ボタン屋 ―雲と三日月―
きりしま志帆
あらハンサムなお兄さん。こんにちは。
私、なんだかよく分からないけどここにきてしまったわ。ここは何かのお店かしら。
――そう、ボタン屋さんなの。薬屋さんかと思ったわ。壁一面引き出しだらけで、薬箪笥みたいだから。きっと引き出しの中はいろんなボタンでいっぱいなんでしょうね。
――圧迫感? とんでもない。とても素敵よ、落ち着いた風合いで。この夕暮れ色の電灯も、懐かしいわ。私、今はやりの……LEDライト? あれが苦手なの。寒々しい感じがするものね。
そこに座ってもいいの? お気遣いありがとう。でもその椅子、背が高いわねえ。お着物でも上手に座れるかしら。ああ、手を貸してくださるの? どうも、ご親切に。私もすっかり歳をとっちゃって、ひとりでできないことが増えてしまって。
うん、座ってみるといい感じだわ。背もたれがないのはなんだか不安だけど、お洒落なバーにいる気分よ。このカウンターもね。
――え? 探しているボタンがないか、ですって?
変なことを聞くのねえ。職業病なの?
いいえ、迷惑なんかじゃないわ。ちょうど、少し前からボタンのことを考えていたの。昔手放したアンティークのボタンのこと。
詳しく知りたいの? もちろん、お教えするわ。ボタン屋さんですもの、きっとボタンがお好きなんでしょう?
そうね、そのボタンが手元にあったのはずいぶん前のことよ。もう五〇年くらい前。
アンティークと言っても、お高いものではないの。蚤の市で見つけたんですけれどね、ひとつしかなかったから、お店の方が安くしてくださったの。ボタンって、ひとつじゃなかなか役に立たないものでしょう?
どんなボタンか? ええ、覚えてますよ。きれいな月のボタンなの。私、とても気に入っていて、月が出ている夜には空にかざして眺めたものよ。
……そのボタンが、このお店にある……ですって? その、沢山の引き出しの中に?
そんなはずないわ。だってずいぶん前に手放したもの。
……それでも探してみるの?
ええ、もちろん。もう一度出会えたらうれしいわ。思い出のボタンだもの。
でも、ねえ……。
――あら……まあまあ、すごいわねえ。
貴方ってば、どこに何をしまってあるか覚えているの? どんどん引き出しを開けていくのね。しかも――まあ! 月のボタンがこんなに沢山!
この白い三日月は貝ボタンかしら。
まん丸の黄色いボタンは満月みたいね。
これは色違いの木を継ぎ合わせて月の形を描いてる。
この陶器にかぐや姫が描かれているの、これもボタン? まるで芸術品ね。
ああ、白い円の中にウサギの影が描いてある。これも月と言えば月かしら?
――すごいわ。月のボタンと言っただけでこんなにいろいろ出てくるなんて。
でも……ごめんなさい。私の思い出のボタンはどれでもないのよ。私の月のボタンは金属でできていたの。真鍮だったと思うわ。鈍い色がとても好きだった……。
え……もう一度探してくれるの?
無理をしなくてもいいのよ。確かにあれは思い出のボタンだけれど、いい思い出ばかりではないのだから。
いやだわ、そんなすまなそうな顔しないで。そんなにつらい思い出でもないの。
その月のボタンはね、私が初めて男の方からもらった贈り物だったのよ。喜助っていう、私の実家の使用人だった人。
そうなの、うちはわりあい裕福な家で、私、これでも昔は「お嬢さん」なんて呼ばれていたのよ。
喜助は四つ年上で、声が低くて、うんと背の高い人だったわ。そこは貴方と同じね。でも、彼は貴方と違って笑顔が苦手で、でも、真面目な人だった。
喜助は使用人の中では下っ端で、雑用ばかりしていて、私は直接口を利くことはなかったんだけど……あるとき私が割ってしまった花瓶を「自分がやったのだ」と言ってかばってくれたことがあったの。
あのときはびっくりしたのなんのって。ふだん関わり合うこともない人が急にそんなこと言い出すなんて、思いもしないでしょう?
それに、その花瓶がとても高価なものだとみんな知っていたから、喜助はきっとクビになると言って、家中大騒ぎよ。
もちろん、父にはすぐ、私が割ってしまったのだと告白したわ。私のせいで誰かがクビになるなんて、あってはならないでしょう?
でも結局、喜助は父に叱られたの。人の罪をかぶってはいけないって。ええ、父はそういう人。それ以上のお咎めはなくて、喜助はそれまで通りに働いていたわ。
――変わったことと言ったら、私が彼を構うようになったことくらいかしら。
そう、私、喜助のことが気になり始めたの。恋をしたのね。当時は自覚がなかったけれど。