第四章 火の島の巫女



 突然のことに、妖魔を追ってきていた兵達が、口をぽかんと開けてその光景を見ている。彼らは巫女姫の術かと彼女を見たが、彼女自身が彼らと同じように驚いているのを見て、それでは誰がと、巫女姫の前にいる花焔たちを見るが。
 花焔と赫奪は、妖魔が現れたのとは反対側の、未だ健在である壁を見て、正反対な表情をしていた。片方は怒りを、片方は安堵を浮かべている。
「やっと来たか……」
 花焔がつぶやくと、それに応えるようにして、壁がきれいな円形に切り取られる。くりぬかれた残骸が大きな音で室内へ倒れた。
「変事ゆえ、このようなところから失礼する」
 許しもなく作った入り口から、おどけた声が忍び込んできた。場や事態にはまるで不似合いな声音は違和感しかなかったが、明朗な声は、人々の気を落ち着ける作用があった。彼だからこそ。
 声に続いて穴から人が姿を現した。すらりとした長身の青年だった。顔に浮かべる不敵な笑みがよく似合う、どこか野性的な美貌の持ち主だった。背中に少女をおぶっている。
 兵の中に、その二人に見覚えのある者がいて、小さく声を上げた。赫奪が口を開く。
「遅い!」
 一言で、たまりにたまった怒りの全部をぶつけたが、向けられた当のながれは涼しい顔でそれを受けた。
「彼女に事情を説明していただいていたもので。それに」
 言いながら流は、背中の少女をおろした。そんな彼を、花焔はさすがだなと思って見ている。魔物の怒りを真っ向から受けて、平然としているなど。
「霊力を使わずに隣の郷まで行って帰ってきたんです。ほめてもらいたいものですよ」
「隣の郷まで? 一体何をしに」
 赫奪をとりあえず押しとどめて、花焔は流に訊く。
「都寄りの東の郷へ、様子を見に。ここより向こう、東へ七つの郷が同時に襲われたようですね。とりあえず兵を脅して訊いてきたんですが」
 神とは思えない行動の説明をさらりと流して、彼は言った。赫奪だけでなく、彼を取り囲む空気も不穏なものになりつつあるが、まるで気にしていない。
「ここより西はもう侵略されていると聞いたが」
「そのようですね。この者たちが、どうして都にも気付かれずそれほど迅速に、しかも同時に七つもの郷を襲撃できたと思います? よほどの兵力がなければできないことです」
 流の言う通りだった。いくら不意をついたからと言って、簡単に郷を制圧するにはかなりの兵力を要求される。村々を蹴散らし、妖魔を恐れず、神をも殺して。
「妖魔を使役していました。どういう手を使ったのかは分かりませんが。妖魔を使役する神具を持っていました」
 流が、一緒に来た少女の方を示す。突然注目を浴びた少女は、自分が流にしがみついたままであるのに気がついて、大慌てで手を離す。そのままへたりこんだ。その手に白珠の玉襷を持っている。
 妖魔を使役する。流の言葉に、先ほどの巫女姫や兵たちの動揺の意味がわかった気がした。
 それが今になって、使えなくなったということなのか。
 何故――いや、そもそも妖魔を使役することなど、可能なのか。あの凶悪な塊を。
「ここから七つと言えば都と火の島との間くらいにはなるか。いやに侵攻が速い。都を乗っ取るつもりなのかな?」
 流がそう言った途端、硬直していたようだった兵達が、いっせいに動き出した。眠りから覚めたかのように。流を取り囲み、手にしたそれぞれの武器を容赦なく彼に向ける。
「お前は何者だ」
 兵の一人が詰問する。
「水の宮の使者だ。今ので分かったろう?」
 流はあくまで余裕を失わずに答える。あくまで優しい。
「どこまで調べた。都はどこまで知っている?」
「さあてね、俺もあくまで下っ端だから。御方様方の考えていることは分からないなあ」
 兵たちは流の様子が気に入らなかったようだった。なんだと、と声荒く怒鳴る。
 だが巫女は、ただただ凝然と立ちつくしている。堂々と立つ流を見ている。はじめて、その顔に恐れが――畏れが見えたように、花焔は思った。
 流が巫女姫の方へ歩き出そうとすると、彼のまわりを取り囲んだ兵達が、強く一歩踏み出した。空気がさらに剣呑なものになる。だが流はやはり変わらない。不敵な笑みは、変わることがない。ただ、その着物とほつれた髪の毛が、風もないのに踊るように揺らめいている。
「正体を見せてもよろしいかな?」
 楽しげな声は、花焔と赫奪に――強いていえば冷静に判断してくれる花焔に向けられたものだ。
「好きにしろ。もう関係ないだろう」
 花焔のあきらめ気味なその言葉を受けて、彼は楽しそうに笑みを深めた。にいっと笑う、自信たっぷりの笑みに、兵達は得体の知れないものを感じてたじろいだようだった。
「これが俺の民の仕業だとは、悲しいな。上にお叱りを受けてしまう」
 毛ほども気にしていない口調でいう彼の瞳が、青緑に変わる。深い透明な水の色。そして髪を結わえていた紐はほどけ、きらめく水しぶきの銀の髪がこぼれた。彼の開けた穴から差し込む光に、青く輝く。
 黒目黒髪でないなら、人ではない。神々の一員だ。そして、その色――
 彼らをとりまいていた皆が止まってしまった。
「綿津海……」
 巫女姫のつぶやきが落ちた。そのつぶやきに皆が皆、自分の考えの間違いでないのを確信して、それでも、そんな莫迦なと思う。――そんな、まさか。
 流が歩を進めると、兵たちは戸惑い礼を取るのも忘れて、ただ刃を引いた。潮が引くように流のまわりから後ずさる兵たちの間を歩き、流は巫女姫の前に立ち止まる。
 巫女姫は膝をつき、跪礼きれいして顔を伏せ、流を迎えた。
「綿津海御自らおこしになるとは、うかがっておりませんでした」
「俺も、君がここにいるとは思わなかったよ」
 恭しい挨拶に、流もまるで運命の再会のような事を口にする。思いがけないことに、花焔はぽかんとして流を見た。
「お前……」
 隣で、赫奪の低く抑えた声が聞こえる。
「何も、おかしなことなんてありませんよ。そういう顔で見るのやめてください」
 流は心外だと言いたげな顔で、花焔を見て、赫奪を見る。彼の視線を追って赫奪をみると、彼女はひどく胡乱げな顔で流を見ていた。
 流は傷ついたなあ、と大袈裟に言いため息一つつくと、巫女姫に向き直る。
「その御統は、君が火の島の孤島にある、俺の大社の巫女姫となった時に、授けたものだ」
 祝いとして、巫女姫の証として。綿津海手ずから授けるほど、その大社の存在は大きい。
「だが、俺のものじゃない気配がするな」
 少し悲しげに、まるで不義を問い詰めるような流の言葉に、巫女姫は伏せていた顔を真っ赤にし、それから青ざめた。
 ――火の島。流の言った言葉に、花焔はどこかやはりという気持ちがあった。
 同時に、違和感を覚える。これではまるで……。
「これは……」
 急に、巫女姫の声から力が無くなる。
「さる御方が、力を授けてくださいました。綿津海も承知のことであると。綿津海の御意志も我が元にあると、おっしゃって」
 何故、それを綿津海から問われるのか。巫女姫の肩が震えている。
 彼女が生涯、身を尽くして仕えるべき神の手ずからいただいた御統。宝玉。かけがえのない神具。栄誉であり、彼女にとっては、命よりも尚守るべきものだ。それを穢されたようなものだろう。綿津海の意思がそこにないのであれば。
 綿津海が授けたものならば、もともと何らかの霊力が込められたものかもしれない。だが今は、何も感じられなかった。
 なるほど、と流の声が落ちる。
「まるで俺を嵌めようとしてるみたいだなあ、そのおひとは」
 西の果ての火の島。綿津海の巫女が、都を目指して国を侵略している。妖魔を従えて、神々を殺して。
 まるで、綿津海がこの異変の主でもあるかのようだ。
 綿津海が、ともすれば傲慢ともとられかねないほど豪気なこの神が、己の力を示す場を求めたとしてもおかしくはない。だが、流、と人のように呼ばれるのを好み、人の姿をして歩きまわるのを好み、同じように人と共にあろうとする女神を選んだ綿津海が、人を害する企みをするとは思えなかった。頑固で、曲がることを知らない女神に嫌われるような事を、するはずもない。それを選ぶことで気を引こうなどと考える性質たちでもない。
「バカかお前は」
 あきれた声で、赫奪が言う。
 簡単に切り捨てるような言葉に花焔は片割れを見て、気付いた赫奪が、不機嫌そうに寄せていた眉をあげた。なんだ、と問うように。赫奪の大きな瞳に、そうだな、と花焔は苦笑する。
 だが流自身が、こうして花焔たちと西に来ていなければ、どのように疑われたか知れない。巫女姫たちが本当に都に現れて、綿津海のご意志だと呼ばわれば。
 ――だが、その綿津海の巫女に、綿津海の意志だと思いこませるには、誰が。


 遠くで、再び轟音がした。
 皆がハッとして身を堅くする。兵たちは、すがるような視線を巫女姫に、彼らの神に向けた。
「――またか?」
 花焔が低くつぶやく。感じる気配は、やはり悪意。これはまさしく妖魔だ。それから悲鳴の中に甲高いものが混じっているのを聞き分ける。
「女子どもの声……」
 それは先刻まで花焔たちがいた建物に他ならない。他に人のいる場などない。流は方角を図るように顔を上げた。
 巫女の御統も、少女の持つ玉襷も、何かの力を宿している気配はない。兵たちの剣太刀もだ。妖魔との戦いの道具にはならない。
「行ってもよろしいですか?」
 うかがいをたてる流を止める理由もない。
「頼む」
 花焔が頷くや否や、流は彼の脇にいた少女を抱え、彼らにくるりと背を向ける。笑みを残して、一緒にその場から消えた。
 兵達の間にどよめきが起こる。そして兵達は慌てて、綿津海の向かった建物の方へと駆け出した。
 

押していただくだけでも恐悦至極