恨み





 回廊は明るい光に満ちている。紅巴には、そのぽかぽかと暖かい陽気すら、苛立たしかった。自分が未だ旅装のままでいることが妙に気恥ずかしくなる。
 早く自分の部屋に戻りたかったが、行く先に人がいて、できなかった。紅巴を待っていた侍女が、頭を下げて進路をふさいでいる。邪魔をされて苛立ちが募り、流紅付きの侍女だと気づいて、余計に気持ちが悪くなる。
「申し訳ありません」
 黙り込んでいると、彼女は丁寧に言った。
「流紅様が不安がって泣いておられるので、お越しいただけませんでしょうか」
 まだ泣いているのか、とあきれた。そんなこと、ぼくに関係なんかあるもんか、と言いたかった。あいつが不安がってるから、何なんだと。だけど、拒絶することもできない。
 侍女に連れられるまま、流紅の寝ている部屋へと足を運ぶ。侍女が部屋の障子を開けると、寝具に横になっている流紅が見えた。額に濡れた布をおいて、ぐずぐずとうなっていた。泣き声のような、うめき声のような音を立てて、時々しゃくりあげている。
「流紅様」
 侍女が廊下から声をかけると、流紅の枕元で、こちらに背を向けて座ってた桔梗の方が振り向いた。母は紅巴の姿を認めて、少し困ったように微笑むと、また顔を流紅の方へと戻す。顔を少年へ近づけて、そっと吐息のような声を落とした。
「兄上がいらっしゃいましたよ」
 流紅の顔が勢いよく廊下を向いた。額から布が重たげに落ちる。紅巴の姿を捕らえて、遠くで見ても分かるくらい、流紅の表情がくるりと変わる。
「兄上」
 嬉しそうな声があがる。唇を噛み締めていた紅巴は、笑みを返そうとして出来ないことに気づき、唇を解いた。
「大丈夫?」
 ごまかしのために声をかけながら、部屋の中へと足を踏み入れる。桔梗の方の隣に並んで座った。流紅の額から落ちた布を拾って、流紅の頭に乗せ直している彼女の隣、枕元からは少し離れた場所に。向かいには、少し離れて侍女が控えている。
「腕が痛い」
 流紅は、甘えた声で言った。
 折ったのなら、痛いだろう。
「すごく高くまで登ってたね」
「うん、上まで登れるようになったよ」
 少しぼんやりとした目で、ぼんやりとした声が返ってくる。その無自覚な、無邪気な言葉にも声にも、紅巴は、奥歯を噛み締めて、声を飲み込んだ。ほめてほしいのだろうけど、そんなこと言えない。そんなこと言ってやるもんか。
 ぼんやりとした目を見ながら、違うことを言った。
「熱が出たの?」
「気分が悪い」
 駄々をこねるように口にして、流紅は無事な方の手を伸ばしてくる。紅巴が座っている場所はすぐに手の届く距離というには少し遠くて、無理をしているのが見ていて分かった。それでも紅巴は、自分から手を出してやらない。流紅はなんとか紅巴の袖を掴むと、甘えた声で言った。
「兄上、お勉強に行かないの?」
 まだ聞かされていなかったのだろうか。ただ確かめたかったのだろうか。袖を捕まえたのは、逃がさないとか、また知らないうちに行かれたら嫌だとかいう意思表示だろうか。
 どちらにしたって、改めて言われたいことではなかった。それも流紅の口から。また強く、旅装のままの自分が恥ずかしくなる。馬鹿にされているような気すらしてくる。
「兄上」
 答えない紅巴に、流紅が呼びかけて、すぐにその顔色が曇った。絡んだ視線の向こうで、みるみる涙が瞳を覆う。それを見ていたくなくて、紅巴は少しだけ目をそらしてただ、笑おうとした。
 けれど向かいに座っていた侍女が、少し困惑したような表情で紅巴を見ている。口をはさんでいいものかどうか、桔梗の方と紅巴を見比べてから、声にした。
「紅巴様」
 たしなめるような声のせいで、自分がとても険しい表情をしていたことに気がつく。
 流紅の手が、紅巴の袖から離れる。揺れた声が細く問う。
「兄上、怒ってるの?」
 当たり前のことを聞かれるのが嫌いだった。誰にだって考えれば分かるようなことなら、尚更。
「ごめんなさい兄上。ごめんなさい」
 ――謝るな!
 心の中で叫んでいた。
 口先ばっかりだ、流紅なんて。ご機嫌をとろうとして、言ってるだけのくせに。
 大きく息を吸って、そのまま細く長く吐いて、気持ちを落ち着けて、つぶやく。なるべく落ち着いて、ゆっくりと優しく。
「謝らなくていいよ」
 ――謝られるのは嫌いだった。意味がないから。
 もう、これ以上ここにいるのは限界だった。我慢ができなくて、その場から逃げ出していた。



 大股で城内を駆けて、つい先刻とても楽しい気持ちで後にしたはずの自室に駆け込んで、紅巴は大声で叫びたい衝動を抑え込んでいた。苛立ちにまみれて、目に付いた文机を蹴飛ばした。荷物を入れていた吉利を蹴飛ばして、中身をひっくりかえした。感情が体の中で荒れ狂って、頭の中から溢れそうで、ただ肩で荒く息をつく。叫びもわめきもしないで、転がったものを睨みつけて、瞳からあふれそうになる涙と戦っていた。
 蹴飛ばした足が痛い。惨めだった。泣いたらもっと惨めだ。
 馬鹿な弟馬鹿な弟、馬鹿な弟。
「紅巴」
 後ろから呼ぶ声がした。とても穏やかな声だった。だけど責められたような気がしてしまう。紅巴は振り返りもせず立ち尽くしたまま、強く吐き出した。
「いつも、流紅の都合でぼくがふりまわされる」
 わがままが言える流紅と、言えない自分。言ってしまって許される流紅と、それが決して同じようにはならない、自分――
 開け放したままだった入り口から、優しい足音が近づいてくる。紅巴の前に膝を付いて、懸命に何もかもの感情をこらえている彼の顔を覗き込んで、母は言った。
「何も望みすぎてはだめよ」
 紅巴が生まれたとき、すでに父である神宮当主には正室がいた。しかしそのとき、彼女にはまだ子がない。現実として嫡子がいない状態で、紅巴の母である桔梗の方が当主に「側室」として迎えられた以上、紅巴の誕生は喜ばれた。とりあえず。商家の娘である女の子どもが男の子であるというのが問題ではあっても。
 しかしながら、正室が身ごもり、流紅が生まれてからは事情が異なってくる。
 紅巴は「予備」だった。
 長子が跡目を継ぐことが多くても、側室の子は軽んじられる。まれに長子ではない者が推挙されることもあるが、それは長子の体が弱かったり、長子が愚鈍だったりすることが多い。まだ幼いとはいえ才覚を見せていて、でも決して体が強くはない紅巴の現実は、彼にとっても臣にとっても、厳しいものだった。
 流紅が、いるから。
 常に臣も侍女たちも皆、流紅を心配している。
 だけど、彼らの多くにとって流紅は当主の子であることが、第一だった。親身になってくれる母親はいない。流紅の母親は、乳母をつけようとする臣に反発し、自分で育てると言い張った。けれども、不安定だった彼女が一人で育てきれるはずもなく、桔梗の方が手助けをすることが多かった。だから、流紅には乳母もいないし、乳兄弟のようなものもいない。
 城には小姓が多くいるし、城内で働く人間や、臣の子息にも同じ年頃の少年はもちろんいるのだが、流紅はより親しく近づける人間を望んでいた。身分の差というものがついてまわるからには、それができる相手は当然限られる。
 紅巴や流紅をとりまく現状を知っていても、父親はこれといった行動を起こしはしなかった。水面下で起きている物事に対しては動かない人だ。現実として大きな問題を起こす可能性のある物事でもない限りは。大きく人に干渉したり、行動を規制したりするのが好きではないのだろう。彼自身そうされるのが嫌いだから。紅巴と流紅の思いと、人々の思惑を尊重して、無理強いはしない。そうして人々の動向を見て観察して、物事の流れを読んでいる。彼が実際に行動して頭から押さえつけるときには、もう誰も逆らうことなどできない。
 そうやって流紅に、母親をとられる。自分の居場所をとられる。流紅は何もかも持っているくせに、苦労しなくたって、誰にでも必要とされているくせに、たった一つ楽しみにしていたものまで取っていく。
 こうやって。
「わたしたちは、あなたに甘えているわね。わたしは、自分のために何も望まないつもりだったけれど、あなたにもそうしろと言うのは酷かも知れないわね。……あの人の子なのだもの」
 予備はいくらいても困るものではない。幼い頃に命を落とす人が多いのだから。だけど。
「こんな母親でごめんなさい。あなたのために、あの人や臣に取り入って策謀しようと思いもしない母親で、ごめんなさい」
 母は、黙り込んだままの紅巴に、重ねて言った。
 ――流紅なんて、いなければ良かったのに。
「謝らないでください」
 紅巴は無理矢理頬に力を入れて、笑って言った。
 謝られるのは嫌いだった。意味がないから。すごく、みじめな気持ちになるから。救いがない気持ちになるから。どうしようもないんだって、言い聞かされている気がしてしまうから。どうにかすることもできないし、どうにかする気もないんだよと。
 すまながってることを伝えればいいと思っている。
 父も母も、誰も彼もそうやって、あきらめろ、と言ってくる。
 その言葉が、何の意味も持たないことを、何の結果ももたらさないことを、十分に知ってしまった。
 どうする気もないのだと、暗に言い聞かされることに、もう、うんざりしてしまった。
「あなたは泣かない子ね」
 少し悲しそうに、母は言った。






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