「禍言の葉」番外








 慌てて走って行く背を見送って、榊が小さく息を吐く。
「通りすがりに田川さんを助けて、しかも一撃で魔族を追い払ったって言うんだから、田川さんが会長にあんたを推薦したのもまあ、分かるけど。素人の子どもをいきなり任務にあてるなんて、どうかしてるわ」
 小さな街灯の明かりを照り返すピンクの唇から、ぶつぶつと不満がもれる。
 協会の人員の補充方法と言うのは、基本的に人事部のスカウトか、他の術者からの推薦だ。まだ事件が解決していなかった事もあり、起きた事態の報告も兼ねて協会まで都雅を同行した際、田川が都雅を推薦したのだった。もちろん、都雅の希望もあってのことだったが。今回は都雅があまりに若かったこと、まるきり素人だったということもあり、彼女のテストを兼ねた任務だった。
「田川さんが見たのが『下賤の鬼』だっていうんだから、そうなんでしょうけど。……一応もう一回聞いておくけど、本当に『下賤の鬼』だったんでしょうね?」
 しつこく聞く榊に、返す都雅は不快そうだった。
「……なんでだ」
「鬼が相手なら、こんな人員じゃ不安が残るどころか、対抗するのは、ほぼ不可能だからよ。あたしと田川さんはともかく、あんたに不安要素がありすぎるわ」
「悪かったな」
「やっかみで言ってるんじゃないわよ。データがないものを当てには出来ない。まず、戦力分析が出来ないの。あたしは、あんたの実力を知らないんだし。その上で私たち三人と鬼が対峙したとする。障害物の少ない、人通りのない場所ならば、まだマシだわ。でもここには障害物はともかく、人が多すぎる。あたしたちは、周囲の人間を傷つけないよう、傷つけられないよう気にしながら戦わないといけない。ついでにあんたのことを気にかけながらね。すると、ただ鬼を排除するだけという行為の倍以上の力を必要とするわけ。分かる?」
「分かるか」
 少女がむすっとしたような表情で言うので、一瞬榊は力の抜けた顔をして、それから眉を吊り上げた。叱ろうとしたのか、文句を言おうとしたのか、口を開きかけたが。
「だいたいその『下賤の鬼』ってのが分かんねーし、『鬼』と何か違いがあるのかも知らねえし」
 その言葉で、忘れていた事実に改めて気がついて、榊は言葉を止めた。忘れていたと言っても、完全に忘れていたわけではないだろう。子どものくせに、新人のくせに、何も分からないくせに、と今までさんざん文句を言ってきたのだから。
 普通なら、子どもが、こんな状況に連れて来られたら不安だろう。術に関してはどれほど使えるのかしらないが。――本人の態度にも、多少どころか大分、問題があったとしても。
「ごめんなさい、ちょっと分からない事だらけでイライラしてたわ」
 愁傷に謝った榊に、けれども少女の方は何もかもを気にした様子もなく、上着のポケットに手を突っ込んでつぶやいた。
「別に、どーでも」
 相変わらずの反応に、榊はまた「謝ってるのに」と気分を害しかけたが、今度はため息をついて、文句の矛先を変えていた。
「どうして会長が、あたしを指名したのか分からないわ。新人をサポートするためっていうなら、こういう場合はあたしよりもやっぱり御堂君の方が向いてるのに」
「あっそ」
「田川さんは防御専門の人だし、あたしは防御も攻撃も出来る事は出来るけど、どっちかというと、防御向きなのよ。あんたが攻撃型だとしても、あたしたち二人じゃ、本当に後援しかできないの。もしあんたがダメだった場合、すごく困るのよ」
 いやみで言ってるんじゃないわよ、とまた付け足して、榊が言った。その言葉が真意にしろ、言い訳にしろ、確かに『協会』としては困る事態だ。これ以上失態を見せるのは得策ではないし、体面を除いたとしても、被害者を増やすわけには行かない。
 単に榊の事情としても、現場で凶悪犯と対峙するのに武器になるものがないのでは、不満が出るのも当然だろう。自分の命に関わる。
 自分の事を言われているのに、都雅はまた興味なさそうに相槌を打った。どうとでも言え、ということなのか、含まれているかもしれない害意に気がつかないくらい鈍いだけなのか、ふりなのか。
 いくら言っても少女の反応が鈍いので、文句を言うのをやめて、榊は、やれやれという調子で話を変えることにした。怒っても無駄という気がしてきた。
「だいたい、人ならざるもの、魔族って言うのは、力が強ければ強いほど人の形をしているものなの。鬼っていうのは、魔族の中でもエリートの種族で、普段は普通の人間の格好をしているらしいわ。純粋な鬼の一族はもうだいぶ絶えてしまったらしいけど、魔族にしては温厚で、滅多に他の生き物を傷つけないものだって聞いてる」
「鬼が?」
「そう。でも人間の常識で鬼って言えば、残虐非道な生き物のことでしょ。それは『下賤の鬼』から来てるのよ。一応人型はしてるけど、醜くて、残忍で、鬼との共通項っていったら「角」があるくらいだけど、人間にとってはそれだけでも十分だったってわけ。だから混同して認識されてる。人間が一般的に認識してる『鬼』っていうのは『下賤の鬼』のことなの。あたしが『鬼』だと困るって言うのは、エリート中のエリートだから、彼らがとにかく強いからよ」
「ふうん」
「ま、もし鬼だったら、あんたに一撃で追い返されるなんて、あるわけないわよね。協会の術者がよってたかって攻撃して、やっと倒せるかどうかだって聞いてるし」
 先の『鬼』だったのかどうか、という問いを、そう自己完結して、榊は一人で納得してしまったようだった。思い返せば都雅も「でっかいのが」と言っていたし、一応人型をしてはいたとしてもいびつだったということだろう。
「『下賤の鬼』ならそれはそれで、こんなに乱獲してる以上は、歓迎できたことではないけどね。だいたい、ただの『下賤の鬼』なら、獲物は殺した後、殺す前、どちらにせよ食事にするのが常識なのに、今回は誰も食べられてない」
「王道だな。人外が人を食うって言うのは」
「人を食うから人外ともとれるわね。『下賤の鬼』っていう種族は、そもそもないのよ。身分の低い、力のない下位魔族は『妖魔』って呼ばれるんだけど、『下賤の鬼』はその中でも象徴的なものなの。『妖魔』ってのは、何らかの悪意の塊として生まれるものだけど、強い悪意をもちすぎた人間が、そのせいで魔族に堕ちることもあるわ。妖魔になった人間は『下賤の鬼』になる。よっぽど、何らかの例外がない限り」
 意味ありげにつぶやきながら、榊は地面の血痕のそばにしゃがみこんだ。赤黒く残った滲み以外何も残らない場所だったが、何か情報を得ようとするかのように、手を伸ばす。土の地面じゃないとやりにくいんだけど、とつぶやきながら。
 そして掌を地面に向けた手の、細い指先が地面に触れるや否や。熱いものにでも触れたかのように、突然手を引っ込めた。そのまま、勢いよく立ち上がる。
「油断した。すぐそこに来てる」
 つぶやくと、すぐ取り出せるようポケットに入れていた携帯電話を出そうと手を伸ばして、けれども途中でその動作をやめてしまった。
 険しい顔で顔を上げた。同じように、都雅が不機嫌そうな顔を向ける。
 途端、悲鳴が聞こてきた。加えて大きな音が聞こえる。地響きしないのが不思議なほどの。
 ――出た。
 とっさに走り出そうとしてから、榊は足を止める。
「あんた、絶対あたしから離れないこと。いい?」
 少しも険を含まない、ただ厳しいだけの声で、都雅に言う。けれども都雅が何か反応を返す間も何もなく、間近で大きな音が聞こえた。
 彼女たちが立っている路地は、ビルに挟まれている。その路地の入り口の角が突然弾け飛び、ガラガラと崩れていた。
 大きな黒い影が、路地の方へ足を踏み入れて来る。
「さがって!」
 ほぼ同時に、榊が大きな声をあげた。逃げ惑い、彼女たちの脇を走り抜けて行く人たちの流れに逆らって、都雅の前に立つ。
「あんた、確かあれを追い払った、って言ってたわね。倒したの? ちゃんと魔族が塵になるまで見た?」
「倒してはない。攻撃したら、勝手に逃げた」
「じゃあ、新しいのが出てきたって訳じゃないのか。やっぱり、『下賤の鬼』が大量発生してるってことね」
 榊の言いたいことは、尋ねるまでもなく分かる。
 こちらへ向かって大きな影が駆けてくる。確かに人と同じ姿かたちと言えない事もなかったが、その体はどれだけ鍛えた大人よりも大きく、それんなのに腕も脚も場違いにさらに大きい。黒目がぎょろぎょろと鈍い光を放ち、人を食らうと言う口からは、鋭い牙がこぼれている。頭に生えた角は凶器のようだった。
 目前に迫る、図体の大きな化け物に、傷は少しも見受けられなかった。遠くの悲鳴も途絶えない。少なくとも、同時に二体。
 そして化け物は彼女たちの前に辿り着く。毅然と立ちはだかる榊に気づき、立ち止まった。障害物への害意が、辺りにみなぎる。
「守り慈しむ大地の精霊の名において、命あるものを守護せよ」
 朗々と厳かに、榊が唱える。
 術に詳しくなくても、その言葉で、都雅にも彼女が守りための力を使ったのがわかった。周りにいた人間はすでに散り散りに逃げているし、榊が守りの結界をはったのは、ただ都雅のためだろう。
 彼女が自分で言ったように、その上、この場合は都雅の事も守るべき対象として抱え込もうとしているようだった。そして、元通りの声音で怒鳴るように大声を上げた。
「後ろ! 気をつけなさい!」
 都雅が振り返ると、路地の反対側からのそのそと、大きな図体の化け物が向かってくるのが見える。
「もうっ。よりによって大量発生なんて、鬱陶しいわねっ」
 虫か何かのように邪険にして叫びながら、榊は、とにかく目の前の一体に向き合った。
 その後ろで、都雅は化け物が寄ってくるのを見ている。背後で、榊が術を使う声が聞こえる。術が発動して光が灯り、後ろから照らし出されて、目前の異形が鮮やかに照らし出される。
 大きな音が聞こえようが咆哮が響こうが、視線を眼前に据えて、ただ立ち尽くしていた。






「事の始め」トップへ

「禍言の葉」トップへ