ひたすら






 地面に足をつけても、輿に揺られ続けた体には、まだ泳いでいるような感覚が漂っている。足元が頼りなくふわふわしていて、でもその慣れない感覚すら楽しむように、一歩一歩を踏みしめて、ゆっくりと歩き出していく。
 輿に揺られて何日もかけて来た道中、輿の窓から見るものが、休憩のために足を止めて見る風景が変わっていくたび、なんだか落ち着かないものが身の内から沸いてきてそわそわしては、「遊山に来ているのではないのだから」と樺衣にたしなめられる毎日だった。
 城からあまり出たことがなかったのだから、周りの風景を見回したところで、たいした違いが分かるものでもない。ただ隣国へ旅しただけなのだから、たいした違いがあるわけでもない。
 けれどもやはり、少しずつ進むたび、春の匂いが、満ちる色彩が、どんどん鮮やかになっていくように思ったのは、気のせいではないだろうと思う。
 最後に、輿を担いでいた鷲頭の家の者の手から、神宮の人間へと輿が渡されて、神宮家居城である城の中へと導き入れられる。
 輿を降りて不安定に揺れる体をなんとか支えながら、顔を上げた先に見えたのは、夕暮れの空に燃え立つような、薄紅の色が咲き乱れる花霞だった。鮮やかな赤と黒、そして白い色で統一された神宮家居城、「桜花城」の名の通り、桜に囲まれた美しい城。
 ここは、絶景で知られる、神宮本拠地、桜花。
「姫様」
 横から樺衣の声がして、山吹は顔を向ける。目が合うと樺衣は、たしなめるような視線を向けて、少女が羽織っていた被衣(かづき)を整える。少女の一挙一動を見守る人々の視線に気がついて、山吹は慌てて顔を伏せた。
 ――この婚姻に鷲頭家と、神宮の命運がかかっている。
 ふいに、幾度となく聞かされた言葉が甦った。
 鷲頭家と神宮家の命運というよりは、少女の肩にかかるのは、偏に実家の命運だ。
 多分、家の人間は大きな期待をしているわけではないだろうし、実際に何ができるわけではないのも分かっている。でも、自分にできることは、しなくては。何もできないことがわかっているから、最低限のことくらいはしなくては、と使命感が沸きあがってくる。とにかく、実家へ悪い印象を与えるようなことになってはいけない。
 しっかりしなくては。
 目前の雄大な城に立ち向かう気持ちで、神宮縁の女性に案内されながら、純白の衣装の裾を汚さないように気をつけて歩き出した。
 案内されるまま、用意された祝言の座敷へ腰を下ろす。栗や鮑、昆布などが並んだ台、そして銚子などが並ぶ中、満ちた厳かな空気が、再び落ち着かない気持ちにさせた。
 花婿は、花嫁に少し遅れて部屋に入ってくることになっている。
 ――どんな人かしら。
 顔も知らない相手に嫁ぐのは、武家では当たり前のこと、相手のことなどは人伝に聞く噂でしか知ることはできない。
 神宮の長男に関する話と言えば、樺衣が散々言っていた「家督を弟に取られそうな暗愚」としか記憶にない気がする。確かに戦の武功だとかの噂は、初陣を果たして長く経っていないはずの弟ぎみの方がよく聞く気がした。
 ――どんな人だって、いいわ。
 ただ、意地悪な人でなければいいな、と思う。自分がのんびりしている自覚があるし、よくそれで呆れられるから、あまり強く叱ったりしない人だったらいいな、と思う。でなければ、家のためにがんばろうと思っても、くじけてしまうかもしれない。
 仲良くできるかしら。
 落ち着かない気持ちで戸口を見つめていたのは少しの間でしかなかったはずなのに、やがて静かに扉が開かれた頃には、もう随分と長い間座り込んでいた気がした。
 花嫁に少し遅れて入ってきたのは、白直垂姿の背の高い少年だった。痩身で、ともすれば少し頼りなさげに見えるのを、長身と、すらりと正された姿勢が抑えている。少し色素の薄い髪。明るい色の瞳。あまり日に焼けていない肌の色。
 ――ええと、神宮、紅巴(くれは)様。
 相手の名を思い出して、心の中で呼びかけてみる。
 彼が足を踏み入れたことで、室内に重く満ちていた空気が少し和らいだ気がした。少年は音をさせずに歩くと、少女の斜め前、かすかな衣擦れの音だけをさせて、上座に腰を落とす。
 静かな、清らな風が吹いたようだった。
 確か、二つ年上だと聞いていた。視線が吸い寄せられてしまったかのように、相手の所作を見送っていた山吹姫は、顔を上げた花婿と目があって、「しまった」と小さく心の中でつぶやいた。初対面で、婚礼の席に相手の顔をじろじろと見るなんて、不躾な娘だと思われたかもしれない。
 動転してしまって、驚いて目を少し見開いたまますぐに目を伏せることもできずにいた山吹姫に、相手も少し驚いたような表情を浮かべた。
 それから、にじむような微笑を返してくれた。



 婚儀が済めば、衣装を改めて床入れとなる。
 二人きりにされた部屋で、彼は小さな笑みと共に言った。
「遠い道中疲れたでしょう。神宮の者は大雑把で気がつかないところがありますから、何か不都合があったらすぐ言ってくださいね」
 低く抑えられた声は、とても穏やかだった。物腰も落ち着いているように見えて、自分と二つほどしか変わらない人のものとは思えない。
「はい、お気遣いありがとうございます」
 緊張はどこかに行ってしまったようだった。動転もせず、声が上ずることもなく、応えることができた。もともと、鈍い性格だと兄や両親によく言われていたから、そのせいなのかもしれないけれど。
「家中の者がどのようにお話をしたか存じませんが、多分、ぼくが家督を継ぐことはないと思います。こちらに嫁いで来られる際に、鷲頭の方がそれを期待していらっしゃったのであれば、大変申し訳ない」
「いえ、あの、そういったお話であれば、実家の者も承知しておりました」
 言ってから、ああまたやってしまった、と思った。
 たとえ本人がどう言っているにせよ、こういった話は簡単に肯定してはいけなかったのでないだろうか。家督を期待していない、などと。
「ごめんなさい。わたくし、あまり難しいお話は分からなくて……」
 慌てて言うと、彼はまた小さく微笑んで言った。
「いいえ、ぼくも難しい話はできれば奥にいるときはしたくないので。その方がうれしいです」
 ――愚かな女だと思われたかしら?
 ふと脳裏をよぎる。馬鹿で扱いやすいと思われたかもしれない。実家を後ろに背負って入り込んでくる、同盟のための嫁が、政治向きの話が分からないなどと言ってしまってはいけなかったかもしれない。
「ただ、ぼくは家中で少し難しい立場にあるので、あなたに迷惑をかけることになるかもしれない。それだけは、先に謝らせてください」
 ――弟に跡目を取られそうな、暗愚。
 伝え聞いていた言葉が脳裏に甦る。側室を母に持つ彼は、正室腹の弟がいるというだけで、不自由な立場にあるのは確かだろう。それが生み出す物事がいったいどれだけあって、どれほど大変なのかは、山吹姫には予想もつかなかったけれど。
 気遣ってくれるのが、うれしかった。
 落ち着いていられるのは多分、目の前の彼のまとう雰囲気のおかげだろうと思った。
 婚儀の前には樺衣に、ただ我慢なさって、と言い聞かされていた。床入りの際には、それを自分に言い聞かせて過ごすことになるのか、鈍い自分はそれも分からないまま、小さなときめきすらも覚えることなく過ぎるだろうと、思っていた。
 それを裏切ったのは、婚儀の際に向けられた彼の笑みで、そして今与えられた言葉は、肩に入っていたすべての力を払ってくれるようなものだった。それがほんのささいな気遣いであったとしても。
 ただ健やかにあれ、と言ってくれた兄の言葉を思いださせてくれるような、暖かな心とまなざしを感じることができたから。
「わたくしの方こそ、考えなしなものですから、たくさんご迷惑をおかけしてしまうことになりそうで、少し不安でしたの。おあいこですね」
 肩の荷が下りました、と言って笑みを向ける少女に、少年は破顔したようだった。それから、手を伸べる。
 頬に触れる手。なおやかな外見とは裏腹に、その手は大きく少しごつごつしていた。剣を握る男の人の手だ。思いのほか暖かい。
 気がつくと頬を包み込まれていた。そっと唇が重ねあわされる。
 きっと、優しい人なのだろうと思った。
 ――その直感を信じて、この土地でもやっていけると、思った。




「過ぐる季節を君と」

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