正式に婚儀を行うならば、三日は花婿も花嫁も、まわりの人間も白い衣装のままで過ごし、三日を過ぎてようやくお色直しをして衣服を改め、花嫁が婚家の親や臣下へ挨拶をする。しかし戦乱も激しくなってきた昨今では、そういったものも略化される傾向にあった。特に神宮家には、桜の時期に婚儀を終わらせてしまいたい理由がある。 毎年、桜の頃に桜花城城下で花見の宴が催されている。戦の世に「西の神宮家、東の飛田家」と並び称される名家があり、両家の本拠地も人々の間に広く知られている。曰く、「桜花の桜、白蛇の雪」。国の絶景として知られた土地だ。 「姫は、桜花の町はご覧になれましたか?」 身支度を整えた紅巴は、少年とは思えない程に落ち着いた物腰で言った。この後に、当主と紅巴の母へ挨拶をして、家臣へのお披露目をして、城下へ降りる。桜花では、神宮家らしい奔放さで、本来なら城内だけで終える儀式めいた物事を、観桜宴に集った民にもお披露目する慣わしがあった。 「残念ながら。町の中は通ったのですが、輿の中からでは十分に風景を見ることもできなくて。ですから、観桜宴へ参加させていただけるとうかがっておりましたので、とても楽しみでしたの」 戦国の女性は強く奔放なものだが、良家の姫君はやはり城内に押し込められることが多い。だから、神宮の慣わしとは言え、観桜宴などと言って民の前に出て民と親しく話す神宮の風習を嫌がっても、少しの不思議もないのだが。 山吹姫は、うっすらと頬を染めて、楽しそうに言った。落ち着かない気持ちになっているのは、緊張のせいもあるかもしれない。 彼女たちは今、紅巴と彼の母が与えられた、城内での離れにいた。ここがそのまま彼らの住まいとなるのだが、回廊を渡る足音が聞こえて、紅巴が顔を上げる。余程の用がなければ、今朝はここへ人が来る用事はないはずだった。 「流紅(りく)さまのお渡りでございます」 姿を見せたのは、先導の侍女だった。 聞こえた言葉に、少女の心の中の触感が引っかかる。本当はたくさん覚えて心得て嫁いで来るべきだったのだろうけれど、最低限しか分からなかったから、引っかかる言葉は決して多くない。その中に含まれていた名前。 紅巴がまったく頓着をしなかったから、心持ち紅巴を上座に、ほぼ並ぶような形で座っていた山吹姫は、戸惑いを隠せない。 ――異母兄の家督を奪おうとする、弟ぎみ。 長子の紅巴は側室の子だが、第二子の流紅は、すでに亡くなった正室の子だ。母親の身分に限って言えば、紅巴に跡目が来るのは難しく、弟が家督を奪おうとしているということも穿った見方なのかもしれない。だが紅巴が長子であることに変わりはなく、順当に長子が跡を継ぐのなら、彼に来るべきもの。 突然の流紅の登場ですぐに悩んだのは、座を動くべきかどうかということだった。紅巴は長兄なのだから、彼が上座に座り、その妻となった山吹が側近く座るのはおかしなことではない。だが、少女は座を譲った方が良いような気がした。 とにかく、紅巴の不利にならないよう振舞わなければならない。実家の恥にならないように、と懸命に考えていたところに、またひとつ使命が加わる。 弟ぎみの出現で、当主と対面する前にさっそく、もしかしたら一番難しい課題を出されてしまったのかもしれない。 「どうぞそのままで。わたしのことはお気になさらないでください、義姉上」 腰を浮かせかけた山吹姫は、突然の言葉が自分に向けたものだと理解するのに少しの間を要した。義姉上、とは。顔を上げれば侍女が控えて開いた戸のところ、姿を現した人がいた。紅巴と同じ、茶色の髪、明るい色の瞳。明朗な瞳。 確かに、彼の兄の妻となったのだから間違いではないけれど、この少年と自分は、同じ年だったはず。形式上のものとは言え、こそばゆい気持ちがする。 困惑気味に紅巴を見ると、笑みが返ってきたので、そのまま腰を下ろしなおした。 「神宮の人間は、そもそも礼式に疎いんです。座る位置など気にしませんから」 「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」 頓着なく下座に腰を落ち着けて言う流紅に、とにかく精一杯の丁寧さで言葉を返す。紅巴は少女に向けていた笑みを、そのまま異母弟の方へ向けると、からかうように言った。 「わざわざ先導をたててくるなんて、珍しいな」 「今日は特別だから」 「そう急いで来なくても、すぐに後で会うのに。ひとりで来たのか? 桃巳(ももみ)はまだすねているんだ?」 「兄上のご正室がどんな方か、見ておきたかっただけ。桃巳は、観桜宴に出るのも嫌だと言って、侍女を手こずらせてるよ」 兄には堅く応じて、少年は改めて山吹の方へと向き直る。 「山吹殿、はじめまして。弟の流紅と申します」 丁寧に頭を下げられて、山吹姫も「はじめまして」と応じた。 偵察に来た、ということだろうか。改めて緊張が心の中にわきあがってきている。――ああ、でも、どうすればいいかわからない。 その間に、再び人の足音が聞こえてくる。ぱたぱたと軽く、駆けて来る足音だ。侍女とは思えないけれど―― 「抜け駆けするなんて、ひどいっ」 部屋に飛び込んできたのは、日向のような少女だった。明るい色の髪と瞳。これを見るだけでもう、神宮の人だとなんとなくわかった。それに、流紅によく似ている。 少女は大きな瞳を見開くようにして、部屋の中を見ていた。と思えば、勢いよく走り出す。駆けると着物の裾が翻って、春らしい薄紅の表地に、裏蘇芳の色が鮮やかに目の前を横切る。そのまま紅巴に体当たりするようにして飛びついた。抱きついて離れない少女に、くすくすと笑いながら紅巴が言う。 「おはよう。機嫌はなおったかい?」 「子ども扱いしないで。わたし、機嫌が悪いのじゃないわ。怒ってるの。勝手に結婚なんてしちゃったから」 「おや、じゃあぼくには朝の挨拶はしてくれないかな。姫には挨拶してくれる?」 「いやよ、どうしてそんなことしなきゃいけないの」 少女は間近で紅巴を見上げたまま、頬をぷうと膨らませた。そのまま顔をこちらに向ける。強い意志に輝く、愛らしい大きな瞳が、山吹姫を睨んでいた。目が合うと、彼女はぷい、と顔を元に戻す。 「こら、桃巳。姫に失礼だろう」 「だって、兄さまとは桃巳が結婚するつもりだったんだもの。そうしたら、流紅に邪魔されずに兄さまが当主になれるのに」 「それとは、別の問題だよ。姫は、少ないお身内だけで、知らない土地に来たばっかりなんだ。桃巳は、ぼくも流紅も父上もいないところに行って、意地悪されて平気?」 子どもを言い聞かせるような言葉に、子ども扱いしないで、と言ったばかりの少女は、今度は唇をヘの字に曲げた。そのままで、再び山吹姫の方へと顔を向ける。 流紅と同母の妹姫、神宮の桃巳姫だ。 何かを考えるように、じっと山吹姫へ目を向けたまま少し黙り込んでいた。心の中の葛藤が見える気がするくらい、くるくるとよく表情の動く少女だった。そして彼女が口を開く。けれど彼女が声を出すよりも、我慢できなくて山吹姫が声をあげる方が早かった。 「もう、なんてお可愛らしいんでしょう」 紅巴と少女の方へ身を乗り出して、少女に笑いかける。少し年の離れた兄に甘えているのも、文句を言っているのもいじらしくて、可愛らしくて、笑みが深くなるのが自分でも分かる。 「わたくし、末っ子なものですから、ずっと妹か弟がほしかったんです。こんなにかわいらしい方の姉になれるなんて、とても嬉しいわ。わたくしと、どうぞ仲良くしてくださいましね」 勢い込んで言ってしまった後で、ずっと後ろで控えていた樺衣が、こほん、と咳をしたのが聞こえた。 それでようやく、懸命にあれこれ考えていたのも緊張感も忘れ果てたことに気がつき、自分自身があっという間にすべて台無しにしたことに気がついた。ぽかんとした顔で、桃巳が山吹を見ていた。慌てて笑いをこぼす紅巴を見て、苦笑している流紅を見た。なんだか分からなかったが、空気が変わった気がした。――ああ、また、やってしまった。 少し肩を落とし、再び桃巳の方へと視線を戻す。 びっくりしたのだろう。完全に険の消えた表情で山吹姫を見ていた桃巳は、目が合うと、少しバツの悪そうな表情でうつむいた。 「……遊んであげないことも、ないわ」 その言葉で、曇りかけていた気持ちが晴れるのを感じた。浮いたり沈んだり、子供っぽいかしらと思ったものの、山吹にとってはわけの分からない跡継ぎ争いや権力闘争の中で、ほんのささいなものでも、自分へ向けて悪意でない感情が返ってくるのは純粋に嬉しい。裏も表もなさそうな、愛らしい少女の言葉だから尚更。 お礼の言葉を返そうとしたところで、再度こちらへ向かう足音がした。今度の来訪は再び侍女のもので、彼女は部屋の前で手をつき、頭を下げると言った。 「お屋形様がお待ちでございます」 ああ、と紅巴が声を返す。 「すぐに行く」 それを受けて侍女はすぐに下がって行った。見届けていた流紅は立ち上がって大股に部屋を横切ると、まだ紅巴にくっついていた桃巳を引き剥がす。表情豊かな幼い姫君は、途端に不機嫌になると、思い切り勢いをつけて兄の足を踏みつけた。 「いたっ。この、おてんば。今日くらいは大人しくしてろ」 怒られた少女は流紅に向かって舌を出した。反撃の言葉がないのは、彼女なりに遠慮をしたのだろう。多少暴れて兄の拘束をはがそうとしている妹には流紅もそれ以上かまわず、紅巴の方へと顔を向けた。 「兄上」 先に行くよう促す流紅に、紅巴が言う。立ったままの相手に、顔を上げて。 「何を遠慮してる?」 「おかしい?」 「おかしい」 笑いながら率直に返されて、流紅は少し戸惑いを見せた。けれどすぐに眉を強くして言い返す。 「でも、今までと同じようにはいかない」 「流紅。ぼくは何も変わらないし、これからだってお前と一緒に講義も受ける。一人では、ちゃんと理解もできないだろう?」 流紅は、ムッとしたようだったが、言い返さずにむっつりと黙りこんだ。これ以上言い合いをするつもりはない、という意思表示に、紅巴もそれ以上は言葉を重ねなかった。 所在無く彼らの会話を見守っていた妻へと顔を向け、行きましょう、と優しく声をかける。 こうして、山吹姫の神宮での生活が始まった。 |