誇り




 城に戻ると、待ち構えていた薬師に薬湯を飲まされ、紅巴は自分の体のつらさよりもよほど厳しい母の沈黙に耐えなくてはならなかった。この母には、さすがに「怒らないのか」と尋ねることはできなかった。睨み、怒りの言葉を投げつけるだけが、怒りの仕種ではない。
 指示されるよりも先に、用意されていた寝具におとなしく身を横たえる。
 怒っているのは肌に感じる空気で分かるのに、紅巴の枕元に座った彼女は決して乱暴な仕種などはせず、ゆっくりと上掛けを直してくれる。
「母上、あの……」
 話しかけるのにはためらったけれど、沈黙に絶える方がつらかった。紅巴は居心地が悪くて、ためらいながらも声を出す。出して、止まってしまった。
 何を言えばいいか分からない。
 彼の表情と声に、桔梗の方は、吐息と一緒に肩から力を抜くようにして、少し表情をやわらげた。
「あまり悲しいことばかり考えないで」
 落とされた言葉は、穏やかな中に悲しみがにじんでいた。
 やはり、紅巴が流紅に叩きつけた言葉は、彼女に伝わっているのだろう。
 怒っているだろうこと、悲しませてしまっただろうことを考え、何かを言おうとして、やはり言葉が出ない。熱で気だるくて、思考も言葉もあまりまわらない。
「わたくしは、あなたが生まれてくれて、とても嬉しかったわ」
 再び、静かに落とされた声。
 夜風を避けるために障子戸を閉められ、紙越しの月明かりだけが仄かに照らし出す部屋に、優しく満ちる。
「あなたが生まれたとき、とても小さな声で一声だけ泣いて、喉をひきつらせるような音をたてて、止まってしまったわ。ほんの少しだけど、呼吸も止まってしまったみたいだった。気が狂うかと思った。とても心配したのよ。わたくしも、父上も」
「……父上も?」
「もちろんよ。父上は、あなたが生まれるのをとてもとても楽しみにしていましたよ」
 そう言って、母は再び微笑んだ。
「紅の渦。血の巴。あなたは、父上にとって、戒めの象徴なんですもの」
「戒め?」
 父も、そのようなことを言っていた。
「あなたが生まれる頃、とっても大変だったの。たくさん戦があったわ。父上は、いろいろなものを失ってしまった。だけどあなたが生まれるのが分かっていたから、たくさんがんばって、神宮家を守って、この土地を守ったの」
 何を失い、何を得たのか。その、象徴。
「あなたのお腹に、大きな重石があることを想像してごらんなさい。重くて大きいの」
 自分のお腹を見下ろすことはできなかったから、着物の襟のうちに、大きな石を入れられたところを想像した。きっと、小さな膝すら隠れてしまう。立ってみても足元なんて見えないかなと思う。重石って、どれくらい重いのだろう。あまり重いと、真っ直ぐ立ち上がれない。
 考えこんでしまった紅巴に、桔梗の方は静かに続けた。
「考えてみた? 立つのも座るのも大変。歩くのも大変。重くて足は痛くなる。お腹が張って痛くなる。しかも、その重石には命があるの。普通に生活することですら大変でした。それにあなたがお腹にいるとき、わたくしはとても大変だったわ。父上は、わたくしのことを放りっぱなしだったから、あなたのお爺さんやお婆さんもあまりいい顔はしていませんでした。なのに、どうしてやめてしまわなかったのだと思う?」
 父が家を守るのに必死だったと言うのなら、彼女を放り出していたのも分かる気がした。あの人はそういう人だ。――そう、なんとなく分かった。自分にとって不要だとか、大切に思っていないとか、そういうことではないのだろうと、探しに来てくれた父の言葉を思い出しながら、考える。
 一日や二日のことではない。味方も、頼れる人もいなかったのに、つらいことに耐えたのはなぜ。耐えることが出来たのは。
 放り出さなかったのは。
「お腹に子どもがいるというのはね、自分ではない人の命を預かることです。自分の大切な人の命を、握っていることです。体もつらかったし、気持ちもつらかったわ。あなたのことを守りたくて、少し気負いすぎてしまったりしたから。だけどあなたのことが大切だったから、あなたを守ることをやめたりしなかった。わたくしの誇りよ。あなたがこうして立派に成長してくれることも、誇りです」
 子どもが生まれた後、武家の女でない彼女が、決して楽しい生活をできるものではないと分かっていても。
「たくさんの犠牲と努力に支えられて、あなたはここにいるのよ。生まれてきたこと、そのことだけで、人に求められているということです。自分のことを軽々しく扱ってはいけないわ」
 彼女は以前、自分や紅巴のために、何も求めないと言った。権力ために何も画策はしない。紅巴のためを何も思わないわけではないのだ。それは家の事情があるからなどだけではなく。
 そういったことに、価値を見出せないし、ただここにいられれば、そこにいてくれれば、と。それだけを思っていたのだろう。
 ただ、それだけを守りたいと。それだけでいいのだと。
「あなたが臥せっているとき、どれだけわたくしや父上や、皆が心配しているか、忘れてはいけないわ」
 ――決めつけてはいけない。
 態度に表れないからと言って、何をしてくれたからとか、してくれないとか、そういうことで決めつけてはいけない。思ってくれていないなんて、そんなことを。
 怒鳴られるより、無視をされるより、そして先程の沈黙よりも、ずっとつらかった。優しい声が。気遣いが。彼女の苦しみが。傷ついた心が。
「ごめんなさい」
  紅巴は気がつくと、ささやくように声を出していた。吐き出されたものではなく、言葉が唇から静かな宵闇へにじむ。
 謝られるのは、嫌いだ。だけど、謝らずにいられない気持ちが分かる。
 自分がひどく情けなくて。苦しませたことがつらくて。
 何もできなくても、その悲しみの中心に自分がいるのなら、原因になってしまったのなら、ただそのことだけでも謝罪をしたい。傷つけたことを謝りたい。許しを得たい。
 自分が流紅にどれだけひどい言葉を投げつけたのか、紅巴は改めて気づいた。
 ――それは、行動を起こさないこととは、何の関わりもないことだったのに。それを不誠実だと感じる理由にはならないのに。
「いいのよ」
 ようやく、母は穏やかに笑った。
「早く元気になってくれれば、それが母には何よりの贈り物です」
 そっと髪をなでてくれた手が、優しかった。








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