「禍言の葉」番外








 相手を撃退することができるのなど、すでに昼の時点で立証済みだ。だが今彼女に必要なのは、むやみやたらな攻撃ではないと、分かっている。もちろん、攻撃は最大の防御、という言葉は、彼女にとって慣れ親しんだものだったが。
 ほんの少しとは言え榊に教えられたことを、どれだけ自分が理解しているか、実践できるか、試したのだ。
 でなければ、切り札を使えるとは思わない。
 考えていると、男が、都雅の方へ歩み寄ろうとする気配が見えた。一歩踏み出す。同時に都雅が再びつぶやいた。
「壊せ」
 途端、木がざわざわと音を立て始めた。男が、一体何事かと振り返る。その目の前で、河原に生えた大木は、『下賤の鬼』の重みとのしかかるような「空気」の重みに耐えかねたように、傾いて行った。折れているわけではなく、押さえつけられる力に、地面から根が抜けていっている。幹は悲鳴をあげながら、襲い掛かる風の強さに倒れかけていた。
 当然、そんな力に、たとえ生き物と断言できないようなものでさえ――化け物でさえ、耐え切れなかったようだ。重圧に血を噴き出させた。
 自らに、木に、男に、血を撒き散らしながら、とうとう圧死したのだろう。人外のものは、突然姿を崩すと、さらりと風に解け消える。
 後には、地面から根っこを無残に引き抜かれ、後ろへ倒れかけている木と、男の姿がある。
 突然、小さな笑い声が聞こえだした。
 まるきり無防備に都雅の方へ背中を向け、化け物の方へ完全に目を向けていた男は、肩をゆらして振り返る。怒るだろうと思われた男は、意外なことに笑っていた。
「礼を言うよ。この際、里美のでもお前でもかまわなかった。血が流れるなら」
 言いながら男が歩き出す。都雅のいるほうとも違い、木が植わっていたところの、根元の方へ。
 今まで男と『下賤の鬼』の影になって分からなかったが、男の足元、そして木のふもとに、小さな塚があるのに気がついた。何の変哲もない丸い石を積み上げたものだったが、夜目にも、その石が暗い色に染まっているのが分かった。まるで無造作に積み上げられたかのようなものだったが、塚か何かの役目を果たしているのは、何となく分かった。
 怖気を感じる。
 あの色は、たった今、鬼の血をひっかぶったのだろう。
 男が、その石の前に膝まづいて、何ごとかをぶつぶつとつぶやいている。楽しげに。声が笑いをこらえるように揺れている。
 その行動がどういう結果を引き起こすか、まったく予想もつかなかったが、阻止しておくにこしたことはない。けれど都雅は再び術を使おうとして、違和感を感じた。何かを命じようとして、抵抗のようなものを感じた。
 ――昼間よりも、先刻よりも、強く意志を込めないと、現象が起こらないことに、都雅も気づき始めていた。あまり動き回ったはずはないのに、ひどく気疲れしたような感覚がある。
 意志を凝らそうとしているのに、芯が揺らぐ。意識が散っていく。
 これが、意志の力で現象を起こすと言うそのことの、結果なのだろうか。
 少し戸惑う。けれど、突然空気の中に膨れ上がった異常な気配に、思考が遮断された。惑っている隙に、男が目的を達してしまったようだった。
 積み上げられていた石が、真っ赤に光る。暗闇の中の閃光にひるみ、目をすがめた、同時に石が内側から弾け飛んだ。
 破片が方々へ飛び散る。爆風のようなものが吹き荒れる。あおられ、体が浮くかというほどの風に直立していられなかった。足が自然と下がってしまう。
 とっさに魔道を使えず、自分をかばった都雅の腕に、破片が鈍い音をたてて当たった。見た目の色の変化の通り、石はひどい高熱を持っていたようで、瞬で服の石が当たった部分が焼けて焦げた。それは都雅の腕にも醜い火傷を残した。熱い、臭い。何より――嫌な音がした。骨がいったかもしれない。
 歯を食いしばり、都雅は小さくうめき声をもらした。それから、無意識に弱気な行動を表へ出した自分に舌打ちした。
 塚があったところは、地面が深くえぐれている。
 けれどそんなことよりも、その穴の上。
 宙に浮いた、子どもがいた。
 男がささげ続けた血を吸ったかのような、蘇芳の色の、ぞろりと長い髪をたらして、四肢をも無防備に投げ出すようにして、浮いている。
 ――あれは、人間か? 
 再度思う。宙に浮いてるからと言って、突然現れたからと言って、都雅の持っている知識だけでは、人間でないとは言いきれない。
 とっさに悩んで、すぐに彼女は、あれは化け物の類だ、と気がついた。月明かりの他に照らすものはなかったが、子どもの腕が異様に長いのは見て取れた。全身にまとうような長い髪の間から見える耳は、尖って長かった。確かにさっきまでいたバケモノたちよりも、人間の姿には近かったが、人間ではない。――だが、榊は、人間の姿に近い方が、より強いのだと言っていなかっただろうか。
 考えながら、傍目にはそう見えないまでも、油断なく身構えた都雅の耳が、男の声を拾う。
「なんと美しい」
 愉悦に染まった男の声がしたと思った途端、子どもの方から、突然炎が躍り出た。くるくるとまるで踊るような炎は、業火となって生き物のように都雅の方へ迫ってくる。
 考えるよりも先に、身を守るように両腕が上がった。先刻と同じように、けれどもっと強く力を込めて叫ぶ。
「止めろ!」
 空気が動く気配があった。けれども、投げつけられた炎は、少しひるんだ様子を見せただけで、留まらなかった。――競り負けた。
 再度舌打ちがもれる。もう一度強く、さらに強く意志を込めて声を出そうとした。
 けれどもその前に、迫り来る炎は、都雅が掲げた両手の前で、突然ひときわ大きく燃えて消えた。風圧に、地面の草が揺れる。目の前で弾けた光に瞬きした都雅には、その風すら届かなかった。
 何事か、と思う。魔族をうかがい見るよりも前に、答えはすぐに分かった。
「はあー。間に合ったあー」
 吐息と一緒に吐き出された声が、河原に大きく響いたからだ。
 彼女たちがいるところよりも高い位置、ガードレールのところに田川の姿が見える。彼はもう一度大きく息を吐くと、ガードレールをまたぎこして都雅の方へ駆けてきた。
「大丈夫ですか?」
 息をきらしながら聞いてくるので、都雅はぶっきらぼうに答える。
「見れば分かる」
「あ、でも怪我してますね。すみません、駆けつけるのが遅れて。もうすぐ榊さんも来ますから」
「今あんた、何したんだ?」
「結界を張ったんですよ。ぼくは結界師ですからね、安心して大丈夫です。他の事は何もできませんけど、結界に関しては、そこそこ強い魔族でも攻撃を防ぐことができますから」
 都雅を安心させようとしたのだろう。笑いかけながら田川は言うが、都雅はもう彼の方を向いていなかった。田川の言う通りなら平気なのだろうが、魔族の方をうかがいながら言う。
「あんた、そんなことができるんなら、なんで昼間『下賤の鬼』なんかに殺されかけてたんだよ」
 幾分か呆れの混じった声だった。それには田川も苦笑しながら応える。ばれてしまった、という様子で。
「とっさの時って、何も出来なかったりするんですよ。術を使うのって集中力使うし、ぼくは結構、自分の能力を快く思っていないところもあったので、そのせいかもしれないですけどね」
「……情けねえな」
 信用して大丈夫なのか? という気持ちがあらわれている都雅の言葉に、田川はさらに苦い顔をした。
「えーと、できれば信用していただきたいんですが。それより、犯人をちゃんと追い詰めてくれたんですね。あとは、榊さんが来るまで、やられないように、逃げられないようにしておけばいいですから」
 炎が何度も襲いかかって来ては、彼らの目の前、間近な距離ではばまれ、先刻と同じように火の粉を散らしているのを尻目に、呑気な声で言っている。確かに攻撃は防げているが、その余裕は一体どこからくるのかと、疑いたくなっても仕方がないほどのものだ。
「あれ、なんとかなるのか?」
「ああ、あの程度でしたら、榊さんなら一発です。あの男はどう見ても人間ですし、魔族の方は召喚されたばかりで、あまり力がないようですし」
「ああ、そう」
「魔族を召喚なんて、なめたことしてくれるじゃない」
 突然後ろから声がして、都雅は驚いて振り返った。いつの間にか、榊が後ろに立っていた。スカートは血まみれになってしまっているが、平気そうな顔で、腰に手を当てて直立している。
 田川が大丈夫ですか、と聞く前に、それをさえぎるようにして言った。
「あれは、魔族を操ったりすることに長けてるのね、多分。そう言う奴はね、いろんな条件を整えることができれば、人間の醜い心を引き出して、『下賤の鬼』に変えることができるのよ」
「そう言えば、あいつバケモンのこと女の名前で呼んでたな」
「それじゃ、やっぱり間違いないわね。『下賤の鬼』を女の人に見立てて侍らせる趣味をお持ちでなければ、だけど。人を鬼に変えて、さらにその鬼に人を襲わせた上で、より強い魔族を召喚しようだなんて、二重三重に罪深いわ」
 憤慨して言うと彼女は、手を上げた。
「穂波」
 どこか誇らしげに、彼女は名を呼ぶ。大地を象徴し、人々を愛し慈しむ精霊の名を。術者の中でも、彼女だけに許されているという、それを。
 そして、それだけで、あまりにもあっさりと決着がついた。






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