「おいたわしいこと」 すでにもう、何度聞いただろうか。 怒りや嘆きや憐れみや、含まれる感情はその都度違っても、湿り気を帯びた声は同じような言葉を繰り返す。 日差しはうららかに暖かく、時折吹く風はさわやかで、花もほころび眼前の庭はとても美しく、新しい季節の明るさに満ちているのに。 「姫様がおかわいそうです」 同情は悪意ではないし、過度でなければ人に優しいものだ。けれどもそんな風に、過剰に相手の境遇を嘆くことこそ、相手を哀れにしていることに気がついていないのだろう。 言われた少女は、庭へ向けていた顔をゆるりと侍女の方へと振り向け、おっとり微笑みながら応えた。 「そんなに、悲しむことではないと思うのだけど。どこかへお輿入れするのはわかっていたことだし、どこのお家にだって問題はあるものです」 「ですが姫様、神宮のご長男は、長子でありながらも、弟に跡目を取って代わられそうな暗愚だというではありませんか」 「でも、わたくしにご当主の奥方なんてつとまりっこありません。家督を継がれないなら、その方が気楽だわ」 「まあ何をおっしゃいます。そのようなことになったら、鷲頭(わしず)のお家を軽んじられるようなものですわ」 のんびりとした所作の少女よりも十ほど年かさの侍女は、たしなめられてもめげていない。少女の乳母の子で、姉のように少女の世話をしてきた彼女は、主よりも幾分か強気だった。 「神宮家だって、もとは何も持たない雛の家の出ではありませんか。大名家ともあろうお家が、下賎の者と親しくしていると聞きますし……」 「そう贅沢を言うものではありませんよ。神宮のお家は、本来なら、わたくしなどが輿入れできるお家柄ではないのよ」 矛盾しているようだが、侍女の言うことも少女の言うことも間違いではない。 国は遥か数百年昔に突然の反乱で国主を失い、幾度かの戦乱を迎えて権力者を生み、そして少女が生まれる少し前、再び国内で叛乱がおき、すでに崩れかけていた政権が完全に崩壊した。時代は戦乱の中にある。 話題に上っている神宮家を興した初代は、かつての帝の庶子で血筋こそ高貴なものを引いてはいるが、かつて貴族であった者たちや、武力で民を制圧している武家の者の中では、民と一緒になって地を転がるようなその家の在り様を、蔑みの目で見る者も多い。しかしながらやはり、身分や血筋の問題で言えば、同じ大名とはいえ少女の生家である鷲頭家の方が、格が下がる。 しかし実情として今の世で、身分だとか血筋だとか、そういうものはすでに意味をなくしている。身分は勝手に名乗られるものであり、古き良き血筋の者たちは、下賎の者の突き上げにあい、すでに多くが絶えていった。 「ですから、ご正室とは言え、あちらのご家来衆に軽んじられることなどがあるやもしれません。わたくしは、それが心配で」 その神宮家と、少女の生家である鷲頭家の同盟のため、神宮の長男と、鷲頭の末娘である山吹姫の婚姻が目前に迫っている。山吹姫の侍女である樺(か)衣(え)は、この話が持ち上がった頃から、主を相手に愚痴をこぼし続けている。 そうしていながらも、有望だと言われる次男へ嫁ぐことになっていたのなら、やはり彼女は文句を言うのだろう。まだ正室を迎えていない長男がいるのに、次男のもとへ嫁ぐなど、と。そして相手が神宮家でなくなって、彼女はきっと文句を言うのだ。 大事に大事にされてきたことはよくわかっている。姉のような相手は、ただ少女が心配なだけで、どうせ政略結婚の道具になるのならより良いところへ、と思ってくれているだけなのだ。それがわかっているから、少女は微笑みながら、相手の愚痴を聞いている。 そこへ、開け放した障子戸の向こう、回廊に現れた別の侍女が来訪者のあることを告げた。少女の側近くで語らっていた侍女は慌てて身を引き、少女は席を外れて居住まいを正す。 姿を見せたのは、二十も半ばの鷲頭家の長男だった。少しがらんとした室内を見回してから、上座へ腰を下ろした。輿入れの嫁入り道具をそろえるのに慌しく動く人たちを再び見渡し、大きなため息をつく。 「いよいよだな」 頭を下げた末の妹へ向けて、力の入らない声をかけた。 「はい」 少女は、どこか疲弊した様子の兄に反して、明るい声を返す。 大任を肩に乗せていながら、怖気づく様子もなく、会ったこともない相手との婚姻に不安に思っている様子もない少女に、彼は重い声でつぶやいた。 「お前は、家中の者と娶わせることになると思っていたのだがなあ」 武家同士の婚姻は、あくまで政治だ。同盟を結ぶとは言え自国ではない以上、嫁ぐ先はいつ敵になるかわからない土地であり、送り込まれる嫁は人質の意味もある。身命の保障などがあるわけではなく、実際見せしめとして無残な方法で殺される場合もあるが、宣戦布告かわりに送り返されることもある。所詮娘一人で家中がゆらぐものでもなく、どちらかというと、出向いた娘は外交のための要員だった。娘の背後には常にその実家があり、嫁いだ土地で、夫の家と実家との架け橋として働くことになるのだが。 もちろんそれには、それなりの才気が求められる。この度の鷲頭家と神宮家の婚姻には、鉄の産出と優れた武具の精製を武器としているが、兵力には多少不安のある鷲頭家と、それらの流出といざという時の援助をひきかえとした神宮家との利害、そしてお互いの国への侵略への牽制、結びつきを持つことでの周囲の国々への牽制の意味がある。 「お前に、我が鷲頭と神宮の今後の命運がかかっているんだからな。しっかりと目を利かせて、何かあったら必ず逐一知らせを……」 頷きながら、少女は兄の言葉を真面目な面持ちで聞いている。十五歳の割には幼く見える妹を見て、兄は言葉を止めた。言われていることをわかっているのかいないのか、彼女の顔を見るだけでは不安が募るだけだった。つい、大きくため息がもれる。 「いや、いい。お前のことだ、ボロを出さずに外交してこいと言っても無理か」 「兄様?」 「あちらのお家の人たちに嫌われず、健やかであってくれれば良い。あちらは、ご当主のご正室もすでに亡くなられているし、お前の嫁ぐ紅巴殿の母君は商家の出であったから、いくらご当主の寵を得ていると言っても、お前に強くあたるには限度があるだろうし」 「ご家中が大変な折には、ご当主をお助けしてお家を立派に支えられたという、ご聡明な方だとうかがっています。お会いできるのがとても楽しみですわ」 少女の中には、姑に対する不安などというものもないようだった。苦笑交じりに、兄は言う。 「せいぜい、あちらの家中へ迷惑をかけて、追い返されることのないようにな。お前はうっかり者だから、それが心配だ」 「気をつけます」 案じる言葉に笑みを返す。 草の芽も萌え出で、花もほころぶある春の日のこと。 |