「今のは、わしの聞き間違いか?」 悠然と脇息に肘をついて、のどかとも言えるような声で、神宮当主が問うた。言われた相手は、こちらも焦った様子もなく答える。 「間違いではございません。弟君ではなく、兄君が、と申し上げました」 小さく、息が落ちる。 「紅巴が、いなくなった?」 「流紅様と、口論になりまして」 数年前まではともかくとして、最近は子どもたちが喧嘩をしたという話すら聞かない。 「口論だけか?」 「左様です」 報告に来ていた臣は、床に手をついて深々と頭をさげた。 「わたしがその場にいながら、お止めできずに申し訳ありません」 「お前は、昔から変なところで悠長に構えすぎなんだよ」 先刻から変わらず、少しも慌てることもなく、神宮当主は言った。笑いながら。 「先日から、あれは何か張り詰めていたからな。それで流紅に手をあげないで自分を追い詰めるところが、あれらしいと言えばらしいが」 いっそ取っ組み合いの喧嘩なりすれば良いのに、とのんきに続ける。諍いの場にいた臣が、どういった内容で喧嘩をしていたのかの説明をするまでもなく、だいたいのことを察した様子の当主に、臣は驚きよりも、相変わらずだなと思う。のらりくらりと人の意志をかわすが、この人はわかっていない訳ではない。その上で知らん顔をして、自分の思惑を通してしまう。 「先日、行き違いのようなものもあったようですから、そのときに何かすべきだったのかもしれません」 「まあな。だが、思いつめたところでどうにもなるものでもあるまい。多少なりぶつけた方が、お互いのためにもなろうさ」 やれやれ、とまったく悩んだ様子もない息が再び落ちる。おもしろがっているようにも聞こえる。 「手のかかる子どもたちだなあ」 「子どもと言うのはそういうものです。恐れながら言わせていただければ、ご兄弟のどちらも、あなたに比べれば、かわいらしいものです」 神宮当主より少し年嵩の彼は、平然とそう言った。今は子どもたちの世話役としても勤めている臣は、現当主の若い頃、彼の世話役でもあった。当主は罰の悪い顔も苦笑もせず、のんきに答える。久しく、この当主が動揺したところを見た人間はいない。 「わしは、それなりに、分をわきまえておったぞ」 「重ね重ね恐れながら、姑息でいらっしゃいましたからね、そういうところは」 「世渡りがうまいんだよ」 確かに、当主たる彼がそうであるからこそ、神宮は戦国の世にこうしてあり続けることが出来るのだから、その事実に異論を唱える必要もないが。現当主の飄々とした抜け目のなさと言うべきか、得体の知れなさは、人を惑わせる。彼はそれを面白がっている。 「事情は分かったから、さっさと探しに行け」 乱暴な口調だが、放り投げるような言葉が、逆に嫌味を感じさせない。臣は、心得ました、と応え、次いで言った。 「あなたは?」 「わしは、政務で忙しい」 彼の答えは、正しい。一国の領主が、子息がいなくなったからといって、すべてを放り出していくなど、もってのほかだ。世間がいかに物騒で、必死で探しに出かけるのが親だとしても。――やむにやまれぬ事情で、子どもを放逐したのでもなければ。 無言で向けられる目に、当主は唇を片方持ち上げる。 「もう探させておるのだろうが」 「さようですが」 臣は、軽く肩を持ち上げる。 「これ幸いと、雑事からお逃げになるのかと思いましたのに」 「だから、言っただろう。わしは、物事はわきまえておる」 それから、多少薄情に過ぎると思ったのか、相手のいぶかしそうな目に対して、少し付け足した。 「紅巴なら、いかに苛立っておっても、無謀に過ぎることはしまい」 幼いのに、これはしていけないのだ、あれも出来はしないのだと、決め付けてしまっているような子だ。仕方がないことなのかもしれないが。 「流紅は?」 「桔梗殿すらお近づけにならず、おひとりで部屋に篭っておいでです」 「見張りをたててそのまま篭めておけ。あいつまでいなくなったら面倒だ。紅巴よりよほど分別がないからな」 「そのあたりは、ぬかりなく」 ああ、と短い返答がある。そして束の間、沈黙が落ちた。 脇息に肘をついてゆったりと構えたまま、神宮当主は視線を臣の顔から庭へ向けた。日は中天を越えている。もう一刻もたてば、日が暮れ始めるだろう。そして眼差しは再び相手の顔へと戻ってくる。 「桔梗は?」 「紅巴様がお帰りになったときのために床の用意と、薬師の手配をなさっておいででしたが、その後はお部屋に篭っておいでです」 「……だろうな」 何に対しての同意の言葉であったのか、臣は少し考える。 紅巴が、妙な無茶をして、捜索に数日も要するほどの大逃走をするとは思えない。できたとしても。彼は衝動のままに動くよりは考えてしまう子どもだったし、自分の事情を何よりも痛感していた。苛立たしく思いながらも。 だから、さほどに心配する必要もないと同時に、別の心配が大人たちの頭にある。 ――そして桔梗の方は、決して、見苦しく騒ぎ立てる女性ではないのだ。 どれだけ思いつめても、苦しんでいても。 だからと言って、おとなしい女性だというわけでもないのだが。 |