風が、木々を揺らして音をたてている。
 流紅が腕を折った時には、桜の花がつぼみを膨らませていた。それから数日、寂しく揺れていた枝に、こらえきれず咲き始めた花がほのかな色を与えはじめている。満開にはまだ至らないが、数日のうちには、神宮の住まうこの山は艶やかに花の色に染まる。
 その間、紅巴は流紅の顔を見ることなく過ごしている。
 世話役の臣を向かいに、見台の書物を読み上げる。
 彼の年頃の子どもが学ぶような、手習いはとっくに卒業してしまった。
 流紅と比べるならば、彼は逆にそういったものへの興味が乏しい。紅巴が流紅の年の頃、紅巴が読むことの出来たものの半分も、流紅は読み書きすることが出来ないだろう。それは紅巴の誇りでもあったし、臥せりがちの彼が唯一簡単に身につけることが出来たことだ。読書や知識を身につけることは彼の好んだことでもあったが、成果というよりはただの結果であったことも事実だ。
 だがそれでも、紅巴にとっては楽しい時間だった。知らないことを知っていく。大人たちが、父が考えていることのかけらを知っていくのは、僅かでも彼らに近づいていくことだ。父が何を悩み、何のために何をなそうとしているのか。
 少しでも早く、それを知りたいと思っていた。ほんの些細でも、助けになれたなら。
 ――必要であれたなら。
 いつも駆け込んで来ては紅巴にまとわりついて、一緒に勉強するといってはすぐに退屈して騒ぎ出す流紅がいないので、時間はゆるやかに流れている。
 期待していた通り遠出に行くことはできなかったけれど、なんとかこうして和やかに過ごすことは出来ていた。流紅がしばらく寝付いているせいではあったが、普段なら先日のようにすぐ紅巴が呼び立てられる。いくら熱があるからといって流紅がおとなしく寝ているわけがなく、普段ならば退屈紛れの相手をさせられるところだろうが、今はその気配がまったくない。紅巴にはとても珍しい癇癪を起こした結果のようなもので、少し恥ずかしくもあったけれど、流紅もさすがにびっくりしたのか似合わず遠慮しているのか、まわりの大人が止めているのか、どちらにしても紅巴はとても嬉しかった。
 だから錯覚だと、思いたかった。足の裏を全部つけてぺたぺたと歩く音が聞こえたときは。
 開け放した戸から入る風はとても穏やかだ。戯れに鳥の声が忍びこんでくる。日の光は決して眩しくもなく、ゆるやかに肌をなでる。その春の佳景を背に、障子戸から遠慮がちに顔が部屋の中を覗いた。大きな明るい目が、上目がちに見ている。
「おや」
 紅巴と真向かっていた臣は、彼に気づいて声をあげた。常にない流紅の遠慮がちな態度に、和やかに笑う。
「お一人ですか?」
「うん。こっそり出てきたから、ひみつ」
「おやおや。お加減はもうよろしいのですか?」
「どこも悪くないもん。寝てるの退屈」
「それは」
 彼は何か言葉を続けようとして止まり、笑みも束の間抜け落ち、一度口を閉ざした。それから再び顔に笑みをまとって続けた。
「よろしゅうございました。しかし、皆に黙っておひとりで出歩かれるのは関心いたしませんよ」
 彼が何を言おうとしたか、紅巴には簡単に察せられた。それは普通、快癒した人間に向けるには何の不思議も無い言葉だろう。若は丈夫でいらっしゃる。回復が早くていらっしゃいますね。何でもいい、そんな言葉だ。
 かわりに場に満ちた、はっとしたような、ほんの束の間の空白が紅巴の胸に刺さる。
「でも、ここにいたら、ひとりじゃないからいいでしょ?」
「どちらにいらっしゃるのか、桔梗殿にお知らせしておかないと。驚かせてしまいますよ」
「でも、そんなことしたら、まだ寝ていなさいっていわれるもん」
 流紅はまだ、部屋の中に入ってこようとしない。顔だけを覗かせて、窺っている。言葉は臣とかわしていても、視線が紅巴を捉えている。
 ね? と語りかけてくる声が聞こえるようだ。
 ごめんなさい。もう怒ってないよね?
 流紅は、癇癪が長持ちしない。いつもくるくると感情を変えてしまう。大人たちはいつもそれについていくのに必死で、疲れ果てている。それを桔梗の方は、子どもはそんなものですと言って笑う。元気があって良いことです、と大人たちは笑う。苛烈であってこそ武家の子だ。多少路次を外れても、それが神宮の子であろう。
 ――だから、皆がそうだと思っているのだろう。
「流紅。わがまま言ったら、だめだよ」
 紅巴は、顔を背けてつぶやいた。明るい光を見ていた目は、部屋の隅に向けられて、視界に少し影が躍る。
「だって!」
 まだ紅巴がすげない態度をとるとは思わなかったのだろう。いつも兄は和やかで優しかったから。流紅は飛びつくような勢いで言った。だん、と音が聞こえる。多分、隠れるのを止めて踏み出した音だ。
「だって、だって、つまんないんだもん!」
「寝てなくちゃ治らないんだから、仕方ないじゃないか。流紅が悪いんだよ」
「でも、だって!」
 自分のせいだ、自業自得と言われて流紅は言葉を詰まらせる。そして、いじけたように続けた。
「兄上、遊びに来てくれないんだもん」
「行くわけないじゃないか」
 苛立たしさが堪えられなくなって、紅巴は吐き捨てるように言った。
 びっくりしたように、息を呑む音が聞こえた。聞きたくないのに。驚いて息を吸い込んだのか、泣く前兆なのか。
 喧嘩はいけませんよ、と慌てて割り込む声がした。
「兄君」
 臣は、諌めるように紅巴をそう呼んだ。
 単に、流紅と紅巴のふたりともがそこにいたからだろう。ただそれだけだろう。だが、年嵩の者が、若年の者に何ですか、と言われているような気がした。
 ――我慢しなさい。
 この間の侍女もそうだ。母も。
「兄上、怒ってるの?」
 先日と同じように、問いかけてくる。まだ、怒ってるの、と言われた気がした。つまらないことでしつこいな、とか、そういう言葉が聞こえた気がした。
 ――流紅にだけは、何も、言われたくない。
「怒ってるよ」
 強く、言葉を吐く。
 跳ね返るように、声が返ってくる。
「ごめんなさい」
 その早さは、逆に不誠実さを感じさせた。いい加減に感じた。ただ、驚き慌てただけだとしても。
 ――だから、謝るなって言ってるのに。
 無意味だ。お前の言う言葉なんか!
 そのことばかりが、紅巴の思考を縛る。顔を向けて流紅を見る。彼の大きな目から、涙がこぼれおちている。腕にはまだ白い包帯が巻かれていた。痛々しさに、刹那、心の臓が揺れる。
 それでも、傍にいる臣の気配がうるさい。どう割り込むべきか諌めるべきか、迷っている気配がする。彼がどうせ、この顛末を父に伝えるのだろう。誰かに、広めるのだろう。
 それでなくても流紅が誰かに告げ口をして――悪気なんかなくたって、告げ口する気なんかなくなって、侍女に目がはれている理由を聞かれて、流紅が答えるだけで、その話は瞬く間に父の耳に入り母の耳に入り、臣の間に広がるだろう。紅巴が妬みで流紅にいやみを言ったのだとか、いじめたのだとか、これだから劣り腹は卑しいのだと影で言われるのだろう。劣り腹何だとか詳しいことはわからなくても、母親がさげすみの対象になるのは紅巴にもわかっていた。
「泣くな」
 流紅の涙さえも、苛立ちを誘う。涙なんて、同情を引こうとしてるだけだ。
 ――あなたは泣かない子ね。
 母の声を思い出す。
 泣いたって無駄なことをもう、知ってしまったからだ。涙は人の気をひくための道具だと、流紅や桃巳を見ていて、知ってしまったから。そして自分がそれをしたって無駄なことを、わかってしまったから。
「泣くのは嫌いだ」
 無意味だ。紅巴にとって涙なんて。
 誰の気をひくことだって、出来はしないのだから。どれだけ悲しくても。
「兄上は、わたしがきらいですか」
 当たり前のことを聞かれて、それにいちいち答えるのが嫌いだった。それが、馬鹿げていることなら尚更。それが、流紅相手なら尚更。
 出立の日から――それよりもずっと以前から身の内を渦巻いていた感情が、春の和やかな日差しも風も忘れさせていた。ぐるぐると怒りで目がまわりそうだった。
「流紅なんか嫌いだ」
 謝ったって、謝られたって、何にもならない。
「流紅がいるから、ぼくは誰にも見てもらえない」
 ささやかな楽しみもなくなった。ぼくの気持ちなんて無視して、勝手に大人たちが決めてしまう。
「流紅がいるから、ぼくは、いらないんだ」
 いつもみじめだ。
 いなければ良かったのに。流紅がいるなら、ぼくなんていない方が良かった。生まれてここにいなかったら、こんなにみじめじゃなかった。こんな気持ちにならなかった。
 いらない、と自分で声に出した。それが余計に自分自身をいたたまれなくさせた。
「ごめ……んなさ……!」
 いつものように喚かず、涙をこぼして嗚咽を堪えていた流紅が、なんとか声を出そうとしていた。謝ろうとして、謝るなと言われたことを思い出したのか、最後まで言い切らずに消える。しゃくりあげるだけで声が出なかっただけかもしれないが。
 許しを得たくて、請いたくて、でもできなくて、追い詰められた姿があった。
 ――それを視界におさめていることすら、紅巴には苦痛だった。
 再び、呼ぶ声がする。今度は多分、名を呼ばれたのだと思う。はっきりとはわからなかったが。気がつくと紅巴は、流紅に近づき、そしてその横をすりぬけていた。冷たい回廊を駆け抜ける。
 逃げ出していた。先日と同じように。けれど、それよりも更に、どうしようもない気持ちで。
 より遠くへ。遠くへ。ここにはいられない。何も見たくない。聞きたくない。それだけを思って。






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