第四章 火の島の巫女



 残された場で巫女姫は、綿津海を追うかのようにして立ちあがり、そのまま動けず茫然としていた。自らの行動に確信を持っていたはずの、彼女のその誇りが崩壊してしまった。何もかもが覆された。
 巫女姫はふと気付いたように、花焔たちを見た。
「あなたたちは一体……綿津海が、あのように……」
 声からは力が消え、ただ疑問だけがのぼる。そしてふと、思い出したようにつぶやく。
「――花焔、と」
 彼女の前で赫奪が呼んだ名だ。
 仮名でもあえて伏される魔物とは違って、精霊の名には覚えがあって当然だった。人々はいつも、精霊や魔物の加護を願って生きているのだから。そしてその精霊と対等に話す者ならば、それは他の精霊や魔物でなければならない。
「まさか……何故、火の御方お二人が」
 震えるような驚きの声の後ろ、遠く轟音と悲鳴が聞こえる。
 花焔はため息一つ、火の島の巫女へ向き直った。
「火の島の巫女姫、名は?」
「……南稲琥みなこ、と」
「南稲琥」
 噛みしめるように花焔は巫女姫の名を呼ぶ。力強い響きを持つ名だ。精霊に名を呼ばれる栄誉に、巫女姫は身を堅くした。強い意志を持った少女だと思う。どうしてそれがこういう形になってしまったのかと思うと、花焔は悲しかった。
「綿津海の言うように、都を攻め落とすつもりなのか。神聖なる火の島の民が、なにゆえまほろばに反旗をひるがえす」
「まほろばに住まうには我らがふさわしい。ぬるま湯に浸かって、神々の加護を受けてのうのうと生きている都の者たちよりも、この勇ましき民の我らが、ふさわしいと、力を下さった方がおられたからです」
 妖魔を使役する神具。神をも妖魔をも滅することのできる剣太刀。
「だが今日に限って、力を失うとは……。なぜ、今日になって……」
「この上何を企んでいる」
 花焔が問いかけても、巫女はうつむいてうめくだけだった。そこに、赫奪が割り込む。
「花焔は精霊だからな、殺生は好まねえ。だがオレは魔物だから約束は出来ねえぞ。さっきっからイライラしてしょうがねえんだ」
 本当に先刻からどうしようもなく、こらえきれないという顔の赫奪をなだめるように、花焔は彼女の背中に手を当て、再び巫女姫に問う。
「都への襲撃はもう不可能だろう。種説きしてくれてもいいんじゃないのか」
「いえ……不可能ではないのです」
 巫女姫は顔を上げる。再び強い目で花焔を見た。
「都は今頃火の海です。我らの兵の多くは、妖魔と共に都の近くへ転移しています」
「……んだとお?」
 赫奪が押し殺した声を上げる。
 今頃都は祭りの最中さなかだ。皆がはち切れんばかりの笑顔で新年を祝い、昨年の無事を感謝して、そして新しい一年の祝福を精霊と魔物に願う日。年にたった一度のこの日のために、わざわざ遠方から旅をして来る人々も多い。よりによってそんな日に!
「お前たちは、囮だったのか?」
 花焔は静かに巫女姫に聞いた。都は気づいているのかと訊いた。それは、気づいてもらっては困ると言うことではなく、気づいてもらっていなければ困ると言うことだったのだ。こちらに気を向けていて、都は油断していてくれなければ困ると。
 ――だが都には精霊も魔物もいる。各地から神々も集まってくる。どうしてこんな日に? 精霊や魔物に対抗する手立てをまだ隠し持っていると言うのか。
「どうせならば新しき日がよかろうと、仰せになりました。かのお方が」
 それは誰なのだと問いかけようとした、その時に花焔は再び異様なものを感じた。それは、海から出てきた妖魔の死骸の方――その脇に開けられた壁の穴の所からだった。
 木の壁に、外から大きな手がかけられた。それは緑色をしていた。人の手一つ分はありそうな長い爪が生えていた。腕を四本もはやしていた。足までも四本生えている。身体は木の幹の色をしていた。
「どうして!」
 新手の妖魔だ。そこに姿を現したものに、巫女は大きな声を上げた。
「どうしてここにいる。隣の郷を襲わせた妖魔が――!」
 愕然とした声だった。ここに来て巫女は、ようやく確かな恐怖を見せた。綿津海に見せたのとは違う、得体の知れないものに怯える恐怖。
 そして今日になって、彼らの武器の力が消えたのなら、彼らの使役していた妖魔も、言うことを聞かなくなっておかしくない。ということは、隣の郷にいた火の島の者も無事ではいないだろう。
「っざけやがって!」
 長い睫毛にふちどられた大きな瞳を怒りにまみれさせて、赫奪が怒鳴った。瞬間、彼女の変化がとけてしまう。髪を結わえていた紐が、弾けるように飛んだ。日の光を思わせる赤金の髪が肩にこぼれ落ちる。そして赫奪の左の指先から腕が、右の肩が、右の頬が、爪先や短い丈の着物からのぞく太股も、炎に包まれたようになる。人間が肌に描く文様とは違い、内側から燃えるような鮮やかな揺らめきが膚の下に踊る。
 魔物は真名を持つが、同様に、人間と違うのは色だけではない。それぞれ本性ほんせいともいうべき姿形を持つ。その姿をさらすことなど、その真名を語ることがないのと同じくらい、ほとんどないことだった。
 赫奪の冴え冴えとした色の瞳が妖魔を睨みつけたと、思う間もない瞬間のこと。
 みたちの中にいたはずの彼らは、青く澄んだ空の下にいた。足元に残る木の床が、移動したのではないことを示唆している。館の壁も妖魔も、先刻殺された妖魔の死骸も、一瞬にして消し飛ばされたのだ。それだけでなく、彼らの周囲、焼かれてしまった家の残骸までもが消えていた。はじめからそんな物、存在しなかったかのように。
「お前、やりすぎだぞ」
「うっせえ。オレはもう抑えらんねんだ」
 赫奪の言葉に、花焔はため息をつくしかなかった。赫奪は激昂を通り越した冷ややかな瞳で巫女姫を見ると、花焔が目に入らない様子で、炎を纏う足を踏み出す。巫女姫に詰め寄った。
 巫女姫は震えている。火の化身の怒りに、人に見せることのない本性に、その圧倒的な力に。自分たちの愚かしさを思い知る。精霊も魔物もその力を見せることは滅多にないことだったから。そして何より、あり得ない事態に。
「つまるところ、お前たちはもてあそばれてただけじゃねえか!」
 赫奪の澄んだ声が、巫女姫を突き刺した。都へ襲撃するその日に、彼女たちに与えられた力は解かれてしまった。火の島の兵が都を襲撃するのに妖魔を連れていったのなら、制御の手を離れた妖魔が暴れているはずだ。都の者も、火の島の者も区別無しに。
 騙されたのだ。はじめから、利用されていただけだった。否、そんなかわいいものではない。都を制圧したいならこのまま彼女たちにまかせれば、成功するかどうかは別として、きちんと事を運ぶだろう。ここまでの足取りのように。なのにこんなことをして、いらぬ横槍をいれて、ただ混乱を招きたいだけにしか思えない。混乱と殺戮を。
 そして火の島の巫女も兵も、殺戮される側だった。
「まさか、このようなことになるとは。あの方が我々を騙すなどと、どうして信じられよう……」
 あえぐように、巫女姫は声を漏らした。
 哀れだった。何より、信じるべき存在に裏切られた彼女が。――そして。
「それは、誰だったんだ」
 花焔は、抑えた声で言う。遠く悲鳴が聞こえる。静寂を誇示するように。緊張を煽るように。
 俺のものではない気配がすると言った流が、少し悲しげだったのを思い出す。彼ならば、そこに残る気配が誰のものか分かっただろう。
 誇り高き綿津海の大社の巫女姫の、祭神からの授かりものに手をつけることが出来る者など、限られている。巫女姫自身がそれを許す相手であり、綿津海のこめた霊力を上塗り出来るほどの者。
 人間ではありえない。高位の神たる綿津海を凌駕する者でなければならない。
摘波つなみ様、と。そしてわたしには真名をお預け下さった」
 聞き知った者の名に、赫奪が蛾眉を吊り上げる。それを見てうつむき、巫女姫は続けた。
漣歌れんか様、と」
 漣のように歌い、誘い、惑わす美しき女。
 水の魔物の真名。
 精霊や魔物でなければ、魔物がよほど信を置いたものでなければ許されるものではない真名。それを預けられ、どれだけ巫女姫は喜んだだろう。火の島の者たちも疑いを抱くわけがない。魔物が後押ししてくれるというそのことは、彼女たちにとって己の正しさを実感させてくれるもののはずだった。そして魔物との間に立つ者が必要だったから、巫女姫が兵の指揮をとっていたのだろう。
「――――あいつ!」
 赫奪は一声叫んでそのまま消えてしまった。鮮やかな炎がかき消え、残された花焔は、ただ苦い顔をした。ため息をついてから、流が行った方を見て、つぶやく。
「流にまかせて大丈夫かな……」
 火の島の者たちが連れてきた妖魔がこの辺りにあふれているはずだった。それを流ひとりにまかせて大丈夫かなと思ってから、また怒られるかなと、苦笑する。花焔は巫女姫を振り返り、言った。
「巫女なら少しでも術が仕えるだろう。流に――綿津海に手を貸して、この辺りの妖魔を殲滅するように。対抗する力を持つものに死なれても困るから、死に急ぐようなことはするな。自分のしたことが分かっているなら、その力で人を助けてみせろ」
「……承知いたしました」
 神妙な様子で彼女はうなずく。起こしてしまった事態を、分かっているはずだ。


 その場のすべてを残して花焔は都へ帰り、そしてほぼ同時――残された巫女の頭上に、風の音がした。天空から影が落ちる。鳥の羽ばたく音が聞こえ、その音も影も異様に大きいことに、当然ながら気づく。それは、鳥に似ていながらも比なるものだった。――妖魔。
 そして彼女は、戦慄か怒りか、ただの恐怖か。空を見上げて絶叫した。

 

つづく。

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