紅巴が去ってしまったので、二人の前を辞して後を追うと、城内の井戸で汗を流す姿があった。声をかけようとしたら、近くにいた侍女に手拭を渡された。受け取ると、侍女は下がっていってしまった。 「紅巴様」 諸肌脱ぎになって水を浴びていた彼は、山吹姫の呼びかけに振り返って、少女の姿を見つけると、笑みを浮かべた。回廊に立つ少女の方へと歩み寄ってくる。 痩身ではあったが、鍛えられた肉体だった。今更ではあるものの、明るい日の元での姿を見て、頬が熱くなるのを感じながら手ぬぐいを渡すと、紅巴は笑みと共に礼を言ってそれを受け取った。筆を手にしているところばかりを見ていたような気がしたその手に、実は肉刺(まめ)をつぶした痕がたくさんあるのに気がつく。紅巴は濡れた体を拭くと、諸肌脱ぎにしていた上着を律儀に着込んだ。山吹はなんとなく自分の思考を見透かされたみたいで恥ずかしくなり、穏やかな相手の顔を見ることができずに、真っ赤になった顔を伏せて、濡れた手ぬぐいを引き取った。 「すみません。ぼくのせいで、晩御飯が寂しいものになってしまいましたね」 「いいえ、そんな。とてもお強くて、びっくりしました」 率直に言うと、彼は心なしか嬉しそうに見えた。 「ぼくも今日は何も用事がないから、部屋に戻りましょうか」 素直に頷くと、紅巴は彼女が持っていた手拭を逆に取り返してしまった。 「草履を脱いでくるついでに、侍女に渡してきます。先に戻っていてください」 「まあ、男の方にそのような」 「ついでだから構いませんよ」 そう言うと紅巴は背を向けてさっさと言ってしまった。そういう、気軽なところがやはり神宮家らしいと思う。なんだか嬉しくなって明るい気持ちで部屋に戻ると、彼女の帰りを待ちわびていた樺衣が、飛びつかんばかりの勢いで、身を乗り出してきた。 「姫様、お帰りが遅いから心配しておりました」 「お城の中で、そんなに心配するようなことありませんよ」 「何をおっしゃっておいでですか。ご当主はどういったご用件で」 一瞬、何のことを言われているのか分からなかった。頭の中をぐるりと巡るように考えてから、部屋を出る前は、実家に何かあったのではと話していたことを思い出した。樺衣は随分やきもきしながら、少女の帰りを待っていたことだろう。 「ごめんなさい。なんでもないわ。ちょっと一緒に遊ばないかと言われただけで」 「遊ぶ?」 「賭けをしないかとおっしゃっただけですよ。負けてしまったけれど」 「まあ」 樺衣は、呆れた声と同時に、全身の力が抜けたように座り込んだ。多分、呑気な誘いをした神宮当主と、緊迫感をすっかり忘れていた山吹姫と、両方に呆れたのだろう。 「それより樺衣、紅巴様もお戻りになるから、お部屋を整えてちょうだい」 へたりこんでいた樺衣は軽く山吹姫を睨むと、そこはお付の侍女の誇りもあって、すばやく動き出す。上座を整えてしばらくも待たないうちに、部屋の主が姿を見せた。敷居を跨ぐ彼の後ろで、日は落ちかけ、空は紫色に染まりつつある。 「お部屋にずっといらしては退屈でしょう。お一人でなければ、城下におりてみられても構いませんよ。桜花は他と比べて治安は良いですが、安全だとは言い切れませんから」 「わたくし、実家でもあまり外には出ませんでしたから、不自由には感じておりませんわ。どうぞ、あまりお気になさらないでくださいませ」 樺衣が用意した席に座って言う紅巴に、気を遣わないでください、と暗に言う。確かに神宮に嫁いでからこちら、目立って何かがあったかと言えば今日のことくらいで、あとは主に部屋にいて、たまに桃巳が姿を見せたり、桔梗の方と話をしたり、神宮の侍女を捕まえて話し相手をしてもらうくらいだった。それ以外といえば相手をしてくれるのは樺衣くらいで、ずっと何事もなく過ごしていた。確かに、外に出ても良いと言われるのは嬉しい。閉じ込められるよりは楽しいに決まっている。けれど―― どうせなら、連れて行くと言ってくれればいいのに。思っていたけれど、夫とは言えまだ出会って間もない相手に、甘えたり我が儘めいたことを言ったりなんてできなかった。 どう言ったらいいものか、少し黙り込んでしまうと、紅巴はちょっと考えるような仕草を見せた。 「数日待っていただければぼくも時間ができますから、一緒に城下を回りましょうか」 「まあ、よろしいのですか?」 「ぼくも流紅もまだまだ勉強中の身だし、大したことを任されているわけでもありませんから、大丈夫ですよ」 「それはとても、嬉しいです」 見透かされたようでもあったけれど、願っていたことが叶ったのが嬉しくて、言葉に出すのに少しつかえてしまう。それから彼が嫌そうな顔をしなかったので、色々な話をした。つい先ほどの仕合の時のことや、今日のこと、数日のことを話すと、彼はいちいち相槌を入れて、時々問いかけなどを混ぜながら聞いてくれた。 もうすぐ夕食に呼ばれるのだろうが、僅かの時間でも、こんなに早い時間から彼が側にいるのが単純に楽しくて、つい話しかける声が弾む。色々と気の向くまま話していた山吹姫は、しばらくして、紅巴の返答がなくなったことに気がついた。 いつもしゃんと背筋を伸ばしている彼にしては珍しく、脇息にもたれて頬杖をつきながら話をしていた。そんな少し砕けた態度も、少しずつ打ち解けてくれたからだろうかと思っていたけれど、彼はうつむいたまま顔をあげない。 「紅巴様?」 黙り込んでしまったので何か考え事かと思ったが、呼びかけても返答がない。心配に思い、少し惑いながら近寄って覗き込むと、明るい茶色の瞳は伏せられている。びっくりして、無意識にゆさぶろうとして手を伸ばし、やめた。肩に伸ばした手をそのままに様子を見ていると、瞼が開く気配はないけれど、規則正しく呼吸の音が聞こえてきた。眠ってしまっただけだと気づいて、ほっとした。それから、疲れて眠ってしまった子どもを見るようで、微笑ましくなる。 山吹姫は紅巴を起こすのをやめて、隣の部屋で控えていた樺衣を呼びに行くことにした。部屋を出ると、ほとんど散ってしまった桜と、春宵の艶めいた色が映えて美しく、束の間立ち尽くしてしまった。絶景と言われるこの土地は、城下から城を見た風景が一番映えるのだと人は口を揃えて言うけれど、城内にある花々も、山の上にある城から見下ろす城下の様子も、十分に美しい風景だと思う。 立ち尽くしていたのはほんの少しの間だったはずだったが、そうしているうちに丁度彼女たちを夕食に呼びに神宮の侍女がやってきて、回廊に山吹姫の姿を見て驚いたようだった。山吹姫は少し考えてから、侍女にはそのまま待ってもらって、隣室の樺衣に声をかける。 「寝具の用意をしてもらいたいの。こちらのお部屋に」 「あら、今日は別々にお休みですの?」 先ほどまで少女のはしゃいだ様子を見ていた樺衣は、自分の知らない間に何かあったのかと、少し心配そうに少女を見た。 「ええ、そうね。その方がいいかも知れないわ。とりあえず、紅巴様の分だけ用意してほしいの。お隣でお休みだから、起こさないように気をつけてね」 樺衣はよく分からないなりに何か察した様子で、分かりましたと頷く。それを受けて山吹姫は、彼女たちを呼びに来た侍女と一緒に神宮当主のところへ挨拶に行った。すでに集っていた人々へ今日は夕食を遠慮する旨を伝えると、当主よりも先に桃巳から抗議の声が上がる。 「父さまが、変な賭けなんかするからよ。兄さまと会えるのなんて、お食事のときくらいしかないのにっ」 「お前、紅巴の迷惑も考えずに始終押しかけて行ってるだろうが。賭けに負けたからって、負け惜しみは格好悪いぞ」 「負け惜しみじゃないもん」 「おかずなしでも、飯は食える時に食っておけ。紅巴はまた、読み物に没頭してるのか?」 当主の問いに、紅巴がこうして食事の席を外す事が多いのに気づく。他の皆も、珍しいことではないような態度で、特に不信そうな様子もない。 「ええ、まあ。後で何か入用な時は、賄いへ行って軽く何か頂戴いたしますわ」 笑みと共に濁したつもりだったが、うまくいかずに困ったような笑みになってしまった。それを見て当主は、大げさに溜息を吐いてみせる。 「遠慮して姫まであやつに付き合う必要はないぞ。……まあ、若い二人には色々とあるのだろう。わしは構わんが」 からかい混じりの神宮当主の言葉に、とにかくもう一度謝罪と礼をして、一家の前を後にした。とにかく早く戻ろうと、足早に歩いていたところ、当主たちがいた部屋を離れて少しして呼び止められた。 |