人の声が聞こえた気がしたが、応えず、体を堅くしていた。幾度か、近くを通りかかる足音も人の気配もしたが、そのたびに息を殺してじっとうずくまっている。 城を飛び出したときはまだ明るかった空が、紫に染まりつつある。日が傾き始めている。ほのかな花だけをつけた木々の向こうに消えていく入り日は、もっと広い場所で見ればもっと美しかっただろう。けれどまだ花も咲き始めの頃、陽が沈めば空気も冴える。 体が震えている。 息が苦しくなってきた。大きく吸って、強く吐き出す。息が熱い気がする。 体を鍛えろといわれた矢先に、これだ。寒気がひどい。だけど、声をあげたり、物音をたてたりはしなかった。見つかりたくない。 紅巴は強く自分の腕を掴んで、顔をうずめた。 呼ばわる声が聞こえる。しかしそれも、どこか遠かった。自分の呼吸と、血の脈打つ音がひどく強く頭の中に響く。 「おう」 陽気な声がした。 「いたな」 唐突に振ってきた声に誘われるようにして顔を上げる。気がつけば斜陽すらも遠くて、幹に片手をついて見下ろすその人の顔はよく見えない。 桜の大木の、どっしりと下ろされた根の間に、身をすべりこませるようにして座り込んでいた紅巴は、恐る恐る問いかけた。 「父上?」 「いかにも、お前の父だが」 あっさりとからかうような声が返る。 父が来るとは思わなかった。来てくれるとは。 その声も姿かたちも間違いなく、朝の挨拶をしにいったときに会った父のものには変わりない。だけど、信じられない思いが、愚かとしか言えない問いを口にのぼらせた。 「おひとりですか?」 言うべきことが見つからなくて、けれど沈黙しているのがいやで、出した言葉はそんなものだった。声を出すと、熱い息が溢れるようだ。 「他に人がいるように見えるか?」 「でも、では、皆には、言って……」 「そんなことしたら止められるだろうが」 平然と父は言う。 「粗方やらねばならんことは済ましたからな。文句を言われる筋合いはない。城を抜け出すのは久方ぶりだが、やはり気分がいいな。篭っていては気が詰まる」 問題は、無断でしかもひとりで抜け出してきたことの方だろうが、神宮当主は気にしていない。 「どうして、ここが分かったのですか」 「神宮の人間が逐電したら、最初に探すべきはこの山だろうさ」 やつらは一体、どこを探しておったんだ、と軽口が聞こえる。 神宮の居城があるこの山。もうじき、山一杯に植えられた桜が賑やかに咲き乱れるこの場所は、神宮の人間にとって思い入れのある場所だった。桜花という、土地の名前の由来にもなった場所だ。 「どうする。まだここにいたいか。帰るか?」 ――答えられない。 父に手を伸ばしたい。だけど、体が動かない。だるさのせいだけではなく、ためらわせるものがまだ体の中を渦巻いている。 「怒らないんですか?」 うん? と、気軽な声が返る。暗かったが、眉をあげる仕種が見えたような気がした。 「怒られたいのか。数奇だな」 そういうわけでは、ないのだけど。言うに言えなくて、紅巴は口をつぐんだ。 神宮当主は、紅巴に背中を向けて膝をつく。 「ほら、負ぶされ」 やはり少しためらってしまう。 普通武家の家長が、決して軽口を叩いたり、気軽な態度をとったりしないのとは違い、神宮当主は気軽で、だけど気軽過ぎない人だ。だからこうして気まぐれに城を抜け出してきたり、負ぶされとてらいもなく言ってくれる。何の頓着もなく、そう言ってくれるのが嬉しい。だけど、何もとがめられないのがやはり、少し苦しい。 束の間、父の大きな背中を見て戸惑い、結局紅巴は手を伸ばした。後ろから首に腕を巻いて、体重を預ける。父は、よいしょ、と大げさな声を出して立ち上がった。重くなったなあ、とおもしろがるような、ぼやきのような声が聞こえる。 そのくせ彼は、何の負担も感じさせない足取りで、木々の間を歩き始めた。 「わしが怒るような資格もないしな」 前を見て、宙に言葉を落とす。 「仕方がない。神宮の人間は、桜の時期になると惚けるからな。ちょっとは、ふらふらと外に出たくもなる。一年のうち今くらい呆けたところで、少しくらいは構わんだろうさ」 彼の真意が分からない。 多分、言葉にしたものは嘘ではないだろう。けれどそれでは、どう思っているのか分からない。 ためらい、考えて、結局紅巴は口にした。先程はぐらかされた問いと、同じようで、違う問い。顔をあげているのがつらくて、父の肩に頭をあずけるようにしてつぶやく。 「どうして、いつも何も言わないんですか」 いつも、どこか遠かった。大きな背中は強固で、こうしていてもやはりどこか遠い。だけど、頼ってもいいのだと思わせる強さだ。だけどやはり跳ね除けられないかと不安で。 気持ちの不安定さと体の重さとで、力のない声を出した紅巴に、父は事も無げに言う。 「わしはお前を信用しているからな。もっと他愛ない喧嘩ならともかく、つまらないことで流紅を傷つけようとしたことはないだろうが。これからもそうだろうと、思っているからな。これはわしの事情だが」 その言葉は、何より紅巴に後悔させた。 父はいつもからかうように話す。そのくせ、彼にとって必要でないことは話さない。だから、こんなこと今まで言ってくれなかった。そんなに思ってくれているなんて、気づかなかった。 決め付けていた。 「わしもまだまだ若造だからな」 弱音のようなことを父は、気負いも沈んだ様子もなく言う。 「お前を見ると、失ったものを思い出す。だが、かわりに得た尊いものも思い出す。自分のすべきことを思い出す」 「ぼくが、何か……?」 「そういう意味じゃない。お前は何もしていないし、お前に責任はかぶせない。お前ゆえに何をしようと、何を思おうとわしの勝手だからな。だから、お前がわしを見て何を思おうと、お前の勝手だ」 ――それでもやはり、真意が分からない。 「父上の一番大切なものは何ですか?」 気がつくと問いを口に乗せていた。 不安と、幾分かの期待がない交ぜになっている。口にしたあとで聞くべきでなかったかと迷った紅巴に、父は少し笑ったようだった。 「大事なものはたくさんあるな。もちろんお前もそうだし、お前の母も流紅も桃巳も、臣も、桜花も民も、守るべきものだ。だがな」 統治者、という面で考えれば、優先させるべきものは、だいたい順に並んでいる。 父親、家長という考えをするならば、また異なってくる。個人として考えても、思いつくものは様々にある。幼い紅巴にだって、もちろんそういうものがある。切り捨てることの出来るものなど、そうそうあるものでもない。 だが、それをして選んで生きていくしかできないのが、この世だ。この、戦の世だ。あまりに多くを腕に抱えて戦い生き抜くことはできない。――それは、この時代に生きる者なら、誰もが知っている。 最後に、選び抜くもの。 「神宮だ」 彼が足を踏み出すたび、体が揺れる。右に左にと、ゆるやかに。遠くを、呼ばわる人の声が聞こえる。明るい光が見える。遠くを揺れている。 言葉が出なかった。 それは父が、先程口にしたことと同じようで、違う答えだった。 ――――神宮。 その答えはたくさんのものを含んでいて、同時にたくさんのものを捨てていた。 「神宮が嫌いか?」 紅巴は、首を横に振る。 それは父の歩みにあわせて、揺れる体のままに力なく振られたようなものだったけれども。父は、再び笑ったようだった。彼の肩が少し揺れたから。 「その様子では、今年の祭には参加できんだろう。まあ、皆を心配させた罰と思って、しばらくおとなしく寝ていろ」 桜の花が乱れる頃は、神宮の居城のあるこの土地が一番賑わう。花を愛で、その年の実りを願う祭が毎年おこなわれていた。それを行うのはすでに習慣で、神宮の人間の楽しみでもあった。土地の人間と一緒に浮かれ騒ぐ。 歩く道行の桜が途切れる。空は紺碧に沈んでいる。道が見えた。 ――帰って来た。 門衛が当主の姿に気づき、声をあげる。人が駆けてくる足音が聞こえる。 「いろいろと、察してやれなくて、悪い」 ついでのように、放たれた言葉だった。いつものように。 |