夢の中




「ごめんなさいね」
 泣き疲れて、ぼんやりと天井を見上げていた少女の耳に、ゆったりとした声が忍び込んでくる。泣きながら眠ってしまった間に行ってしまったのかのか、それともただ単に気づかなかっただけなのか、声に引かれて顔を向けた先に紅巴の姿はない。かわりのように、一人の女性がそこに座していた。
 目が合うと、相手は困ったように笑った。
 謝る必要などないのに。神宮の人の行動は間違いではないのに。だけどそれを口に出来なくて、山吹姫はただ相手を見上げる。
「形だけであれ紅巴が、出陣の取り止めを抗議すれば、あなたの気持ちも少しは軽くなるのでしょうけれど」
 神宮当主の側室、聡明な桔梗の方は、悲しそうに言った。
 そんなことは、しないだろう。
「あの子は、大切なもののためなら、自分自身も簡単に捨ててしまえる。自分を切り捨てることができるから、他を捨てることも出来るのよ」
 優しい人だと思った。多分、それは間違いじゃない。
 他人を気遣える人だもの。何かを切り捨てると言っても、気軽に放り投げてしまえるのではないはず。それでも――感傷はあっても、痛みはあっても、それでも捨ててしまえる人だ。
 桔梗の方は、再び謝罪を口にした。
 ごめんなさいね、あなたはとてもつらいだろうけれど、わたしにしてあげられることが何もなくて、と。
 出陣の指示をするのが当主なら、取り止めを決めるのも当主だ。彼の決断は正しくて、そしてそれは紅巴のせいでも彼女のせいでもない。当主が何もしないと決めている以上、そして現在の状況を見る以上、出陣は後々の破綻を招くだけだ。
 どうせ攻め込むならば、今ではなくもう少しでも落ち着いてから、鷲頭の姫君という大義名分を押し立てて行く方が神宮にとっての利益になる。鷲頭の人間が生きていれば恩を売ることができるし、生きていないのならば、ただの略奪者である嵩地と比べ大義名分のある神宮の領土にすることができる。
 しかしそれは、今すぐの話ではない。分かっている。だからこそ、返す言葉が見当たらない。
 本来はとても失礼なことだとも分かっていながら、言葉を返すことも出来ずにぼんやりと相手を見上げている少女に、桔梗の方は悲しい笑みを向ける。
 彼女が去っていくのもぼんやりと見送り、その後再び眠ったのか、やはり気づかなかっただけなのか、ふと見ると桔梗の方がいた場所に見慣れた顔があった。
 樺衣は、彼女自身泣きはらしたような目で、少女を見下ろしていた。切羽詰った瞳には、涙だけではない異様な意志で、充血しているように見えた。山吹姫の輿入れに従ってきた彼女の実家も、当然ながら鷲頭にある。
「姫様、紅巴様にお願いしてくださいまし」
 ――何を。
 出来るわけがないことを言う相手に、問うまでもないことを問いかけたかった。けれど、声がでない。
「兵を出してほしいと、申し上げてください」
 畳み掛けるように樺衣は言う。
「望みすべてが断たれたわけではございませんでしょう。どなたか、鷲頭のお家の方が逃げ延びていないとも限りません。臣は散り散りになって逃げ延びているとおっしゃっていたではないですか」
 必死に言葉を連ねる樺衣に、山吹姫は首を横に振った。揺られて、涙がまた零れ落ちる。
「だめ」
 かすれた声が出た。喉が痛かった。体がだるくて仕方がなかった。
「わたくしが何を申し上げたところで、どう変わるものでもないわ」
 あの人は。
 この、状況は。
 情に訴えてどうにかなるものではない。
「姫様! あなたが諦めておしまいになってどうなさるのです。あなた様がしっかりなさらなくては、鷲頭のお家を誰が救うのですか」
「でも、もう滅びてしまったのよ」
 無くなってしまったのよ。
 自分自身、信じたくないことを相手に言い聞かせている状況が、よく分からなかった。やはりまだ、遠くのことのようだから、そんなことが言えるのだろうと思う。
「まだわかりません。こちらに伝わっていることがすべて、事実とも限らないではないですか」
 内通者がいたと言うのなら、神宮の援軍を断つためにそんな手段も用いられるかもしれない。だけど、いずれにしても確証がない。
「どなたかご無事さえ確認できれば、神宮の方も動いてくださいます」
「誰がその確認をしてくれると言うの」
「誰なりと。あちらの土地に渡りをつけることが出来れば、生きている者が必ず」
「その人が、内通者かもしれない。わたくしには判断できない」
「裏切り者ならば好都合ではありませんか。その者を成敗して、お家を立て直すんです」
 だけどそもそも、誰が渡りをつけてくれるの。
 幾人か、鷲頭家から山吹姫に従ってきた者はいるが、山吹姫自身の共の者とは言えこの状況で簡単に桜花から出すことはできない。神宮の家中にいる限り、勝手なことは出来ない。樺衣に言われるまでもなく、なんとかしたいと思う。だけど。
「姫様」
 樺衣は、黙りこんでしまった山吹姫を焦れたように呼ぶ。
 彼女はそうして言葉を重ね続けた。


 気を遣ってくれたのか、顔を見たくないという意志表示を尊重してくれたのか、それから数日、紅巴はあまり山吹姫の元へ姿を見せなかった。本来ならば、彼女を見張っていなければならないのではないかと思うが、代わりのように神宮の侍女が近くにいることが多いだけで、彼女の生活は普段とあまり変わらなかった。もしかしたら紅巴は体調が悪化して、彼女とはどこか別のところで休んでいるのかもしれなかったが、たまに様子を見に来る時はいつもと変わったところがなく、よく分からなかった。今の山吹姫には、彼の様子をきちんと見て、不調を隠していないかどうか穿って見る気力もない。
 だから、気づくのが少し遅れたのだろう。
 出陣を取り止めてから数日後、夕刻になって姿を見せた紅巴は、ぼんやりと座っている山吹姫の近くに腰を下ろす。
「気分はどうですか?」
 顔を覗き込むようにして、優しく聞いてくれる。それだけで、気弱になっている心は涙をこぼしそうになった。
「はい、おかげさまで、もう平気です。ご迷惑をおかけしました」
 隠すようにして、顔を少し伏せる。「そうですか」と安堵したような声が胸を打つ。それから言葉が続かなくて、少しの間が空いた。大きく息を吸って、床の木目を見ていた顔を上げ、紅巴の顔を見上げる。
 彼は、困惑したような表情を浮かべていた。隣室へ続く襖は開け放されている。部屋を見回して、いつも山吹姫の側に付き従っている人の姿がないことに気がついたようだった。
「樺衣は……?」
「おりません」
 特に今、樺衣が山吹姫の側を離れるなんて考えられないことのはずだ。問いに答える声が自然と堅くなる。
「どこかに使いへ?」
「はい」
 紅巴は、それ以上を尋ねなかった。大きく息を吸う。困惑に、気を落ち着けようとしている動作に思えた。そのまま彼が立ち上がって行ってしまいそうで、山吹姫は彼の前に手をついて身を乗り出す。叫ぶように言った。
「どうか、見逃して下さいまし」
 紅巴は山吹姫の突然の声に驚いたようで目を見開き、そして細く息を吐いた。
「樺衣を、高遠へ行かせたんですか」
 責めるでもなく、問い詰めるでもなく、変わらないやわらかな口調で問う。それがかえって追い詰められているように感じさせて、山吹姫は言い募る。
「この時期に、このような状況下で、間諜ではないかとお疑いになるのは、わたくしも樺衣も承知の上です。ですが、わたくしも樺衣も、実家に残してきた者の安否が気遣われて……」
「あの国は今、治安を整える人間がいなくなって、とても荒れているんですよ。城は唐突に落とされましたが、逃げ延びた鷲頭の家臣が乱を起こしたりして、国全体に戦が広がっている状態です。神宮も国境を越えてこちらに乱が飛び火しないよう抑えるので精一杯なんです。そんなところに帰るなんて、危険だ」
「分かっております」
 詳しい状況を耳にしたのは今が初めてだったが、しかし国が荒れているのなど分かっていた。実家のあの土地は、自分が見たこともない程の荒れた戦場になっているはずだと、想像しているどんな光景よりもひどい状況だと。
 でも樺衣は、山吹姫を説得しようと続けていた言葉の端に、思わずのようにぽつりと、家に帰りたいと言った。
 常ならば、決して口にしない言葉だった。
 ――彼女を行かせようと思ったのは、その言葉を聞いたからだった。
 姫様お一人をおいては行けないと言ったが、故郷へ戻ろうとするほうが危険ではあっても、彼女の心が故郷へとらわれているのは分かっていた。かといって山吹姫はここを軽々しく動けない。
「ただ、皆の無事が知りたかっただけでございます。樺衣を、家へ帰してやりたかっただけですから……」
 言っているうちに、こらえていた思いが再び零れ落ちそうになるのを感じた。恨み言を口にしても仕方がないと分かっているのに。
「わたくしがもっと利口で、目端が利いて、もっと両家の間をうまく橋渡しできていれば、少しは違ったのでしょうか。兄の言葉に甘えて、こちらの生活に慣れるので精一杯で、わたくしはこちらでも役立たずで」
 言ってはならない。
 その先の言葉を、決して言ってはならない。樺衣にどれだけ頼まれても、口にしなかった。それを破ってはいけない。
 ――兵を出してくれとだけは、決して。
 困らせるだけだ。軽蔑されたくはない。
 これ以上愚かになりたくない。
 言葉を飲み込む。押し込める。かわりのように、床に手をついたままうつむけた瞳から、涙がこぼれてきた。疑問に思っていた、ふともしかしたらと思っていた言葉が口をついて出る。
「わたくしが、もっとあなたの寵を得ていたなら、少しは違ったのでしょうか……」
 言いながらむなしくなったけれど。
 ――何も、変わりはしない。
 それが分かってしまうから。例えば彼女が、紅巴の正気を奪うほどに恋着させることができたとしても、大して状況は変わらない。紅巴の持つ力では兵を出させることはできないだろうし、できたとしても大した数にはならない。
 分かっている。
 ――分かっている。優しい人だ。思いやりのある人だ。この時代、政略結婚で嫁ぐ女は、実家の後ろ盾を背負って嫁ぐもの。その家が無くなった娘の辿る道は惨めなものだ。突然家族を無くした妻を、拠り所を失った妻を、憐れんではくれるだろう。価値のなくなった女でも、今までと同じように接してくれるだろう。
 けれど彼は決して、家の不利に働くことをしない。――それでも。
 思わずにいられない。
 もっと自分が、しっかりしていれば。せめてもっと紅巴の気を引くことができていれば、自分のかわりに生家のことを気にかけてくれたかもしれない。頼りないわたくしのかわりに。
 自分が情けなかった。何も出来ない自分が。こんなことを口にする自分が。
「何も申しません。これ以上、愚かなことは申しませんから、ただ」
 涙ばかりが勝手にこぼれてくる。もう、これしか自由になるものはない気がした。
「ただ、わたくしも、家に帰りとうございます……」
 紅巴はただ、そんな彼女を見ていることしか出来なかった。会ったばかりの夫の気をひくことも、政治のことも、たった十五の少女には荷の重いことだっただろうに。彼女は崩れ去った実家のすべてを、自分自身の肩に乗せて、ただ悔いていた。彼女には、何の咎もないことなのに。
 頭を垂れて泣く妻に、紅巴は何も言うことができなかった。





「過ぐる季節を君と」

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