ちりぢりに





 呼ばれた場所へ行くと、そこは謁見のための間でもなく、当主の部屋でもなく、小さな庭に面した部屋だった。しかも、山吹姫の訪れを侍女に告げられた当主が座しているのは、その部屋の中でもない。
 のんびりと回廊に座していた神宮当主は、振り返って息子の嫁を気軽に手招いた。激動の中、神宮家の存続も危ぶまれた程の時期を潜り抜けて家を救い、したたかで読めないと言われる現神宮当主は、まだ三十半ばの若さだった。山吹姫の一番上の兄と、そう年も離れていない。
 当主の気安い様子に、山吹姫は困惑しながら近くへと歩み寄る。少し離れて腰を下ろそうとすると、「遠慮するな」と気楽な声をかけられた。すると、父の横に座り込んでいた少女が、高い声を上げる。
「いやだわ父さまったら、すけべ親父みたいで」
 桃巳は薄く軽蔑の混じった声で言うと、反対側の隣りに座している桔梗の方へと顔を向けた。
「ねえ」
「本当に」
 継子の笑みを受けて、桔梗の方はくすくすと親しみ深い笑みを浮かべていた。
「さすがに、息子の嫁にまで、そのような態度をなさるとは思いませんでしたけれど」
「馬鹿を言うな。わしはそこまで不自由していない」
 これは少し、際どい会話なのではないかと、さすがに山吹姫でも思うような言葉が目前で交わされている。どうしたものか、山吹姫が立ち尽くしていると、神宮当主は桃巳たちが座るのとは反対側の、自分の隣りを示して、彼女に座るよう促した。
 逆らう理由も無く、促されるままに腰をおろす。今度は庭の方から声が聞こえた。
「兄上、父上が山吹殿を毒牙にかけようとしてる」
 顔を向けると、たすきをかけて袖を留め、片手に木刀を持って立つ流紅がいる。呼びかけられた彼の近くには、同じような格好の紅巴がいた。
「さすがに泥沼はやめてください」
「まったく、皆して親父をからかいおって。ひどいよなあ」
 神宮当主は、そう言って隣りに座る山吹姫に訴えかけた。慰めを求めるような声に、流紅と桃巳が再び抗議の声を上げる。山吹姫は、ただくすくすと笑いをこぼした。
 その雰囲気に、彼女を呼びに来た侍女が「忙しくしていなければ」、と添えた言葉のは単純に「暇なら一緒に遊ばないか」と言う意味でしかなかったのだと気づく。単純に彼女が、縫い物などで時間をとられているのなら、当主の呼び立てだからと断る必要もなかったのかと思わせる気軽さだった。実際に、そうなのだろう。
 実家の父は、決してこんな態度をとらなかった。兄たちもだ。気安いと言われ、軽んじられることもある神宮の家風だったが、皆の暖かさが感じられて、決して嫌ではなかった。
「それで、あの。お屋形様、ご用というのは?」
 この様子では、実家に何かがあったというものでもないだろう。それに安堵して、少し笑ったおかげで気持ちも軽くなって、問いかける。神宮当主は、まだ言っていなかったか、と少しとぼけて見せてから言った。
「姫も一緒に賭けをしないか」
「賭けですか?」
「三本勝負で紅巴と流紅のどっちが勝つか。ちなみに、賭けるものは、晩飯のおかずだがな」
 あまりにささいな賭け物に、思わず笑みがこぼれる。
 なるほど、それでようやく流紅と紅巴だけが庭にいて、木刀を下げているのかが納得いった。
 山吹姫の知る限り、紅巴は書物の好きな人だった。あまり体を動かしているところを見たことがないし、部屋にいても何か書き物をしていたり、勉学をしていることが多い。見た目にしてもどちらかというと痩身で、すらりと立つ姿はきれいだったが、あまり日に焼けていないせいか率直に言って強そうには見えない。
 対して流紅は、元気で健康な少年そのものの姿だった。袖をまくった先に見える腕は鍛えられていて、よく日に焼けている。
 とりあえず彼らに目を向けてから、山吹姫は神宮当主へと笑みを返した。
「では、わたくしは紅巴様に」
「なんだ、それでは賭けにならん」
 途端に、当主はおもしろくなさそうな声を出した。意外な気がして、山吹は問いかける。
「お屋形さまは、どちらが勝つと思っていらっしゃったのですか?」
「紅巴が二本先にとって終わり。桃巳も紅巴に賭けると言うから、賭けにならんな。不承不承、わしが流紅に賭けてやる」
 神宮当主は、少女にではなく、庭先で木刀を構える息子に向かって言った。
「なんだよその言い方。見てろよ」
 不服の声があがるが、当の父親は「見ててやるよ」と軽く返した。
「義母上さまは、参加なされないのですか?」
「あれが胴元だからな」
 まあ、と山吹は少し驚いた声を上げた。他愛ない遊びとはいえ、後継者争いの続く場で、こういうときこそ、息子を持ち上げようとは思いはしないのだろうか。目を向ければ、紅巴と同じような笑みがそこにあった。
「よし、観客も揃ったことだし、はじめるか」
 当主の声に応じて、流紅は刀を鞘から抜くような仕草で木刀を前に出し、両手で中段に構えた。気合を入れて構えた彼に対して紅巴は、切っ先を下に向けてた木刀を両手で持つ。気負わない姿は、ただすらりと立っているだけに見えた。
「はじめ!」
 神宮当主の声がかかると同時、先に動いたのは流紅だった。気合の声と共に大きく踏み出し、両手で構えていた木刀を振るう。山吹姫が、ああ、と思ったときには、直立していた紅巴めがけて振り下ろされていた。――早くて、目で追えない。
 けれども、紅巴はたった一歩、軽く動いただけでそれをかわした。その彼を追って、振り下ろされた木刀が今度は軌跡を変えて跳ね上がってくる。手の中の木刀をくるりと回して、紅巴がそれを受けた。
 木刀が打ち合わされる音が響く。
 さらに一回、二回。三回目の音は少し強く響き、弾かれた木刀が宙を舞った。そして、鋭く風を切る音がする。
 見守っていた側が凍りつき、息を呑んでいるうちに、すべて終わっていた。
 くるくると宙を舞った木刀が、少し離れた位置に落ちる。その前に、紅巴が片手で持った木刀は、流紅の喉先に突きつけられていた。にこりと紅巴が笑みを向け、その瞬間流紅が悔しそうに顔をゆがめる。腕を軽くさすりながら。
「まずは紅巴が一本。おい、もう少しなんとかならんのか、流紅」
 楽しそうな神宮当主の声が割って入って、紅巴が木刀を引いた。控えていた小姓が拾いに行った木刀を受け取りながら、流紅は面倒くさそうにつぶやいた。
「うるさいなー」
「まだまだ流紅には負けないよ」
 小さく笑いながら紅巴が受けると、流紅は再び悔しそうに言った。
「そんなこと言っていられるのも今のうちだからね」
 そこでようやく、瞬く間に起きた物事に、山吹姫は大きく息を吐く。息を詰めていたせいもあるのかもしれないが、繰り広げられた光景に、心臓がどきどきと音をたてて鳴っている。紅巴の意外な一面に、驚いたのもあるかもしれないけれど。
 ――お強いのだわ。
 再び彼らが木刀を構える。丁度その頃、回廊を回って歩いてくる人があった。気がついて目を向けると、壮年の男が見える。神宮の家臣であろうことは分かるけれど、名前までは思い至らない。
「お屋形様」
 彼は集った一家の方へ歩いてくると、神宮当主へ呼びかけた。途端に神宮当主は面倒くさそうな表情になり、面倒くさそうなのを隠しもしない声で応える。
「なんだ、面倒だな、何か重要な用か? 後で……は、駄目か。冗談だ」
 最後の方は、軽く睨んでいる桔梗の方へ向けた言葉で、渋々という様子で杖をついて腰を持ち上げた。神宮当主は戦で怪我を負ってから足が悪く、歩くのには支障がある。立ち上がるのを、咄嗟に山吹姫が助けようとして腰を浮かせて手を伸ばすと、思いがけない強さで腕を掴まれて、びっくりしてしまった。肩に手が回されて、抱き寄せられたのだと気づいてまた驚いた。顔が耳まで熱くなるのが分かる。動転して緊張して焦ってしまって、声も出なかった。
「父上」
 諌めるような声が庭からかけられる。神宮当主は山吹姫を離すと、庭の紅巴に向かって舌を突き出した。祝言の翌朝の桃巳と同じ仕草に、肩から力が抜けた。
「すぐ戻るから、やっていろ。流紅、ちょっとは粘れよ」
 流紅にまたからかうように言うと、神宮当主はぽんぽんと軽く山吹姫の頭を叩くようになでると、杖をついて一人で行ってしまった。まるきり小さな子に対するような仕草に、笑いがこぼれる。
「もう、父さまったらスケベ親父なんだから。恥ずかしいわ」
 憤慨したような桃巳の声に彼女の方を振り向くと、視界に別の人が映る。いつの間にか側まで歩いてきていた紅巴が、彼女の前に足を止めて、少し身を屈めて言った。
「大丈夫ですか? 嫌だったら、遠慮なく嫌だと言っていいんですよ。でないとあの人、図に乗りますから」
「まあ、お父上ですのに。わたくしでしたら、心配いりませんわ」
 遠慮ない物言いに、山吹姫はまた笑ってしまった。無礼といえば無礼極まりない家人たちの態度だったが、それだけ神宮当主が愛されているということなのだろう。形式ばかりを重んじ、どこか余所余所しい実家の有り様と――それが、普通の武家のあり方なのだろうと思うが、それとはまったく違い、けれどそんなところが親しみ深かった。よく、そそっかしいとか、のんびりしすぎているとか叱られていた山吹姫にとっては、神宮家の人々の姿は少し嬉しかった。
 そして神宮当主を抜きにして、再開された紅巴と流紅の仕合は、粘れよと言った神宮当主の言葉に反して、あっさりと片がついてしまった。
 残り二本を、簡単に流紅が取ってしまったのだった。
 最後に、兄の頭上に振り下ろす寸前で木刀を止め、勝敗を決した流紅は、そのまましばらく固まっていた。憤慨した顔で相手を睨みつけていた。何かを言いたそうな怒りを目に宿したまま、けれど結局何も言わずに、木刀を下ろす。賭けに負けて不満の声を上げる妹を尻目に、彼は一言もなく、突然踵を返すとそのままさっさとその場を後にした。
 突然の、訳の分からない顛末に、山吹姫はただ目を瞬いて成り行きを見守るしかない。何が起こったのか分からないまま、流紅の背を見送り、木刀を小姓に預けて反対方向へと歩き出した紅巴の背を見送るしかなかった。
 答えを求めて、無邪気に頬を膨らませている桃巳を振り返り、義母を振り返る。目が合うと桔梗の方は、少し困ったように笑っただけだった。






「過ぐる季節を君と」

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