追う




 深い寝息をたてて眠っていたはずの少年は、突然目を開くと、数回まばたきをした。
 顔を横に向けて、寝る前にそばにいた人を見つけて、大きく安堵の息を吐く。
 枕元に座して、少年のために着物を縫っていた女性は、少年が動いたのに気がついて目を向けた。少し驚いた様子を見せてから、すぐに口元に優しく笑みを浮かべて、そっと言う。
「いかがされました?」
 うん、とただ声が返ってくる。少年は顔を反対側へ向けて、まぶしそうな顔で周りを見回してた。部屋の中には、障子戸を閉めていても忍び込んでくる昼の穏やかな明かりと、ぼんやりとした暖かな春の空気に満ちている。
 大きく息を吸って、一人前にため息のようにして吐き出してから、顔を元に戻して再び相手を見た。
「兄上は?」
「お勉強中ですよ」
 あくびをして、丸い手で目をこすってから、相手を見上げる。ふわふわとした声で言った。
「流紅も」
「あら、目がさえてしまいましたか? まだお休みになってから少ししかたっていませんのに」
「のどがかわいたの」
「お持ちしますよ」
「いい。じぶんで行く。兄上といっしょにお勉強する」
「お邪魔になるからいけません」
 決して厳しくはなく、少年の母親代わりの女性の声は、ゆったりとしていた。そもそも、めったに怒ることのない人だ。優しく言い聞かせる声音に、けれど少年は起き上がって、再び目をこすってから、少し寝ぼけた顔のまま、すねたと言うよりは怒った様子で言った。
「いっつも、いっしょにお勉強しなさいって言うのに」
 自分はころころ言うこと変えるのはずるい、と。
「お勉強も大切ですが、お休みすることも大切です。流紅様はまだ、たくさんお休みもして、力を蓄えないといけないお年ですよ」
「もう目がさめたもん。兄上のところに行く」
 上掛けをめくりあげて寝具から出ようとした少年を、女性の手が止めた。立ち上がろうとした彼の肩に、とっさの様子で触れて、それから慌ててひっこめる。次いで口にした言葉は、ゆるやかになるように努力している様子が見えた。
「いけませんよ」
「どうして」
 少年の眉間に皺が寄っている。女性の普段と少し違う態度が、不審だったようだ。その上自分の希望を何度も跳ね除けられて、不機嫌の度合いがあがってくる。彼の表情を見て、女性は困った顔をして、再び言った。
「お邪魔をしてはいけませんよ、流紅様」
「いやだ、兄上といっしょがいい」
「兄上は、今日はお一人で、ゆっくりお勉強したいのですって。流紅様はまだ、お休みをするお時間です」
「兄上はそんなこと言わないもん。桔梗どののいじわるいじわる」
 少年の顔が、泣き出す寸前のように、赤くなる。けれど彼は、何かに気づいたようだった。
 サッと表情を塗り替える。まるでもう一度目がさめたかのように、寝ぼけ眼だった顔は鮮やかになり相手を強く見返した。
 刹那、彼は跳ねるように立ち上がった。唇をゆがめて噛み締めて、泣きかけた顔のままで、女性を押しのけて駆け出す。
 止めようと手が追ったが、すばしこい彼には届かず、空を切る。身を乗り出して腕を伸ばしていた女性は、体の均衡を欠いて床に倒れかけた。
「流紅様、だめです!」
 声すらも、必死に駆け出した少年には届かなかった。






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