遙か彼方





 平和な時代ではないから、国を治める者はとにかく内だけではなく外へ向けても目を光らせていなければならないので、心休まる時がない。特に今の神宮などの場合は、鷲頭と縁を結んだばかりで、それに対する諸国の反応を窺う必要があり、方々から来る些細な知らせですら聞きもらせず、その裏にある事態を窺い見る状態だった。
 彼らが忙しく走り回るのは当然だったが、遊び心を忘れない神宮の人々は、決してそういった物事だけには忙殺されていない。
 春は暇さえあれば花見に、夏になれば近くの川へ遊びに出かけ、領民に姿をさらして歩き回っている。夜にですら蛍狩りに出かけ、警護の兵や臣をやきもきさせていたが、そういった気軽なところも彼らが民に好かれる所以だった。他国の多くには、うつけだと罵られようとも。
 山吹姫も同じように彼らに連れ立って出かけ、はじめて領民と触れ合い、笑いあい、そうしてようやくこの土地と生活に馴染んだ秋の口。
 皆が出かけると騒いでいるときには必ず同行するものの、用心深く自分の体調と折り合いをつけてきた紅巴が、寝込んでしまっていた。さすがに紅巴も隠すことが出来ない程の不調で、下がらない高熱でずっと床に伏せっている。
 眠る紅巴の枕元に座して看病していた山吹姫は、呼びかける声に顔を上げた。
「姫様、流紅様がいらしてます」
 遠慮がちに襖を開けて樺衣が言う。流紅は、隣室にいた樺衣をわざわざ掴まえて、先に山吹姫たちの様子を見てくれるよう頼んだのだろう。折角来たのなら、直接この部屋に来ればいいのに。気を遣わなくていいのにと、山吹姫は彼のそういう気質に微笑ましく思いながら立ち上がる。
「お見舞いですか?」
 廊下へ顔を出し、そこで返答を待っていた流紅へ少し潜めた声をかける。彼は山吹姫を見ると、どこか慌てた顔をした。それから頷きかけて、困ったような顔で止めた。山吹姫は不思議に思いながら部屋に招きいれようとしたが、彼は中へ入ろうとはしなかった。
「兄上の具合はどうですか」
 問いかけに、まだ熱が下がらず今眠っていると答えようとした。それよりも早く、部屋の中から少し掠れた声が上がる。
「流紅、どうした?」
 呼びかけられて、流紅はその場所から部屋の主へ声をかけた。
「兄上、お加減はどうですか?」
「大した事ないよ」
 紅巴が寝具の上に起き上がろうとしているのを見て、山吹姫は部屋の中へ早足に戻った。
「まだ熱が下がっていないのですから」
 無茶をしないで、と言う彼女の肩に手を置いてなだめるようにして、紅巴は廊下の弟に言った。――着物越しでも、その手が熱いような気がする。
「何かあったんだろう」
「起き上がれそうなら、来てほしい。父上が呼んでる。義姉上も一緒に来てほしいって」
 常に紅巴を気遣う流紅らしくない様子に、山吹姫は少し慌てた。流紅はいつもなら、紅巴が少しでも具合が悪そうな様子を見せれば、余計な無理をさせることはない。そして付け足された言葉に、紅巴はともかく自分の名も呼ばれて山吹姫は驚いて流紅を振り返る。
「わたくしも?」
 ――それが意味することは。



 神宮当主は、今回はきちんと部屋で彼女たちを待ち受けていた。それも臣下や外部からの客を迎え入れるときに使用する謁見のための部屋だ。呼び出されて来た紅巴と山吹姫を、いつもと変わらない悠然とした態度で迎え入れる。
「よう紅巴、起き上がっていいのか」
「大事ありません」
 応える紅巴は、きちんと着替えて身支度を整え、背筋を伸ばして折り目正しく返答している。顔色が悪いこと以外は体の不調を感じさせるところが少しもなかった。内実は少しも平気でないことなど神宮当主も分かっている筈だが、父親はそれ以上紅巴には何も言わなかった。
 紅巴よりも少し後ろで、控え目に座していた山吹姫に目を向ける。
「姫に尋ねたいことがある」
「はい」
 名を呼ばれて、山吹姫は硬い声で応える。紅巴だけでなく自分も呼び出されたのだから、声がかかるのは分かっていたが、実際に話を振られて戸惑ってしまう。何を聞かれるのか、自分の返答がどういうところにつながるのか、まったく分からない。対して神宮当主は、脇息にもたれて緩く構えたままで問う。
「ご実家とは、頻繁に手紙のやり取りをされているか?」
 心臓が音を立てて大きく鳴った。正座をする膝の上で、着物を握り締める。
 ――やはり、家で何か。
「はい。わたくしからはつい四、五日前に、出しました」
 四、五日前では、こちらから出すときに急いで届け、返事も届いてすぐ書いて出したのでなければ、未だこちらに返答が届くものでもない。
「その前には?」
「ちょうど、一ヶ月ほど前に出しました。返事は、つい十日前くらいに返ってきましたけれど」
「何か変わったことは書かれていなかったかな」
「いえ、特に何も……お見せいたしましょうか」
 問いの真意が分からなくて、答える声に惑いが出てしまう。恐る恐るつけたした言葉に、神宮当主は表情を和ませて笑った。
「疑っているわけではない。それには及ばん」
「わたくし、あまり物事を深く考えることができないので、何か重要なことを見落としているかもしれません。見ていただいた方がよろしいかも……」
「姫がそういう方だとご実家の方もお分かりのはずだ。何かあれば、率直に分かるように書いてこられよう。姫が何もないと思われたのなら、何もないのだろう」
 簡潔に言い切った。彼の言葉は、簡単で相手を補い庇うようでいて、同時に冷静に判断して切り捨てるものだった。そうして一人ごちるように言葉を落とした。
「では、やはり誰か裏切ったか」
 それが耳に飛び込んで来た途端、惑いも緊張も遠慮も立場も何もかもが吹きとんだ。
「何があったのですか!」
 彼女の言葉にも声にも、神宮当主はわずかたりとも慌てることもなく、変わらない態度で受け止める。宥めるでもなく、落ち着くのを待つでもなく、彼は彼の流れを崩さずに言った。神宮の当主は普段明るく陽気な人だが、こういった状況でもその態度は変わらず、決して切羽詰る様子をみせない。
「鷲頭のお家が、嵩地に攻められて城を取り囲まれていると、援軍要請の早馬が来た。つい先ほどだ。完全に敵が動くまで知らせが来なかったとなると、鷲頭の家内に内通者がいたとしか考えられない」
 知らせが来ないということは、それだけ迅速に、唐突に城を攻め囲まれたということだ。折角助けを求める先があるのに、攻められる予兆を悟っていて知らせてこないなど考えられない。それを悟られないようにしていた誰かがいるとしか思えない。
 ――攻められた?
 胸の音が、どんどん早くなる。着物を握り締める手が震えだした。息を吸うのですら、うまくできない。
 住み慣れた懐かしい家は、まだ簡単に思い起こすことができる。山の上に建てられた城。神宮の桜花城のように美しくたたえられる場所ではなく、硬く素っ気無い印象を与える城だったけれども、懐かしい家。自分がいた部屋も、部屋から見える鮮やかな花に彩られた庭も、そこを整えていた庭師の老人の姿も、忙しく働いていた侍女たちも。
 一瞬にして、脳裏に描いたその光景が、炎に包まれた。逃げ惑う人々の姿が見える気がする。
 戦のことは知らない。ずっと家の奥で守られて生きてきたから。だから描いたものは、現実のものよりもずっと他愛のないものだろうということくらい、分かる。本当の戦場はもっと惨いものだろう。だけどそれでも、自分の描いた生易しいと分かるものですら、心をえぐるようで。
 ふいに肩に触れるものに気がついて、体がびくりと震えた。知らず俯けていた顔を上げると、隣に座した茶色の髪の少年が目に映る。心配そうに見る彼自身の顔色の方が、こちらが心配になるくらい青い。彼の手が、そっと少女の肩に添えられていた。
 部屋の様子が様変わりしたように思って困惑し、自分がどこにいるのかすら分からなくなってしまった。ここは――ここは、鷲頭の家じゃない。
「早馬でも、どう急いでも知らせが来るには二日はかかる。姫の手紙があちらに届いたか届かないかそのくらいか。手紙は、敵の手に渡ったかもしれないな」
 神宮当主の声に、引き戻される思いで顔を上げる。
 他愛のない、日常の出来事を書いただけの手紙であれば、神宮がまだ嵩地の動きを知らない証拠になる。同時に、鷲頭が何も知らないことも、最低神宮には何も知らせていないことも分かるだろう。城を包囲して、少なくとも数日のうちは神宮が動かないことは、あちらに掴まれてしまっている。
 けれど、まだ。援軍の使者を出すことができるのなら、まだ追い落とされてはいない。
 討ち滅ぼされたわけじゃない。
「家の者は無事なのですか」
「そこまで知らせはないな。討たれたという話は聞かぬ」
「では!」
 勢いよく声を出したものの、それ以上の言葉にならなかった。して良いものか、ほんの束の間迷う。ほんの少しだけ、感情以外のものが割って入って、形にならなかった。それを軽々しく口して良いような立場じゃない。
 ――兵は。
 援軍の兵は。
 刹那の迷いの間に、肩に添えられていた手に、そっと力が込められた。
「姫、部屋に戻って休んだ方が良いよ。顔色が悪い」
 神宮当主の方へ向けていた顔を、傍らの人へ向ける。紅巴はやんわりと穏やかな顔で、少女を見ていた。それは彼女を気遣っているようで、同時にこれ以上関わってはいけない、と言っていた。
 神宮当主の用はもう終わったはずだ。普段ならば、それ以上踏み込む立場にもなく知恵もないことを自覚しているから、言われるまでもなく当主の用が済んだと察すればその場を辞していた。紅巴の言葉は、口を挟むなという意思表示だ。勿論――勿論、それは分かっている。
 もう一度、縋るような思いで段上の上座に座す神宮当主を見ると、彼は笑みを向けて、事も無げに言った。
「心配するな。兵は出す」
 必死の視線すら悠然と受け流して、放り投げるように言われた言葉。
「その為の婚姻だろう。神宮は約定を違えん」
 体中から力が抜けた。安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。






「過ぐる季節を君と」

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