落ちる




 拳に握った手を、正した膝の上に乗せ、冷たい木の床に座している。床は堅くて足が痛い。紅巴はうつむいて、自分の拳を見ている。上座の父が、あきれた声で独り言のように言った。
「まったく、流紅は困ったやつだな。誰に似たのだか」
 武士の子とも思えん、と付け足して。
 紅巴よりも体の小さい弟は、一体どこにそれだけの力があるのか、つい先頃までも大きな泣き声が聞こえていた。木から落ちてすぐはびっくりしたのか、声も出ずにいたようだが、少し遅れてまた大声をあげた。その直前まで泣き喚きすぎて、しゃくり上げる喉から泣く声も出なくなるくらいだったはずなのに、いつの間にそれだけの力を取り戻したのか、あきれ返るくらいだった。
 壁に隔てられていた紅巴には、門の内側でどうなっていたのか分からない。でも、血相を変えた人々が、とにかくまず流紅の無事を確かめたのだろうことは、予想できた。それから、元気すぎる大声に、安堵と笑いと呆れが満ちたのだろうことも。いつものことだ。似たような光景なら、いつも見る。
「流紅は何ともなかったのですか? 腕を押さえていましたけど」
 丁寧に言葉を発した紅巴に、神宮当主は、ああ、とさして心配しているようにも思えない声をあげた。放るように言う。
「強烈に腫れておったわ。どうやら折ったようだな。熱を出すかもしれん」
 じゃあ、そんなに大事じゃなかったんだ。そう決めつけて、小さく安堵の息を吐く。あの高さから落ちたのなら無事ではすまないだろうから、もっと大変なことになると思っていた。泣き声はうるさかったが、痛そうだなと思っていたのも事実だった。
 良かった、と思う気持ちの中は決して、明るいものばかりではない。安心してしまうと、違う感情がわいてくる。駆けつけた母の腕に甘えかかって、抱き上げられているのを見た刹那、噴出すように沸いた黒い感情が甦った。そしてずっと気にかかっていた、うやむやのまま紅巴自身の出立が遅れてしまったことが、更に心の中を覆いだす。
 問いたかったけれど、言えなかった。黙り込んで、自分の拳を見つめたままの紅巴を見て、父は、やれやれと言葉を落とした。
「お前の修学だが、来年に延期することにした。流紅と一緒に行ってやってくれ。お前には少し遅くなるし、流紅には少し早いが、制限があるわけでもないし、別に問題もないだろう」
 紅巴が、勢いよく顔をあげる。脇息に肘をついて、上座から見下ろす父の顔があった。飄々とした父には珍しく、少し皮肉ったような顔をして。
「お前はひとりでも不安ないだろうがな。来年だろうと再来年だろうと、あれをひとりで外に出すのは不安だしな」
「でも、父上」
 言葉を押し出す。
 ――とても楽しみにしていた。
 ずっとずっと前からだ。ずでに一度延期になってしまっていたし、やっとだ、と思っていて。
「お前にはそれまでしっかりとした講師を呼んでやる。お前も、それまでもっと体を鍛えておけ」
 父は、甘い人ではない。
 一度彼が決めたら、揺るがないことを知っている。
 もう、何も言えなくなってしまった。かつて日延べになったのは、紅巴自身が具合を悪くしたからだった。
 ――でも、体が弱いのは、ぼくのせいではないのに。
 唇を噛み締める。
 走ったらすぐに息がきれて、苦しくなって、日に当たりすぎると頭がくらくらして、ひどくなると目の前が真っ白になって、それを何よりも苛立っているのは、紅巴自身なのに。走り回って力いっぱい剣の稽古をして、城から出て外に遊びに出かけて、馬を駆って――
 何も、出来ない。
 何も持っていないのに。
 流紅が持っているもののうちの、ほんの少しも。
 弟の小さな体が消えたのを見て、とっさに馬の手綱を引いたことを、あの時も、次の瞬間には後悔していた。馬鍬は他の人間が持っていたから、それで馬が向きを変えたわけではない。だけども、彼らにとっての主筋である紅巴が、少しでも戻る意志を見せた事に変わりはなくて、そうなれば彼らの行動は決まっている。
 ――反応をしなければ、そのまま行ってしまえたかといえばそうではないのかもしれない。けれども、自分自身が、少しでも戻ろうという意志を見せてしまったことが嫌だった。
 すぐに気がついて、体を進路の方へと戻した。けれど紅巴の従者についていた人間は、彼の無意識の意を汲んで、城に戻った。違うと言いたかったが、声にできなかった。言えなかった。
 戻らなきゃ良かった。何があってもどうなっても、戻らなければ良かった。流紅のように泣いて叫んで、戻りたくないと言えば良かった。言えたら、良かったのに。
「悪いな」
 大きな手のひらが、頭の上に置かれる。黙り込んだ紅巴の方へいつの間にか父が近寄って来ていて、目の前にしゃがむように座っていた。あたたかくて悔しくて、泣きたくなった。でも泣かない。
 ――とても楽しみにしていたのに。
 外の世界に出てみたかった。もっともっといろんなものを見たかった。この城の中の人でない、自分を当主の子だとか側室の子だとか、そういう見方をしない人と接してみたかった。
 比較されたくなかった。走り回って大声で泣いて大声で笑う弟を見たくなかった。比較したくなかった。
 流紅から離れたかった。







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