鷲頭の家は、高遠という名の国を治めている。しかしながらその領内は、完全に統一されているとは言い難い土地だった。領内には、嵩地(たかち)という名の一族がいて、他にも鷲頭家に素直に従うのを良しとしない者たちがいる。
 つい二十年ほど前までは、中央に政権があり、身分や領土はそこから与えられるものだった。徐々にその権威が失墜し、衰えていった後にでも、金品やあらゆる手を使い、人々は領地や身分をほしがった。政権がどうであれ、中央にその土地の領主であると認められれば、もしくは相応の身分を戴くこともできれば、与えられた形式はそれなりの力を持ったからだ。対外的にも、内部への示しとしても有効だったのだが、政権が崩壊して以来、戦乱は強くなり、身分などは皆が勝手に名乗るものになっている。
 今では名乗る身分も、振りかざす権威も、実際の武力の前には力を持たない。そして領内のいざこざを内包する以上、外への守りも弱くなる。
「鷲頭はもともと、そんなに大きな家ではなかったからな。あの国は兵力に乏しく、自然の要塞に囲まれたものと、算出する鉄、家臣の忠誠でもっていたところだった。だからこそ神宮と手を組みたかったのだろうが……」
 その盟約のために結んだ縁だった。鷲頭は鉄を国の外へあまり出したりはしないが、それを神宮は交易してもらうことになっていた。
 しかし折角の縁であっても、今回は神宮も助けの手をだす暇がなかった。
 侍女に抱えられるようにして山吹姫が下がった後、上座でひとりつぶやいた神宮当主に、紅巴が確認するように言う。
「兵は出すのですね」
「とりあえずな。で、誰が行く」
 神宮当主の態度はやはり変わらない。重要なことですら、いとも簡単に放るように口にする。言葉を出した主とは逆に、場に満ちていた空気に緊張が走る。
「ぼくが行きます」
 静かに落ちる声に、過敏に反応したのは弟だった。勢いよく兄の方へ顔を向ける。驚きよりも苦渋のにじんだ表情を、そのまま父の方へ返した。
「わたしが行きます」
 強く相手を見て言う語気が荒い。
 対照的な二人の様子に、脇息に頬杖をついたまま、神宮当主はため息をもらした。
「お前たちは、その言い争いばかりだなあ」
「父上! そんなにのんきなこと言っている場合ですか」
「そうカリカリするな」
 腰を浮かさんばかりの息子に対して、父親はのんびりしたままの口調で言った。笑みすら浮かべる相手に、流紅は再び開きかけた口をしぶしぶというように閉ざした。緊迫した事態での飄々とした態度は人を苛立たせるか、人に頼もしい印象を与えるものだが、神宮当主の悠然とした態度、むしろ泰然とした態度には、時に圧力がある。
 黙り込んだ流紅から、紅巴の方へと視線を向けると、神宮当主が言う
「今のお前が行くくらいなら、わしが行った方がましだと思うがな」
「駄目ですよ。どうせご冗談なのでしょうけど、それは駄目です」
 神宮当主は、数年前の戦で傷を負って以来、足に自由が利かない。歩くことはできるが足をひきずるし、杖が必要だ。馬に乗ることはできるが、戦陣での機敏な動きが必要なときに、問題にならないとは限らない。――むしろ問題になるのは当然だった。いざという時、走ることもままならない。
 本気とも冗談ともつかない言葉に、紅巴は小さく笑う。
「これは政治で外交の戦です。鷲頭と縁を結んでまだ半年ですし、家臣が行ったのでは外聞が悪い。神宮の人間が行かなければならないのなら、ぼくが行かないと意味がないでしょう。姫の夫は、ぼくなのですから」
 政略結婚が意味を成さない。誠意を見せ、恩を売る好機だとも言えた。
「しかし兄上は……」
 それは、流紅も分かってはいたのだろう。再度反論を乗せた声には、先程の勢いがない。
「緊急だ。体調を崩したなどと、言い訳にもならない」
「だが、戦中に倒れたのでは、もっと話にもならないぞ」
 混ぜっ返すような神宮当主の言葉は、当主としての言葉なのか、紅巴の身を案じてなのか、ただ単に反論をして意地悪がしたいのか、分からないような態度だった。
 紅巴は穏やかにそんな父を見返してから、静かに言う。
「倒れません」
 和やかに断言した。
「心配してくださるなら、尊芳をつけてください。大声で命令が出せなくても、意を汲んでくれる人がいればなんとかなりますから」
 神宮家腹心の将の名を上げる。揺ぎ無い決意と正論に、神宮当主は小さくため息をついて見せた。少しわざとらしいくらい大仰に。
「お前は、可愛げがないな。愛しい我が妻のためとでも言うのなら、下手な問答せずに行かせてやるものを」
 そんなからかうような父親の言葉に、紅巴は年相応の少年らしい照れた様子も少しの躊躇いも見せず、にこりと微笑んでみせる。
「また嘘ばかり」
 神宮当主は少しだけ苦笑して見せた。まあな、と短く返す。それから、やっぱり可愛げないなあ、とつぶやいた。紅巴も流紅も、聞き流していたが。


 しかしながら出陣を決めたところで、すぐさま出立できるわけではない。援軍だというのに手ぶら同然の状態で駆けつけるわけにもいかない。領内、道中通る位置にある場所を治める臣下へ連絡を送って道々で兵を集められるように手配し、物資を集めるだけでも時間がかかる。
 翌日日中になってようやく、最低限紅巴が出立するのに不足ない用意を整え終えた頃だった。彼が鎧を纏うのを山吹姫が手伝っていたところに、慌しい足音が駆けて来る。
「兄上!」
 開け放してあった戸口から駆け込んでくる。病を押した体に重い鎧を纏い、そのくせ平然とした表情で立っていた兄を見つけると、彼は一瞬痛々しい表情をした。そして紅巴の傍らに立つ山吹姫と目が合って、少しひるんだようだった。けれど少女から目線を引き剥がし、再び兄の顔を見る。
「鷲頭が、落ちた」
 短く、用件だけを口にした。
「落ちた?」
「援軍の要請そのものが遅すぎた。鷲頭の殿も、子息も討たれたらしい。臣たちは散り散りになって逃げているから、反撃の機もあるかもしれないけど」
 流紅の言葉を最後まで聞くことができなかった。声が遠い。日の光が、遠い。
 山吹姫の様子がおかしいのに気がついたのか、紅巴が呼ぶ声が聞こえる。流紅の声も、樺衣の声も聞こえる。けれど、遠い。もう気を張る力もなくて、視界を覆うように迫る暗闇の中に身を任せて、崩れ落ちていた。



 目の前に広がる天井。見上げる視界に、人の姿がある。なんだか逆だわ、と思った。いつもと逆だ。心配そうに見下ろしている紅巴の顔がある。一体どうしたのだろうと、自分はどうしたのだろうとぼんやりと考えてしまった。
 ――なんだか、夢みたい。
 視界が暗いからかもしれない。夜になってしまったのだろうか。それならやはり夢なのだわと思った。気持ちがふわふわしている。横たわっている体もふわふわしているようだった。
 ここにこうしていることも、目の前の人も、夢の中のことのようだった。ここは鷲頭の家で、自分の知っていることは部屋の中とお城の中と、たまに連れて行ってもらう領内のことだけで。でもその小さな世界の中ことで精一杯だった。
 わたくしは、鷲頭の末姫で、兄たちに心配ばかりかけて。
 ――違う。
「気がつきましたか?」
 低くて優しい声が、心地良い。どうすれば良いか分からない困惑もその中に感じられて、それが余計に暖かみを感じさせて、つらい。
 ――鷲頭の姫であると同時に、神宮の長男の妻だ。
 見上げる先にいる彼は、すでに軍装を解いていた。まだ熱の下がらない体なのに、逆に看病させてしまったのかと申し訳なく思い、同時にすべて悟ってしまった。
 神宮は、動かない。流紅は「反撃の機もあるかもしれないけど」と言った。可能性を否定する言葉だった。城が落ちたのなら、滅びた家の為になど動きはしない。
 じわりと視界がにじむ。目の前の人が、見えなくなる。
「ごめんなさい」
 声が震えた。彼の顔が見られない。見ていられない。
 山吹姫は体ごと紅巴に背を向けてしまった。
 二度と帰ることのないだろう、家だった。でもその家のためにここに嫁いで、家の不利にならないようにと振舞って、懸命に頑張ってきた。
 その家の為に、つい先日まで寝込んでいた人に、自分が看病すらしていた人に戦に行かせようとしていた。彼は、行ってくれようとした。彼の心配もしていたけれど、家族のことも心配で、その自分の不誠実さが分かっているつもりだった。彼のことを思うなら戦になど行かせない方がいいに決まっている。だけど――!
 抑えようもなく嗚咽が漏れる。体が震えて止まらなかった。抑えていないと、余計な言葉が溢れてきそうで、それを押し込めるようにしてただ「ごめんなさい」とつぶやく。嗚咽にまみれて言葉にならなくても、ただつぶやいていた。
 いつも支えてくれた暖かな手は、差し伸べられることがなかった。






「過ぐる季節を君と」

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