聞こえる




「このようなことは言いたくないのですけど……よく、わからないお方ですね」
 桜花に来てから、ようやく十日を過ぎようかという夕方のこと、与えられた部屋でのんびりとくつろいでいた山吹姫に、樺衣が言った。唐突とも感じられる言葉に、山吹姫は束の間何のことか分からなくて、きょとんとした顔を向ける。
「紅巴様のこと?」
 樺衣は少し躊躇う素振りを見せながらも、頷く。当の紅巴は、多くの武家の子息がそうであるように、勉学や稽古などに忙しく、暇があれば馬で駆けられる範囲に領内の見回りに出かけたりするので、日中はこの部屋にいることがほとんどない。
 部屋には神宮からの侍女もおらず、二人きりの気安さからか、樺衣は結局言葉を口にした。自分が山吹姫を守らなければ、という使命感からか、近しい者故にか。
「祝言の翌日の、弟ぎみとのやりとり、樺衣は肝の冷える思いがいたしました」
「まあ、何か怖いことおっしゃっていたかしら」
 本当に驚いて山吹姫が言うと、樺衣は少しあきらめた様な様子で肩を落とした。
「姫様なら、そうおっしゃるかもしれないと思っていましたけど」
 首を傾けて考え込む少女に、やはり自分がしっかりしなければ、と思ったのだろう。樺衣はやけにきっぱりと言った。
「笑いながら皮肉の応酬なさってたじゃありませんか」
 ――ああ、あれは、皮肉だったのね。
 なんとなく分かったような、分からないような気がした。
 山吹姫に、紅巴はとても優しい。彼が優しい人だからなのかもしれないし、妹に語っていた理由もあって気を遣ってくれているのかもしれないが、山吹姫にとって彼は常に穏やかな人だったから、流紅に対して笑顔で接していたのも、違和感を感じなかった。確かに、弟ぎみに対しては、少しからかうような様子もあった。少しかたくなだった弟ぎみに対して、遠慮しているのがおかしいとか、言っていた気もするけれど。
 本当に優しい人なのか、笑いながら人を貶めることができる人なのか、分からない。
「家督を奪おうとしているなんて言われていますけれど、弟ぎみにしてみれば、異母兄は邪魔なものであって当然でしょうね。にこにこと笑いながら責められるよりも、感情を見せていらっしゃる分、弟ぎみの態度の方が分かりやすい気がいたします」
 確かに、まっすぐでゆるぎない瞳をした少年だった。山吹姫に対しても、丁寧で率直な態度で話した。
「でも、わたくしはまだ神宮の家中のこと、何も知らないのよ。どういうお気持ちでお二方がああいったことをおっしゃっていたのか、分からないわ」
「姫様は、浮き世離れてらっしゃるから」
 少しの呆れと諦めの混ざった様子で、樺衣はため息を落とした。もっと穿って物事を見ないと、と言いたいのだろうけど。
「紅巴様のこと、色々噂に聞いたけれど、ご本人を見たら、噂の通りだなんて思えなくなったもの」
 嫁いで来る前に神宮家中の情報を集めることは、彼女自身の許容量を超えてしまったからできなかったけれど、さすがに嫁ぐ相手については色々話を集めて、知ろうとした。劣り腹のくせにでしゃばっているとか、暗愚だとか、弟も臣もあしらえないとか、口さがない話はよく聞いた。
 だけど、本人を前にして、そんな噂なんていい加減なのだと思った。彼の話し方は愚かな人には思えなかった。ただ穏やかな人に見えたから、そのせいで誤解をされているのかもしれないと思った。――穏やかなだけで、中身の無い人なのかもしれないけれど。
 判断を下せるほど、知っているわけではない。――妻とは言え。
 樺衣はまだ何かを言おうとしたが、人の足音が聞こえて口を閉ざした。身近な者の気安さで姫の側近くに座っていたため、慌てて戸口近くに控えて座り、居住まいを正す。城内の渡殿を渡り、彼女たちのいた離れへとやってきたのは、祝言の翌朝と同じく、神宮の侍女だった。
「お屋形様がお呼びでございます。もし姫君が忙しくされていなければ、ということでしたが」
「義父上様が?」
 神宮当主の使いとしてやってきた侍女は、「はい」と答えたきり、説明をしてはくれなかった。
 呼びたてられる用があるとは思えないが、断る理由も忙しい用事もない。
 本来なら、この国や城内の様子を調べたり、家臣たちの人間関係を把握したり、することなど探せば山のようにあるのだろうが、まずこの家に慣れることで精一杯の少女にとってできる事はあまりない。どちらにしても、家に押し込められる女には、あまりすることなどないのだが。
 うかがうように樺衣が振り返って少女を見たが、頷いて返すと、樺衣は背筋を伸ばし、使いに来た侍女へと言葉を返した。
「勿論、参上いたします」
「お越しいただけるのでしたら、なるべく早くとのお言葉でした」
 了承の意を受けて、侍女はさらに注釈をつけると、そのまま控えている。今度は山吹姫の先導として戻るつもりなのだろう。早く、と急かす無言の意思表示に、更に困惑してしまう。当主に会うのなら衣服を改めて、化粧をしなおして……と考えていたが、それどころではなさそうだった。呼び立てられる理由があまり思いつかないのと同じに、もしくはそれ以上に、急かされながらも呼び立てられるような用事が分からない。
「一体何事でしょう。まさか、鷲頭に何かあったとか……」
 少し慌しい勢いで、山吹姫の近くに座りなおし、樺衣は声を潜めて言った。確かに、急かされる用事など、それ以外に思いつかない。けれどまだ家を後にして、大した日数も経っていないのに。そんな僅かな間に、何かが起こったなどと思えない。――思いたくない。不穏な気配は何も無かったし――気づかなかっただけかもしれないけれど。それは、我が事ながら山吹姫は自分が何事かを見落としていた可能性を捨てきれないから、余計に不安になった。でも、それなら「忙しくなければ」と言われた意味が分からない。
「大丈夫よ。とにかく、行ってきます」
 戸惑いながらも、とりあえず着ていた打掛の襟を正すだけに留め、先にたって歩き出した侍女の後を追って部屋を後にした。





「過ぐる季節を君と」

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