第四章 火の島の巫女



 強い陽の光が、夏の鮮やかな色彩を照らしていた。
 火の島の大きな本島のそばにある小さな島に、神に仕える巫女姫の住まう社がある。そこは巫女姫と、彼女に従う巫女たちと、彼女たちに仕える男手がいくつかあるのみで、常人の出入りはほとんどない。折々の祭りや、大きな旅出や、戦の時のみ、首長たちがやってくる。
 白い装束を纏った巫女姫は、注連縄のされた洞窟へ入って行く。人ひとりがやっと通れるほどの幅の洞窟は、岩肌がむき出しで、中に入ればひやりとしている。その奥では清水が湧き、洞窟は海に向けて開いている。海水と清水が交わるその場所は、綿津海を拝する巫女の社において、聖域とされていた。
 巫女姫に従って来ていた少女が、水の手前で足を止める。巫女姫は着ていた衣を脱ぎ少女に渡すと、透明な水の中へ足を踏み入れた。冷たい清水の混ざる海水は、夏の暑さに火照った肌に気持ちがいい。打ち寄せる波の中に波紋が広がっていく。細波さざなみに逆らうように、裸の体を海に進めていく。波は穏やかで凪いでおり、この上のない天候だった。
 腹まで水につかる深さまでたどりつくと、膝をかがめ、首元まで水につかった。目を閉じて両手を合わせ、祝詞を唱える。豊かな海に感謝をささげ、海からいただく食料に感謝をささげ、明日の漁の、航海の無事を祈る。毎日毎朝、雪の降る真冬であろうとも行う、欠かせない神事だった。
 日に焼けた巫女姫の肌を撫でる小さな波の音と、遠く岸壁で弾ける波の音だけが聞こえている。


 ふいに、間近で水音がおきた。ぼこぼこと泡だつような音がして、巫女姫は目を開ける。泡立つ水面から波が不自然に立ち上がり、延びていく。驚き立ちあがった彼女の前で、するすると形を作り、人の足の形になった。波の泡はどんどん上へ登り、白い衣からのぞくすらりとした白い脚を、細腰を、襟からあふれそうな豊満な胸を形作る。濃紺の長い髪は陽に透けて青く、また足元まで黒々と緩く波うち、白い顔を縁取っている。現れた顔は美しかったがどこか気鬱で、気怠げに巫女を見下ろしていた。青緑色の瞳は、深い深い水のような色をしている。
 水の泡から現れた女は、少しも塗れておらず、さざ波の上に立っていた。
 黒目黒髪ではない。それならば人間ではない。霊力の強い人だと言うことはあり得ない。
 目の前に立つ神はただそこにいるだけで、巫女姫を畏れさせるものにあふれていた。身を隠すものすらなく裸で無防備に、いずこかの神の前に立っているのに気付き、巫女姫は困惑した。
「綿津海の大社おおやしろに仕える巫女はそなたか」
 女の声は歌うようだった。高くもなく低くもなく、細波の間をのびやかに耳に届く。
 礼をとりたかったが、海につかった姿では難しかった。海中の砂に膝をつき、手を合わせたまま、巫女姫は頭をたれた。ただ見ているのも恐れ多い気がした。
「左様でございます」
 そうか、と女は頷く。
「瑞々しくも力あふれる民よ」
 どこの誰とも知れぬ神は、巫女姫に言祝ぎを降らせた。人の心に忍び込み、包み込むような声は、甘美なものだった。
「憐れにも、まほろばの都よりも、軽んじられる民よ」
 そして優しくもある声音で告げられた言葉は、巫女姫の心を殴りつけたようだった。ぬるい海の水は、凍え冴えるようなものではない。だが、体が震えた。
「そなたたちを哀れみ、わたくしの思いは耐えきれないほどになった。それゆえ参ったのだ」
 巫女姫は、思わず顔をあげる。青緑の瞳と目があった。高位から人間を見下ろす、それは彼女の言う通りの哀れみに満ちた瞳だった。
 巫女姫は、強くその目を見返す。畏れはある、恐れもある。だが、己の民を軽んじられるわけにはいかない。
「御身はいずれの神にあられますか」
 その美しい女は、物憂げな瞳を妖しくして、深く笑んだ。
「わたくしの名を問うか」
 楽しげに、謡った。


 あれはもう、一年ひととせと半分も前のことか。
 巫女姫は冷たい真冬の海に首元まで身を浸し、両手をあわせて思い起こしていた。あの日とは違い、身を切るような海の水が彼女を包みこんでいる。
 選ばれし民だ、と下された言葉を噛みしめる。
 豊かで力強い我々の民は、神々に愛されるまほろばの都を、どこか歪んだ気持ちで見ていた。誇りから、我々が劣るものでは決してないと思ってはいても。
 その力を示す時が、与えられたのだ。
 巫女姫は、海から立ち上がる。身は震えても、心は熱くゆるぎない。別のもののようだ。砂浜へ戻ってきた巫女姫に、少女が慌てて布を持って駆けよってくる。濡れた体と髪を拭き、巫女の衣をまとい、御統みすまるを首にかけても、体は震えている。寒さだけではない、これは高揚からだ。
「巫女姫の命通りに、少年たちを首長の舘に呼ぶよう、伝えてあります」
 少女の言葉に、ひとつ頷く。肌を刺す冬の風に逆らうように、足を踏み出した。
 神々の意思は我が上にある。

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