やさしいペンギンのかきかた
深海いわし
あれは警備会社に就職して二年目の冬だった。天気予報は降雪を予告していて、寒さが苦手な俺は本気で外に出たくないと思っていた。待機所になっている六畳一間のアパートだって電気ストーブが一台ついているだけでめちゃくちゃ寒かったけど、それでも寒風吹き荒ぶ外よりは全然マシだ。
「雪降ったら出動したくねえなあ」
思わず独り言が漏れる。
「さむ」
ストーブににじり寄りながら、畳の床に放り出していたスマホを拾い上げて暇つぶしのゲームを起動しようとする。着信があったのは、ちょうどその時だった。
「くっそ言ってる側から」
悪態をつきながら画面をタップし、電話に出る。
「おつかれさん。発報あったから港湾区のはしばみ通り図書館へ行ってくれ」
聞き慣れてしまった上司の声に生返事をして、俺は雪の降り出しそうな一月の屋外へしぶしぶ出動したのだった。
現着したときには雪がちらほら降り始めていた。到着を本部に連絡し、外側に異常がないことを確認して、預かっていた鍵で警戒を解除して裏口から中に入る。書庫やトイレの中や倉庫も確認して、すべて異常なしと判断してから、俺は発報の原因になった入り口付近のセンサーカメラの前に立った。
恐らく異常なしだろうとは、最初から思っていた。最初に警報が作動してから、また何かが引っかかった様子はない。カメラの中に虫が入ったとか、入れっぱなしになっていた空調で何かが動いたとか、誤作動の理由はいくらでもある。
一応周囲に動きそうなものがないことを確認して、持ってきた報告書に異常なしの旨書き込む。これを置いて帰れば完了だ。
そう思って顔を上げたとき、視界の端で何かが動いた。大きさからして小さな子どものようだったが、まさかそんなはずはない。
慌てて懐中電灯の明かりをそちらに向けた。暗闇に溶け込むような黒い後姿が振り返る。丸く白い腹がこちらを向いて、俺はそいつの姿を認識した。
そいつはどこからどう見てもペンギンだった。シンプルな白黒の造形からしておそらくアデリーペンギン。あり得ない。ここは動物園じゃなくて図書館だぞ?
ペンギンは眩しそうに目を細めると、よちよちとケツを振りながらこちらへ歩いてきた。そして俺の足元で立ち止まると、つぶらな瞳でじっとこちらを見上げながらくちばしを開く。
「アンタさん、ここがどこかわかるでヤンスか?」
――ぺんぎんが、しゃべった。
思考が真っ白になった。次に考えたのは、これ報告したらお前頭おかしいんじゃないのとか言われてクビになるかな、だった。ただでさえ図書館にペンギンがいましたなんて報告しようがないと思っていたのに、あまつさえしゃべった。あり得ない。
「おっと、まずは名乗るべきだったでヤンスね。失礼したでヤンス。アッシはウィリー。ペンギン族の勇者でヤンス」
ヤンスかよ。勇者というにはずいぶんと庶民的だな。
現実逃避気味にそんなことを考えながら、俺はとりあえず自分の頬をつねってみた。痛い。
「夢じゃないのかこれ……」
「アッシもさっき自分をビンタしてみたでヤンスが、どうもそうらしいでヤンスね」
痛かったでヤンス、と、ウィリーは首を縮めた。
「とりあえず、外に出たいでヤンス。ここがどこだかわからないと家にも帰れないでヤンスからね」
外に出るのに異論はないが、その前に俺は報告書を書いて所定の場所に置いておく必要がある。報告書に……書くのか? これを?
俺は悩みながら異常なしとだけ書かれた報告書を事務室の上座のデスクに置き、裏口の扉を開けた。ペンギンがなんの疑問も抱いていなさそうな能天気な顔で後をついてくる。鍵をしめてセキュリティを入れ、本部に連絡してから、俺は監視カメラに何も写っていないことを願いつつ、ペンギンを小脇に抱えて図書館を後にした。