真実




「義姉上」
 彼女のことをそう呼ぶ相手は一人しかいない。庭に面した回廊で立ち止まった山吹姫は、後を追って来る流紅を見つけた。
 彼は山吹姫のところまで駆けて来ると、問いかけを載せて見上げる少女の顔を見て、困ったように目をそらしてしまった。急いで追いかけてきて、何かを言おうとしたのにうまく言葉が出てこないで、そのまま止まってしまったようだった。山吹姫を呼び止めた手前、とにかく話し出さなければと、焦れているのまでが見えるようで、少女は笑みを浮かべる。
「今日のお手合わせ、お二方ともとてもお強くて、びっくりいたしました」
 逆に話しかけられて流紅の方が少し驚いた顔をした。それから申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ありがとうございます。兄上は、本当はわたしよりもずっと強いですよ」
 そう言う彼の表情は、やはり樺衣の言う通りに、紅巴よりも分かりやすい。先ほどの困惑も、申し訳なさそうな態度も、迷いも、隠そうとしない感情が見えて、同時にそれが嫌味にとられない素直さがある。そう言えば、夕刻の仕合の時にも、勝ちを収めた後での憤慨した表情も、そのまま腹の底の感情がさらけ出されていたように思う。あまり、武家の人間には見られないような明るさも、そういった素直さもとても好感が持てた。
 流紅は肩にこもっていた力を抜いて、大人しく彼を見上げて待つ少女に、率直な言葉を落とした。
「あなたがどのような方か、わたしにはまだ判断できないが、兄上に嫁いでくださって感謝している。……わたしではなく」
 言われたことの真意が分からなくて、少女はすぐに返答できなかった。わたしにではなくと言った言葉の、声音の柔らかさで、決して嫌味でないのは分かったけれど。口を閉ざしたまま少し考えてしまった山吹姫に、流紅が慌てて付け足した。
「悪意にとらないでください。わたしよりも先に、兄上が正室を娶られたことが大事だから」
「跡継ぎの件で?」
 彼ら二人を取り巻く状況が他に思いつかなかった。問いかけには、「そうです」と短く返答がある。
 紅巴が先に嫁を娶った利点。紅巴にとってみれば、弟に先に嫁を娶られては、それが我が儘でどこかの娘を無理矢理というわけでもなくれっきとした外交でそうするのであれば、兄としては面目が潰れてしまうだろう。けれど、それを心配する流紅の言うことが、よくわからない。
 ――跡目を奪おうとしている弟ぎみ?
 桜花に来て、そして今日の夕刻のことで、疑問に思いはじめていたことが脳裏をよぎる。そんな少女に対し、流紅は苦笑気味に言う。
「わたしの母はすでに亡く、母の生家もすでに無い家です。親戚縁者はいますが、かつて威光を持ったとは言え、すでに無いも同然のものです。ただ、母が武家の出で、桔梗殿がそうでないというだけの話で」
 しかしながらそれは、家中の人間にとっては大きな問題だろう。そうした身分の差で、武家の者は上に立っているのだから。
「出自が、跡目に影響を及ぼすのは分かっています。しかしそれは、個人の能力を否定するほど、重要な問題とは思えない」
 そうして人の噂に、臣たちに否定されているのは、流紅ではない。再び夕刻、仕合の時のことを思い出す。なぜかあっさり負けてしまった紅巴と、怒っていた流紅。
 思い至る結論に、少女は驚き以前に、どこか納得した気持ちで流紅を見る。口を開きかけた彼女に対し、流紅は言った。
「兄上は、もしかしてどこか具合が悪いのではないですか」
 再び投じられた思いかけない言葉に封じられてしまう。
 ――疲れて、眠ってしまっているだけだと思ってた。連日忙しそうにしていたから。
 だけども、紅巴をよく知る人の、どこか確信を持った言葉に少女は、今までの紅巴の様子を思い返していた。唐突に眠り込んでしまったのを除いても、特に様子のおかしいところなんて、なかった気がする。でも、自分自身のことに精一杯で、彼の様子の変化なんかに気がつく余裕があっただろうか。そもそも、様子の違いになんて気づくほど彼のことを知らなくて。
 ――だけども、もしかしたら。
「あの人は体も強くないくせに、すぐに自分を軽んじて無茶をするんです。そのくせ、自分の不調を巧妙に隠すんだ。どうか、見張っていてください」
 少し怒ったような、そして懇願するようなその言葉を聴いて、急に不安になった。
「桃巳のおかずまで取り上げないように、父上を見張っておきますから、心配なく。兄上に伝えてください」
 表情の暗くなった山吹姫に、彼も最後は、笑いながら冗談を言う。相手の気遣いに了解の意志を伝えてから、流紅と別れて急いで部屋に戻ると、樺衣が寝具の用意を整え終わっていた。静かにとは言っていたけれど、音がたたないわけがない。その物音にも気づかない様子で、紅巴は部屋に座したままだった。
 部屋の中はすでに暗く、少女の開けた戸から入る月明かりが静かに部屋の中を照らしている。その中で彼は、少しの身動きもなく座していた。傍目から見れば、ただ思案しているようにも見えて、彼が今までそうして虚勢を張ってきた姿の片鱗を見たような気がしてしまった。少し、悲しくなる。
「紅巴様」
 側近くに膝をついて腰を下ろし、そっと腕に触れる。軽く揺さぶるまでもなく、ハッとした様子もなく、彼はさりげなく瞳を開いた。ただ目を閉じて考え事をしていた、という様子で。
 少し瞳を瞬いて、近くから見上げる瞳を見返して、何かを言おうとした。けれど、観念したように小さく息を吐いて、困ったように微笑む。
「寝ていましたか?」
「お疲れなのでしょう。勝手ながら、お夕食は、お断りしてしまいました。今日は早くお休みになられた方が」
「ぼくはどちらにしても夕食を断るつもりでしたが、あなたまで遠慮する必要はなかったのに」
 気を遣ってくれたのだろうが、切り離されたようで少し悲しくなる。
「わたくしひとりで行くわけにも参りませんもの。お食事が喉を通らないほどお疲れですか?」
「いえ、そういうわけでは。休むほどでもありませんよ。少し、うたた寝してしまった程度で」
「いけません。きちんとお休みになってください」
 流紅の言葉もあって、それでなくても使命感のようなもので、彼の腕を引く。何も自分で出来ない姫君の力など大したことないだろうに、紅巴は引かれるまま立ち上がり、彼女に言われるまま寝具へと押し込められてしまった。
 急に強気になった少女に、どうすればいいものか、困ったような顔で紅巴が見上げている。その彼の方へ、少し躊躇いながら、それでも手を伸ばす。遠慮がちに触れた額が熱い。疲れて眠ってしまったなんて、そんなものではなかったはずだ。
「もしかして、ずっとお体が悪かったのではないですか?」
 祝言の日に、彼の手を少し熱く感じた。自分自身のことで手一杯で、あまり深く考えていなかったけれど、もしかしたらあの日からずっと、もしくはその前から体調が悪かったのではないか。
 体が強くないくせに、なんて、流紅に言われなければ気がつかなかった。そんな素振り少しも見せなかったから。
 今日の彼を見ていても、普通に流紅と手合わせをしていて、一度はあっさりと勝ってしまったくらいだし、自分の不調を隠すのに大層慣れている印象を受けた。流紅の言った通りに。
「ごめんなさい。わたくしも、全然気がつかなくて」
 誰に言われなくても、いつもそうやって隠しているのだろうと想像できた。そうでなくてもここしばらくは、祝言があったから、隠していたのだろう。その後もわたくしがいなければ、ゆっくり休むこともできたのだろうに。それに思い至って、余計に申し訳なくなる。
「情けないな」
 ふと呟きが落ちる。手を離して見ると彼は珍しく、本当に情けなさそうな表情をしていた。
「遠くから嫁いで来られたあなたが、気丈にがんばっているのに、迎える側のぼくが倒れるなんて。水を浴びてすませるのではなくて、きちんと湯を使わせてもらうのでした」
 せめてそうしていれば、弱さを露呈せずに済んだのに。そう思っている口ぶりだった。けれども、体が冷えるからお湯を使えば良かったとか、そう言った程度のことで防げたことには思えなかった。ここに来るまで、どれほど辛抱したのだろう。先程眠ってしまったのは、部屋に戻ってきて多少気が抜けたからだろうと思ったし、少し落ち着いただけで崩れてしまうくらい、限界近くまで我慢していたのではないだろうか。
 紅巴は何も言わない。ただ困ったような顔で少女を見上げている。灯りをともさない、暗い部屋の中で見るとそれはどこか、悲しそうでもあって、少女の胸を打った。紅巴はそれ以上取り繕うことも、隠すこともしなかった。多分、無駄だと分かっているのだろう。
 今なら変に隠したりせずに応えてもらえそうな気がして、山吹姫は彼に言う。
「あなたは、跡目をほしいと思っていらっしゃらないのですね」
 跡目を奪われそうな暗愚だなんて、彼を見ていればそんな言葉が当てはまらないのが分かってしまう。聡明な瞳をして、気丈で、優しくて、強い人だ。
 一家の前では楽しそうに手合わせをしていたけれど、臣が来た途端に負けてしまった。流紅を立てて、自分を貶めるために。
 ――彼も、そして弟の流紅も、相手を押さえつけてまで家督がほしいとは思っていないのだ。
 だから、祝言の夜に、家督を継ぐことはないとあんなにはっきりと言ったのだろう。流紅への負け惜しみだとか、本当に継げなかった時の予防線としてではなくて。
 紅巴は、それにはやはり応えなかった。答える必要がなかったからだろう。
「実は、嫁いで来られる方が、気位の高い人だったり、意地の悪い人だったらどうしようかと思っていたんです。多分、どう接すればいいか、困ってしまうと思うから。こんなに優しい方が来てくれるとは思っていませんでした」
 瞳を閉じて、わざと少し明るい声で言う。いつもと変わらない、優しい穏やかな声で。
「あなたで良かった」
 ありがとう、と言う。
 なんだかとても暖かな気持ちになって、山吹姫はただ心の中で、こちらこそ、と応える。瞳を閉ざした彼の邪魔にならないように。
「ありがとうございます」
 家族にですら弱さを隠す彼の、規則正しい寝息を聞きながら、穏やかに眠る夫に向けて囁きを落とした。






「過ぐる季節を君と」

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