吹き抜ける風




 外から、賑やかな声が聞こえてくる。
 神宮が居城を構える桜花では、毎年桜の時期に観桜宴が催される。城下の町で人々が騒ぐ音が、風に運ばれてくる。祭をはいつも神宮の人間が主となって行っているものだから、当然城下の人間だけではなくて、神宮の人間も臣下も参加している。主も民も一緒になって遊ぶ、明るい日だった。
 もう熱もさがり、いくらか起き上がっても平気なくらいには回復していた紅巴だったが、そこで無理をすればまた悪化することが分かっていたので、おとなしく寝ているようにと、改めて当主に申しつけられていた。
 変わらず、枕元には母が看病のために座している。こんな日まで自分のために無駄にさせてしまったことが申し訳なく、同時に、そばにいてくれることが嬉しい。
 ぼんやりと天井を眺めていた紅巴は、遠く人々が浮かれ騒ぐ声にまぎれて、耳慣れた足音が聞こえて来ることに気づいた。開け放した障子戸のところから、いつかと同じように覗き込む顔を見て、紅巴は慌てて目を閉じて眠ったふりをする。
 あの日以来、流紅には会っていない。今話をしても何を言えばいいのかわからないし、こんな日にわざわざ流紅が何をしにきたのかも分からなかった。
「入ってもいい?」
 紅巴が寝込んでいるときは、当然いつも流紅は彼のそばに近寄らないように言い含められる。もっと小さい頃は、それでも紅巴の近くに来て「遊んで遊んで」と騒いでいたが、さすがに近頃はそれもない。紅巴の容態が多少なり落ち着いて、入ってもいいと言われたときには、しつこく遊びにくるけれども。
「どうぞ。兄上は眠ってしまわれたから、静かにね」
「うん」
 そっとゆっくりと歩いているつもりなのだろうが、どうしても流紅の歩き方は音が響く。一歩一歩に力が入っているから、静かなつもりでも、目を閉じている紅巴にも流紅が近づいてくるのが分かった。
「兄上、もう大丈夫?」
 おさえた声が聞こえる。口元に手を添えて、ひそひそと、桔梗の方に向かって言っているのが見えるようだ。
「ちょっと疲れてしまっただけですよ。大丈夫。すぐ元気になって、一緒に遊んでもらえますから」
 母の、笑い含みの声が聞こえる。寝たふりをしているのが、ばれているのだろう。
「まだお祭の途中でしょう。おひとりで戻ってこられたのですか?」
「ちょっとだけって言って、ちゃんと護衛の人に一緒に来てもらったよ。父上にすぐ戻ってきなさいって言われたからまた行かないといけないの」
「ちゃんと父上にお許しをいただいたのね。えらいわ」
「兄上、お祭にこれなくてかわいそうだもん。みんなに置いていかれたらつまらないでしょ?」
 声が近くなる。少し重い音をたてて、流紅が紅巴の枕元に座ったのが分かった。カサカサと何かがこすれる音がする。そんなもの、何も置いていなかったはずだけど。
「兄上、痛いの? 苦しいの? つらいの?」
「とってもつらいのですよ」
「泣かないの?」
「そうですよ、兄上はとっても強いの」
「えらいね」
 ただ感嘆だけが込められた声。吐息混じりに。
「すごいね」
 そっと、額にひんやりとしたものが触れた。小さい。流紅の掌だろうと、なんとなく思った。
 心地良い。
 けれどその手はすぐに引っ込められて、先刻までよりもずっとひそめられた声が、母に囁きかけた。
「兄上起きちゃうかな」
 昔は、起きて起きてと泣き喚いていたのに。
 流紅が離れたのを察して薄目で見遣ると、流紅は母の腕に甘えかかっていた。
 あんな風に、母の膝の上で甘えた記憶はとても遠い。気がついたら流紅がいた。泣いて寂しがって甘える弟に奪われていた。――母上の子じゃないくせに。唯一、流紅が持っていなくて紅巴が持っているものまで、奪っていった。
「大丈夫ですよ」
 母が小さく笑う声が聞こえる。少し、目があった。紅巴はまた慌てて目を閉じて、寝たふりをする。くすくすと再び笑いが降ってきた。
「そろそろお戻りにならないと、父上が心配されますよ。門までお送りしますわ」
 うん、と素直に応える声がする。
 母と流紅の声と足音が遠ざかっていったのを確認してから、紅巴は寝具の上に身を起こした。流紅が近寄ってきたときに音をたてた物の正体が気になって、彼が座ったはずのあたりへ目を遣る。
 驚きではなく、信じられないような思いでもなく、でもきっとそのどちらでもあり、不可解で、不快ではなくて、色々な感情がないまぜになって、吐息すら出なかった。



 ――ちゃんと、謝らなきゃいけない。逃げていないで。
 ひどいことを言ってしまった。
 まわりをとりまくたくさんの大人たちのように、無責任な噂や嘘で彼らを貶める人たちのようには決して、少しの含みもなく無邪気に手をのばしてくれたのに。それなのに、自分の痛みに気をとられて、自分の中の毒をぶつけてしまった。
 それなのに。
 紅巴の枕元には、不恰好な折鶴があった。それから、少し皺の寄った紙を上におかれた、何枚かの桜の花びら。流紅が無邪気に拾い集めて、こぼしてしまわないように、つぶしてしまわないように懸命に、気をつけて運んできた様子まで、頭に浮かんでくる。
 ――春には桜。
 芳しい桃の実。色鮮やかな菫。
 夏には杜若。籠に入れられた蛍。秋には柿の実。紅葉。冬には橘の実。寒椿。赤い目の雪兎。
 いつも、枕元に届けられていた。
 食べ物を、美しい花を、香りを楽しめるものを。外に出られない彼のために、季節の彩りを。
 いつも。
 母がしているのだと思っていた。実際、花などは母が整えてくれているのだろう。でも、届け主は違った。無垢な心で、ただ心配して、紅巴のことを思って、選んで作っていたのは、紅巴よりもずっと小さな手だった。
 ――どうして。
 ねたましくてうらやましくて、だけどああはなれない。なりたいと思っても、あまりにも遠い。誰よりも近いはずなのに、何よりも遠い。無垢な瞳は、たぶんぼくみたいに思ったり妬んだりはしなくて、余計腹が立つ。
 真っ直ぐで優しくて、鈍感で、だからずるくて、きっとすごくすごく弱い弟。
 どうして、そんな風にいられるのだろう。
 大嫌いで、大好きな弟。
 あんな風にはなれない。
 ――ちゃんと、謝らないと。
 流紅が戻ってきたら、話をしないといけない。ちゃんと笑って、流紅の他愛ない話を聞いてやれるだろうと思う。先日のように、苛立ったりせずに。
 知らず詰めていた吐息がもれる。



 涙があふれた。




終わり






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あとがきのようなもの。


 紅巴が7歳、流紅が5歳の設定です。神宮当主は25歳、桔梗殿は同じ年。
 「栴檀は双葉より芳ばし」とは、大成する人は幼児のころから優れている、という意味で、本来栴檀は白檀のことだそうです。これをもじったタイトルにしようかなと思って「栴檀」にするつもりで、でもやっぱ今までの法則に則っておくかと「栴檀の君」にしようと思い、これってなんか貴族っぽいというか耽美だなあと思って(笑)、どうせもじるならベタベタにもじってやれということで、「栴檀の君の香は」になりました。「栴檀」が誰を指しているかはまあ、あえて書かず。


 流紅は成長するにつれて紅巴の立場が見えてきて、そのせいで紅巴に負い目のようなものを持っていて、桔梗の方にも遠慮するようになってきて、でも紅巴はもう開き直っていて、自分と違うもの、それも自分があこがれるようなものを嫌悪したり憎んだりすることなく守ろうとするようになる。のです。根底に好意がある対象に対して、負の感情を持っていられる人ではないということで。紅巴はお寺で笛を習います。やはり、特技のようなものというか打ち込めるもの、自分が好きなものを見つけてまた少し変わるのでしょう。

 子どもの思考ってやっぱ分からないなー。何歳くらいでどのくらいかんがえてたのか自分を思い出してもよくわからない。
 とりあえず今回は、一応子どもがメインの視点だったので、だいぶ言葉を開いて書いてみましたよ。もっとがんばれば童話風とまではいかないまでも、児童文学風になったかもしれない。うむ。

 だいぶリハビリを兼ねて書きましたが、どうしてもラストはこれしか思いつかなかったのだけど、きちんと落ちているかどうかが不安だなー。