離れない






 武家の子息は、七歳になると、勉学をはじめる。
 もちろんそれまでにも、自宅で臣や身近なものに教わって、小さなことから頭に入れていくようなことはしているが、本格的に勉学をはじめるのは、大抵が七歳を過ぎてからだった。
 近くの寺院へ寄宿したり通ったりして、教養を深める。幼い頃は協調性や社交性を学ぶところから始まり、一番必要な読み書きや兵法だけではなく、看経、歌、管弦、古典の歌集や論語なども学ぶ。下位の武家ならばそこまではしないが、将来ある程度人を従える立場になる子息は、広い教養を求められた。そういった、実質的に必要のないところまで求められたのは、単純に、公家のすることならば真似をする武家としての名残があったせいだろうが……幅広い知識が求められるのは事実だ。
 頭領格にもなる家の子息が長い間城を出て寄宿するのは、本人や国にとって、寺にとっても危険が多かったので好ましいことではないが、戦時のことなどを考えると、集団での協調性などはやはり必要なことだった。家の加護を離れて、外の空気に触れたり、外の人間の考え方や生き方を見ることも重要なことだ。
 戦乱の火は、数年前までよりも確実に強くなってきている。戦国大名のひとつである神宮家の当主は、慣例に倣ってその年になったら息子たちに勉学をさせるつもりでいた。まずは護衛付きで十日程寺院へ寄宿させ、その後は特定の教師になる人物を城へ呼び寄せたり、寺院へ通わせたりして勉学に勤めさせることに決めていた。その間、万一のことを考えて、神宮の名前は伏せておく。
 この年、七歳になった紅巴は、出立の日をとても楽しみにしていた。本来ならば、少し前に出立の予定だったのだが、その頃にあまり体の強くない彼自身が伏せってしまって、日程を延長していたこともあり、待ちに待った出立だった。
 空はきれいに晴れ上がり、遠く青く澄んだ色が広がっている。雲は時折、小さな白い染みを落としたように漂う程度だ。漂う桃の香が明るい風景と気持ちに色を加える。出立にはとてもよい天気だ。
 神宮家の長男たる彼の旅立ちには当然、複数の供が付き、荷物を持つ人間がいるが、神宮家の方針として何もかもを臣や侍従にまかせきりにしない。彼自身も自分のための小さな荷物を背負って部屋を出たところだった。立ち止まり、なんとなく開放感で大きく息を吸って、空を見上げて、自然と頬に浮かんでくる笑いに、また嬉しくなっていた。
 そこに、バタバタと大きな音が近づいてくる。
 晴れ晴れとしていた気持ちが、一瞬にして闇に覆われた。
 いつもの、騒々しい音だ。いつものわずらわしい音だ。今日この時ばかりは、聞きたくもなかったし、聞こえるはずのないものだった。
 足の裏を全部床につけるパタパタとした安定のない走り方でかけてくる生き物。その後ろを慌てて駆けてくる女性がいる。彼女は、紅巴を見ると、申し訳なさそうな目を向けた。更に少し、暗いものが晴れていた心を覆う。その間にも、駆けてきた子どもは紅巴にとびついて、途端に火がついたように泣きした。
「ずるいずるい、流紅だけ仲間はずれにするなんてずるい」
 紅巴の身支度を手伝っていた侍女たちは、彼が回廊に出たのに従って来ていた。彼女たちは流紅の様子を見ても、叱ったり止めたりしない。困ったような、それでいて仕方ないなあと許容するような表情をしている。流紅のあまりの勢いに、誰も声をかけたり宥めたりできずに、かといって困惑したりしているわけでもなく、空気が和やかだ。それが紅巴の気持ちをささくれ立たせて、彼は異母弟の存在を無視することにした。
 流紅がまとわりついて邪魔だったが、そのまま、引きずるようにして歩き出す。この年頃での二歳の差は大きく、紅巴は年の割りに背が高い方で、そのままでもなんとか前に進むことができた。
「兄上どこに行くの。流紅もいっしょに行く」
 流紅は大声で泣き喚きながら、言葉らしきものを発している。紅巴は無視をする。口を閉ざして前を向いたまま、歩いていく。流紅は大声で泣いたままだ。見かねて、紅巴の母である桔梗の方が後ろから声をかける。
「兄上は、今日からお勉強で、しばらく外出されるのですよ」
「なんでみんな教えてくれないの。流紅にひみつにするなんてずるい」
 そっと肩にかけられた相手の手を振り払おうと流紅が片腕を振り回し、その隙に紅巴がまた拘束を緩めて前に出る。だが片手はしっかりと紅巴の袖を掴んだままで、流紅はずるずると兄の後ろをついて歩いていた。
「流紅もいく。いっしょにいく」
「だめだ」
 かたくなに口を閉ざしていた紅巴が、やっと声を出した。前を向いたまま、背にくくりつけた自分の荷物の、体の前にある結び目のあたりをしっかり握り締めて。自分の泣き声の合間に聞こえた言葉に、流紅がいっそう大きな声を上げる。
「いやだいやだいやだ」
 幼い声は、駄々をこねすぎて、しゃくりあげる喉に邪魔されてまともにしゃべれなくなってきていた。それでもまだあきらめずに言い続けている。あきらかに息の仕方も普通の状態ではなくなっていて、そのまま呼吸を止まらせてひっくりかえってしまうのではないかと、周りの人間が緊張と心配ではらはらしだしていた。
「いやだいやだ。兄上がいなくなっちゃうなんていやだ」
 兄の着物の袖を片手でかたくなに掴んで、泣きながらついて歩いている。出立の用意を整えて、門の方に歩いている一行は、この様子を見ているだけでもう、ひきはがすのをあきらめかけていた。こうなるだろうことは予想がついていたから、少年に気づかれないように出かける予定だったが、子どもの勘と癇癪にはかなわない。
 大名家として名高い神宮家の、現当主には二人の妻と三人の子どもがいた。側室である桔梗の方を母に持つ長男、紅巴と、正室を母に持つ弟の流紅と、末姫の桃己。
 流紅の実母である神宮当主の正室は、流紅を生んでから伏せりがちになり、一昨年娘を出産してからは、起き上がることもあまりできないくらいになってしまっていた。紅巴が生まれた頃には国中を巻き込んだ大規模な動乱があり、そのときに生家を失い、気持ちが沈み気味だったせいもあったのだろう。昨年十九歳の若さで、風邪をこじらせて亡くなっていた。
 彼女が亡くなる前から、伏せり気味の母親にはあまり近づけないせいか、流紅は当主の側室である桔梗の方になついていて、紅巴にくっついていることが多かった。妹が生まれてから、そしてさらに母親が亡くなってから、ますますその度合いが強くなっていた。
 そんな彼に見つからないようにというのがそもそも難しい問題だったが、幼い彼を寝かしつけて、その隙に出立をするつもりだったのだ。陳腐ではあるが、変に勘ぐられないようにと思慮した上での苦肉だった。
 門前にたどりついても、流紅はまだ紅巴の袖を掴んでいる。しゃくりあげながら「うー」とうなることしか出来なくなっていたが、頑なな拳は解かれる気配がない。
 用意された馬の前で、呆れと微笑の混じった表情で待っている供の前で、紅巴は弟を振り返った。顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。汚い。
 紅巴は弟を振り返ると、端からそう見えないように、静かに深く息を吸った。それからなるべく優しい声になるように努力して、声をかける。
「流紅、そんなに遠くに行くわけじゃないんだし」
 うなり声だけで、返事はない。
「すぐに帰ってくるから」
 やはり返事はない。しゃくりあげる声だけがある。少し紅巴の眉があがる。
「流紅」
 三度目には、声に苛立ちがにじんでいた。滅多に怒ることのない紅巴の、再び硬さを持った声に、流紅は音をたてて息を飲み込んだ。袖を握り締めた拳が、ぶるぶると震え始める。
 まずいと思ったのだろう、桔梗の方が声をかけようと手を伸ばしたのが見えた。だが、遅かった。流紅は突然くるりと踵を返すと、また騒々しい音をたてて駆け出した。突然の彼の行動に、ついてきていた侍女たちは驚き、少し遅れてから慌てて後を追っていく。
 桔梗の方は、流紅につられたように、とっさに彼が駆けていった方向へ体を向けかけ、やめた。すばしこい小さな背を、人がばたばたと追っていくのを見て、顔を戻す。
 途端に、あたりが静かになった。頭痛や眩暈を引き起こすほどの子どもの力は、温度すらも季節すらも景色すらもかき消していたようで、あたりに時間が戻ってくる。風がふわりと吹いた。花の香が運ばれてくる。ずっとあったはずなのに、花の色も香りも、騒々しい存在が圧していた。
 ようやく落ち着いて息がつけるようになって、紅巴は母親を見上げる。母は、あたりに満ちる風と同じ、穏やかであたたかな眼差しで言った。
「父上には、きちんと挨拶してきましたか?」
「はい。ちゃんとひとりで行けました」
「良かったわ。えらいわね」
 優しい手が、一度だけ紅巴の頭をなでて、頬に触れた。体が弱い息子の、体温が高くなっていないのを確かめたのだろう。彼女は身をかがめて紅巴の目を覗き込む。
「具合の悪いところはない?」
「だいじょうぶです」
 紅巴も笑みを返す。自分に向けてくれる視線が嬉しい。母は、安堵というべきか、相手を安心させるためと言うべきか、再び微笑んで手を離した。
「体に気をつけて。がんばってね」
「はい」
 誇らしい気持ちが戻ってくる。浅春の風を吸い込んだ。
「行ってまいります」
 行ってらっしゃい、との母の言葉を受けてから、供の者が馬鍬を持つ子馬の背に身を持ち上げる。そのまま一人が馬鍬を引き、別の数人が騎乗して従い、一行はようやく城の門を抜ける。予想していたよりも大騒ぎにはならず、場合によっては出立の時間が引き延ばされるのではないかと思われていたが、あっさりと流紅が引いたおかげで、予定通りには目的地に到着できそうだった。予定の寺は遠く、歩くのと変わらないこの速さでは、一日での到着はできないので、途中宿をとる予定だった。
 ほっとしたし、気持ちが晴れやかだった。それ以上に、清々していた。
 それなのに、耳がまた、騒ぎの音を拾う。
 後ろから追ってくる声など、聞きたくなかった。振り返ったらおしまいだと思った。断固として、見るまいと思って前を向いていた。なのに、馬鍬を持っていた供の者が、振り返る。前を進んでいた兵が振り返る。あっと驚いた声を上げて、馬足を止める。先導が止まるから、紅巴の馬の足も止まる。
 仕方なく――それに、皆が見るから気になって、紅巴も振り返って見た。
 城の大きな楼門。まだ抜けてきて幾分も進んでいない。その門の近くにある城内の大木の、塀に阻まれない高さに動くものが見えた。子どもが、千切れんばかりに、手を振っている。反動で揺さぶられて、足元の枝がガサガサと大きな音をたてていた。
 泣き喚いていた弟は、ぐるりと回って戻ってきて、門の近くにある大木によじ登ったようだった。
 馬鹿だなあ、と言葉が頭に浮かぶ。
「兄上ー! いってらっしゃいー!」
 甲高い声が、叫ぶように言っている。
 周囲で、和やかな笑い声がもれた。
 笑顔で手を振り返しながら、今度は、危ないなあと心の中でつぶやく。城の塀は当然高いのだから、紅巴の姿を見送ろうとすれば、だいぶ上のほうに登らなければできないはずだ。木の下では、兵たちがどれだけ慌てていることだろう。周りの迷惑も――主に、紅巴自身の迷惑など考えもしない弟に、また心の中に黒い影がさす。紅巴があれだけ大騒ぎして、あんな木に登るなんて無茶をしようものなら、次の日には熱を出して起き上がってこれなくなる。考えてしまって、またじわりと侵食される。
 それが嫌で、花信の風を、また静かに深く吸い込む。怒ったって、流紅みたいに癇癪を起こしたって、何にもならない。神宮家の居城である桜花城は、山にある城だ。城から城下へ続く道には、家臣の邸宅があり、あたりは土と草の匂いに満ちている。柔らかな春の草木の匂いで、滅茶苦茶な感情を押さえこんだ。
 気持ちがこれ以上侵される前に、弟がまた、兄上が戻ってこないと下におりない、などと駄々をこね始める前に、行ってしまいたかった。
 それなのに、また。
 視界の中で、鮮やかな緑の木の葉の中から、小さな姿が消える。突然、消えた。
 落ちたのだ。








「栴檀の君の香は」トップへ


「君は冬の陽に目覚め」トップへ