗れないのが残念だ」
 この、おそらくは海の民の暴挙が、謡の姫に間違って伝わることがないように。それだけを願う。
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